サティヤ サイババの御言葉

日付:1979年11月23日
場所:プールナチャンドラ講堂
ババ様五十四歳の御降誕祭の御講話より

この任務は勝利する

時代時代にダルマが脇に置かれた時、
愛に満ちた方法でダルマを再び確立するために、
世界が争いと混乱で汚された時、
徳と平和の道を取り戻すために、
残酷な輪廻に囚(とら)われた善人たちが嘆き悲しむ時、
彼らを苦痛と悲しみから救うために、
聖典が正しく解釈されていない時、
聖典が人類に説いているメッセージを語るために、
そして、地球から悪徳の重荷を取り除くために、
トレーターユガ〔ラーマが降臨した時代〕に交わした
約束を果たすために、
アチュタ〔不死なるヴィシュヌ神〕は、地上に化身した
ヴァースデーヴァ、すなわち、
シリーハリ〔ヴィシュヌ神〕は、この世にやって来た

どの人のハートの中にも、揺らぐことのない永続する至福(アーナンダ)に到りたい、という悩ましい願望が存在します。昼夜を問わず一生の間、人はその段階に到(いた)るために一瞬も休むことなく努力しています。それでも、それは自分の手の届かないところにあると思うのです。 その理由は何でしょう? 人のこの失敗の根本原因は、自分を体や五感だと考えて、体や五感の喜びが至福を授けてくれる、それが自分の飢えを満たしてくれる、と思っているせいです。人は、自分こそが自分の求めている至福である、ということに気づいていません。ウパニシャッドは、こうした点に関するあらゆる疑問を明らかにしています。「粉は椰子糖(ジャッガリー)によって甘くなる」と述べられています。米粉であれ、小麦粉であれ、豆粉であれ、もとから甘いのではなく、椰子糖や砂糖を加えて混ぜることで、粉全体に甘さが広がるのです。ウパニシャッドの教えが伝えているのは、創造世界〔自然界〕は粉であり、神性原理は砂糖である、ということです。そのおかげで、自然は私たちを魅了し、惹(ひ)き付けるのです。音楽を聞いたり、調和を目にしたり、崇高なものを体験したりした時に私たちの心を打つものは、つねに神性であって、自然ではありません。

知識を得る確かな方法

神は「計り知れないもの」(アプラメーヤ)であると描写されています。これは、神を限界のある諸現象と同じように計ることはできない、という意味です。その栄光を垣間見(かいまみ)させることができるのは、ヴェーダだけです。このことを指し示すために、神は「ヴェーダを通じて知られる者」(ヴェーダヴィト)と呼ばれています。聖典に述べられているように、知識を得るには三つの確かな方法があります。それは、

  1. 直接認識(プラティヤクシャ)
  2. 推測(アヌマーナ)
  3. 信頼できる声(シャブダ)
という方法です。

人は、牛乳が乳酸菌を混ぜられてヨーグルトになるのを目で見ることができます。それによって、その現象は「直接認識」(プラティヤクシャ)によって立証されたものとして、事実と見なされます。

山並みから煙が立ち上がれば、人は森林火災だと「推測」します。

プラシャーンティ ニラヤムに来たことがある人は、来たことのない人にこの場所について説明し、それによって、ここに来たことがない人もプラシャーンティ ニラヤムとその環境を思い描くことができます。これは知識を得る一つの方法である「信頼できる声」の一例です。声(シャブダ)は、経験から生じた時、そして、その経験を誠実に伝えた時に、受け入れられるもの、信頼できるものとなります。

神の不変なる根本的な特質

この講堂に座っている大勢の人々の間に、アメリカから来た人物、アメリカのサティヤ サイ カウンシルの一員がいます。彼の名前はディック ボックといいます。これまで誰も彼のことを見たことがないとしましょう。彼は背が高いとか低いとか、年寄りであるとか若いとか、これこれの身体的特徴があると説明されても、彼を見つけ出すのは容易なことではないでしょう。しかし、私が声に出して「ディック ボック」と呼べば、彼は皆に見えるように立ち上がるでしょう。神も、あなたが神について描写したり、神を称えたりしても、簡単には目の前に現れて応じてはくれません。生まれた時、あなたには何の名前もありませんでしたが、自分に「付けられた」名前で呼ばれれば、いつでもそれに応じてきました。同様に、神には名前はありませんが、神は求道者が付けた数多くの名前のうちのどれででも、呼ばれれば、それに応じるのです。永遠不変の存在を立証する一つ方法としてのシャブダ(口での証言)には、明らかな特徴(タタシタ)と根本的な本質(スワルーパ)という二つの側面があります。

訪問者が捜している家を、私たちが特定して示すには、「あのカラスが止まっている家です」などと言えば、相手は理解します。それはその家の一時的な特徴です。神という永遠なる絶対者は、一時的な姿で描かれ、称賛され、崇(あが)められ、ラーマ神やクリシュナ神、ヴィシュヌ神やイーシュワラ神といった限定された範囲の中で崇められます。それらは、絶対神の本質の基本的、根本的なものを表現するものではありません。それらは、地上に平和をもたらすこと、正義の規範を復興すること、至高者への信心という理想を強めることといった、特定の重要な目的のためにまとった姿にすぎません。

一定不変の根本的な特性は、真実(サッティヤム)(真理)、英知(グニャーナム)、無限性(アナンタム)です。これはブラフマンの本性(スワルーパ)です。これらの特性は、時間や場所や見る者の性質によって変わることはありません。これらの特性は、時間と場所と状況にかかわらず一貫しており、私たちはそれらを、存在(アスティ)、意識(バーティ)、歓喜(プリヤム)、名前(ナーマ)、姿形(ルーパ)という五つの側面の中に知覚します。このうちの三つ、存在(アスティ)、意識(バーティ)、歓喜(プリヤム)が基本で、他の二つ、名前(ナーマ)、姿形(ルーパ)は、変化するもの、表面的なものです。これらの特徴はどれも、内在者であり作り手であり一因である創造主を必要とする、というのは議論の余地のないことです。

自然は動くが神は動かない

太陽、星、月、海、大地――これらはどれも、私たちが受け入れなければならない作り手を指し示します。二つの原因が存在し、何であれ、その二つが一緒になって創(つく)ります。その二つとは、形作る者と維持する者です。この銀のコップには、これを作った職人とその職人が形作った銀がなければなりません。創造の過程について深く調べれば、どちらの原因も、一なるもの、すなわち、実在と気づきと至福の化身に融合する、ということがわかるでしょう。その一なるものが一切なのですから、一切の中にそれを認識することは完全なる至福をもたらすのです。

どの人も二つの願いを持っています。それは悲しみから逃れることと、喜びを獲得することです。二つの願いが実現した時、人は真に自由になります。それはムクティ(解脱)を得たということです。ムクティという段階の純然たる意味を知らずに、自分は無神論者であるとか合理主義者であるといって自慢している人たちは、自分はそんなものに興味はないと言い放ちます。ムクティとは、前述の人間の普遍的な二つの欲求が満たされることです。文言や議論は人に道を迷わせ、実在を見えなくしてきました。人は、行いの道や、探求の道や、礼拝の道に沿って行けばムクティに到るのでしょうか? 議論は論点を霧で覆うだけでしょう。これらの道はただ、心を浄化し、知性を澄まし、情動を清めるだけです。

もしすべての物事、すべての存在のアートマ(神)の芯が認識されるなら、いつも至福は存在し、至福で満たされるでしょう。神の原理とは、実体であり、土台であり、エッセンスであり、その上で波が上がっては下がる海です。名前と姿(これらは上がったり下がったりする)を捨て去って、すべての細胞と粒子の中味である、存在(アスティ)、意識(バーティ)、歓喜(プリヤム)を黙想しなさい。そうすれば、永遠の至福(ニッティヤーナンダ)に浸ることができます。至福(アーナンダ)は遍在です。人はその普遍性のみを認識しなければいけません。

愛(プレーマ)の化身たちよ! 動く物には、動かない基盤が必要です。自然は動きますが、神は動きません。バスや車は道路でスピードを出すことができますが、道路は動くことなく静止したままです。映画の映像はスクリーンと平行に素早く動いたり飛んだりしますが、スクリーンは動くことも飛ぶこともありません。体は大きくなったり衰弱したりし、感覚器官は一つまた一つと次々に快楽を追い求め、心はこう考えたかと思えば別のことを考えてピョンピョンと飛び跳ねますが、それはひとえにアートマン〔アートマ/本当の自分/内在の神〕が動かないでじっとしているからなのです。

アートマンは最高の至福を授ける者

さて、人はどのような特性によってアートマンを認識することができるのでしょうか? それはまさにアートマンの本質である至福によってです。だからこそ、アートマンは、ニッティヤーナンダム(永遠の絶対的至福)、パラマスカダム(この上ない歓喜を授ける者)、ケーヴァラム(唯一なる者)、グニャーナムールティム(清らかな英知の具現)、ドヴァムドヴァーティータム(あらゆる二元性を超越している者)、ガガナ サドルシャム(空よりも大きい者)、タットワマッスヤーディ ラクシヤム(汝はそれなり(タットワマスィ)という大格言によって示される者)、エーカム(一なる者)、ニッティヤム(永遠なる者)、ヴィマラム(純粋なる者)、アチャラム(不動なる者)、サルヴァディーハ(すべてを意識している者)、サークシブータム(すべてを見ている目撃者)、バーヴァティータム(想像によっても届かない者)、トリグナラヒタム(三属性〔鈍性・激性・浄性〕を持たない者)、等々と描写されるのです。

概して、この世界の物は、誰かに求められることもあれば、別の人には拒絶されることも、嫌われることもあります。その理由は、その物にあるのではなく、心にあります。好き嫌いは本人の行動や考えや感情によって形成されます。もしあなたの反応が良いものであれば、あなたは私を良く言います。もしあなたの感情が悪いものであれば、私のことが悪く見えるでしょう。一つの態度から別の態度への変化は、あなたの中で起こるものであって、私に起こるものではありません。私はいつも同じです。姿形をまとっているので、反応の揺れは避けられません。それらは人間のものであり、神に影響を及ぼすことはできません。

嫉妬深い心はいつも悪に従事することになる

反応の性質とアプローチの方向の変化は、瞬時の気まぐれ、欲望の回転やねじれ、環境や領域や時間によるプレッシャーによって引き起こされます。昨夜、皆さんは学生によるイエスの劇を見ましたね。ユダという名の一番の愛弟子は、何枚かの銀貨という低次の誘惑に屈して、主を裏切ることに決めました。金銭欲は、弱い人に付け込んでくる悪魔です。それにやられてしまうと、人は一切の識別力を失い、その欲を満たすための容易で不正な方法を受け入れるようになります。

サティヤ サイの比類なきパワフルな衝撃が世界的に広まって以来、妬みと金銭欲に打ち負かされた多くの無知な人々がバーラタ文化を過小評価し、誹謗(ひぼう)中傷するための悪意に満ちた作り話を紡いでいます。嫉妬深い心はいつも悪いことに従事することになります。これは、神が人類の間に降臨したどの時代でもそうでした。しかし、そうした策略があっても、やるべき仕事がつまずくことはなく、勝利が遅れることはありません。

キリストの行いはすべて清らかで神聖だった

あなた方はこの真実に特別な注意を払わなければなりません。それは、どんな類の欠点であれサイに欠点があると指摘することのできる人は存在しない、という事実です。サティヤ サイはプレーマ(純粋な愛)の化身であり、その本質の意味するものを探ることのできる人は、当然ながら、ほとんどいません。その本質は、完全に無私であり、完全に清らかで、完全に神聖です。サティヤ サイはその本質の化身であり、提唱者であり、大陸から大陸へとそれを広めています。嫉妬深い人たちは、その愛が人々を変容させて前進していくのを見て、嘘を用いてその妨害をしようとします。求道者と志のある者たちの注目が、今、ますますバーラタの伝承や文化に向けられているために、大勢の心の狭い人、心のねじ曲がった人たちが、それらに非難を浴びせようと試みています。

私がやって来た目的である仕事は、近いうちに世界中に響きわたるでしょう。すべての信仰はそれぞれ一なるものの一つの面である、すべての道は同じ目的地に続いている、という真実が、一部の人たちを刺激しています。あなた方は、イエスの劇の中で、イエスが強調していた善良で神聖な生活の基本的な真実がいかにして誤って解釈されたか、宗教の指導者たちにさえいかにして誤って解釈されたかを見ましたね。彼らは中傷と嘘を用いて自分たちの欠点を隠そうとしました。彼らはイエスに拷問を課すという陰謀さえめぐらせました。イエスのすべての行いは清らかで神聖なものであり、無私の愛で満ちていました。自分の宗教を崇拝するのは良いのですが、それが他の宗教への憎悪によって汚されることがないようにすべきです。それよりも、人を聖化する神の愛の流れ、人を支える神の愛の流れを味わうことに従事しなさい。それは永続する至福(アーナンダ)をもたらしてくれるでしょう。

サイはいつも光り輝いているアートマンである

実は、このカリの時代〔カリユガ〕は、四つの時代の中で最も恵み深い時代です。なぜなら、あなた方は今、自分たちの中に、あなたが近づき、礼拝し、学びを得ることのできる姿を持った、永遠なる至福(アーナンダ)の化身を有しているからです。あなた方は、私と共に歌い、私と話をし、自分の目と耳とハートを私の語る言葉と行動で満たしています。これは五大元素で形成された単なる肉体ではなく、また、あなた方は今日は私の誕生日だと言いますが、そうではありません。この体には誕生日はあるかもしれませんが、私には誕生というものはありません。あなた方は私を五十四歳だと言いますが、私には数えられる年齢はありません。

入口も出口もない永遠なる者
過去も現在も未来もない一なる者
生も死もない不滅の人物
つねに光り輝いているアートマン
それは、永久なるサイである

私の一方の側には崇拝がヒマラヤの山のように高まっています。もう一方の側には中傷がヒマラヤの山のように積み上げられています。しかし、私はどちらにも影響されません。先ほどゴーカク博士が述べたように、私はどちらの山の頂上にも自分の手を置いて、その正反対の反応の上に等しく私の祝福を降り注ぎます。昼のあるところには夜もあります。しかし、どちらも同一の太陽が引き起こしているのです。平静でいなさい。あなたの手の届くところにあるこの幸運から利益を受けるために努力しなさい。

セヴァ〔無私の奉仕〕という、最も善を生みだす霊性修行に従事しなさい。あらゆるセヴァの方法の中で一番のものは、長い間なおざりにされてきた農村の人たちにセヴァすることです。あなたの技能とエネルギーを、村に住む兄弟姉妹の向上のために捧げなさい。奉仕は神です。なぜ神は人に体と心と知性を授けたのでしょうか? 心で感じ、知性で計画し、奉仕を必要とする人のために体を使って奉仕しなさい。その奉仕の行為を神に捧げなさい。その花で神を礼拝しなさい。サティヤ サイが広めている理想の数々を日々実行に移し、その理想の偉大さの生きた手本として進み出ることによって、全世界にその理想を知らせなさい。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.14 C43