サティヤ サイババの御言葉

日付:1980年3月17日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
ウガーディの御講話より

ヴィブーティ

アノーラニーヤーン マハトー マヒーヤーン
(最小のものより小さく、最大のものより大きい

『カタウパニシャッド』二章二十節

ヴェーダーンタ(ウパニシャッド/ヴェーダ哲学)は、絶対者ブラフマンについて以上のように述べています。ヴェーダーンタはこうした描写によって至高我であるブラフマンを表現しようとしていますが、どんな描写も、ブラフマンとあなた自身が同一であることを認識すること、ブラフマンを経験することの助けにはなりません。それはせいぜい、五人の盲目の男が象の特定の部分を触って、象とはいったいどんなものなのかを各人各様に推測するようなものにしかなりません。ブラフマンを経験した人でも、その恍惚(こうこつ)、平安、光、愛を他者に完全に伝えることは不可能です。さまざまな宗教の設立者であるとされている預言者や聖仙や賢者たちは、自らが認識したブラフマン原理を公言しました。チャルヴァカ学派(インドの無神論思想の一派)は神を否定し、ジャイナ教と仏教の学派は神を断定することを拒否しました。シャンカラは、神は無形にして無属性であり、光(至高の光)であると表現するのが最もふさわしいと断言しました。さらに、シャンカラは、個人(ジーヴァ)と遍在者(ブラフマン)は異なる存在ではなく、個人は遍在者である、そして、それと同じように、多様な自然界は、奇妙なベールを通して、ブラフマンが真実と嘘が入り混じったもの、マーヤー(幻)やアヴィッディヤー(無知)と呼ばれる偽りの奇異なものとして見えているものである、と言いました。

世界の四つの特徴

ブラフマンは原因であり、プラクリティ(自然界/原質)は結果です。プラクリティはブラフマンが人を惑わす顕現として現れたものです。それは、「リーラー ヴィブーティ」、すなわち、「単なる遊戯として為される栄光の表れ」(「リーラー」は「遊戯」の意。「ヴィブーティ」は「神の栄光の表れ」の意)と呼ぶことができるものです。この遊戯がブラフマンとは別のものとして知覚されるとき、その知覚は偽りであり、不完全な認知です。この遊戯は多様性を帯びています。ブラフマンは一なるものです。多に内在している一なるものを発見することが、人間存在の目的です。ブラフマンは永遠です。ブラフマンは「ニッティヤ ヴィブーティ」(「ニッティヤ」は「永遠」の意)です。それは神の王国と名づけられています。「リーラー ヴィブーティ」は、人を惑わし騙(だま)す多様性を持つプラクリティ、すなわち、幻力(マーヤー)であり、無知(アヴィッディヤー)です。

物質界(「リーラー ヴィブーティ」)はブラフマンの上に重ね置かれたものであり、人を欺いて実在をねじ曲げます。無知な人はそれを本当に存在するものだと思い込みます。仏陀は、この世には四つの特徴があると説きました。

  1. サルヴァム ドゥッカム(一切皆苦)。すべては苦です。これは、ムルッティヤローカ(死の世界)と呼ばれるもので、痛み、飢え、病気、悩みに苦しめられます。
  2. サルヴァム クシャニカム(一切皆刹那)。すべては束(つか)の間のものであり、すべては変化します。花のつぼみは開き、しぼみます。光は輝き、消えます。すべての人、物、質は、成長し、衰えます。
  3. サルヴァム スヴァラクシャナム(一切皆特有)。人も物も一切は無類のものであり、双子でさえ、それぞれ別の性格や気持ちの持ち方を有しており、それが二人を別の人間にしています。同じ木に生えている二枚の葉でも、あらゆる点においてまったく同じということはありません。こうした違いによって、多はさらなる多に分割されています。それゆえ、仏陀は、次のように明言しました。
  4. サルヴァム シューニャム(一切皆空)。すべては無効であり、無価値です。死んだ父親や祖父たちはどこにいますか? 何人の統治者が時の砂の中に葬られましたか?

宇宙は神の遊戯によって生じた

多様な形態は、「ニッティヤ ヴィブーティ」の上に覆いかぶさって存在しています。「ニッティヤ ヴィブーティ」には六つの特徴があると言われています。

  1. ニッティヤ(永遠)
  2. アヴァルナニーヤ(説明不可能)
  3. ニッサンキヤ(計量不可能)
  4. ニルパーディ(結合しても衝撃を受けても汚されない)
  5. ニルドーシ(制限にも減少にも影響を受けない)
  6. サマーナ ラヒタ(他のものは近づけない/比類なきもの/自らの他に等しいものはない)

それが万物の実体です。「ニッティヤ ヴィブーティ」は「リーラー ヴィブーティ」として顕現し、三グナ(浄性、激性、鈍性)の相互作用によって、多数の人間や固体として自らを投影しています。

浄性は、平安、調和、愛を促進します。激性は、欲望と関係しています。激性は、休みなく活動するようにと人を駆り立てます。鈍性は、実在の形を不恰好にゆがめて、真実を嘘に、嘘を真実に見せるという、一風変わった特性を持っています。そのせいで、はかなく取るに足りないものが、永続する望ましいものに見えるのです。主体も客体も本当には存在しないものであり、本当に存在しているのは、アートマンもしくはブラフマン、すなわち、主体と客体両方の真理だけです。主体と客体のどちらも「リーラー ヴィブーティ」、すなわち、神の遊戯の壮麗さとして分類されているのは、そのためです。その遊戯を通じて、この全宇宙が生じました。

今日は、ユガーディ(テルグ語圏の元日)です。今日は、「シーダールタ」の年(テルグ暦六十周期の五十三番目の年)に別れを告げて、「ロウドラ」の年を迎える日です。遊戯(リーラー)には、こういった往来や発着があるものです。今年は月(チャンドラ)が王であり、太陽(スーリヤ)が首相であると言われています。軍の最高司令官は土星(シャニ)です。九つの惑星のうち、四つは好ましい権力の位置にあり、五つは有害な位置にあります。今年には「ロウドラ」という名前が付いていますが、その意味は「酷(ひど)い」です。これは、今年はいくつかの動揺が見られるであろうこと、心配事に直面するであろうことを示唆しています。しかし、王と首相が強力なので、それらを阻止し続けるでしょう。好ましい惑星が、秋の降雨、適時の降雨を確実にするでしょう。ですから、もし心(心を司る神は月)と理智(理智を司る神は太陽)が調和して働けば、平和と安全が広まる好機を得ます。

全人類の根本的な一体性を思い出しなさい

人々は、警告に耳を貸し、お互いに酔っ払った猿の群れのような「酷い」人間にならないようにしなければなりません。全人類の根本的な一体性を思い出さなければいけません。

エーコーハム バフッスヤーム
(一なるものが多になろうと意志した)

「エーコーハム」は「ニッティヤ ヴィブーティ」であり、「バフッスヤーム」は「リーラー ヴィブーティ」です。あなたは骨の髄まで神であるということを、身を持って示しなさい。あなたの行動と振る舞いが、自分の神性に対するあなたの信心を語らなければなりません。

家庭でのお正月は、家をきれいに掃除して、玄関のドアに緑を吊(つ)るしてから祝われます。人々は風呂に入って念入りに体を洗い、新しい服に着替え、ご馳走を食べ、共に歓楽に興じます。体の必要を満たすためにこれほどのことをするのであれば、体の中にある神の住まいを礼拝するためにはどれだけ多くの配慮を献じるべきか、考えてごらんなさい。忍耐と思いやりを育み、愛と奉仕の精神で自分の仕事をしなさい。そうすることによって、あらゆる生き物に生来備わっている神性を見ることができるようになりなさい

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speak Vol.14 C48