サティヤ サイババの御言葉

日付:1980年10月7日
場所:ブリンダーヴァン校
サティヤ サイ大学での御講話より

古代インドでの教え

本物のグル(導師)とはどのような人ですか? それは教訓、模範、善行、正しい思考、真実への忠誠心、精神修養、義務感によって教える人です。本物の学生とはどのような人ですか? それはこれらを学ぶ人です。これらは、今生での幸せと、来世の至福を保証する資質です。これらの美徳は、人間を怪物へとおとしめる悪を効果的に消し去ります。

教師と学生の両者を結び付ける教育システムには、二つの側面があります。一つ目は、人が健康で幸福に生きることができるよう、技術と情報を提供することであり、二つ目は、永続する平安と平静と至福を得るために、内なる衝動とそれらの昇華について理解することです。この二つの側面は、対立するものではなく、しっかりと結び付いています。教師と学生の双方がこの真実を認識しなければなりません。

人間は機械ではなく、足と手、頭とハート、心と物質が巧みに組み合った結合体です。それらの中に、そしてそれらの上に、アートマ〔至高の自己すなわち神〕と呼ばれる、内にありながら超越している存在があります。肉眼ではそれを見ることはできません。他の感覚器官を通じても、それを理解することはできません。アートマは「見られるもの」の領域を超えています。知覚できるもの、五感で理解できるのは、「全世界」すなわちジャガト(つねに動き続け、絶え間なく変化し続ける宇宙)だけです。「見られるもの」は、「目に見えないもの」という土台の上に存在しています。「木」は見えますが、木を養い、木を支えている根は見えません。家は見えますが、その上に家が建っている基部の構造は見えません。神我と、神我が創造した宇宙は、双方とも、養い、支えてくれるアートマを有しています。これは、この国で長老たちが太古よりすべての世代に伝えてきた偉大な教訓でした。

古代の大学の価値ある貢献

三〜四世紀前、西洋諸国がインドに足を踏み入れる以前には、大学はほんの少ししかありませんでした。巨大なキャンパスや校舎もなく、学者の自宅が学び舎でした。一人の学者の教え子は四人か五人だけでした。授業の時間割もありませんでした。すべては、師の慈愛と、教え子の熱意しだいでした。師は、夜や昼の静かな時間に、枝葉を広げた木の下や寺院の廊下で教えることもできました。寺院にやって来た人や、木立を歩いていた人が、男女を問わず、しばしその教えに耳を傾けて、一つ二つ学ぶこともできました。

基本的な科目を教えることに加えて、各大学は一つの特別な学科に多くの専門家を呼び込んで確保しました。カーシーの大学が特に好んで注意を払った科目は文法でした。カシミールの大学には修辞法の専門家たちがおり、タキシャシラ(現代のタキシラ)の大学には、医学(アーユルヴェーダ)、つまり、健康で幸せな生活に関する知識の専門家がいました。ナヴァドウィープの大学は他の学科よりも真実の論理を追求することを選びました。はるか昔にラーマの弟バラタが統治した都、アマラーヴァティーにも大学がありました。そこにもチャラカとスシュルタ〔アーユルヴァーダの医学書〕が提唱する医学の体系があり、熟練の医師である教師たちが何世代にもわたって教えていました。

神へと上ることが、教え子が主に目指したこと

むろん、以上の大学は単なる学習目的ではありませんでした。それらは、シンプルな霊的生活を送ること、穏やかに甘美に話し、思いやりと尊敬と平静を養うよう、卒業生たちを鼓舞しました。神へと上がることが教え子たちの唯一の目的でした。教え子を前にした師たちの唯一の目的は、自分が到達したレベルまで教え子を引き上げることでした。当時の大学や他の教育の中心は、統治者の手の届かないところにありました。統治者たちは、知識を愛する者たちや、その理想に身を捧げていた人たちの大義と大志を敬い、愛しました。

小学校や中学校、大学や高等教育の中心が存在する中、社会、そして社会の指導者たちは、初等教育に注目を払っていました。そして、子供たちの幼い心に清らかで人格を高めたり強めたりする考えや信念を植えつけることに、努力を傾けていました。当時の教育者たちは、誰が最も教える知識を備えているか、最も効率的に教えることができるか、あるいは、教えるべきことはどれか、そして、いつ、どこでそれを教えるべきか、誰に教えるべきかといった問題に注意を払っていました。そして、学び手の必要、望み、達成に応じて、カリキュラムや教授細目を調整しようと努めました。なぜなら当時は、学び、教えるという課程の中に、強制や無理強いの余地はなかったからです。

バーラタはすべての信仰を歓迎し、敬う

授業には六人か七人、あるいは十人ほどの教え子しかいなかったので、師は教え子が教科を身に付けたかどうかを見出して、教え子の理解を妨げる疑問があれば、直ちにそれを晴らすことができました。師は絶大なる義務感を持っており、教え子も同じく、学びたいという絶大な熱望を持っていました。ですから、教え子たちは、幸せな生活を送るため、そして、内なる中核に横たわっている英知と力と至福の泉を見出すため、という両方に役に立つ教えが手に入ったのです。

学びの大部分は、師の言うことに耳を傾けることによるものでした。高等教育の席だけでなく、鍛冶屋、職人、芸術家、大工、農家、陶芸家、作家、音楽家、彫刻家――皆が、本を熟読することによってではなく、愛を込めて聴く、敬意を込めて見る、という静かなプロセスによって、年長者から学びました。

もしあなた方が、あなた方のものであるこの伝承を愛し、尊敬するならば、こうした日々を復活することができます。バーラタ〔インド〕は色とりどりの花が咲く庭です。それは、サナータナ ダルマ(永遠普遍の宗教)〔西洋人がヒンドゥー教と呼んでいるもの〕、仏教、ジャイナ教、ゾロアスター教、キリスト教、イスラム教と呼ばれている魂の花です。それらが実践している真理、それらが歌う賛美歌、それらが表明する祈りは、バーラタの空気を神聖な香りで満たしています。バーラタは遠い昔から、等しい情熱を傾けてすべての宗教を歓迎し、敬ってきました。

にもかかわらず、バーラタ人は一つの神を崇める代わりに何百という神々を崇めているという間違った印象が、無知な人々によって広められています。神は一つ、人々はさまざまな言語で神に呼びかける――この発見は数千年も前にインドでなされたものです。ここは、これを宣言した世界で最初の国です。もちろん、一なる神のさまざまな特質――慈悲、英知、無尽蔵の富、不可解さ、力――には名前と形が付加されていますが、これらを崇める者たちは皆、それらが一つの不可分なる永遠の絶対者のさまざまな相でしかないことを知っています。どの商売、どの職業にも、それぞれの守り神がいますが、それぞれが宇宙の守護神の一面なのです。

師は霊的な宝を追い求めた

この国の人々は、すべてに神が内在していることを知っています。トラックの運転手はハンドルに合掌し、陶工はろくろに頭を下げ、詩人はペンを拝み、音楽家は演奏を始める前にハーモニウムに内在する神に祈ります。神への祈りと服従を示す動作をすることなしに仕事にとりかかる人は誰もいません。これは、霊的な考え方が自賛という世俗的な考え方に優先することを意味しています。インド人の考え方の内的意味は、異なる文化をもつ人々の体験の域を超えています。彼らは、木や石、鳥や獣、山や川を神と信じて崇拝するインド人を嘲笑します。しかし、ヒンドゥー教徒は、石の中にも神がいると信じて石に内在する神を崇めはしますが、石そのものを完全なる神として崇めているわけではないのです。ウパニシャッドは人類にこう宣言しています。

イシャーヴァースヤム イダム サルヴァム
これらはすべて神である

鳥、獣、蛇、鷲、菩提樹、そして、トゥルスィー〔聖バジル〕の苗すらも、神なのです。神の遍在は、神の唯一性を意味しています。

古代の大学は、神のこうした内在性と超越性を強調しました。師は、賃金を計算したりやかましく要求したりしませんでした。師たちの必要は社会が満たしていました。師は、物質的な快、不快について決して心配しませんでした。師は霊的な宝を追い求めました。教え子も、物質的な欲望という束縛から解放される方法を示してくれるよう主張しました。師は教え子に、わが子に向ける以上の愛情を向けていました。師は捨離の人であり、進んで試練や苦難を受けたいと思い、また、それを熱望し、つねに満足していて、幸せで、喜びに満ちていました。

満足している人が一番裕福な人

教え子も、楽な仕事だと思って学んではいませんでした。教え子は、神我顕現へと向かうステップとしてそれぞれの科目を探求しました。教え子は師の教えを尊重しました。なぜなら、それは心を浄化し、知性を澄ませ、見る目を聖化したからです。師は、教え子が、教え子の親、教え子を育んだ社会、教え子の最善を願う国、教え子が属する人類にとって、役に立つ存在となるという理想を持っていました。欲望の奴隷になっている人は最も貧しい人であり、満足している人は最も裕福です。

ですから、過去の時代の学生たちが育(はぐく)もうと努めた特質を育みなさい。両親の役に立つようになりなさい。両親は文盲だとか、無知だなどと思ってはなりません。両親はあなたよりもはるかに知識が豊富です。両親の目に涙を浮かばせてはなりません。両親を愛し、両親を敬い、両親に奉仕しなさい。あなたがどこにいても、どの会社にいても、謙虚で愛情深くありなさい。主の栄光や、主の憐れみや、主の愛を表している、主の御名を憶念しなさい。そうすれば、あらゆるエゴの感情があなたから逃げ出していくでしょう。 人生はサッカーの試合です。あなたはボールで、当然ながら、こちら側、あちら側へと、蹴飛ばされます。あなたはどれくらいその扱いに耐えなければならないのでしょう? 蹴飛ばされるのはボールに空気がパンパンに入っている間のことであり、空気が抜ければ、誰もボールを蹴らなくなります。ホールを膨らませている空気はエゴです! エゴが出ていけば、至福がやって来ます。あなたが学生のうちは勉強に専念し、政治といった他の冒険的な行為には関与せずにいなさい。それらはただ、あなたの緊張と不安を増して、あなたの学業の差し支えになるだけです。規律と信愛と義務をあなたの必須科目にしなさい。これらをマスターすれば、あなたは栄光を勝ち取るでしょう。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.14 C50