サティヤ サイババの御言葉

日付:1980年11月19日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
第三回世界大会連続講話?

愛の中で成長しなさい

日々生きていくだけで精一杯の人たちに情をかけ、自分ができる限りの援助をし、自分の義務を自覚し、敬意をもって他者と行動し、サイの恩寵を勝ち得、同胞の間でよい評判を得、正義という試金石で自分の日々の行動を判定しなさい。皆さんが徳の光で輝く人物となりますように。

愛の化身である皆さん! 人類の再建は、実に、世界の再建です。人間がより良くなって、初めて社会は幸福になり得るのです。政治的、経済的、社会的領域といった外的な進歩だけでは十分ではありません。人の心が改心させられなければなりません。これは食べ物を通してだけでは達成できません。人類の問題は衣食住を確保することで解決できると論じる唯物論者たちは、原子爆弾が爆発したときに自らの運命に直面することとなりました。人間は、物質と知性と霊性の進歩という三つの道筋のすべてを熱意をもって追求するときにのみ、完全性へと到ることができます。

サナータナ ダルマはすべての信仰を抱き込んでいる

サナータナ ダルマ(永遠普遍の宗教)は人が完全性へと到達することを可能にさせます。実を言えば、サナータナ ダルマという宗教の比類のなさと重要性を把握している人は、ほんのわずかしかいません。今日、多くの長老と政界の指導者たちは、公衆の面前で「宗教」という言葉を口にすることすら恐れています。彼らは、まったく何の宗教的傾向も持たない、新しい秩序に基づいて人生を形作っています。実に彼らは、宗教とは実際何を意味するのかも理解していません。宗教の重要な役割を見出そうともしていません。

多くの人がヒンドゥー教とサナータナの信仰を基盤として話をしますが、その純然たる核心を理解している者は極わずかしかいません。サナータナ ダルマはまさしく人生の基盤です。サナータナ ダルマは完全な人格を扱っています。サナータナ ダルマはすべての宗教を抱き込んでおり、世界的な影響力を確立しています。「サナータナ」は永遠という意味です。サナーナタと名付けることができるのは、普遍的な承認を勝ち得ることのできるダルマ(正義の規定)のみです。私たちが知っている宗教はどれも、理想の人物として崇敬された人や預言者を起源としています。イスラム教はムハンマド、キリスト教はイエス、仏教は仏陀です。しかし、サナータナ ダルマは、人間を起源とするもの、あるいは人間を通して得られたものではありません。サナータナ ダルマはすべての信仰の根本原理です。サナータナ ダルマは預言者たちが宣言したすべてのメッセージの本質です。サナータナ ダルマは全人類に歓迎されます。というのは、サナータナ ダルマは全人類を歓迎するからです。ですから、ある種のインド人たちが、「サナータナ ダルマは我らの宗教である」と利己的に自慢しているのは、嘆かわしいことです。

ニュートンは一連の実験の末に、地球に重力があることを発見しました。私たちはニュートンの発見以前には、地球に重力はないと結論づけることはできませんでした。同様に、サナータナ ダルマの原理が人間の意識の中に本来備わっていて、世界中に及ぶ影響力を持っているにもかかわらず、バーラタ〔インド〕国民は、長い間サナータナ ダルマの実践と体験を積んだ後に、その価値と妥当性を発見しました。バーラタ国民はそれによって計ることのできない至福を得ました。原子科学がまず一国で発展し、その後に他の国々に広がっていくのと同じように、サナータナの信仰はインドで発展し、それから他国へと広がります。原子科学といった物理的なプロセスでさえ、一箇所だけに抑えておくことはできません。それと同じように、この霊的な科学も世界中に広がっているのです。

神は一人ひとりの人間として顕現する

サナータナ ダルマが今日はびこっている唯物主義を打ち負かすのは必至です。なぜなら、サナータナ ダルマは霊的でないものと霊的なものを調和させ、一つの生き方へと向けることができるからです。サナータナ ダルマは人と神をさらに近しい関係へと到らせることができます。サナータナ ダルマは自分というものの実体である神に基づいています。ですから、サナータナ ダルマは一つの国に限定されるものでも、一人の人に限定されるものでも、一つの時代に限定されるものでも、一つの宗派に限定されるものでもありません。サナータナ ダルマは、地域や年齢や環境の特色に応じた、さまざまな行動規範、視点、規律、指針を有しています。サナータナ ダルマは地上の人間と同年齢の古いものです。サナータナ ダルマの信仰は、初めヒマラヤ山脈と三つの海の間にあるバーラタで明示されましたが、その本質的な力により、いまや世界的な信仰となっています。

神は人間一人ひとりとして現れます。宗教の名称は異なるかもしれませんし、現れた姿も異なるかもしれませんが、サナータナ ダルマが断定する真我はすべてにおいて同一です。「千の頭、千の目、千の足を有する人」〔ヴェーダの「プルシャスークタム」における原人の描写〕において断定される神我は、多様な道を通して到達可能であり、多様な姿として表現されています。

サイ オーガニゼーションの複数のユニットは、サナータナ ダルマの説く多様性の中の一体性(ユニティ)を体現し、促進しなければなりません。サイ オーガニゼーションが作られた目的は、その一体性を強調するためです。すべての宗教の真髄、すべての道のゴール、すべての霊的努力の目的地は、サナータナ ダルマ(普遍なる永遠の信仰)です。サナータナ ダルマは海のようなものであり、個々の宗派は海に流れ込む川のようなものです。サナータナ ダルマは人間がその上で生きなければならない生気です。

アートマを強調することは必須である

私たちのオーガニゼーションでは、カーストや宗派や人種や階級区別を超越する愛を休みなく育てるという努力をしなければなりません。こうした平等の感覚は私たちのオーガニゼーションの特性です。複数のユニットが、物質的な教え、道徳的な教え、霊的な教えに着手するだけでは十分ではありません。アートマ(神我)、そして、アートマの唯一性に気づくことを強調することが必須です。

今日、私たちはサティヤ サイ セヴァ オーガニゼーションの複数のユニットの第三回世界大会を開催しています。本大会中にそうしたユニットの役員たちに与えるべき特別な教えはありません。サイの人生、サイのメッセージ、示されているサイの手本、サイがこの世に説いている教えはすべて、愛という一つの言葉の中に述べられています。おそらく多くの人は、この開会式中に特別なメッセージを期待しているでしょう。私は世界大会を特に重要視しているわけではありませんし、他の集まりを世界大会よりも軽視しているわけでもありません。こうした会は、皆さんの欲を満たすため、皆さんが愛を表現するために、開かれるのです。ペトロマックスの灯油ランタンはポンプの上げ下げが必要であり、ときどきピンで砂を取り除かなければなりません。それと同じように、このようにして集まることで、皆さんは考えを交換し合い、自分の態度や考え方に少し加えること、あるいは、それらを変えること、向上させること、改善させることができるのです。

エゴが行為を汚すのを許してはならない

皆さんは、サイの理想を生きるため、サイが皆さんに喚起している愛を広めるために、さまざまな方法を試行錯誤しているところです。その努力はこれまでどの程度成功しましたか? それはどれくらい人の人間性を確認するのに役立ちましたか? その理想とメッセージは、その理想とメッセージの詳述を聴くというプロセスと共に、日々の生活の中で実践されなければなりません。そうして初めて、皆さんはこの大会の意味と目的を把握することができたと言えるのです。

一人ひとりが愛の化身とならなければなりません。愛は、愛として、愛を通してのみ、表現できるのです。今、世界に忍び寄っている無政府状態の根は、愛がないことにあります。野放しの私利私欲、間違った行い、エゴの荒っぽい悪ふざけ、虚栄に満ちた生活、嫉妬深く狭い心が、このとてつもない状況を引き起こしているのです。皆さんは以上のことを認識し、警戒を怠らないようにしていなければなりません。微量のエゴ、虚栄、冷酷さに、自分の行いを汚させることを許してはなりません。世界平和と繁栄の夜明けは、皆さんが利己心という汚れの付いていない愛をもって社会で活動して、初めて訪れるでしょう。

「私たちのオーガニゼーションにはその汚れが付いていないか?」という疑問が生じるかも知れません。汚れが付いていないことはありません。なぜなら、あなた方も人間だからです。けれども、あなた方は、汚れと、汚れに付きものである悪を取り除くために、絶えず努力を重ねているべきです。あなたは他人のそうした難点がはっきり見えると、嫌な気持ちになります。それでどうして、自分自身にしつこく付きまとっている難点に寛大でいられるのですか? 皆さんが行っている話し合いの中で、自分はどうしたら最大限、利己心や虚栄心や冷酷さから遠く離れていられるか、どうしたら同胞が示す平等心と愛に感謝してそれを見習うことができるかについて、考えてみなさい。誇示したい、称賛を集めたいという欲を取り除きなさい。それらは子どもっぽさを示すものすぎないと考えられるものです。しかし、アートマを有している者は決してそういった弱さに滑り落ちるべきではありません。

宗教は人の心から生じる

勇敢に重荷に耐え、「私は人間だ」と宣言しなさい。自分を神へと高めるよう努めなさい。もしくは、少なくとも期待されている人間の基準に沿うよう努めなさい。心で考えること、舌の上の言葉、手での行い――この三つを一つにするよう努めなさい。多くの人が、よい行いによってよい人生を送ることを望んでいます。ですが、私はそれが可能だとは思いません。よい行いという手段では、決して善良になれません。自分の行いと言葉が善良なものとなるように、自分が善良であらねばなりません。まず善人になる努力をしなさい。それができたら、善行をすることも可能になります。善人になり、善行をしなさい。いつ、どこで、あるいは、どんな理由で人の生涯は花開くのか、すなわち発展するのかを、予想することは不可能です。あなた方は苦い実のなる木の下で祈るかも知れません。けれども、苦い実のなる木があなた方に甘い実を与えることはできません。けれども、甘い実をつける木の枝を接げば、もとは不可能であったにもかかわらず、それは甘い実をつけるようになります。こうした接木のプロセスは、人間に関する事柄におけるサットサング、つまり善良で敬虔な人とかかわりを持つことに相当します。ですから、清い志をもって人類同胞に奉仕し、常によい仲間との親交を求めなさい。そうすれば、皆さんは自分を変容させることができます。

これまでの数多くの生と時代で培った悪い特質をすぐに拭い去ることはできません。ですから、敬虔な人たちのグループに混じって、よい習慣と姿勢を育て、よい活動に従事しなさい。

この集まりには、多くの国々からやって来た、さまざまな言語を話す、さまざまな人種の人々が出席しています。彼らは皆、国籍や人種、信条や肌の色や着ているものは違っても、ひとすじの心で、サイへの愛と、サイからの愛で、結ばれています。これが私の本当の務めです。これがこの国の古代の預言者と聖仙たちが切に望んだ成就です。この唯一性、この愛との一体性を育み、それを理想としてずっと自分の目の前に掲げていなさい。宗教は人の心から生じます。宗教は人の外にあるものではありません。心が汚されていれば、宗教も汚れを被ります。宗教を否定する人は、ゆがんだ心、汚れた心を持っているということになります。むろん、宗教は、「私に触るな! これに触るな!」といった慣わしや禁制とはかかわりのないものです。

世界を幸福な愛の家としなさい

どの宗教もよい信条と規律を説いています。人の心が善に固定していれば、どうして宗教が悪であることなどあり得るでしょう? ですから、すべての人を一なるものへと引き寄せる、愛を獲得しなさい。その方法によって、皆さんは、今世界の人々を冒している恐れと不安、貪欲と妬み、憎悪と高慢を鎮め、平安と喜びの時代を築くことができます。「みんな幸せでありますように」――これは、すべての人の心から自然に生じる祈りです。これこそがサナータナ ダルマ(永遠普遍の宗教)が導く目的地です。すべての人がこのゴールを歌い、その歌の調べのうちに生き、そして、その調べを通してパラマートマ(至高の神我)と融合しなければなりません。

愛の化身である皆さん! 人と人の違いを見つけようとしてはなりません。それよりも、愛を通して親近感という絆を強めるための手段と方法を見つけなさい。同じ一門の信徒たちの間に内輪もめや争いが起こるのは、愛することを学んでいないからです。まったく同一の心から多くの相反する感情が生じるのはどうしてですか? そのようなところでは、愛は育つことも成長することもありません。

愛の種をまき、愛を育て、世界に広がっている恐れと憎悪という雑草を抜き去りなさい。世界を幸福な愛の家としなさい。

サイババ述

翻訳:サティア・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.14 C55