日付:1981年4月13日
場所:バンガロール市ラールバーグのゴールデン ジュビリー ホール
ラーマ神御降誕祭(ラーマナヴァミー)の御講話より
人類は、生活水準を向上させるために地球の物質的資源を利用することで、多くの進歩を遂げてきました。しかし、個人も社会も、内面的な平安と満足への道を学んでいません。妬みと強欲が、国と国、人と人との関係を混乱させ、すべての被造物の根底にある唯一性の意識を押さえつけています。この悲惨な状況の主な原因は、はびこるエゴであり、誰も皆、自分の力と快適さにプラスになるものは何でも手に入れようとしています。エゴが万人を操り人形にしています。こうした利己的な傾向の高まりが、人の言動に映し出されています。すべての行動が、自分の必要のためだけで決められています。利己的な利益を生まない行動は1つもとられていません。
個人と社会の平安を回復させるには、欲望が生まれるところ、解決策が講じられるところである心(マインド)から、我執を取り除く必要があります。心には、欲望が縦糸と横糸となって織り込まれています。欲望がエゴに基づくものだと、時間と労力が無駄になり、義務がおろそかになり、体と体の能力が悪用されます。そして、その間にも、寿命は日々短くなっていきます。小さなひびの入った壺から水が少しずつ漏れていくように、寿命は一秒ごとにぽたりと落ちて減っていきます。ところが、人間は、刻一刻と差し迫ってくる悲劇に気づいていないのです。
普遍なるアートマの化身たちよ! 人は、純粋な神人へと成長する能力を自分の中に持っています。ところが、無知と定まらない心のせいで、人の成長は止まっています。人は自分を低次の理想に鎖でつなぎ、そのせいで恐怖と悲しみに陥っています。「目覚めよ、己の主人となれ」と、ウパニシャッドは人に訓戒しています。
ウッティシタ ジャーグラタ パラーピャ ヴァーラーンニボーダタ
〔起きよ、目覚めよ、ゴールに着くまで止まってはならない〕
と、ウパニシャッドは警告しています。人間は無知の眠りに打ち負かされています。人間が失いつつある貴重な遺産を知る年長者たちによって、人は眠りから起こされて、教えられる必要があります。眠りは、イーシャナ、すなわち、配偶者や子供や富への執着によって引き起こされます。もちろん、人は簡素な生活を送るのに十分なものを持っている必要があります。しかし、度を超えて蓄積した富は、人を自己陶酔させ、邪悪な欲望や習慣を繁殖させます。富の保有は、有益な活動、ダルマにかなった生活、社会に対する自分の義務を果たすためでなければなりません。
捨離こそが真のヨーガ
インドは非常に恵まれています。インドには、高い理想の価値を説いてきた先覚者や賢者たちが、どの世紀にもいました。インドには、至高神のアヴァター〔化身〕たちの手本があります。重点は、最初からずっと、すべての存在の核である「アートマ」に置かれています。それは、勇気、満足、平安、和をもたらすことのできる教えです。人々が、一過性のものと恒久的なものを見分けるために知性を使うこともせず、心の気まぐれの言いなりになって災いを招いているのを見るのは、本当に哀れなことです。
心は知性によってチェックされるべきです。さもなくば、悪い決断が悲しみをもたらすことになります。善い行いをする決断をして、喜びを刈り取りなさい。もちろん、もし欲望を抱く傾向、欲望を追求する傾向を絶つことができれば、揺るぎない平安を得ることができます。心が野放しにされ、心に支配権が与えられているなら、人は1つの偏りから別の偏りへと追いやられます。人は自尊心を失っています。人は、法や正義、行動規定や社会における振る舞いの規則を無にしています。人の生活は、場所から場所、物から物への、狂ったような突進になっています。
無執着だけが、幸せをもたらすことができます。捨離(ティヤーガ)が真のヨーガです。人が自分の本当の役へと向上できるようになるには、3つの悪い性質を手放す必要があります。それは、英知を曇らせる怒り、行いを汚す情欲、神と人への愛を破壊する貪欲です。ある行為が美徳であるかどうかを判断する基準は「捨離」です。もしその行為が自己中心的なもの、エゴを膨らませやすくするものであれば、その行為は罪です。
ラーマの物語はヴェーダの神髄
インドが今、最も必要としているのは、新しい宗派でも新しい主義でもなく、新しい社会でも新しい理想でもなく、清らかな感情と動機を崇敬し、それに従う男女、怒りと情欲と貪欲を手放した人々です。
ラーマ物語はこの重要なメッセージを体現しています。ラーマ物語はヴェーダの神髄であり、まぎれもない乳海です。ヴァールミーキ仙〔ラーマーヤナの述者〕は、その叙事詩の各章に、サトウキビの長さを意味する「カーンダ」という名を付けました。どんなに曲がったサトウキビでも、一切れ一切れは他の一切れと同じように甘いものです。それと同じように、ラーマ物語の叙事詩も、戴冠式であれ国外追放であれ、勝利であれ敗北であれ、英雄的行為であれ落胆であれ、愛であれ憎しみであれ、喜びであれ悲しみであれ、その状況がどのように描かれていようとも、その動きがどのように叙述されていようとも、どれも同じように甘く魅力的です。
ラーマ物語には、2つの優勢なラサ、すなわち、感情や気持ちの流れがあります。それは、ラーマとしての慈悲(カルナ)の流れと、ラクシュマナとしての愛(プレーマ)の流れです。至福を呼び起こすのは、この2つの融合です。至福はラーマの本質(スヴァバーヴァ)そのものです。
ラーマはバガヴァーンですが、ヴァールミーキはどこにもはっきりとそのことを述べていません。ヴァールミーキは、ラーマをヴィシュヌと同等の勇気を持つ者として言及していますが、ヴィシュヌ自身としては言及していません。謎が明らかになるのは、ラーマの実の息子たちの口からのみです。「バガヴァーン」の意味は、「バ」は「光輝」、「ガ」は「顕現」、「ヴァーン」は「能力のある者」、つまり、「光輝(ジョーティ)を顕現する力を持つ者」です。それは神の光輝、アートマ ジョーティです。
ラーマは、サムバルタ、すなわち、そこからこの創造世界が生じた者、それを養おうと意志する者でもあります。ラーマを、全世界を顕現させ、守護し、宇宙の光輝と知性を投影する者として崇拝する人は皆、バクタと呼ばれる資格があります。
しかし、今、ほとんどの求道者はパートタイムの帰依者にすぎません。彼らはサタタム ヨギーナハ(常に主と一体となっている状態)であるわけではなく、朝はヨーギ、昼はボーギ(美食家/快楽主義者)、夜はローギ(病人)になっています!
ラーマは万人のための基準を定めた
ラーマは、霊的な場にいるあらゆる求道者を教え導きます。なぜなら、ラーマは自らが正しいと見なしたすべてのことを、日々実践しているからです。それゆえ、ラーマは、家族の一員、社会の一員、国家の一員、そして、人類の一員すべてのための基準を定めているのです。ラーマが森に入ったのは、国民の反応の責任を負う統治者の最高の理想を維持するためです。前者〔森に入ったラーマ〕は父の命令を尊重する(ピトゥルヴァーキヤ パリパーラナ)という義務を、後者〔統治者としての理想を維持するラーマ〕は統治される者の願いを尊重する(ジャナヴァーキヤ パリパーラナ)という義務を守っています。その根っこは、親の言葉であり、国民の言葉です。その果実は、モークシャすなわち解脱です。なぜなら、解脱は究極のゴールであり、人間にとって避けられない運命だからです。その芽は、若い果実、成長した果実を経て、甘く熟した果実になることを、避けられないゴールとしています。この3つの段階へは1つずつ順に前の段階の後に続いて至ります。それが、ヴェーダがカルマ(芽としての行為)を定めている理由です。カルマは、さまざまなカーンダ(章)の中で、礼拝(花)となり、英知(果実)となるのです。ラーマは、魂が覚醒意識へと進化していく過程を、自分の生涯の中で身をもって示したのです。
ラーマは、サティヤとダルマを絶えず守ることの体現者でした。ラーマへの信愛にあふれている人だけが、その栄光の中に飛び込むことができます。ラーマは偉大な手本であり、あなたはラーマを黙想することができます。そうすることによって、あなたはゆっくりと静かにラーマの美徳を吸収し、身につけることができます。木はその場ですぐに実をならせるわけではありません。木は実がなるまで何年も静かに成長します。ココヤシ、マンゴー、ジャックフルーツ(パラミツ/波羅蜜)などの木はこの種類に属します。これらの木の贈りものである実は、豊富で栄養たっぷりです。一方、とても早く実がなって、その後すぐに枯れてしまう植物もあります。
神の化身の名声は、化身の語る言葉の一つひとつ、化身が身をかがめて行う行為の一つひとつによって高められます。ラーマの栄光は、これほど長い歳月を経た今でも、まぶしく輝いています。その輝きは、この先、幾年(いくとせ)もまばゆく光り続けるでしょう。ラーマとは「喜ばせる者」という意味です。アートマ(真我)は絶えることのない永遠の喜びの源であり、アートマ以上に人間を深く喜ばせるものはありません。人は、アートマを意識すること、その意識によってもたらされる至福を、他のあらゆる一時的な喜びよりも優先させなければなりません。
ティヤーゲーナィケー アムルタットワマーナシュフ
――手放すことによってのみ、不滅の至福を勝ち得ることができる
と、ウパニシャッドは述べています。
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.15 Ch6