サティヤ サイババの御言葉

日付:1981年11月23日
場所:プールナチャンドラ大講堂
ババ様の五十六歳降誕祭の御講話より

目覚めよ! 起き上がれ!

人は、たやすく、
「これではない」、「あれではない」と断言する
しかし、ブラフマンを「これがそれである」
と誰が断言できるか?
ブラフマンは永遠の真理であり、
永遠の英知であり、
描写や伝達をする言葉の力を超えているのだから

愛の化身である皆さん!

火から生じる火花は、火と異なるものでもなければ、火と同一でもありません。それと同じように、ジーヴァ(個我)はブラフマン(神)と異なるものでもなければ、ブラフマンと同一でもありません。

生まれたときに人間だった者は何人いるでしょう? 生まれた後に成長して人間の地位にふさわしくなった者は何人いるでしょう? 人間として生きている者で、正しい生活、正しい行動の鍵を知っている者が、何人いるでしょう? 人間は外見で人間と識別されるのではありません。綿はマンゴーに似た長い緑色の果実をつけます。野生のキビには多くの種類がありますが、そのすべてがサトウキビなわけではありません。石英(クォーツ)は氷砂糖に似ているかもしれませんが、食べることはできません。姿形に騙(だま)されるべきではありません。中味こそが重要な基準であり、中味が神なのです。

体の中のジーヴァ(個我)、ハートの中の神
どちらも時折 遊戯する
そして分かれる、各々から各々へ
一方に、背後の人形遣い、
そして、人形――悪役と善役
彼らは自らの戯れを演じ、立ち去る

ジーヴァとブラフマンは、解脱が得られたときに初めて一つになります。海に到達するまでは、川は川のままです。川は、海とは異なる名前を持ち、異なる形をしています。それと同じように、ジーヴァは、肉体という器、感覚、心(マインド)、意識の道具と関わりを持っている限り、神に融合することはありません。ジーヴァは神から分離したままです。

アートマは、必要なものを常に備えており、満ち足りています。物質世界はもう一方のために存在しています。アートマは、多様性という外観すなわち世界を装った、根本的な一つのものです。その内在は、一つに繋(つな)ぐ真理であり、あらゆる生き物に宿る神として明らかです。この真理を自覚して生きることは、すべての人の義務です。

地上に生きる者は、まず人間にならねばならない
それから、神への道を学び、
そして、霊魂の喜びを発見せねばならない
これがヴェーダの教えるラージャヨーガの道である

自分が話していることと自分の行いの矛盾に気をつけなさい

アートマはすべての客体を照らします。アートマは他に光源を必要としません。アートマは世界を見る者です。アートマにとって、全宇宙は目に見える客体です。心(マインド)が見たいと望まなくとも見ることをする目さえもが、客体です。その心でさえ客体です。なぜなら、意志し、決意する何か他のものによって、心は促され、目配りされなければならないからです。心は、「意志するものと意志しないもの」、「手を伸ばすことと手を引っ込めること」という、縦糸と横糸から成っています。知力は、それ自体が心の道具です。アートマは、明白な衣装として、肉体、心、分別、理智、そして、内的な知覚の道具を持っています。

あらゆる活動と扇動の中心にいるように見えても、アートマは影響を受けません。アートマは意識であり、純粋で穢(けが)れがありません。肉体とその付随物と装備には、誕生と死があり、成長し衰弱します。しかし、アートマは変化を被りません。

永遠なるものには、誕生も死もなく、
始まりも終わりもない
それは死ぬこともなければ、生まれることもない。
それは決して破壊され得ない
それは目撃者であり、真我であり、アートマである

このアートマの覚(さと)りを手に入れようと懸命に努力する人は、実際に人間の運命を成就しています。しかし、まったくの無知により、現代人はそれに向かう気持ちもなければ、その方向に進むこともありません。人の行進は着実ではなく、真っすぐでもありません。

かつて、シャンカラーチャーリヤは、三つの過ちを神に許してもらえるよう、心を込めて祈りました。「主よ」と彼は言いました。

「あなたが知性を超え、想像も超えていることを知りながら、私はあなたを瞑想するという過ちを犯しました。あなたを言葉で述べることは不可能だと知っていながら、私はあなたの栄光を述べようとしました。あなたが遍在であると知っていながら、そして、そう自分で説教しておきながら、私はカーシーへ聖地巡礼に行きました。私の行動は言葉と矛盾しています」

一つのことを言いながら、反対のことを達成するために努力するという、この広く蔓延(まんえん)している大きな過ちに気をつけなさい。

人は災害が伝える教訓を学んでいない

人は、確実性という幻想に促され、砂地にもろい寝ぐらを作ります。おそろしく巨大な力が、無慈悲にも、その望みを覆します。突然の嵐が、開いた花の花びらを吹き飛ばし、下に積もった塵(ちり)の上に撒(ま)き散らします。人は、無知に沈んでいるために、これらの災害が伝える教訓を学んでいません。人は、自分の望みや計画に痛ましいほどしがみついています。それゆえ、人が刈り取る結果は、自分が企てた計画とは正反対なものになっています! 人の努力と行動が自らの求めている結果と一致しているとき、初めて人は自分が計画した成功を手に入れることができます。霊性修行の最高の結果は、ヴェーダが言明しているように、「言葉と思考と想像を絶するもの」となります。

ヴェーダはそのゴールを示すために、「ニッティヤ」と「スワーガタ」という二つの言葉を用いています。「ニッティヤ」は、過去、現在、未来において変化しないものという意味です。「スワーガタ」は、一つの固定の位置から、あらゆる所の万物のために意識を照らす(グニャーナ プラカーシャ、英知の光)という意味です。一つの太陽が、自らのいる場所から、あらゆる方向に光輝を広げます。ランプは、一箇所に置いてあっても、家全体に光を放ちます。それと同じように、アートマはただ一つであっても、英知の光によってすべてのものを目覚めさせるのです。

あらゆるものに内在するアートマ原理

太陽には二つの財産があります。それは光と熱です。アートマにも二つの様相を見ることができます。それは、スワルーパとスワバーヴァ、すなわち、「それがそれであること」と、「それがそれであることの影響」です。生来の真理、すなわちスワルーパは、「ダルミ」と呼ばれ、その影響や性質、すなわちスワバーヴァは、「ダルマ」と呼ばれます。人がダルマに気づいた時、その人はダルマ ブータ グニャーナ(アートマスワルーパやダルマの知識に由来する変容)に達した、と言うことができます。アートマの本質、すなわち「それであること」、スワルーパは、ダルミ ブータ グニャーナです。アートマのスワルーパ(本質)は、アヌすなわち原子です。アートマのダルマ、すなわち性質は、光輝です。アートマはヴィブとして描写されます。

微細な原子(アヌ)よりもさらに微細であり
最も広大なるものよりも広大であり
至るところで一切を目撃しているアートマは、
ブラフマーであり、
ブラフマーは、アートマである

この最も微細なる原子(アヌ)すなわちアートマは、あらゆるものの中に存在しており、それゆえ、その性質はどこでも明らかです。それはあらゆるものを占有していますが、他の何ものによっても占有されることはあり得ません。アートマの原理、ブラフマンの原理は、宇宙のあらゆるものに内在していますが、何ものもそこに侵入することはできません。その形を取った原子(アヌ)すなわちアートマが、万物の中にあるのですから、万物がアートマであることは明らかです!

原子(アヌ)の力を持たないものは宇宙に存在しません。原子(アヌ)のこの性質は、万物の中のダルマとして認識できます。ですから、ダルミすなわちアートマは、遍在なのです。人体も例外ではありません。アートマすなわち原子(アヌ)は、人体に内在しています。ですから、私たちはアートマの化身、アートマのエネルギーの化身なのです。

(ここでバガヴァンは銀のタンブラーを片手で持ち上げておっしゃいました)

これが銀のコップだとわかるのは、ダルマの知識、結果の知識であり、これが銀であるとわかるのは、ダルミの知識です。このハンカチも原子(アヌ)の特性を持っています。ハンカチを燃やせば灰になります。灰は原子を有しています。原子(アヌ)は物質が別の形を取っても存続するのです。これが、アートマは永遠の真理であるとヴェーダが言明する理由です。

物質の中の霊性を見よ

肉体は多くの物質でできていますが、どの物質も本質的に構造上は原子(アヌ)です。外観と呼称は、幼年期、少年期、青年期、中年期、老年期と変わるかもしれませんが、ダルミ、すなわちブラフマンの真実は、ほんのわずかな影響も受けずに生来の光輝を放ちます。この一なる真実、真理を無視して、人はすっかり幻影のごたごたに巻き込まれています。

物事はさほど重要ではありません。物事の超越的な真理にこそ価値があるのです。あなた方は、物質の中の霊性、宝石の中の金、性格と行為の多様性における神性を見なければいけません。アートマを知ろうと努めなさい。すべての人は誕生と死において平等です。その合間の期間にだけ違いが生じるのです。皇帝も物乞いも、どちらも裸で生まれ、同じように静かに眠ります。二人とも新しい住所さえ告げずにこの世を去ります。そうであれば、どうして二人の真実が異なるでしょう? この点においては疑いの余地はあり得ません。万人は基本的に同じです。

誰が誰のものだというでしょうか? 親族関係などどのくらいの間続くのでしょうか? こうした態度が、あなたを義務から逃れるように駆り立てるようではいけません。各人は自分に割り当てられた義務を果たさなくてはなりません。ブラフマンには義務も関与もありません。世界はブラフマンに基づいていますが、ブラフマンはそれに少しも影響を受けません。蛇は猛毒の牙を持っていますが、自分がその毒で害されることはありません。サソリは尻尾に毒を持っていますが、その毒はサソリに何ら害を与えることはありません。鏡に映った何百という自分の姿を見ても、あなたは恐れることも疑うこともありません。神は万物が自分の姿であることを知っています。そのために神は影響されないのです。

ヴェーダは三つの実体――海、波、水泡を区別しています。海は、クータスタ、変わらぬ基盤であり、遍在の神我、パラマートマです。海から生じて海に融合する波は、ジーヴァートマ(特定化され、個別化されたパラマートマの姿)です。波頭の上で形成され、波に溶け込む水泡は、デーハートマ(本質的には海ではあるが、波と海を区別する幻想を作り出している肉体意識/デーハ アートマ)です。

人の愛は狭量でエゴが中心にある

アートマは肉体〔デーハ〕において原子(アヌ)の形を取るため、肉体意識はデーハートマ〔デーハ アートマ〕意識と呼ばれます。ジーヴァートマ〔個我/ジーヴァ アートマ〕は、その存在によって個人の意識を活性化します。パラマートマ〔至高我/パラマ アートマ〕は、一切のものがよりかかる基盤です。しかし、人間は自分を肉体であると信じてデーハートマを無視しています。人は自分をジーヴァ〔個人〕だと思っていますが、ジーヴァートマを無視しています。人は、自分を個人として分離しているものと結論づけ、パラマートマを無視しているのです。

木は木の果実の甘さを味わいますか? つる草は花の芳香を吸い込みますか? 本は詩のインスピレーションを吸収しますか? 行為に捕えられている学僧は無執着の喜びを経験しますか? しかし、真理の体験を持つグル(導師)は、あなたを霊性修行の道に沿って方向づけることができます。グルは、ただ伝え、鼓舞することができるだけです。弟子が動き、行動しなければなりません。母親は、子供が話すことを覚えられるように、子供に語りかけます。母親が自分の舌を子供の口に置くことはできません! 子供は自分の舌を使わなくてはなりません。聖典は、ただ伝え、鼓舞するだけです。

感覚の無謀さは制御されなければなりません。多くの人は、これを為すために、食べ物を制限したり、他の種類の罰を自らに課したりします。しかし、これらは間違ったやり方です。最も効果的な方法は、真理、すなわち自己の真理を手に入れることです。人が無知の中に沈んでいるために、すなわち、万物の真理である唯一普遍の永遠なるアートマについての無知に沈んでいるために、人の愛は狭量で、限定され、エゴ中心になっています。それでどうしてパラマートマに融合できますか? 蟻(あり)が海の波の上を這うことができるでしょうか? しかし、もし人が自分の「狭量さ」への執着を手放して、海に合流する決意をするならば、人は海そのものの名前と味わいを手に入れます。もっと広く、最も広い海、ブラフマン(神)になることを求めなさい。

真理の光の中で生きる

結合し、一つになりなさい。それがあなたの使命、あなたの運命です。「私は私」、「彼は彼」というふうに、自分を孤立させてなりません。離れて孤立しているときに幸せでありたいと望むなら、私からそれを持っていきなさい。それは儚(はかな)い夢です。他の一切がアートマであるのと同じように、あなたもアートマであると知りなさい。アートマは自らが輝きを放ちます。明かりのついたランプを見つけるためには、明かりのついたランプは必要ありません! 月を見るためにろうそくやランタンは必要ありません。月は月の光によって見ることができます。アートマは万物の中で輝いています。ただあなたは目を開けて、それを知ればいいだけです。聖典は、「このすべては神である」、「神は万物の中にいる」と明言しています。これらの真理を、ただ標語として繰り返すだけでは役に立ちません。その真理を体験しなさい。その真理の光の中に生きなさい。

あるグルが、「シヴォーハム」(シヴァは我なり)というマントラを弟子に伝授しました。弟子はそれを絶え間なく繰り返しました。ある人がそのマントラの意味を弟子に尋ねました。弟子は、

「私はシヴァであるという意味です」

と言いました。しかし、弟子はまだその事実を信じていませんでした。質問した人は、シヴァ神はパールヴァティー女神と結婚していると聞いていました。そこで彼は尋ねました。

「あなたがシヴァなら、パールヴァティーは何なのですか?」

弟子はショックを受けました。弟子は、その質問に向かい合って、パールヴァティーは神のシヴァの相のシャクティ原理である、と答えるだけの勇気を持ち合わせていませんでした。弟子はシヴァになることもできなければ、シヴァになれるという信念を持つこともできませんでした。

愛の化身である皆さん!

神には誕生日として充てる特別な日はありません。あなたのハートに、神聖な思い、態度、振る舞い方が培われる日、あなたが純粋で私心のない奉仕活動を決意する日、その日こそが、あなたにとっての神の誕生日です。その日から、あなたは私の誕生日を祝祭として祝うことができます。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.15 C35