サティヤ サイババの御言葉

日付:1982年5月20日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
純粋性に関する御講話より

三重の清らかさ

人間には、動物たちの間に存在する人間の独自性を発現させて実証するために神から割り当てられた、三つの状態すなわち三つの道具があります。それがトリカラナ、「三つ組の道具」〔トリ=三つ、カラナ=道具〕です。この三つは、三つが一致し、有益な目的で活用されると、人間性から神性へという人間の進歩を促進します。この三つが価値を失い、損傷し、五感の欲求を満たすために使われると、人間性は獣性へと降格します。

「心」と「語る言葉」と「行い」が、人間にあてがわれたその三つの道具です。心は、「する」「しない」という思考のすべて、「やろう」「やめよう」という衝動のすべてを引き起こす場です。心は、五感が意識に与える印象を一つひとつすべて集めて蓄えます。心は、きらびやかさや、人を惑わす魅力によって、簡単に奴隷にされてしまいます。心の呼び名である「マナス」は、心が持っているマナナ(沈思/内省)を行う素質に由来するものですが、心にはそれを実践する忍耐力がありません。心は結論へとジャンプします。心は、エゴとの暗黙の会話に耳を傾け、それによって引き起こされる混乱に打ち勝つことができません。心がその良し悪しを量ることはめったにありません。

人が最初に採り入れなければならないサーダナ〔霊性修行〕は、内なる静寂を養うことです。それは、心との終わりのない対話を終わらせるためのものです。心をしばらく休ませなさい。不適切なことを事細かに心に思い浮かべて、妬みと貪欲という煙で心を汚染してはいけません。良いことも悪いことも、私たちが抱く考えはすべて、カーボン紙のように心に転写されます。そのようにして、弱さや不安定という要素が心に入れられてしまうのです。心を、落ち着いた、澄んだ状態に保ちなさい。ノンストップの会話によって、毎瞬毎瞬、心を動揺させてはなりません。

休まらない心を穏やかにするための三つの方法

騒がしい心を静めるには三つの方法があります。

(1)呼吸法(プラーナーヤーマ)
 一定の規則に従って呼吸をし、その調和とバランスを見ることで、心の舌がおしゃべりに入り込もうとする欲求を減らしていきます。最終的に、心の舌はその傾向を永遠に手放します。

(2)病人や困窮している人への愛のこもった奉仕
 誰も指導してくれる者を持たない子どもたちを少人数教えることに着手しなさい。あなたの思いと行いを私心のない誠実なものにしなさい。そうすることによって、心とコミュニケーションを取りたいという、むずむずするような気持ちは癒されるでしょう。人のエネルギーは、自分の揺れ動く心と話したり論じ合ったりするよりも、同胞に奉仕したほうがより良い結果を生む、と感じるようになるでしょう。

(3)霊性修行
 この種の会話を避けるための三つめの方法は、サーダナ、すなわち霊性修行です。一つか複数のサーダナを、真剣に、誠実さをもって用いなさい。サーダナは、御名を唱えることでも、マントラを唱えることでも、讃歌を詠唱することでも、ヨーガの姿勢をとることでもかまいません。ガーヤトリーマントラは、この目的のために用いるのに申し分のないものです。ガーヤトリーマントラは確実に早い結果を生みます。

しかし、今、人はこの問題の深刻さに気づいていません。人は、絶えず他人のゴシップをし、他人の悪徳を見つけるために細かく行動を調べ、他人の過ちや失敗のことをあれこれ考えています。そうすることで、心は汚されます。人は自分の心を新聞に変えて、その日の強盗や犯罪や紛争を見出しにし、来る日も来る日も同じようなことに場を与えています。そのため、心はショックとノックの連打を受け、それによって心は弱まります。ささいな出来事さえ、心を長いこと動揺させます。そんなことでは、五感の奴隷になることからの解放という究極の目的のために心を使うことなど、どうしてできますか?

心は、強く、安定していて、純粋で、自由でなければなりません。心の波が静まって、静穏が確立されることができるよう、心に休息を与えなければなりません。このことを考慮して、聖仙たちは、シュラヴァナ(建設的な助言を聞くこと)とニディディヤーサナ(助言の実践)の後にマナナ(熟考、反芻)を定めました。それをすることで、心は、純粋になること、澄みわたること、強くなることができます。牙を抜けば、コブラを安全に扱うことができます。憎しみと怒りと貪欲がなくなると、心は私たちの意志に従い、もっと高次の目的のために使われることができるようになります。

敬虔な人たちと親交を持つ必要性

次に、過度に話をする傾向についてです。「語る言葉」は、安価に生み出されますが、高い価値があります。語る言葉は、人を高揚させることも、品位を傷つけることもできます。人の語る言葉を聞いて、何の役にも立たない人物(ゼロ)が英雄(ヒーロー)になることもあれば、英雄が何の役にも立たない人に落ちぶれてしまうこともあります。語る言葉は、人を奮起させることもできれば、絶望の種を播くこともできます。語る言葉は、嘘の入った心地よいものではなく、真実で甘美なものでなければなりません。人は、ごまかしや言い逃れとは無縁の語り言葉と、残虐さとは無縁の手足、暴力に汚されていない手、復讐心から解放された思いを手に入れるよう努めなければなりません。激しい興奮、狂信、突発的な怒りは、抑えなければなりません。というのも、それは予測もつかないほど広範囲に及ぶ惨事へとつながるからです。それらを常に抑えていることで、沈黙(モウナ)の請願という手段に訴えることができるようになります。舌がおしゃべりをやめると、心もさまようことをやめます。そうならなければ、沈黙の誓願が実ることは不可能です。

私たちが言ったり聞いたりする一つひとつの言葉は、私たちの意識に印象を残し、有益な反応や有害な反応を引き起こす、ということを自覚していなさい。だからこそ、神や敬虔な人たちとの親交を求めるべきなのです。

三番目のカラナすなわち道具は、クリヤーすなわち行為です。すべての行いには、本人や他者への反応が伴います。これは自然の法則であり、暑さ寒さの影響と同様に避けられないものです。どの行い(カルマ)もすべて、一連の結果をもたらします。体の病気、精神障害、経済的困窮、家庭の窮乏は、すべて自分自身の行いの報いです。それらは神の無慈悲ゆえのものではありません。人の行いは、その人の動物的な性向、人間的な美徳、敬虔な大志をさらけ出します。さらには、その人の数々の前世、あるいは、前世での態度や好みに基づいて今生でその人が入れられた社会、のいずれかによってその人の意識に構築された態度と好みも、さらけ出されます。行為が言明に従っていないことが、現代の生活のあらゆる面における根本的な欠陥です。

今日の世界は、いかにして完全なる崩壊の危機の瀬戸際に来てしまったのでしょうか? 若者たちは、なぜ不安とアナーキズムに苦しんでいるのでしょうか? 人が人間的価値の展開を学ぶことができる本が不足しているのでしょうか? 人類の可能性を人に教えるグル〔導師〕が少なくなってしまったのでしょうか? 人々を目覚めさせ、怠惰と眠りの悲惨な結果を警告する機関は存在しないのでしょうか?

平安を得て、平安を分け与え、愛の中で生きなさい

マーケットには、私たちに必要な書籍がたくさん置いてあります。霊的な聖句が山のように読者に提供されています。通りはグルたちでいっぱいです。ところが依然として、人類は恐れと憎しみ、不満と不安に苦しんでいます。その理由は、霊的な知識の綴り手や提供者、グルや教師が、自分の提供している助言の有効性と価値を自分自身で実証していない、という悲劇的な事実にあります。

人々はあちらこちらで講義をしています。それらの講演は、聴衆を感動させるため、学識をひけらかすために選び、関連づけた、古代の宗教的な聖句の引用でいっぱいです。それらは、ウパニシャッド、ギーター、ブラフマスートラの一部をわざとらしく集めた練習問題にすぎません。そのようなものに、どうやって学生の心を変えることができますか? 聴衆は、そうした口の運動には感心するかもしれませんが、信仰と熱意で満たされることはないでしょう。「人生は短い。命の灯火が消えてしまう前に、ハートを平安で満たすのだ」と聖賢は言いました。平安を獲得し、平安を分け与えなさい。愛の中で生き、他の人々をハートの愛を育てようという気にさせなさい。

インド人の生き方は、いつの時代も、どの場所でも、思考と言葉と行為の三重の清らかさに重点を置いています。生活のプロセスは、「状況+努力」または「挑戦+返答」という公式へと換算することができます。同様に、「自己×無限=神」であるのに対し、「心×無限=ヒランニャガルバすなわち宇宙の意志」です。心は、触れられるものから触れられないものへ、個人的なものから普遍的なものへと人を連れていく、橋の働きをすることができます。心を清め、心を愛のあふれる思い、広い考えのための道具へと形作りなさい。舌を清め、舌を無畏(恐れのなさ)と友情を培うために使いなさい。手を清め、手に危害と暴力をやめさせなさい。助け、導き、癒し、手引きをするために、手を使いなさい。これは最高のサーダナです。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.15 C42