サティヤ サイババの御言葉

日付:1982年8月12日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
クリシュナ神御降誕祭の御講話より

お願いするのはやめなさい

天国は、高い、手の届かない所にあるのではなく、
実に、ここ、人間世界の中にある
自分の奥深くに隠れているエゴを引き抜けば、
ここは、そこ、地上の天国となる
解脱を求めて、おお、人よ、
なぜ、三千の神々に請うのか?
自分の中に深く根を張るエゴを引き抜けば、
人は自由となるゆえに、請うことはない

絶対者、すなわちブラフマンへの到達は、霊的努力の結果ではありません。ジーヴィ(個人化された魂)こそがブラフマンなのです。

ジーヴォー デーヴァサナータナハ
――ジーヴィは永遠なる至高神なり

たとえ世間の活動に関わっていても、個人が自分のこの実体を捨てることはできません。自分はただの人間だ、という思いは妄想から生じます。海は、さまざまな時代を通じて、さまざまな地域で、さまざまな名前で呼ばれるかもしれませんが、そのせいで海の特質が影響を受けることはありません。それと同じく、人間がいくらさまざまな姿形をとり、さまざまな名前を持ったとしても、ブラフマンの原理は人間の中に留まっており、覚醒というゴールであり続けるのです。

「ママイヴァームショー ジーヴァローケー ジーヴァブータッ サナータナハ」と、クリシュナはギーターの中で語っています。「永遠の私、私の一部である私が、すべての個人として現れた」というのが、この声明の意味するところです。

「シュルンヴァントゥ ヴィシヴェー アムルタッスヤ プットラーハ」というのは、母なるヴェーダがすべての世界に向けて宣言していることです。人は、肉体によって制限され、感官に巻き込まれているために、無知に縛られ、自分はただの人間なのだと信じるよう仕向けられているのです。人間は不死の子〔アムルタ プットラ〕です。

欲望に影響された心は汚染されている

無知は、執着によって引き起こされます。執着は、自分を体や感官や心などと同一視する、という結果をもたらします。執着は欲望につながり、欲望は怒りにつながり、怒りは理性を盲目にして無知を促し、無知は「私のもの」と「あなたのもの」、善悪といった二元性を生み出します。二元性は利益を得て損失を避けるといった行為へとつながり、行為は善果と悪果という結果を作り出します。善果悪果は今生か来世で果たされなければならず、そのため、人は苦しみを経なければならないのです。

苦しみ(ドゥカム)は、苦しみを前提とする出生(ジャンマ)によって引き起こされます。カルマは、二元性(ドワイタ)を信じることに起因しています。二元性(ドワイタ)は無知(アグニャーナ)の結果であり、無知(アグニャーナ)は怒り(クローダ)の産物です。怒り(クローダ)は激情(ラーガ)の子であり、愛執(モーハ)が激情(ラーガ)の親です。

かの時代の最も偉大な弓の使い手であり戦士であったアルジュナでさえ、戦場で、この陰湿な、偽りの、人を弱らせる愛執(モーハ)の犠牲者となりました。心は感官に従い、人を汚します。人間には、心を支配して物質世界から引き離すことは、ほとんど不可能です。アルジュナはクリシュナに、心が制御不能なほどにさまよって、心を定めることができなかった、と告白しました。心には、汚染されていない状態と汚染された状態という、二つの状態があります。欲望に冒された心は汚染されていますが、欲望に冒されていないときは、心は汚染されていません。

欲望への束縛から解放されるために人間が利用できる唯一の道具は、心です。心を物質世界の方に向ければ、あなたは束縛され、神の方に向ければ、解放への道を歩むことになります。心は一瞬ですら落ち着いていることを拒みます。湖水に石を投げ続けていたら、水面はどうやって穏やかで滑らかであることができますか? それと同じく、人間は心の湖(マーナサ サローヴァラ)に、次から次へと欲望という石を投げつけているのです。

バクタ〔神を愛する者〕は、実に、すべてのヴィヤクティ(自分の内なる実在を顕在させようとする者)なのですから、心の平静を乱す石(欲望)を封じるべきです。蝿は、神を祀る祭壇の神饌の上にとまったかと思うと、次の瞬間には汚物の上にとまります。心は、神聖な思考や物事に避難しようとしますが、次の瞬間には、恐ろしい汚れた考えにふけります。心は象のようです。象使いは象に水を浴びせ、汚れをこすってきれいにし、木陰に鎖でつなぎます。ところが、象は長い鼻で土を集めて、自分の体上に撒き散らします! 同様に、人間も、感官に促されて自分の心にちりや汚れをかけているのです。

感官は心の召し使いであって主人ではない

実際には、心の役目は、感官のコントローラーとして機能することです。感官の役割は、奉仕を提供することです。正しい関係は、召し使いは主人に従い、主人が召し使いを支配する、というものです。反対に、主人が召し使いの手に落ちるとき、主人はあらゆる損失と悲しみの餌食となってしまいます。

ラーマーヤナは、この危険性に関する見事な実例を提示しています。カイケーイー妃は女王で、マンタラーはその召し使いである侍女でしたが、カイケーイー妃が侍女に盲従していたせいで、一連の悲劇が起こったのです。カイケーイー妃は、名高い王家の出で、名高い皇帝〔ダシャラタ王〕の寵愛を受けていました。カイケーイー妃は、ダルマを守る正義の息子として名高いバラタの母親でした。カイケーイー妃は、腹違いの息子であるラーマをわが命のようにかわいがっていました。ところが、徳と学識と権威を持っていたにもかかわらず、マンタラーに耳を貸したために、カイケーイー妃は、あらゆる人から永遠に汚名を注がれるようになりました。最愛の息子から軽蔑されるという状況に陥りました。カイケーイーとマンタラーという名前すら、不快なものになってしましました。

この教訓は、召し使いである感官がふんぞり返るのを許すべきではない、ということです。もしそれを許すなら、カイケーイー妃と同じ運命を招くことになります。あなたがどこにいても、どれほど裕福でも、どれほど学識があり、どれほど権力があっても、誰かに間違ったことをするよう勧めるなら、あなたはマンタラーと同じ運命を招くことになります。人々は、感官のこびへつらいに甘んじてカイケーイー妃となり、神の性質、主人の特質を失っています。

心特有の役割と目的

流れる川の水は、貯水池に貯められます。しかし、貯水池に水が溜まったら水門を閉じるよう注意しなければなりません。さもないと、水は水門から流れ出てしまい、水を貯めて使うことができなくなります。それと同じく、内なる真我の力(アートマ シャクティ)は、理知(ブッディ)という水路を通して、貯水池である心(マナス)に入れなければなりません。そして、その力は、外界に縛られた感官という五つの水門がしっかりと閉じられているときにのみ、私たちのために、そして世界の繁栄と平和を促進するために、活用することができるのです。水門を閉じることは、パタンジャリ仙のヨーガ経典(シャーストラ)において「チッタ ヴリッティ ニローダハ」――心の揺れを防ぐこと――として説明されているプロセスです。

心は、特定の目的のために創られたものです。それは、人間としての存在の四つの目標である、ダルマ、アルタ〔富〕、カーマ〔願望〕、モークシャ〔解脱〕を達成すること、つまり、正しい手段(ダルマによるアルタ)によって幸せな人生を達成すること、そして、モークシャ(解脱)のためのカーマ(願望)を育むことです。

心は、貪欲や憎しみ、慢心や所有欲を助長するために創られたのではありません。この真理を信じなければなりません。風は雲を集め、集めた時と同じように素早く雲を散らせます。心は、輪廻か解脱かの状態を作り出すことができます。ですから、人は肉体とその構成要素である感官への執着という鎖を徐々に緩めていかなければなりません。感官は私たちの体力と精神力を奪います。

体の中で生き、体に付属した感官その他を有して動き回っている者は皆、体のものなのでしょうか? というのも、神も、アヴァターとして体をまとって降臨して動き回っている時には、見るかぎり、ただの人間にしか見えないからです。しかし、根本的な内面の違いがあるのです。化身した神であるアヴァターは、無関心です。アヴァターはウペークシャー(結果への無関心)を有しています。肉体を持つ普通の人間には、アペークシャー(結果を求める切望)があります。ママットワ(私のものという原理)は人間であり、ブラフマタットワ(ブラフマンの原理)は神です。その違いは、見ても聞いてもわかりません。それは経験によってのみ理解することができます。アヴァターに欲はなく、エゴもありません。アヴァターは、つねにブラフマタットワの中で一人です。

レコードやテープを見つめても、
そこには何も書いてはおらず、音は出ず、元のまま!
蓄音機で動かせば、
レコードは歌い、流暢に話し出す

肉体を持ったアヴァターと普通の人

アヴァターは、体や感官や心などを備えた他の人間たちと同じように見えます。しかし、思考や感情や情緒などの大きな違いを考えてごらんなさい。アヴァターは、完全で、すべてを理解しているプールナ(満/完全体)です。人間は、部分的で、狭量で、ネガティブです。けれども、神は人の内に核として存在しており、至福として顕現することができるのです。人は、外的な知識という装飾品にすべての注意を払い、動物だった祖先から継承した隠れた本能と衝動を変えていません。

猿の首にジャスミンの花輪を掛けて、
光沢のある絹の服を着せ、
宝石の付いた玉座に座らせたら、
猿は猿の習性を捨てられるのか?

かつては猿(ヴァーナラ)だったものが、今の人間(ナラ)です。人間としての数多くの人生を経ても、曲がった心と残酷さは深く根を張っています。これらをすぐに破壊することはできません。それはとても難しいことなのです。

だからこそ、神は、アヴァターの姿をとって、善と悪、真実と虚偽を識別する力を人類に授けようと決めたのです。アヴァターは、訓戒と手本によって、それを行います。経典は、残念ながら人生は短いと教えています。そこで、ギーターは人に三つの事実をよく認識するよう助言しています。

  1. 人間として生まれてくることは貴重な機会であるという事実。
  2. 神を悟ることを切望することは、もう一つの貴重な幸運であるという事実。
  3. 最大の幸運は、神の御前にいる機会を得て、神への奉仕に没頭し、神の命令を果たすことに携わることであるという事実。

神は純然たる信愛に応える

サティヤバーマーは、慢心により、宝石や美しくて貴重な物を贈ればクリシュナ神は自分のものになるだろうと考えました。サティヤバーマーは、クリシュナ神を量る天秤皿の片方にそれらを積み上げました。しかし、それは役に立ちませんでした。〔それらはクリシュナ神より軽かったので、クリシュナを獲得することはできなかった〕 ルクミニーは、すでに自分〔エゴ〕を抹消しており、クリシュナの原理だけがわかりました。そのため、ルクミニーが祈りと共に天秤皿に一枚のトゥルシーの葉を載せると、天秤はその重さで傾いて、クリシュナの載った天秤皿は上に上がりました。純然たる信愛と完全なる捨離――これだけが、自分の神性の覚醒を達成する助けとなるのです。

クーレーシャはラーマーヌジャの時代の村長でした。彼の別名はシリーヴァトサーンカといい、条件付不二一元論(ヴィシシタアドワイタ)の阿闍梨(アーチャーリヤ)であるラーマーヌジャをグルとして崇めていました。彼は自分の村での富と土地と家を捨て、カーヴェーリー川の岸辺にある聖なるシュリーランガム寺院に向かいました。妻のアーンダールも夫に伴いました。夜になっても、二人は深い密林を通って歩かなければなりませんでした。妻は恐怖に震える声で、「周りに追剥はいるでしょうか?」と尋ねました。「なぜ恐れる必要がある? 私たちは何も奪われるようなものを持っていないのだから」と、クーレーシャは答えました。アーンダールは、夫に水を供するための小さな金のコップを持ってきたことを告白しました。クーレーシャはその行為を認めませんでした。彼はコップを出させると、密林の奥に投げ捨てました。そして、二人は平安のうちに歩を進めていきました。

願わずとも神は帰依者が必要とするものを与える

二人はシュリーランガム寺院の近くの宿坊に泊まりました。クーレーシャは疲れ切っていました。三日間の長旅の間、何も食べていませんでした。妻は、寺院の鐘が「ランガナータ神への供物をお供えする時刻」を告げるのを聞きました。妻は主に抗議しました。

「あなたの召し使いが飢えに苦しんでいます。おお、主よ、彼がどれだけ苦しんでいるかを知りながら、どうやってあなたは楽しく供物を召し上がることができるのですか?」

数分のうちに、本殿からの行列が宿坊にやって来ました。笛と太鼓の一団が司祭とパンディト〔学僧〕たちの長い列を先導していました。すでにランガナータ神は、宿坊にいる信者に供え物を持っていくようにと一行に命じていたのです。一行はさまざまな豪華な料理が盛られた銀の皿と器を運んできました。

クーレーシャは上半身を起こして抗議しました。

「私は食べ物は祈っていない。主は私が必要としているもの、祈っているものを私に与えるべきであり、私がお願いしていないものを私に与えることはできない! どうしてこのアートマが、腹を満たすためのものをパラマートマに求めることなどできようか?」

寺院の僧侶たちがプラサード〔神饌のお下がり〕を食べるようにと迫ったので、クーレーシャは少しだけ口にし、妻にも少し与えました。それから妻に、「おまえは間違いを犯したのか? 食べ物を祈ったのか」と、問いました。妻は答えました。「ご主人様! 私はそうは祈っておりません。私はただ私の心の中で思っていただけです。おお、クリシュナよ、あなたの召し使いが飢えている時、どうして供物を受け取ることなどできるのですか、と」

すべての与え手である神があなたに必要な唯一の宝

お願いされた時にお願いされたものを与える者は、「プラブ」です。お願いされなくても必要なものを与える者は、「ヴィブ」です。「プラブ」は主を意味し、「ヴィブ」は宇宙の支配者を意味します。私たちは、自分に最も必要だと思うものを手に入れるためにヴィブを使ってはいけません。だからこそ、詩人はこう詠ったのです。

お願いするのはやめなさい、おお、心よ!
お願いすればするほど、深く測られて、
返事が上がってくるまで時間がかかる
お願いされずとも、
神はシャバリーの悲痛な願いを叶えなかったか?
神のために死んだ鳥のジャターユを
祝福しなかったか?

このようにして、クーレーシャは自分の心に教えを垂れ、平安を得たのです。どのアヴァターも、こうした信愛の道を敷くこと、こうした全託の模範を示すことによって、人間性を神性のレベルにまで高めようと努めます。

「私は、あなた以外、何も知りません」、「あなたは唯一無二の存在です」――この信念を持っているとき、なぜ人は欲望が忍び寄ってくることを許すのでしょう? なぜ、あれこれお願いするのでしょう? すべてを与える神、あなたに必要な唯一の宝である神を信じなさい。神はあなたを満ち足りた気持ちでいっぱいにしてくれることでしょう。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.15 C46