日付:1982年10月20日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
シュリ サティヤ サイ病院創立記念日(25周年)の御講話より
善い思い、善い言葉、善い行い、
善いことを聞くこと、善いものを見ること、善くあること、
これらは人に健康を与える
体は、わずかな価値しかない鉄の金庫
しかし、その金庫の中には、宝石が保管されている
その金庫の中には、真我にして神であるアートマが
保管されているということを覚えておくように
これは真理、サイの言葉
健康は最大の祝福です。健康でなければ、人は最も軽い仕事すらできません。健康は、人生で物質、道徳、政治、経済、芸術、霊性の各分野で進歩するために不可欠な必要条件です。
健康を確保して維持する必要があるとき、最も重要なのは食習慣です。食習慣が不規則だと健康が損なわれます。「抑制なし、成功なし」という金言があります。抑制、管理、制限は、どの段階でも遵守する必要のあるものです。人は野獣のような舌の振る舞いを抑制すべきです。840万種の生物のうち、人間以外のすべての生物は母なる自然から提供される食物で生きています。自然のままの食物を、もっと自分の口に合うように、もっと見た目や触感や匂いがよくなるようと、揚げたり、冷凍したり、混ぜたり、砕いたり、浸けたりしているのは、人間だけです。この貪欲の結果が、不健康と衰弱です。実際には、自然が提供している自然のままの食材のほうが有益だということを、人間は理解すべきです。加熱すると、栄養分を生み出している食材の生命力が失われ、人間に力と効果的な働きを与えることができなくなります。老化が早まり、若さの持つ快活さを失います。
舌の要求を満たし、1日に3、4回も重い食事をするのは、体重を増やすのに役立つだけです。規則正しく、制限して食べることは、人が自分の義務を果たすことを可能にさせます。
人は誰もが巡礼者であり、体は休憩所
不健康のもう一つの重要な原因は、休まらない心です。人はひっきりなしに心配などの種に悩まされています。不安から解放されることがありません。なぜでしょう? それは人が自分を体と同一視しているからです。人はどうやって今の体を手に入れたのでしょう? 過去の自分の行動や行為によってです。それらは何が原因でなされたのでしょう? それらを引き起こしたのは、愛と憎しみという対の引力です。それらはどのようにして生じたのでしょう? それらは二元のもつれ、対極のもつれから生じました。では、なぜ人はそれらの罠にかかってしまうのでしょうか? 真理を、一なるものを、知らないからです。
あなたは、誰もが巡礼者であり、どの人の人生も解脱という町への旅の一つの段階にすぎないということがわかっていなければなりません。体は、巡礼中に私たちが短時間滞在する休憩所です。心は、私たちが休憩する巡礼宿の仲居や番頭です。番頭を巡礼宿の主人や所有者であるかのように扱うべきではありません。ただし、私たちには、自分が滞在する権利のある宿が損傷したり汚れたりしないように注意する義務があります。宿と宿の備品を大切にし、番頭を丁寧に扱う必要があります。
巡礼者は、首をかしげたくなるような心の行動によって、助けられるか、邪魔されるかします。心は縦糸と横糸のようなものであり、何かに対する欲望や渇望を持っていて、何かを得ようとしたり、失うことを避けたりします。欲望は執着から生まれ、たいていが迷妄の結果です。欲望は心をゆがめ、傷つけます。欲望は心を興奮させ続けます。貯水池の水に石が落とされると、水面は穏やかではなくなります。もしそこに欲望の雨がひっきりなしに降ったなら、かわいそうに、心〔貯水池〕も休まりません。
人のアートマ〔真我〕から生じる至福は、実のところ、ブッディ〔理知〕という水路の助けを借りて、貯水池である心に貯蔵されるべきものです。それが至福本来の働きです。けれども、もし貯水池にたくさんの亀裂や裂け目、つまり、五感が存在すると、至福は四方に漏れて、貯水池は干上がってしまいます。五感の飢えを満たそうとすると、心は揺れ、ゆがみます。心は五感の主人です。それが心の正当な役割です。五感は使用人です。主人が使用人に仕える時、主人は自尊心を失くし、すべての人の敬意を失います。
健康は善い思いにかかっている
ラーマーヤナの物語の中で、王妃は侍女の利己的なはかりごとに身を任せ、その結果、主人であったダシャラタ王は命を失いました。王妃の命の息吹そのものであったラーマは森に流され、実の息子には縁を切られ、アヨーディヤー王国からの厳しい非難を我が身に招きました。この話は寓話です。ダシャラタ王は、5つの知覚器官と5つの行動器官、つまり10の馬車、「ダシャ(10の)ラタ(馬車)」を有する人間の体です。ダシャラタ王は、心という王妃と結婚し、心は召し使いの言うなりになり、破滅をもたらしました。
体と心の病気や障害のあらゆる原因を克服する1つの効果的な方法があります。それは自分のアートマの実在を自覚することです。それは愛の高揚と光をもたらすでしょう。なぜなら、ひとたび自分はアートマだということがわかると、その人はすべての人の中に同一のアートマを認識し、すべての人の喜びと悲しみを分かち合い、すべての人の強さと弱さを共有するからです。全人類の幸福と繁栄を願う時、人はそれを目指して道を選んで人々を導く知恵と力に恵まれます。その人は誰の中にも神を見ます。その人のあらゆる行いは、神への捧げものと同じように、清らかで、誠実で、神聖なものとなります。
健康は薬に頼るものではありません。善い言葉、善い振る舞い、善い見方、善い思い――健康にはこれらが不可欠です。自分の悪い思いや悪い感情で病気になったなら、強力な薬や高価な薬でさえ、いったい何ができるでしょう? 一方、高潔な生活、有益な思考、崇高な理想、正しい行いは、健康を与えるのみならず、さらに貴重なものである、アートマ アーナンダ、すなわち、実在そのものの至福の意識さえも、与えることができるのです。
*この御講話の日付はSathya Sai Speaksには11月20日と書かれていますが、正しくは10月20日です。
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.15 C54