サティヤ サイババの御言葉

日付:1983年1月19日
場所:マドラス(チェンナイ)
SSOのアクティブ ワーカーに向けた節制に関する御講話より

欲望に限度を設けるI

サティヤ サイ オーガニゼーション第十回全インド大会で決議された「欲望に限度を設ける」というプログラム(Ceiling On Desires略してCIA、節制のプログラム)の本来の意味について、会員たちが意味を取り違えているようです。「欲望に限度を設ける」というのは四つの要素で構成されています。それは、しゃべりすぎを控える、過度の欲望と出費を抑える、食物の摂取を自制する、エネルギーの無駄を阻止するというものです。人には生きていくためにどうしても必要なものもありますが、必要以上に欲しがるべきではありません。このことに関して、自然界から学ぶことができます。風は、適度に吹けば快適で気持ちのよいものです。強風になれば不快になります。喉が渇いたときに飲める水の量には限度があります。ガンジス河の水を全部飲むことなど到底できません! 私たちは体を維持するために必要な量だけを摂取します。

医者は、人の平熱が三十六・九度程度であることを知っていて、もし体温が三十七・二度に上がれば、体のどこかに変調を来したために熱が出たのだと言います。呼吸の回数は一定であり、もし回数が増減すれば、それは体が変調を来した徴候です。同様に、心拍数や血圧の変化も、体の変調を来した徴候です。このように、もし限度を越えれば、その程度がいかにわずかであったとしても、それは体にとって危険であり、有害であることがわかります。すべてのものには、正常に機能するための限度というものがあります。眼は、稲妻を見たり、写真を写しているときにフラッシュを見たりすると、自然に閉じます。というのは、眼は、そうしたまぶしい光には耐えられないからです。耳の鼓膜も、一定の音量以上の音を聞くことには耐えられないため、耳をふさいだり、耳の中に綿を詰めたりするのです。以上のことから、私たちの生活はリミテッド カンパニー(限度のあるものの集まり、有限会社)だということがわかります!

お金の誤用は大きな悪

同様に、欲望も制限すべきです。女性は大抵、店に入ったりディスプレイを見たりすると、自分のワードローブに何枚でもサリーを加えたくなってしまいます。サリーは適当な数を揃(そろ)えておけばよいのであって、自己顕示のために大量に収集すべきではありません。お金の誤用は大きな悪です。男性であっても、無用な物、不必要な物への出費を抑えて、やりくりすべきです。お金は神の具現(ダイヴァ スワルーパム)です。財貨について言うなら、守銭奴にならないよう、あるいは、金遣いが荒くならないよう、注意すべきです。

料理にしても、余るほど作らないよう注意すべきです。もっぱら私たちは、体が必要としている量よりも多くの食事を摂(と)ることで、体にひどい仕打ちをしているのです。

三つ目に、時間についても注意すべきです。時間は人生の物差しです。秒は時間となり、時間は年となり、年は時代(ユガ)となります。この最も貴重なものである時間を無駄にしないようにしなさい。無駄な物事を追いかけて失った時間は、どんなことをしても取り戻すことはできません。私たちの活動の一切は、使える時間を最大限に有効活用できるよう計画すべきです。

このように、食べ物、お金、時間、そして、エネルギーを無駄にすべきではありません。花輪を買うときでも、お金を無駄にする必要はありません。神が欲しているのは、謙虚さと信愛に満ちたハートという花です。神に捧げることのできる花には八つの種類があります。

  1. 非暴力(アヒムサー)
  2. 感覚器官の制御(インドリヤ ニグラハ)
  3. すべての生き物への情(サルヴァブータ ダヤー)
  4. 真理(サッティヤム)(真実)
  5. 瞑想(ディヤーナム)
  6. 平安(シャーンティ)
  7. 謙虚さ(ヴィナーヤ)
  8. 信愛(バクティ)(神への愛、帰依心)

神は動機だけを評価する

私は、トラストやサミティが、毎回お祭りのときに私に捧げる高価な太い花輪を買うためにお金を使いすぎていること、それから、私の通る道を飾るために花を使うことを、大変懸念しています。あなた方は、きっと自分たちの至福(アーナンダ)の表現の一つとして、そうしているのでしょう。しかし、私はそれを信愛(バクティ)とは呼びません。もっとも、皆さんは信愛(バクティ)を持っていないかもしれませんが。

人は自分の欠点を知り、それを正すべきです。手渡す花は一輪(いちりん)にして、無駄に花輪を買うお金を困窮している貧しい人たちを助けるために使うことで、自分たちの愛情を示すことができます。

人々は、花が敷かれた通り道が用意されていなかったり、太い花輪が捧げられなかったりしたら、ババが機嫌を損ねると思っているかもしれません。神が評価するのは動機のみであって、外的なことは評価しないということを理解しなければなりません。そのような自己顕示癖に耽(ふけ)っても、オーガニゼーションの名前を汚すだけです。サティヤ サイ オーガニゼーションの会員として、皆さんはエゴや高慢の感覚を持っていてはなりません。私がよく言ってきたように、「手は社会の中に、頭は森の中に」置いておくべきです。これが皆さんの指針であるべきです。どんなにささいなことをするときでも、善良で清らかなハートで行わなければなりません。

クリシュナは「バガヴァッド ギーター」の中で、神に捧げることのできるものとして、

パートラム、プシパム、パラム、トーヤム
――一枚の葉、一輪の花、一個の果物、いくらかの水

バガヴァッド ギーター九章二十六節

と言いました。この中のどれであれ、真摯(しんし)な信愛をもって捧げられたなら、私はそれを喜びます。「パートラム」とは何ですか? それは皆さんの周りにあるような「葉っぱ」のことではありません。その内的意味は、あなたの体そのものが葉っぱであるということです。花というのは植物の花のことではなく、あなたのハートの花(フルダヤ プシパム)のことです。「パラム」というのは普通の果物ではなく、心という果物(マノーパラム)です。「トーヤム」は水という意味ですが、ここで述べているのは川の水や水道の水のことではありません。それは、誠実で祈りに満ちたハートから込み上げてくる歓喜の涙のことを指しているのです。

自分をより善い人間へと変えなさい

さらに皆さんは、欲望に限度を設けることを自ら実践するのみならず、他の人にも教えるべきです。ナーラーヤナ神は万人に内在していますが、貧しい人に内在するナーラーヤナ神は「貧しい(ダリドラ)ナーラーナヤ」と呼ばれます。皆さんは、そのナーラーヤナ神が食べ物を乞うと食べ物を供するのを拒みますが、その一方で、もう十分にたくさんの食べ物を供された人たちに食べ物を差し出しています。皆さんは、神の絵姿の御前にお供え物(ナイヴェーディヤム)として、さまざまな種類のたくさんのごちそうを供えます。皆さんがそうするのは、そのお供え物が自分のところに戻ってくることをよくわかっているからです。ですから、同様にそれも利己心(スワールタム)であって、犠牲(ティヤーガム)ではありません。

私たちには、セヴァ ダル(奉仕団)や、バジャンの輪(マンダリー)や、他の部門があります。ますます多くの若者がセヴァ ダルに加わって奉仕活動に参加しようと申し出てきているのは、よい徴候です。世界の安寧には青年の参加が必要です。青年たちが心を入れ替えて生活を一新したなら、大いに喜ぶべきです。

「子が生まれたからといって喜んで祝い菓子を配るべからず。菓子を配るのは、子が大きくなって善い息子(サットプトラ)という名声を博してからにすべし」

という諺(ことわざ)があります。オーガニゼーションに会員として加わることだけでは、私を喜ばせることはできません。私は、あなた方が心を入れ替えて、自分をより善い人間へと変える日を待たなければなりません。あなた方は「グナシーラ」(立派な人格と善良な性質の人)となるべきです。

前進して、ますます力をつけることは、オーガニゼーションの責任であり行動規定です。役員は、この行動規定が遵守されているかどうかに最大限の注意を払い、他の人のことも正しい道へと案内すべきです。家の料理人が誠実に働くなら、家の主人は料理人に信頼を置いて家の鍵を預けます。同様に、神が評価するのは誠実な人のみです。「神に喜んでもらいたい」という願いが、根本的な動機であるべきです。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.16 C3