サティヤ サイババの御言葉

日付:1983年4月21日
ラーマ ナヴァミーの御講話より

神となる定め

宇宙は主の栄光によって照らされている
宇宙は主の栄光の中に永遠に輝いている
主の光が射さなくなれば、宇宙は光を放てない
宇宙とその主なる神は、
遍(あまね)く光と愛によって、永遠に結ばれている

愛の化身たちよ!
善いことを思い、善い言葉を語りなさい
何をするにも善い行いをしなさい
これらが見られない時、
どうしてサイは、あなたを励まし、褒め、
喜びを与えることなどできましょうか?
決断し、その答えを自らに
きっぱりと述べなさい

テルグ語の詩

人を最も喜ばせるのは、思いと言葉と行いにおける甘 さです。人のハートに喜びを与えるその神秘的な成分は、 純粋なラーマの本質です。「ラーマ」とは「大きな喜び をもたらすもの」という意味です。お腹いっぱいの食べ 物、十分な眠り、子供たちの笑い声に満ちた家庭――大 抵の人にとっては、これらが幸福の最大レベルです。で すが、これは生まれてから死ぬまでの間だけのものにす ぎません。生まれる前と死んだ後はどうでしょうか? 肉体はあなたとは別のものです。あなたは何十年かの間 は肉体を所有し、肉体に食べ物を与え、養い、あなたの 思い通りに肉体を使えるよう奮闘します。肉体の中の「あ なた」あるいは「私」というのは「アートマ」のことで あり、それは唯一無二のものです。自分と肉体との同一 感が弱まった時、アートマ(神我)のまばゆいばかりの 光が放たれるでしょう。

物を溜め込んでも恩寵は得られない

肉体という複合体への執着とは、肉体が必要とするも のや強欲を満たしてくれるものを手に入れること、蓄え ることを意味します。蓄えることは利己的な搾取を助長 します。蓄えることで神の恩寵を得ることはできません。 蓄えだすときりがありません。喉の渇きは一飲みする毎 に増していきます。渇きは常に、もっともっとと欲しが ります。小雨で湖が一杯になりますか? 唾液が喉の渇 きを癒しますか? 草の葉が石炭のように長く燃えます か? 物や学識や名声をいくら積み上げても、得たもの を自分や他の人たちのために実際に役立てないかぎり、 何にもなりません。

人が自分だと信じている肉体はその人が使うことので きる道具にすぎない、ということに気づく英知が芽生え なければなりません。それは、より高い霊的意識への第 一歩です。どの人の中にも、常に自由で、常に無執着で、 常に純粋なアートマが存在します。それが、表には見え ずともすべての人の中に明らかに存在しているブラフマ ン(絶対実在)、宇宙意識というものです。ヨーガ(神 との合一)は、世界を見事なまでの無関心をもって眺め られた時に喚起されます。それは究極のアーナンダ(神 の至福)の源です。

「どうすれば放棄すなわち無執着が喜びを引き起こす ことができるのか?」と尋ねるかもしれません。ものご とを行う時、自分がやっているという感覚を捨てなさい。 どんな情動、あるいは反応を体験している時でも、自分 こそがそれを味わっている者であるという感覚を捨てな さい。そうすれば、つねに歓喜していることができます。 そうすれば、ボーギ(享受者)は真のヨーギ(霊的に進 化した人)となります。

神はすべてのものの土台

人が喜びを得ることのできるものの実体について考え てごらんなさい! そのどれもが神の摂理で満ちていま す。降り注ぐ雨、輝く太陽、涼やかさをもたらす月、流 れ行く川は皆、すべての人のためにあります。ですから、 それらを自分のものだと主張したり、あるいは他の人々 がそれらの贈り物を分かち合うのを妨げたりする権利な ど、誰にもありません。支配する側であれ、される側で あれ、神はすべてのものの土台です。神なるアートマす なわちブラフマンの恩寵によって生命原理が働かないか ぎり、目はものを見ることができないし、耳は音を聞く ことができません。エゴと所有意識という枷(かせ)を捨て去っ た時、人はアートマの真実を知ることができるようにな ります。

幼い子供にはエゴと所有欲は詰まっていません。母親 の胸で乳を飲み、新鮮できれいでさわやかな空気を吸い、 母親が歌う優しい子守唄にわくわくしています。けれど、 成長するにつれ、私のものとあなたのものという二元的 な感情を持つようになり、虚栄や所有欲、貪欲や憎しみ で身動きが取れなくなります。そうして、神性は無視さ れるようになります。アートマというものは、いわゆる 浮き沈みによって影響を受けることはありません。湖の 水がさざめくと池の中に映る月もさざめき、波打ってい るように見えますが、空の上にある月は湖水に映った自 分の姿に起こったことに対して影響を受けることはあり ません。それと同様に、心は波立ち、動揺しますが、アー トマは静かで、煩わされることがありません。

アートマ、すなわち私たちの中にいる神の、もう一つ の側面も忘れないようにしなければなりません。アート マは私たちの中に存在するだけでなく、私たちの外にも 存在しています。実際、ヴェーダはこう述べています。

アンタル バヒシチャ タット サルヴァム
ヴィヤーピャ ナーラーヤナッ スティタハ
(外であろうと、内であろうと、
神は遍く存在している)

自分の顔を見るには、鏡を見るか、顔を映す媒体を見 るしかありません。自分の顔に汚れが付いていることが わかれば、それをふき取って顔をきれいにすることがで きます。一人静かな場所に引きこもることは、きれいな 鏡に向かうようなものです。騒乱と労苦のただ中にいる ことは、曇った汚い鏡を覗(のぞ)き込んでいるようなものです。 だからこそ、そのような静修(リトリート)は望ましいのです。

人は普遍なる意志から直に生まれた

私たちの内に存在するアートマは、普遍なる神性意 識、すなわち、パラマ アートマ(超神我/パラマートマ) と同一です。それはサット・チット・アーナンダです。 その性質は、在ること・意識・至福であると語られてい ます。ヴェーダ(古代の天啓経典)は、それを「サッティ ヤム グニャーナム アナンタム ブランマー」、すなわち、 「真理・英知・無限であるブラフマン」と述べています。 人はブラフマンから発生したので、ブラフマンの意識と 呼ぶことができます。空はブラフマンの顕現であると、 ヴェーダは宣言しています。風は空から生まれ、火は空 気と水の投影であり、地は空と水と火に起因しています。 植物は地に育って食物となり、人を形作ります。ゆえに、 人は普遍的な神我の普遍的な意志から直に生まれた、と いうことです。

人には五つの鞘(さや)があります。肉体の鞘、生気の鞘、心 の鞘、知性の鞘、そして、至福の鞘です。人の核となっ ているのは至福の鞘です。ですから、人は限りなき至福 を求めて自らの内を探求するだけでよいのです。至福は、 蓄えることによってではなく、他の人々の幸せのために と自らを犠牲にして努めることによって求めなければな りません。ヴェーダでは、ティヤーガ(犠牲/捨離)が 不滅への唯一の道として推奨されています。十分に、喜 んで与えなさい。神に感謝し、神の栄光のために与える のです。

利己心は慈愛を破壊する病原です。自分は一歩間違え て踏み出してしまったと気づいても、利己心がそれに抗(あらが) うことを許しません。ですが、確固たる決意によってそ れに打ち克つことができます。あなたが獲得した知識や 技能を他の人々と分かち合いなさい。あなたに恩恵をも たらした考えや理想、あなたが規律と献身によって勝ち 得た喜びを分かち合うのです。分かち合うことで、それ が消えてしまったり、その価値が下がったりすることは ありません。それどころか、それはさらに素晴らしい輝 きを増すことでしょう。

ラーマは内なる神の声

そうした理想の中でも、ラーマは真理(サティヤ/真 実)を高く掲げています。あなたを通して語っているの はラーマであり、ラーマだったらそう言うだろうと考え るようにして、一語一語を大切にしなさい。決定的に重 大な状況においてラーマとの約束どおりに行動しなかっ たことを、ラクシュマナがどれほど後悔したことか考え てごらんなさい。ラーマはラクシュマナに決してシー ターを庵に一人残してはいけないと頼んでいましたし、 ラクシュマナもそれに同意していました。ですが、ラク シュマナはその場を立ち去り、そのせいでラーヴァナは シーターを誘拐して自分の島へと連れ去ることができた のです! ラーマはアートマ ラーマ、すなわち、内なる 神の声です。それに背いたり、それを避けたりしてはい けません。いつもその声が自分に警告を与えてくれます ようにと祈りなさい。謙虚に祈りなさい。そして、その 忠告に託すのです。そうすれば、ラーマは慈悲深くあな たを正しく導いてくれるでしょう。

バドラーチャラムのラームダースは、牢屋に入れられ、 容赦なく鞭で打たれました。けれど、決してラーマへの 信仰を失いませんでした。彼は悲しげに恩寵を求めて祈 りました。そして、神の介入によって拷問から救い出さ れることができたのです。揺るぎない信仰は霊的な成熟 の証しです。それは、自らの内なる実体、揺るぎない核 心、すなわち、人の中に在る神に気づいたことによって もたらされたものです。

内なる平安と普遍的な愛という理想を実践しなさい。 無私の愛を十人の人に降り注ぎ、『ラーマーヤナ』のラー マ ラージャ(ラーマの正義に基づいた統治)を再び打 ち立てるのです。「ラーマ」とは「喜ばせる者」という 意味です。誰に対しても感じよくありなさい。あなたと いると楽しいと誰もが思えるようにしなさい。決して言 葉や行いで傷つけたり、危害を加えたりしてはいけませ 7 サイの御教え ん。あなたのハートをきれいにしなさい。あなたのハー トから、ちっぽけな利己心を洗い流しなさい。

利己心を持ったまま、
百万本の花を供えて
プージャー(礼拝)をしてごらんなさい
どの花も拒絶され、
一本たりとも受け取られることはないでしょう
一輪の蓮の花を、あなたのハートを、
とても清々(すがすが)しいハートを供えなさい
サティヤ サイはそれを受け取り、
愛と平安を授けます

あなたの美徳を花として供えなさい。美しさと芳香を 放つ美徳を。強欲、怒りや憎しみといった害虫の付いて いない、蓮の花のようなハートを捧げるのです。

神性という種子は、人の努力と、たゆまぬ気遣いによっ て、大切に育てなければなりません。そうして花は咲 き、実を結ぶのです。思いと言葉と行動によって他者を 傷つけるような欲望を、あなたの心からすべて取り除き なさい。そんな一時の満足を与える行為に耽ふけることで得 る報いは、悲惨なものとなるでしょう。そうした行為の 一つひとつは、あなたの心に種として植え付けられ、雑 草のようにはびこって、あなたの平安と喜びを壊すこと でしょう。ですから、油断大敵です。あなたの思いと言 葉と行動をきれいにして、神となる定めに向かって進む 人として振る舞いなさい。それに成功してゴールにたど り着くよう、私はあなた方を祝福します。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.16 C10