サティヤ サイババの御言葉

日付:1983年7月12日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
イスラム教のラマダーン月の初日の御講話より

一体性と純粋性がラマダーンのメッセージ

誰が話をしても、その表現は「私」から始まり、「私」を中心に回ります。「私は歩いている」、「私は座っている」、「私は食べている」、「私は向かっている」、「私は聞いている」、「私は見ている」といったように。「私」が常に前に出ています。そのようにして、「私」はその人を生かしています。どんな行為であれ、いつでも、どれでも、実行者は「私」です。

行為者であり、実行者である、この「私」とはいったい誰なのでしょう? 「私」には三つの側面があります。「私は体である」というのが第一の側面であり、「私はその中に存在する生命力である」というのが第二の側面であり、「私はアートマ(神である自己)である」というのが第三の側面です。

「私は暗い」、「私は明るい」、「私は背が低い」、「私は背が高い」といったものは、一般的に述べられる説明です。「私は若い」、「私は年寄りだ」、「私はブラーフマナ(バラモン階級)だ」、「私は非ブラーフマナ(バラモン階級でない)だ」といった説明もよく述べられています。こうした特質は、もっぱら体に関することです。その人物が無意識の時や深い眠りについている時、あるいは、死んでいる場合には、自分の体に関するそうした特質はどれ一つ自覚していません。そうした特質は実際の「私」とは無関係です。なぜなら、属性は時間の経過や状況の変化によって付着したり剥がれたりするからです。

「私」の第二の側面は、ジーヴァ(個人)の原理、つまり生命力です。絶え間なく活動している意識は、つねに往来していて落ち着きがありません。私たちは、「私の知性は鋭くない」、「私の心は戸惑っている」などと言います。これらは「私」の第二の側面に当てはまるだけです。この側面も、物質と感覚と心と理性の複合体を通して体と結びついています。

アートマは世界のすべてに内在している

さて、第三の側面は、アートマ(神の魂)です。

「私はサダーナンダ〔常なる至福〕であり、ニッティヤーナンダ〔永遠の至福〕であり、サッチダーナンダ〔実在であり純粋意識たる至福〕である!」、「私はニルマラ〔穢れなきもの〕である」、「私はニシチャラ〔不動心〕である」、「私は万物である」、「私はブラフマンである」(アハン ブランマースミ)。

体は死にゆくものです。ジーヴァの原理は変化をこうむります。一方、アートマは不滅です。起きている時も、夢を見ている時も、眠っている時も、そして、その先の第四の状態においても、アートマは何の影響も及ばない栄光の中にいます。起きている状態では粗体である肉体が活動し、夢の中では微細体である自我意識が機敏になり、熟睡状態では「私」は休眠して原因体とつながっています。

実際の「私」、すなわち「アートマ」は、一つの体、一つの土地、一つの国、あるいは、一つの性別だけに帰属しているということはありません。アートマは、鳥や獣の中にも、草木の中にも、どんな生き物の中にも、どこにでも、存在しています。これらの一つひとつが、アートマの存在を明らかにしています。アートマは、バーラタ(インド)にも、ロシアにも、アメリカにも、イギリスにも、世界中にあまねく内在しています。

宗教の開祖は皆、アートマが創造世界のすべてを動かしているということを啓示する、人ならぬ神の声を聞いています。ヴェーダが「聞かれ」、そして、「聞かれたもの」(シルティ/シュルティ)として伝えられたのと同じように、コーラン(クルアーン)はムハンマド(モハメッド)によって「聞かれ」ました。

コーランは、「サラート」と「ザカート」を二つの目として有しています。「サラート」は「祈り」、「ザカート」は「慈善」を意味します。慈善を最高の義務と見なし、祈りと絶えざる神の瞑想によって自分の意識を高める人が、イスラム教徒です。イスラムというのは特定の宗教を指す単語ではなく、ある心の状態を意味します。それは神の意志にすっかり全託している状態です。イスラムとは、献身、全託、平安、静穏を意味します。

イスラムは社会の共同体であり、その一員は、まったき慈悲なる全能の神への全託によって至高の平安を達成し、人類同胞と平和に暮らすことを誓っています。後にイスラムという名称は、自分たちは別だ、自分たちは違うと考えて、それゆえ他の人々に敵対する共同体にも当てはめられるようになってしまいました。イスラムはもっと高次のことを教えていました。イスラムは、多の中の一なるもの、多様性の中の一体性に注意を向け、人々を神という名の実在へと導いていました。

アートマが侮辱に傷つくことは決してない

どの人間にも衣・食・住という三つの欲求があります。それらをかなえようと、人間は自分の小さな胃袋を満たすために多種多様な食べ物を考え出し、食べるという目的それ自体は無視しています。衣服は寒さから身を守るために着ける必要のあるものですが、人々は衣服にあまりにも誇大な価値を置いています。当然、人は住むため、休んで体を横たえるための家を持っていなければなりません。イスラム教徒のジブラーン〔二十世紀の詩人〕は、「なぜ大きな屋敷を建てるのか?」と問いました。「大きな屋敷は、本人のためにではなく、本人の財宝や富を貯蔵するために建っている。大きな屋敷は死者が生者(しょうじゃ)のために建てた墓である」と、ジブラーンは言いました。

ムハンマドは、自分が聞いた神のメッセージをメッカの町の人々に告げました。その時、人々はその神の言明に耳を貸しませんでした。人々はムハンマドをその場から追い出しました。しかし、ムハンマドは、真実が勝利し、神が勝者となることを知っていました。ムハンマドは、侮辱や怪我は体のものであり、アートマは決して傷つかないということを知っていました。

ラマダーン月〔二〇二一年は四月二十三日から一ヶ月間〕は、ムハンマドが伝えた教えを思い起こして実践すること、そして、まさに神聖なる一体性と純粋性の段階に到達すること、という聖なる務めを際立たせるために定められています。イスラムは、暦の月を運行させる月を重要視します。ヒンドゥー教徒は、月は心を司る神であると見なしています。新月のダルシャン〔見ること〕と共にラマダーンの断食が始まり、再び新月を目にすると断食は終わります。

ラマダーン月の間は対立を避ける

「断食」とは、単に飲食をやめることだけではありません。断食は日の出から始まり、日没後に終わります。それはきわめて厳格に守られます。ブラフマ ムフルタ〔神の刻〕である早朝の三時か四時に目を覚まし、祈りを始め、一日中ずっと神がその場にいることを実感しようと努めること、これがウパヴァーサ(断食)の意味することです。さらに、ラマダーン月の間は、対立を避け、憎しみは一時脇に置きます。同じ家の中でも夫と妻は離れて生活し、母と子はどちらも同じ霊的規律に従い、兄弟愛の空気が漂うよう保ちます。体と五感と心は厳格な規律の下に置かれます。

どの宗教でも、断食のための月が定められています。ヒンドゥー教徒はマーガ月やシュラヴァナ月に断食を守ります。ゾロアスター教徒とキリスト教徒も同じ目的のために月を割り当てています。

コーランは、すべての人は、一体性、相互依存、無私の愛、そして、神の内在の感覚を養うべしと定めています。普通、誰もが一日に五回、体のために何がしか食物を摂ります。ベッドで目覚めのコーヒー、その二時間後に朝食、正午にボリュームたっぷりの昼食、午後四時のお茶、そして、脂っこい夕食。イスラムは、人間の霊性のための食物を規定し、それを一日五回、祈りとして摂取するよう指示しています。アートマ意識の覚醒のため、霊的な喜びを得るため、そして、アートマの光明の顕現を促すために、物心がついてから死に際まで、一日に五回もの祈りが規定されています。

一つであることがすべての宗教の基本的な教え

イスラムでは、祈りは集団活動でもあります。集団での祈りは有益な波動を生み出します。イスラムでは、切なる思いに満ちたたくさんのハートが集まって神が礼拝されるとき、さらに大きな法悦があふれだすと約束されています。彼らは皆、モスクが見えるとひれ伏します。並んで座ってひざまずき、手のひらと額が床に触れるまで身を伏せて、神の御心に謙虚に服従します。誤解、対立、敵対心がその場の清澄を妨げることがあってはなりません。

このようにして、イスラムは多の中の一なるもの、さまざまな心の中にさまざまな程度で現れる神への衝動を、強調しています。すべての宗教の基本的な教えは、一つであるということです。一つであるということを信じることは最も重要です。それがなければ、どんな信仰体系も行いも宗教ではありえません。神は一なるものであり、神を称賛するどの信仰の教えも、愛、思いやり、寛容、同情心に基づいています。悲劇は、ムハンマドの信者も、ヒンドゥー教徒も、他の宗教の信者も、これらの特性を日常生活の中で実践していないことです。

イスラムは、神の恩寵は正義と正しい生活によって得られるものであり、富や学識や権力では得られないと教えています。聖なる愛だけが主を喜ばせることができます。これはすべての宗教のメッセージです。しかし、人類はこのきわめて重要な点を無視してきました。ラマダーンは、身内同士、近い者と遠い者、友人と敵を愛の絆で結びつけます。このような怠慢はあらゆる宗教で起こっています。信者たちは自分の好きな規則は守り、厳しいと思う規則は破ります。そのため、心が狭くなったり曲がったりしてしまいます。そして、自分の欠点を正当化し、自分の失敗を言いわけします。信者たちはこうした自己欺瞞の習慣に慣れてしまっています。

日々の行いの中で愛と寛容を示しなさい

イスラムとは神への全託を意味するのですから、全託と献身の精神で社会の中で平和と調和をもって生きる人は皆、イスラムに属していると言えます。イスラムは、思考と言葉と行動の完全な一致を主張しています。イスラム教徒の聖者や賢者たちは、私たちが体だと思っている「自分」と心だと思っている「自分」の正当性を探求し、真の「自分」は全我である神を切望する「真我」であるという結論に達しなければならないと、強調してきました。ラマダーン月の断食と祈りは、この悟りを開いて示すために意図されています。

どの宗教であれ、宗教は一体性や調和や平等観を強調しています。ですから、愛と寛容と思いやりを養い、日々の行動一つひとつの中で真理を示しなさい。これが、私があなた方に祝福を込めて贈るメッセージです。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.16 C14