サティヤ サイババの御言葉

日付:1984年1月12日
場所:アナンタプル市
サティヤ サイ女子大学記念日の御講話より

人間らしく生きなさい

時間の価値を知りなさい

教師の皆さん! 女子学生の皆さん!

「万物を動かす原因である時間の化身に帰命いたします」とバルトルハリ〔サンスクリット語の詩人〕は言いました。時間は永劫です。時間は誰のためにも何のためにも止まることはありません。時間は絶え間ない流れです。人間は時間に従わなければなりませんが、時間は誰にも従いません。

シャタマーナム バヴァティ サターユフ プルシャハ
シャテーンドリヤ アーユシェー ヴェーンドリエー プラティ ティシュタティ

年長者たちは、このように〔「100年生きるように・・・」と唱えて〕私たちを祝福します。人間の寿命は100年と考えられています。しかし、その確証はありません。というのは、ニッティヤム サンニヒトー ムルッテュフ、すなわち、死はつねにつきまとっているからです。病気と呼ばれる軍隊に伴う死と呼ばれる敵は、刻一刻と肉体という王国を侵略しています。そうであるなら、寿命を100年と推定したところで何になるでしょう。過ぎた時間を取り戻すことはできません。時間はあらゆるものの尺度です。時間はいかなるものにとっても基盤です。時間は、野心家(タニーシャ)を苦行僧(ファキール)に、苦行僧を野心家にします。測り知れない長い年月が時間の胎内に溶け込んでいきました。秒は分を形成し、分は時間を、時間は日を、日は年を形成します。それゆえ、時間の範囲を超えて生きることのできる人はいません。過去の高潔な人々は、時間の重要性をよくわかっていたので、時間を聖化するために神聖な行為に携わりました。現代人に比べると、当時の人々は平安と幸福を千倍も楽しんでいたのはそれが理由です。当時の人々は、利己心がなく、エゴがなく、純朴でした。そして、つねに解脱を人生の目的としていました。当時の人々と同じ種類の平安と歓喜を楽しむためには、まず人間性を培う努力をしなければなりません。

マインド〔心、思考の束、マナス〕は人の生涯において際立った役割を果たします。マインドはつねに人間性に悪さをしかけます。マインドは善いことも悪いこともできます。マインドは幸福の原因でもあり悲しみの原因でもあります。マインドはネガティブでもありポジティブでもあります。マインドの原理は人間が知らなければならない最も重要なことです。マインドは痛みをもたらす棘のような針であり棘を抜き取る針でもあります。マインドは暗闇を追い払う火であり食べ物を調理する火です。その同じ火が物を焼いて破壊するのです。

マナ エーヴァ マヌッシャーナーム カーラナム バンダ モークシャヨー
〔マインドは人を束縛する原因であり、解脱させる原因でもある〕

マインドこそが、喜びと悲しみ、罪と功徳、善と悪の一切を引き起こします。私たちはマインドの特徴を理解するようにし、マインドを捕らえる努力をしなければなりません。

近年、人は文明社会に重きを置いています。文明的な生活とは何を意味しますか? それは、際限のない欲望とそのために奮闘する慎みのない生活や、時間と行動と肉体を浪費したあげく絶望と落胆に陥ることを意味するのですか? とんでもありません。時間の価値とマインドの影響力を認識してよく理解するには、しかるべき努力が必要です。いくら地位や財産があろうとも、人間の基本的な質を満たしていない人生には価値がありません。

シルンヴァントゥ、ヴィシウェー アムルタッスヤ プットラ
〔人は皆兄弟であり、誰は重要で誰は重要でないなどという別なく、皆等しい〕

とヴェーダは述べています。人間は不滅なる源からやって来ました。人間はその場所に帰ろうと努めることによって、人生を成就しなければなりません。若者たちは人間性という文明を正しく理解しなければなりません。男性の尊厳と女性の貞節が失われてしまったら、文明は何も残りません! ですから、すべての人が、欲望の制御をすることで、この種の文明を表さなければなりません。

倫理的な生き方とは何を意味しますか? 倫理的な生活とは、時間、行為、自分の国と宗教と社会を聖化することという、善い実践のことです。善い伝統、善い振る舞いは、倫理の同義語です。皆さんは全員、バーラタ人(インド人)です。ですから、皆さんはバーラタの文化を正しく理解しなければなりません。宗教とは何ですか? いかなる宗教であれ、その中心にある主題は愛です! 自分の中に愛の要素を持たない人間を見つけることはできません。愛は多くの姿形、多くの表現、多くの特徴を持っています。しかし、愛の目的は同一です。唯一の宗教があるだけです。それは愛の宗教です。今、愛の宗教が見捨てられています。皆さんはダルマと神への信仰に基づいて社会に奉仕しなければなりません。

人々は、富に夢中になると
カイラーサの主〔シヴァ神〕さえ無視して
富が底を突くまで罪深い行為に耽りがちである
富が底を突いて、ようやく世の中が目に入るのだ

富と虚飾はすべて束の間のものです。それらは流れ行く雲のようなものです。美徳こそが真の富です。美徳の価値を忘れることは文明生活の象徴ではありません。

誰もが幸福の真の意味を理解しないまま幸福を求めています。外にあるものに幸福を求めるのは正しいことではありません。幸福はまさしく人間の本性です。幸福は万人に内在しているものです。実際、人間は幸福の権化なのです。人々は、自分の鼻を探している人のように幸福を探し求めています。愛というガンジス川は、ハートに源があり、ハートから流れ出ています。ハートはあらゆる美徳の根源です。人々はこの事実を忘れ、いつも外側を見て幸福を探しています。一時的なものの中に探そうとしている限り、永遠の至福を手に入れることはできません。

愛と犠牲の精神を持つ者こそ最適任者

青銅を鳴らした音は大きく、金を鳴らした音は弱いものです。二流の展示品はギラギラと輝きます。帰依者の振る舞いは謙虚です。真の帰依者は宣伝や見せびらかしをすることを避けなければいけません。

人間はまず、人間らしく振る舞わねばならない
罪深い行為を支持する者も罪人なり
霊性教育こそ正しき王道
この訓戒はヴェーダに由来する

教育の第一の目的は人間性を養うことです。真に教養が身に付いている人の印は謙虚さです。

ヴィッディヤー ダダーティ ヴィナヤム
〔教育が人間性を授ける〕

人間性にとって、愛、犠牲、清らかさは、手足のように重要な三つです。軍隊には、兵士、見張り、軍曹等のような多くの要因がいます。しかし、全員に共通していることが二つあります。行進と射撃です。この二つを熟知している者だけが軍隊にいるにふさわしいのです。それと同様に、様々な職業や副業があり、様々な宗教や宗派があります。しかし、それぞれに最も適している者は、愛と犠牲という二つの特質を備えた人です。この二つは、人間の両目、鳥の両翼、荷車の両輪のようなものです。神性には、簡単に感知できるような特定の姿形はありません。神性は陶芸家が作る壷のような一つの形にはなり得ないのです。すべての人間が生まれつき持っている神性は、黙想と霊性修行という方法によって顕現させなければなりません。神の恩寵は、善い性質と愛を通してのみ手に入るものであり、他の方法では手に入りません。

公正さは至高神の重要な側面の一つです。公正さは七つの色を含んでいる太陽光線のようなものです。公正さには様々な側面があり、それらは社会の幸福と発展と制御のために欠かせないものです。

公正さという規則は、人間の幸福において要となる役割を果たしています。完全な生活は外にあるものから得ることはできません。誠実さは、ハート、すなわち良心に付随するものです。その確信は人に高潔な原則という規則正しい生活を通らせてくれます。何をするにも、自分の良心が許可した方法で行わなければなりません。あなたが行う一切のことの、最も信頼できる目撃者はあなたのハートです。自分のハートが最も頼りになる道案内です。あなたのハート、すなわち良心が、あなたの誠実さに満足していなければなりません。カースト、信条、宗教、国、性別、属している社会といったもので人を差別することなく、すべての人を等しく見ること、等しく愛することをしなければいけません。これを実行するのは、それほど簡単なことではありません。この種の態度や生き方を身に付けるには、断固たる努力が要されます。

神はどこにでもいますし、すべての人の中にいます。この真実がわかるようになるためには、努力をしなければなりません。誰かを憎むということは、神を憎むことであるということを知りなさい。つまり、あなたは自分が礼拝している神を憎んでいるということになります! 主クリシュナはギーターの中でこう述べました。

アドヴェーシター サルヴァブーターナーム
いかなる者も憎んではならない

ヴェーマナ〔テルグの詩人〕は言いました。

人は他人をあざけると、罪の報いを受ける
この罪は、容易に消し去ることができない
なぜなら、他人は他人ではなく、まさしく神であるのだから

私たちは「他人、他人」と言います。そうではありません。他人は皆、偉大な者たちです。この感情は普遍的な愛の原理です。愛は徐々に広がらなければなりません。愛の拡大とは、人間性を神性にまで拡大することを意味します。

今日はサンクラーンティ〔太陽が磨羯宮に移動(サンクラーンティ)して黄道上で南から北に移る日〕の前夜です。これは何を意味しますか? ある種の変化です。それはどのような類の変化であるべきですか? 悪ではなく善に向かうべき変化であるべきです。私たちは、人を惑わす不浄な出来事によって絶えず打ちのめされています。それらの悲しみを取り除くためには、真理、愛、慈悲、非暴力、その他の神聖な性質を培わなければなりません。サンクラーンティの日、太陽は十二宮の磨羯宮〔山羊座〕に入ります。

チャンドラマー マナソー ジャータハー
〔プルシャのマインドは月になった〕

チャクショー スーッリョー アジャーヤター
〔プルシャの目は太陽になった〕

月はマインドの象徴です。太陽は理智の象徴です。その霊的意味は、理智は神のおわすハート、すなわち良心に接近しなければならないということです。そこは、最も高く、最も清らかで、最も神聖な、シヴァ神の座席であり、カイラーサ山としても知られています。皆さんは、理智(ブッディ)は知能とは異なるものであるということを知らなければなりません。善良な性質を伴わない理智は、社会に様々な不幸をもたらします。

皆さんは、マハーバーラタの中のガーンダーリー妃〔盲目の王ドリタラーシュトラの妻でカウラヴァ兄弟の母〕の役割をわかっているでしょう。ガーンダーリーは貞節な女性でした。ガーンダーリーは自分の夫を神と信じて、一生を通じて夫に従いました。シャクニはガンダーリーの弟でした。二人は同じ母を持つ姉と弟でありながら、性質は正反対でした。シャクニは知能が優れていましたが、体は虚弱でした。シャクニの知能とシャクニとの交友に頼ったせいで、最終的にカウラヴァ兄弟は破滅しました。なぜなら、彼らは理智(ブッディ)と識別力に欠けていたからです。これが知能と理智の違いです。善良な性質が育つと、理智は明るく輝きます。理智は、本を読んでも、グル〔導師〕から教えを受けても、手に入るものではありません。

内なる声は真のグル

社会は、知能の高い人々よりも、理智の研ぎ澄まされた人々によって繁栄します。私たちの体は神の寺院です。

デーホー デーヴァラーヤ プロークト ジーヴォー デーヴァハ
肉体は永遠なる神のための寺院なり

神は遠く離れた国に住んでいるのではありません。実に、神は人間の体の中にいるのです。いつも尊敬と崇拝の態度をもって心の中の神の像を保ちつつ体という寺院を清浄にしておくことを怠るなら、その寺院は役に立たないものとなってしまいます。内なる神をおろそかにするなら、肉体を飾り立てても意味はありません。それは死体に装飾を施すのと同じことです。人の内にはシヴァム(シヴァ神)がいます。そのシヴァムが忘れられて、体はシャヴァム(死体)になっています。サティヤ サイ教育機関の女子と男子は、理想的な国民となって、どこへ行っても規律を示さなければいけません。

過去は過去です。過去を心配する必要はありません。自分が進んできた道を何度も振り返るのは無意味です。必要なのは、安全に目的地に着くために、注意深く前を見ながら道を歩むことです。人間として生まれることは貴重であり神聖なことです。神々でさえ人間に生まれることを切望します。トゥッカーラーム〔数え切れないほどの信愛の歌を作った詩人〕は、「人間はダイヤモンドのごときもの」言いました。ところが、人々は、そのダイヤモンドを安全に鉄の金庫に保管する代わりに、文鎮として使っています。すべての人は、あらゆる場面で、次のように考えていかなければなりません。

「私は動物ではない。私は悪魔ではない。私は人間である。私は人間らしく振る舞っているか? それとも、動物の性質や悪魔の性質を示しているか?」

この種の内省を実践するなら、他にグルを探す必要はありません。その秘訣を知った瞬間にマインドがグルになります。皆さんには教科ごとに別の教師がいますが、「マインドを支配している者」は、他に教師を必要としません。どんな仕事をするときも、それを行う前に識別力を用いなければいけません。

真我顕現とアートマの至福を得るためには、自信が必要です。あらゆる悲しみの理由は何でしょう? 生まれることが悲しみの原因です。誕生は行為(カルマ)の結果としてもたらされます。行為の原因は欲望と憎しみです。欲望と憎しみは快と不快(好き嫌い)の感情によって引き起こされます。これらは道を外れさせるものです。二元の感情が道を外れる原因です。突き詰めるなら、道を外れる原因、悲しみの原因は無知であることが推察されます。悲しみを取り除くためには、無知が去らなければなりません。無知が取り除かれれば、人生の目的は成就し、再び生まれ変わる必要はなくなります。これが、クリシュナがアルジュナに投与した薬です。

蟻塚の表面を引っ掻けば、蛇は死ぬだろうか
肉体を懲らしめれば、贅沢への憧れが弱まるだろうか
食べ物と水を断てば、真我顕現が得られるだろうか
自分の真我を知らずに、どうやって霊的知識を手に入れるのか

アルジュナの中にこの種の弱さを見て、主クリシュナは言いました。

「起きるのだ、おお、ダナンジャヤ〔富を勝ち取った者〕よ! 運命は変えられない! 公正が勝利し、正義が広く行き渡り、利己主義は自滅する。これが永遠の法則ではないか? 行為(カルマ)の影響力は非常に強く、それゆえ、百人の息子を持つ父でさえ、惨めな死を迎え、自らの最後の儀式〔葬式〕に参列する息子が一人もいなくなるのを君は見るだろう。君の悲しみの原因は無知だ。無知を取り除けば、君の悲しみは和らぐ。」

知識の光が明けそめれば、無知の暗闇は自動的に消えてなくなります。一方、この光を忘れて絶えず暗闇と戦っていても何の役にも立ちません。この知識は内なるヴィジョンから生じます。重要なのは、外で見るものよりも、内で見るものです。皆さんは「私は人間だ」と言います。体の中にいる「私」とは何ですか? 「私」と呼ばれ得るのは、知性ですか? マインドですか? チッタ〔心素〕ですか? 皆さんは「これは私の体です」と言います。まさにその言葉が意味しているのは、あなたは体とは異なるということです。同様に、あなたが「これは私のマインドです」と言うなら、マインドはあなたの真我とは異なるものであり、他についても同じことが言えます。ですから、実際、あなたは体でも、マインドでも、理智(ブッディ)でも、その他のものでもないのです。まさにこうした「私」こそが、あなたの実体なのです。皆さんは、「これではない、これではない」といって自分でないものを否定していく推論すなわち技法を用いて、初めてこの結論に行き着くでしょう。

人間と同じくらい大勢の神々がいるのでしょうか? 答は「否」です。唯一神が存在するのみです。唯一神は遍在です。唯一神は万人万物の中に宿っています。この思想はヴェーダーンタでは不二一元論として知られています。

エーカメーヴァ アドヴィッティーヤム ブランマー
ブラフマンは唯一無二である

神から離れているものなどありません。神性は一つであり、万人に内在しています。この真理を知って、万人を敬い、誰に対しても痛みを与えるという手段をとらないようにしなさい。そのとき初めて、社会はあなたを尊敬するでしょう。自分が尊敬されたいなら、同じように他の人々も尊敬すべきです。

人が自分の欲望の奴隷になったとき、それはこの世の奴隷になったことを意味します。皆さんは欲望の奴隷になる代わりに、欲望の主人にならなくてはなりません。皆さんはラーマーヤナのこの話を知っているでしょう。王妃であり、バラタ〔ラーマの弟〕の母親であったカイケーイー妃は、侍女のマンタラーの言葉を鵜呑みにして、ラーマを森へ追放しました。その結果、カイケーイーは最も嫌われる身となりました。カイケーイーは実の息子のバラタにも嫌われ、さらに、夫であるダシャラタ王を失いました。誰かカイケーイーやマンタラーと呼ばれて喜ぶ人がいますか? 五感の奴隷になっている女性は、誰であれカイケーイーです。ですから、女性は誰もが清らかな生活を送り、カウサリヤー〔ラーマの生母〕というあだ名を付けられるようにならなければなりません。そうして初めて、女性はラーマチャンドラに等しい子供をもうけるのです。人生の四分の一を知識の獲得に費やし、残りの四分の三を善い思考と善い行いの人生を送ることに費やすなら、あなたの人生は聖化されるでしょう。

皆さん全員が善い思考と善い習慣を身に付けるために努力するという願いと祝福をもって、私の講話を終えることにします。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Women’s Role C24