サティヤ サイババの御言葉

日付:1984年2月5日
場所:ブリンダーヴァンのクンワルバ講堂
子育てに関する御講話より

親は子供を甘やかすべからず

現代の親たちは、自分の子供に過剰な愛情を与えています。しかし、そうした愛情だけでは十分ではありません。子供を管理すべきです。「愛」と「規律」の両方があるべきです。愛と規制の両方があって、初めて愛は有益なものとなります。

生まれつき無垢でものを知らない子供たちがあらゆる悪い習慣を身につけてしまう責任は、第一に親にあります。親たちは、子供に正しい振る舞い方を教える努力も何もしていません。親たちは、すぐに財布の紐をゆるめて子供にお金を与え、子供を甘やかしています。親たちは、自分の息子が役所の高官になること、高収入を稼いで富を得て、快適で楽な人生を送ることを望んでいます。けれども、どうやって子供に善良な特質を伸ばす必要性をわからせるべきかについては、つゆほども考えていません。子供たちに正しい態度と道徳的資質を育むよう教えるのは、親の責務です。子供に出世のことだけを言うのは正しいことではありません。親は、自分の息子が非難の余地のない生活を送り、良い評判を得て、正しく振る舞っているのを見て、初めて幸福を感じるべきです。ただ息子が生まれたというだけで喜ぶのは、愚かです。

子供には正しい価値を提供すべし

ドリタラーシュトラ〔マハーバーラタに登場する盲目の王〕にはカウラヴァ兄弟という百人の息子がいました。ドリタラーシュトラは、カウラヴァ兄弟が皆こぞって邪悪で、悪の道を歩んでいることを知っていました。さらには、自分の兄〔パーンドゥ王〕の息子であるパーンダヴァ兄弟がダルマ(正義)と固く結びついていること、そして、カウラヴァ兄弟がパーンダヴァ兄弟にたくさんの辱めと損害を与えていることも、知っていました。息子たちがパーンダヴァ兄弟を迫害することを、息子たちへの誤った愛情ゆえに許すのはいけないと、ヴィヤーサ仙が何度ドリタラーシュトラに言って聞かせても、我が子を溺愛していた父親、ドリタラーシュトラは、ヴィヤーサ仙の忠告を聞き入れませんでした。その結果、ドリタラーシュトラはたくさんの罪深い行為に手を染めることになりました。

ヴィヤーサ仙はドリタラーシュトラに警告しました。

「ドリタラーシュトラよ! 私は、そなたが己の息子を愛することは間違っていると言っているのではない。そうではなく、そなたはどんな類の息子を愛すべきかをわからねばならないということを言っているのだ。それがわからずに、そなたは盲目で無知な男のように振る舞っている。悪い息子に愛を示すことによって、そなたは社会と国に害を及ぼしている。」

自分の息子たちに盲目的に夢中になったことで、ドリタラーシュトラは何を得ましたか? 最終的に、自分の葬儀をしてくれる者さえいませんでした。それは正しきパーンダヴァ兄弟がするほかありませんでした。

子供を愛するのは間違ったことではありません。しかし、あなた方は、どうやって子供を愛するかを学ばなければなりません。意識的に、もしくは無意識のうちに子供が道を踏み外した時は、いつでも親が即座に子供の誤りを正し、正しい道へと連れ戻すべきです。親の責任は、食事を与え、学校に通わせ、世の中の物事に関する知識を与えたら終わりではないのです。子供には正しい価値も与えるべきです。財産を得ることが人生のすべて、究極の目的であるなどと子供に思わせてはなりません。この世を去る時、財産はいっしょに付いて来てはくれません。財産は、生活必需品をまかなうためにだけ必要なものです。多すぎる財産は、大きすぎる靴のようなものです。それは人を困らせます。少なすぎる財産は、きつい靴のようなものです。それは痛みをもたらします。ですから、基本的な必要を満たすのに十分なだけの財産を持っているのが望ましいのです。現代では人々が狂ったようにお金を追い求めて、あらゆる人間的特質を忘れているのは、嘆かわしいことです。

根気強い求道者は英知を手に入れる

現代の若者たちには、人生を偉大な理想に捧げることの大切さが念頭にありません。自分の子供に目的のある人生を送らせる努力をするのは、親の責任です。教師は教師として、手本を示し、教え子に正しい価値を植え付けるべきです。火の灯っているランプだけが、他のランプに火を灯すことができます。もし教師が理想の姿を失っていたら、どうやって自分の教え子を理想の人生を送るよう感化させることができますか?

人々は霊的な生活について語りはしますが、実践はめったにしていません。言っていることと反対のことをしょっちゅうしています。その理由は、徳がないからです。善良な特質を持っていなければ、他の属性はすべて役に立ちません。それは穴だらけの器に水を入れるようなものです。ハートに悪い思考と邪悪な欲がにじみ出ていたら、どうやってハートを清らかな大志で満たすことができますか?

バネールジー知事〔この日行われたサティヤ サイ大学学生寮記念祭の主賓のカルナータカ州知事〕は、成功について語り、「成功は成功を生む」と述べました。しかし、どのようにして成功を得て、どのような成功を目指すべきなのでしょうか? ギーターは述べています。

シラッダーヴァーン ラバテー グニャーナム
(信念(シラッダー)のある求道者は英知を手に入れる)

これは、根気強さや真面目さがなければ成功に達することはできない、という意味です。年長者たちが示す道に着目しなければいけません。古代の人々が説いた英知に注意を傾けなければいけません。年長者の言うことを聞き入れなければいけません。シラッダー〔信念〕を持っていなければ、他にどんな特質を備えていようと、何も達成することはできません。

科学的知識においては、年月をかけて進化し、かなりの進歩を遂げたにもかかわらず、霊性の分野には熱心に取り組んでいないため、人は神に向かって大きく前進することができないでいます。霊性修行(サーダナ)をしなければ、宗教書を読んでも、霊的な講話を聴いても、効果はありません。

ウパニシャッド〔ヴェーダーンタ〕やシャーストラ(霊的科学)を学ぶこと、神の御名を繰り返し唱えることは、それ自体は良い行いであるかもしれません。けれども、愛という、あらゆる霊性修行の土台がなければ、それらに効果はありません。それらはバターミルク〔牛乳から脂肪やたんぱく質などを分離させた残りの水分〕のようなものです。一方、神への愛は、煮詰めたミルクのようなものです。その中には、たんぱく質もビタミンも、すべてが含まれています。愛は、人の体のエネルギー、心のエネルギー、霊的なエネルギーを強化します。愛の伴わない献身的行為は、何の栄養もない薄いバターミルクのようなものです。

愛の伴わないディヤーナ(瞑想/座禅)やジャパ(マントラや神の御名を繰り返し唱えること)は、生命のない儀式です。あらゆる生きものへの奉仕という形で自らを示す愛は、神への愛を表す最高の表現です。そうした愛の伴わない誠の信愛など存在しません。愛は変わることがなく、人に奉仕する上でどんな犠牲もいといません。そうした愛に満ち、奉仕の精神をしっかりと持っている学生がいたら、国はまったき繁栄と平和と進歩を達成するでしょう。まず第一に、両親を敬うことを身につけなさい。年長者に敬意を表し、年長者のアドバイスに注意を払いなさい。先生に言われたことを実行しなさい。神に信頼を置きなさい。

神への信心がなければ、他に持っているものはすべて何の役にも立ちません。ドゥルヨーダナ〔ドリタラーシュトラ王の長男〕の例をあげましょう。ドゥルヨーダナは一国の君主でした。ドゥルヨーダナもアルジュナも、クルクシェートラの戦いが始まる前にクリシュナのもとへ行きました。ドゥルヨーダナが欲したのはクリシュナの軍隊が味方に付くことだけでした。アルジュナはクリシュナ一人が味方に付くことで満足しました。戦いで勝利を得るにはそれで十分でした。ドゥルヨーダナが得た軍隊は、どれも助けにはなりませんでした。ドゥルヨーダナは叔父のシャクニの巧みな戦略を信頼し、クリシュナの神聖な知恵を信用していませんでした。このエピソードから学生諸君が学ばなければならない教訓は、人は自分の頭の良さに頼るのではなく、それよりも高度な自らの内なる理知の導きに頼るべきである、ということです。それは並の道理や考えをしのぐものです。創造世界の中にあるすべてのものを維持しているその存在の支援を得ようと努力すべきです。

学生はサハナという性質を培うべし

学生諸君は、サハナ(忍耐力)という特質を培うべきです。何をするにも、利己的な動機なしで行いなさい。あなた方は、何かの物質的なものを手に入れるために大量の時間を費やしています。神を思うことにはどれほどの時間を充てていますか? あなた方は、五感の快楽を体験したいといって惜しみなく涙を流しますが、神を体験したいといって一粒でも涙を流すでしょうか? それでどうして神を顕現させることができるでしょう?

霊性と科学の関係

現代では、バクティ(信愛)を示すことが大量生産の製品になっています。しかし、帰依者たちは自分がそうして公言することを実践しているでしょうか? 実践が伴わないのに信愛という果実を顕現させることができますか? 霊性〔アートマ性〕は生活のなかの他の側面とかけ離れたものではありません。霊性はすべてのものの中に満ちている、ということを理解しなければいけません。科学は霊性です。数学は霊性です。霊性はすべてのものの中に見出されます。もしあなたがそれを進んで受けいれるなら。

たとえば、数学と霊性の関連性とはどのようなものでしょうか? 霊的数学はアカデミックな数学とは異なります。アカデミックな数学では、3-1=2です。一方、霊的数学では、3-1=1です! どうしてそうなるのかと問われるかもしれません。鏡があるとします。鏡を見ると、鏡に映るあなたが見えます。そこには三つのものが存在します。見る人、鏡、そして、鏡に映っている姿です。鏡をどけると、鏡に映った姿もいなくなり、一つのものだけが残ります。自然(プラクリティ)(現象界)は鏡です。神は見る人です。個々人(ジーヴィ)は鏡に映った姿です。自然という鏡が取り除かれると、個々人はいなくなり、神だけが残ります。

生まれることがあらゆる悲しみの根源

自然と関係することで、二元性という外観と、個々人の個別性が生み出されます。人が実現に努めるべきことは、神と一つになることです。その方法はバガヴァッドギーターの十二章に示されています。そこには真のバクタ(神を信愛する者)の特質が描写されています。その第一の特質は、生きている何ものにも憎しみを持たないこと(普遍的な愛を培うこと)です。

アドヴェーシター サルヴァ ブータナーム
〔すべてのものに敵意を抱かず〕

バガヴァッドギーター 十二章三節

人に害をもたらすことを避けなさい。誰のことも悪く言ってはなりません。慢心とエゴを手放しなさい。思考と語る言葉と行いの清らかさを培いなさい。

慢心の根源は何でしょう? 知識でしょうか? その知識とは何ですか? 慢心の根源は無知それのみです。無知の根源は何でしょうか? 無知の根源は二元性という意識です。二元性はどこから生じるのでしょうか? 執着(ラーガ)と憎しみ(ドウェーシャ)からです。この二つの根源は何でしょうか? それは環境の産物です。その環境はどうやって生じたのでしょうか? カルマ(過去の行い)によってです。カルマの根源は何でしょうか? 生まれることです。このようにして、生まれることがあらゆる悲しみの根源であることがはっきりします。生まれることからの解放を求めることによってのみ、人は自らを悲しみから自由にすることができます。人間に生まれることによってもたらされた機会は、この至高の目的を実現するために使われるべきです。

青年時代は最も貴重な年月

幼い年齢から子供を正しい道に置くことは、親の義務です。親は子供を正すことを躊躇してはなりません。子供が悪い道に行った時には、罰さえも与えるべきです。親が子供に自分の愛を示す最良の方法は、子供に正しい道を歩ませるために必要なことはすべて行うことです。もし息子が手に負えなくなったり、直しようがなくなったりしたら、親は息子を勘当することを躊躇すべきではありません。悪い子供が大勢いるよりも、善良な息子が一人いるほうがいいということです。

息子が休みに家に帰ってきたら、親は息子の行動、動作、そして仲間を、注意して見ていなければいけません。親たちのなかには、息子は寮で不自由しているにちがいないといって、家で息子を甘やかしがちな親もいます。息子は映画やテレビを見るように勧められ、よくない食べ物を与えられます。これらはすべて望ましくないことです。そうした甘やかしによって、子供はだめになります。親は子供のために自ら自制を実践すべきです。大勢の両親がこの場にいるので、私は声を大にして話しているのです。

青年時代は人生で最も貴重な年月であり、無駄にしたり、誤って過ごすべきではないということを、肝に銘じておきなさい。子供に夜六時から十時までテレビを見せるのは、子供に学校や大学で学んだことをすべて忘れさせるということです。加えて、多くの悪いことも覚えます。もしテレビが良いことを教えるのに使われるのであれば、それは価値のある目的に役立てるでしょう。しかし実態はそうではありません。若い世代は、好ましくない映画やテレビ番組によってだめにされています。彼らの心は毒されています。このようにして子供をだめにすることが親の愛のしるしなのではありません。親自身も映画に行くのを避けるべきです。今、私たちが目にしているあらゆる犯罪と暴力は、若い心への映画の悪影響の結果であることがほとんどです。

教育は無私の奉仕をする準備を整えるものであるべし

科学と技術は多くの利点をもたらしているように見えるかもしれませんが、その一方で有害な影響もたくさん与えています。私たちは、科学の知識を正しく使用するために、英知と識別心を持たなければいけません。学生諸君は、自分が学んだことを、価値のある高潔な生活を送るために役立てる方法を身につけなければいけません。今の重要な年齢の時に、自分を正しく形作ることができなければ、この先、より良い生活を送ることは望めません。親と教師には、子供が愛と教え、そして必要とあらば矯正措置によって正しい方向に沿って育っているかを、見る義務があります。

親たちのなかには、息子が言うことを聞かないと言う親もいます。これは弱さの印です。子供が親の言いつけをはねつけるなどとは、いったいどういうことでしょう? 親や年長者を敬うようにと、子供たちが初めから教えられていれば、この種の態度が芽生えることはないでしょう。反抗的な子供には、家に居場所があるべきではありません。子供は、親が子に毅然とした態度を示している場合にのみ、正しい方向に沿って育っていきます。親と教師が規律を強いることに失敗しているために、学生たちがひどく無責任な態度をとったり、無規律や暴力にふけったりするのです。

教育は、神聖なプロセス、社会に無私の奉仕をするための準備を整えるためのもの、と見なされなければいけません。世界には、さまざまな体の障害や他の障害を抱えて苦しんでいる、数え切れないほどの人がいます。その人たちに奉仕をし、その人たちの苦しみを可能なかぎり和らげるために手助けすることは、教育を受けた人の義務です。これは神への奉仕の最善の形です。大気汚染、私たちが使っている水の汚染、さらに、多くのものが汚されています。あなた方は、自分が得た知識を汚れたものを浄化することに使わなければいけません。その目的のために、サティヤ サイの教育機関における科学の諸コースでは、霊的なオリエンテーションがなされています。社会への奉仕が教育の第一の目的とならねばなりません。サイの教育機関の学生は、どんな職業に就いたとしても、自分の知識を生計を立てることに充てるのみならず、自分たちに開かれているあらゆる方法で、自分の才能やエネルギーを社会への奉仕に充てるべきです。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.17 C3