サティヤ サイババの御言葉

日付:1984年7月14日
場所:プラシャーンティ ニラヤム、マンディール
節制に関する御講話より

欲望に限度を設けるⅡ

私たちは様々な規模と種類の任務を自らに課しました。それらのプログラムの実行に乗り出す前に、三つの質問を自問しなければなりません。

第一に、「私たちは誰のためにこのプログラムを自らに課しているのか?」

第二に、「それは何のためか?」

第三に、「私たちはどうやってこのプログラムを実行するのか?」

これらは三つの異なる質問かもしれませんが、答えは一つです。深く探求するなら、

第一の質問への答えは、「すべては自分たちのため」

第二の質問への答えは、「自分たちの幸せと喜びのため」

第三の質問への答えは、「自分たちの仕事の結果は自分たちが何をするかに左右される。もし何か善いことをすれば、結果も善いものになる。もし何か悪いことをすれば、結果も同じように悪くなる」です。

この世では、何かを活用するには、何らかの方法でそれを変化させなければ、活用は不可能です。米は、稲を米粒に変え、それから炊かない限り、食べることはできません。同様に、布は、綿を糸に変えて、それから布に織らなければできません。それと同じように、人間には三つの点における変容が必要です。第一は肉体的な変容です。第二はマインド(マナス、思考の束、心)に関する変容です。第三はアートマ(神なる魂)に関わる変容です。アートマは不変です。変容が必要なのは体とマインドだけです。どうすれば変容は起こるのでしょう? たとえば、「銀は神になれるのか?」、「石は神になれるのか?」と問うならば、答えは「イエス」です。

セヴァは誰のために行われているか

彫刻家が岩の塊を聖堂で礼拝する美しい神の像に変えると、不活性で価値のなかったものが神聖なものになります。これが変容です。同様に、銀で作った神の像も礼拝の対象になります。それと同じように、つまらない、あらゆる世俗的なものも、時が経てば神聖で神々しいものに変わり得るのです。人間にはこうした変容が必要です。

身体を例に取りましょう。身体は、悪い、好ましくないものを収納している存在物です。私たちは、外面的には、入浴したり、洗ったりして大切に身体の手入れをしています。外側に付いた不純物に気がつけば、それを取り除こうとします。しかし、内面の不純物には気づいていますか? その汚れはどうやって取り除いたらよいのでしょう? 内面をきれいにするには、神聖な思考を抱き、神聖な行いをしなければなりません。

ジーヴァ(個我)とデーヴァ(聖なる存在)という概念があります。人間は、浄性(サットワ)、激性(ラジャス)、鈍性(タマス)という三つの属性(グナ)から成っています。これらの属性(グナ)の一部である限り、あなたはジーヴァです。ひとたび三属性(グナ)を超越すれば、あなたは神(デーヴァ)になります。三属性(グナ)は稲の米粒を覆っているもみ殻のようなものです。もみ殻を取り除けば、米粒になります。何をするにせよ、どんな行動に着手するにせよ、神を中心に据えた思考が染み込んでいれば、それは神聖なものになります。今の私たちのセヴァ(無私の奉仕)活動には、この崇高な献身の感覚がありません。セヴァ活動は他者のために行われている、という考えは取り除くべきです。セヴァ活動は、あなた自身のために、あなた自身の改善のために着手されている、ということを理解すべきです。

自分を変えるために努力すべき四つの方法

ヴェーダーンタの用語では、他者との一体感をもつことを「マイトリー」(友愛、親密さ)と呼んでいます。セヴァ活動においてはマイトリーを育てなくてはなりません。あなた方が育てなければならないもう一つの態度は「カルナ」(慈悲)です。三番目は「ムディタ」(満ち足りていること)で、四番目は「ウペークシャー」(結果に無関心であること)と呼ばれます。私たちは、これら四つの方法すべてによって、自分と他人を変える努力をすべきです。

「マイトリー」とは何でしょう? マイトリーは、一般的には友情と同じものと見なされています。世俗の感覚では、友情は相互関係です。真の友情は、他人の安楽や喜びや悲しみを自分のものと見なすことにあります。たとえば、『ラーマーヤナ』のラーマとスグリーヴァ(猿王)との関係はその典型です。二人の友情は、お互いに相手の苦しみを自分のもの(サマーナ アヴァスタ)として体験できた、という事実に基づいていました。友情の絆(きずな)は、両者が共通の体験を分かち合っていることに気づいたときに結ばれるものです。

「カルナ」(慈悲)とは何でしょう? 苦悩している人を見て言葉で同情を表すことが慈悲なのではありません。慈悲は、苦悩を軽減する行動によって表さなくてはなりません。人は誰もが己の愚かさゆえに苦しんでいる、ということを口実に、よそよそしい態度を取ったり、無関心であったりすべきではありません。人が苦しんでいるのは本人の過ちのゆえかもしれませんが、誰でも過ちは犯しがちです。私たちは、自分の苦しみを取り除こうとするのと同じように、皆の苦しみを癒す方法を探すべきです。病院などの慈善施設を建てることで自分の同情心を誇示しようとする人々もいます。しかし、真の慈悲は、ハートから湧き上がるべきものであり、自らの虚栄心を暴いているにすぎないような表面的な形で現れるべきものではありません。サティヤ サイ オーガニゼーションの中には、そのような虚栄心を表す場所はありません。貧しい人や苦しんでいる人を助けるために行うことの一切は、ハートから生じる気持ちに基づいたもの、助けを受ける相手のハートに響くものであるべきです。

次に「ムディタ」(満ち足りていること)が来ます。これは、名誉と不名誉、賞賛と中傷、損失と獲得、喜びと悲しみという体験の中で平常心を培うことによって、心の平安を手に入れることを意味します。これら正反対の両極は、流れゆく雲のように来ては去るものと見なすべきです。奉仕者(セーヴァカ)は皆、このような心の平静を培うべきです。

四番目の必要条件は「ウペークシャー」(結果に無関心であること)です。アペークシャー(果報を切望すること)は人を縛り付けます。ウペークシャーは人を解放します。アペークシャーは、世俗の物事に巻き込まれることを意味します。ウペークシャーは、そのしがらみから自由になることを意味します。カボチャを例に取りましょう。緑色のカボチャを水の中に入れれば沈みます。カボチャにはたくさんの水分が含まれているのに、水に入れると沈むのです。その同じカボチャも、乾燥して中の水分がなくなれば水に浮かびます。この理由は何でしょう? 最初、カボチャは水と親密な関係にあり、水を自らの一部にしています。それと同じように、あなた自身が世俗的で、この世を動き回っているなら、あなたはこの世に束縛されます。あなたがこの世に執着を持たず、神性に向かうなら、あなたはこの世への束縛から自由になります。「自分自身を解放する」プロセス、それが「ウペークシャー」です。

カーマと結びつくならラーマは得られない

『ラーマーヤナ』で、ラーマが森へ行く決意をしたとき、シーターはラーマに従いたいと願い、自分の所有物のすべてを無償で手放しました。所有物への執着を捨てることによって、シーターはラーマを手に入れることができたのです。しかし、森の中で金色(こんじき)の鹿が欲しくなったとき、シーターはラーマから離されました。最初、カーマ(所有欲)を捨てたときには、シーターはラーマと一つになりました。このエピソードの意味は、あなたがカーマと結びついている限り、ラーマ、すなわち神を手に入れることは望めないということです。

これは、あなたは世間を捨てなければならないという意味ではありません。そのまま世間で暮らしながら、世俗的な生活と霊的な生活のバランスを取らなくてはなりません。人間の生活は、生来の状態では不純な土と結びついている黄金のようなものです。それは最初の段階では不純なものですが、善良な人々との交わりを求め、高潔な考え方を育てることによって、自分の思考と言葉と行動を清めはじめると、あなたは自らを変容させていきます。これがウペークシャーのプロセスです。

他人への奉仕は、苦行(タパス)や瞑想(ディヤーナ)以上に人が自らを変容させる方法です。奉仕に携わるときは、見せかけでなく本当に相手を思いやる気持ちから突き動かされるべきです。相手の苦しみの原因を突き止め、それを取り除こうと努力すべきです。そうして初めて、あなたはセヴァ(無私の奉仕)を適切に行うことができます。一時(いっとき)の同情心や慈善、寛大さを誇示して他者と競争することは、真のセヴァではありません。奉仕に携わるときに自分の能力を超えたことをしようとするならば、それはエゴの表れです。もし自分にできるよりも少ししかしないなら、それは泥棒(自分が授かっている能力を使って自分が他者に対して当然すべきことを拒むこと)です。あなたは奉仕をしながら識別しなければなりません。奉仕を霊性修行(サーダナ)と見なさなくてはなりません。

他人を喜ばせるためにセヴァをするのはいけない

奉仕は神実現への道であるということを信じるべきです。奉仕活動は、サティヤ サイのために着手するものではなく、社会のために着手するものですらありません。奉仕活動は、純粋に、元来、あなた自身のためにあるのです。あなたがセヴァに着手するのは、あなた自身の人生を変容させるためです。セヴァという手段を通して唱名(ジャパ)や瞑想(ディヤーナ)の成果を手に入れることができます。あなたは、同胞を幸せにすることで、神を幸せにしているのです。

あなたが行うセヴァは、強制的にさせられているという感覚で行うべきではなく、さらには、他人を喜ばせるために行うべきでもありません。セヴァは、真心のこもった、自然に湧き上がるものであるべきです。セヴァ活動を計画するときは、州と州を比較しようとしてはなりません。どこかの州が村で何かの仕事を始めたからといって、自分たちも同じことをすべきだと思ってはなりません。何であれ、自分たちの義務だと感じること、自分たちの働いている地域で必要とされていることを行いなさい。自分と他人を比べることなく、真心を込めてそれを行いなさい。

欲望に限度を設けるプログラム

欲望に限度を設けることと結び付いたプログラム(Ceiling On Desires略してCOD、節制のプログラム)があります。このプログラムは資金を集めるために立ち上げられたわけではないということを、理解しておかなければなりません。このプログラムの目的は、お金、時間、食べ物、他の資源の浪費を抑え、それらすべてを人々の安寧のために使うことにあります。節制して蓄えたお金をサティヤ サイ オーガニゼーションのためにとっておく必要はありません。他の人々の役に立つように、あなたが選んだ最善の方法で使って差し支えありません。時間を無駄にしてはなりません。時間を無駄にすることは人生を無駄にすることです。時間は神です。純粋な無私の精神でセヴァ活動に従事することにより、あなたの自由になる時間のすべてを聖化しなさい。

節制プログラムの目的

今日、人は不必要なおしゃべりにふけり、無意味な行動をとることで、不必要な、好ましからざる事柄に時間を浪費しています。こういった行動すべてにおいて、人は身体のために時間を犠牲にしているのです。そうする代わりに、時間を自分の召し使いにしようと努めるべきです。これは、時間を善い思考と善い行動をすることに費やすという意味です。日々の生活の一瞬ごとに、

「私は時間をどう活用しているか? これは善い目的のためのものか、それとも悪い目的のためのものか?」

と自問しなければなりません。

同様に、食物についても自問しなくてはなりません。

「私は必要な分だけ食べているか、それとも、必要以上に食べているか? 私は食物を無駄にしているか?」

お金に関しても同様です。

「私はこのお金を自分の利己的な必要のために使うのか、それとも、自分の名声や評判を高めるために使うのか、それとも、自分のエゴや虚栄心を満たすために使うのか?」

ひとたびこれらの質問への答えを探しはじめるなら、それに勝る霊性修行(サーダナ)はありません。

以上が、節制プログラムの目的です。サティヤ サイ オーガニゼーションのためにお金を集めることは、決してこのプログラムの目的ではありません。その目的は、自分のお金を他の人々と分かち合うようあなた方を奨励すること、人生を聖化してくれる善良で高潔な目的のために余剰財産を活用する機会をあなた方に与えることです。

人には三種の力が与えられています。身体の力、精神の力、お金の力です。これらはすべて、供犠(ヤグニャ)として捧げるべきであると言われてきました。この犠牲は神に捧げるものではありません。あなたに身体と心(マインド)を授けたのは神なのですから、神は身体も心(マインド)も必要とはしていません。さらに、神はあらゆる財産の源でもあります。神があなたの財産を必要としたりするでしょうか? あなたの財産を神聖な目的のために使いなさい。このセヴァのプログラムは、あなた方の生活を聖化して価値あるものにする機会を供給することを意図しているだけです。それは犠牲の精神を育てるということです。

すべての奉仕活動の根本的な目的を理解せよ

ランカーでシーターを見つけ出すことは、ラーマの能力以上のことだったのでしょうか? なぜラーマはハヌマーンを遣わす必要があったのでしょうか? ラーマはハヌマーンに探索させたかったのです。そうすることで、ラーマはハヌマーンの信愛と誠実さと信仰心を世に示すことができたからです。これはラーマの恩寵の一例です。それと同じく、サイは、自分でやりたいと思ったら、どんなに多くのことでも、何でも自分ですることができます。この試みはサイのためにあるのではありません。これは、SSOの会員たちが奉仕をする機会を手に入れて自分自身を救うことができるように、このSSOを通して行われているのです。これらの奉仕の道は、サイのためではなく、あなた方自身がよい評判を得るために与えられている、という根本的な真理を理解するよう努めなさい。

もし人々がこの奉仕プログラムについて誤った考えを抱いているなら、その疑いを晴らし、本当の目的を説明するよう努めなさい。たとえば、この節制プロジェクトは、私の六十歳の降誕祭のために始めたのだと言う人々がいます。それは間違った考えです。そのような人々には、そうではないということを伝えなさい。サティヤ サイは何も必要としていませんし、何もあなた方に要求してはいません。私たちのアイデアは、村が恩恵を受けることができるよう、何か開発プログラムに着手すべきだということです。そのアイデアが、現在さまざまな形で無駄にされているお金を節することであり、そうすれば、何か善いことをすることが可能になるかもしれないということです。何にもまして、あらゆる奉仕活動の根本的な目的は、人間の状態から神の状態へと変容をもたらすことです。あなた方のハートを敬虔(けいけん)な思いで満たしなさい。そうすれば、あなた方の自発的な奉仕は意味のあるものになるでしょう。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.17 C16