サティヤ サイババの御言葉

日付:1984年11月23日
場所:プールナチャンドラ講堂
ババ様の五十九歳御降誕祭の御講話より

本当の誕生日

彼は私たちをすぐ近くに置き、
私たちがそれを喜んでいると、
私たちのハートに別離の悲しみへの不安の種を蒔(ま)く
彼は、私たちが、神の遊戯に絶望し、
嘆き悲しんでいると、
私たちにお腹の側がよじれるほどの笑いを
たっぷりと与える
彼は、私たちが彼を賛美して波に乗っていると
それをひやかして私たちの慢心をちくりと刺す
彼は、私たちが「恐れるな」という恩恵に乗じて、
かなり自由に歩き回っていると、
困難に次ぐ困難を山と積み上げ、
黙って通り過ぎていく
私たちは、背を向けることも、前に進むこともできない
こうして、
パルティにいる彼は、
この世を刺激に満ちた状態に保っている
今回は、誰が我らのために
彼の神秘を解くことができるのか?

人間のハートの空洞という崇高な空間(アーカーシャ)に、神は太陽の光が影と共に存在するように、真我の原理と共に存在しています。光と影はつがいの鳥です。光は影を引き起こし、影は光を招き入れます。というのも、影は光と隣り合わせだからです。影は光の存在を必要とします。光と影は根本的に不可分のものです。

それと同じように、ジーヴィ(個人の自己)とブラフマン(普遍的な自己)も、一つの不可分の存在として互いに結び付いています。ジーヴィは影のようなものであり、ブラフマンの中に、ブラフマンを通じて存在し、同一の神の栄光を帯びています。すべての人はこの同一性に気づかなければなりません。

肉体は馬車であり、馬車の御者はブッディである

というのも、光は一つですが、影は多種多様だからです。一なるものは、多の中に、つまり、多数のジーヴィ〔個人〕の中に映っているとき、それぞれのジーヴィの中に真我として現れて、何の影響も受けることなく、目撃者として照覧しています。アートマ(神なる真我)は永遠です。真我は真理です。しかしながら、真我は肉や骨や皮膚によって封じられているので、人間は外側を覆っているものが至福の源であると思い込み、内側の芯がその源であるとは思っていないのです。

ですから、自分自身に対する人間の第一の義務は、鞘(さや)を突き破って、アートマだけが与えることのできる高次の至福を得ることなのです。誰も皆、力の限りを尽くして、自分の内側にある宝である「一つにする原理」に到達する努力をしなければなりません。これはすべてのサーダナ(霊性修行)の中で最も適切なものであり、そこへの接近を達成するためのプロセスです。なぜなら、サーダナとは、目的とするものを得るための試みと努力を意味するからです。

真理を欠いた行いは、サーダナと呼ばれるに値しません。アートマは普遍なる永遠の真理であり、そのため、特定のものや、はかない世界を探しても、手に入れることはできません。神はあなたのハートの中で輝いていて、ハートの中でのみ獲得することができます。

肉体は馬車です。御者はブッディ(知性)の原理です。五感は馬たちです。馬たちを規制して抑制する手綱はマナス(心/マインド)です。心が目的を定めないまま揺らぎ、さまよっていると、馬たちは御者であるブッディ(知性)をも危険にさらして、好き勝手に乱暴に走ってしまいます。

発言と英知とアートマの一体性を体験せよ

発言は感覚器官の重要な機能ですが、心の気まぐれに仕えてしまいます。ですから、人は心をコントロールし、感覚的な快楽を求める貪欲さで心を汚さないようにしなければなりません。

また、心は、「イエス」と「ノー」の波に翻弄されるべきではありません。心はブッディ〔知性〕の仲間として行動しなければなりません。心のためになる発言、知性のためになる心、これが最高の平安であるプラシャーンティをもたらす方法です。

そして、さらにこの点に注意しなさい。ゆっくりと着実に、知性をアートマの方に向くよう指示していくことです。心と共にある発言、知性と共にある心、そして、アートマに照らされた知性――これは、あなたが人間の本当のゴールに到達することを確実にします。

アートマは永遠です。アートマは、真理という、永遠であり空間と時間と因果の制限を超越するものを顕現させます。真理が、過去から現在を経て未来に至る時間の経過によって影響を受けることはありません。

グニャーナ(霊的英知)も、時間の経過によって修正されたり、明らかにされたりすることはありません。実際、英知は真理であり、真理は英知です。ですから、あなたは発言と英知とアートマの一体性を体験するために最善の努力をする必要があるのです。

神を求めて走り回る必要はありません。なぜなら、あなた自身が神だからです。神はあなたのハートの中に住んでいます。

このすべては神に包まれている
このすべては神である
すべてのものは神である

神は万物の原動力です。この事実を固く信じなさい。マッチ棒の中に潜んでいる火のように、神性は人間の中に潜んでいます。マッチ棒の中の火は、マッチ箱の側面で擦られたときに顕現します。それと同じように、ジーヴィがデーヴァ(神)に接触すると、グニャーナの炎が英知の光を放ちます。

人はどのようにしてその英知の経験を味わうのでしょうか? それはどのような形で生じるのでしょうか? 賢い人は、誰のことも憎みません。誰かを軽蔑したり、責めたり、傷つけたりしません。何が人に人を愛するよう促すのでしょう? 愛したい、愛されたいという衝動は、すべての人の中にあります。ですから、あなたが誰かを愛することを否定するとき、あるいは、あなたが誰かを憎むとき、あなたはその相手だけでなく、普遍の原理、神性そのものを傷つけることになるのです。

無執着の助けになる行いをする

あなたが感じたり行ったりすることは何であれ、神への捧げ物であり、神に向かって流れるものであると知りなさい。ですから、慎重になりなさい。神が受け取らないような悪い考えや言動を捧げてはいけません。その代わりに、聖なるもの、純粋なものを捧げなさい。これはあなたの義務です。それは自己満足〔真我が満足すること〕を確実にします。自己満足は自己犠牲への道を開き、自己犠牲は自己実現〔真我顕現〕をもたらします。

このすべてのプロセスは、信心にかかっています。自己満足、自己犠牲、自己実現、これらはすべて、信心にかかっています。信心が渇望を決め、渇望が果実を決め、行いが到達可能な段階を決めます。なぜなら、行いの誠実さは道の純粋さを促進し、道の純粋さは英知の正当性を決め、真の英知は神性そのものであるからです。

行い、振る舞い、生き方――これらを規律に沿わせ、高めなければなりません。欲望に縛られた心が、どうやって満足して休むことができますか? どうやって犠牲を歓迎することができますか? それでも、人間は無執着と捨離の助けとなる行いだけをする必要があります。

ある帰依者が、創造主であるブラフマー神に尋ねました。

「あなたは誰のために、黄金の山、メール山を生じさせたのですか? 捨離を実践している人は黄金とは関りはなく、黄金を欲しがる人はメール山一つでは満足できません! たとえメール山が千あったとしても、それはただその人にもっと欲しいと思わせるだけでしょう!」

これが欲望の本質です。欲望は果てしない勢いでどんどんと増えていきます。欲望を抑えることは、霊的な平安を達成するための唯一の手段です。

愛はまさしく生命を支える呼吸であり、人生の唯一の目的である

正確には、平安とは何でしょう? 平安とは、五感が支配されて落ち着いている状態です。

サマットワム ヨーガハ ウッチャテー
――平静はヨーガなり

といわれています。人生は、サティヤ(真理)、ダルマ(正義)、シャーンティ(平安)、プレーマ(愛)という四本の柱に支えられるべきです。この四本柱は、喜びと悲しみという激動の波が打ち寄せる人生を、しっかりと支えてくれます。この四本のうち、プレーマ〔愛〕は重要な支えです。というのも、愛はまさしく命を支える呼吸であり、人生の唯一の目的だからです。神を愛し、人生における数々の転倒を乗り越える強さを身につけなさい。愛は運命の打撃を一掃します。愛は親と子を和合させ、結び付けます。愛は体を聖化し、栄光を与えます。

実際には、主体世界と客体世界という二つの世界があるのではありません。これらは一つの世界の両面にすぎません。五感から得る喜びは誰のもので、誰から生じたのでしょうか? 体でしょうか? それともアートマでしょうか? 五感は道具にすぎません。五感は心によって働かされ、使われます。心はインドリヤ(感覚器官)を操作するので、インドラと名付けられているのです。心は自分の気まぐれではなく、ブッディ〔知性〕が決めた命令に従う必要があります。ブッディが内なるアートマに向かうとき、ブッディは啓発されます。

愛の化身たちよ!

肉体が生まれた日に注目し、大げさに祝って利己的な目的を果たしてはなりません。あなたのハートの中に純粋な気持ちを現し、あなたの思考の中に神の原理への固い信心を植え付け、他人に奉仕しようという無私の熱意を養う日、その日こそ、本当の誕生日として祝われるに値します。セヴァ(無私の奉仕)は、神の遍在、ヴィシュヌ〔遍満する者〕としての神の経験を、あなたに与えることができます。

一方では多くの州で洪水やサイクロンによって引き起こされた大惨事に人々が苦しみ、もう一方ではいくつかの州で何万人もの人が長引く干ばつによって引き起こされた飢饉に襲われています。たとえば、ネッルール県では多くの人が大変悲惨な目に遭い、損失を被っています。現地で適切なセヴァ活動をしなさい。近隣の県の帰依者も、この活動に加わらなければいけません。なぜでしょう? 必要があればどこででも、呼び声が上がればいつでも、セヴァをしたいという気持ちが込み上げてきて、「セヴァを提供しなさい」とあなたに指示せずにはいられないからです。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.17 Ch29