サティヤ サイババの御言葉

日付:1984年12月25日
場所:プラシャーンティ ニラヤムのプールナチャンドラ講堂
クリスマスの御講話より

神の愛を手に入れなさい

神聖なるアートマの化身たちよ! 人は、自分の本性を忘れて、感官の求める薄っぺらで束の間の快楽や世俗的な欲望を追求して楽しむことに人生を費やしています。いくら世俗的な快楽を享受していても、人は平安を確保しているでしょうか? いいえ、していません。結局、人は不満と絶望の中で人生を終えています。人は、自分の中にある純粋で永遠で無限で神聖な真実〔真理/サティヤ〕を無視して、動物的、悪魔的な特質を育てています。

このように自分の本性を裏切って人生を無意味なものにしてしまう理由は何でしょう? それは、抑制と正義に基づいた、生活を律する規定を無視しているからです。昔から、「ダルマはすべてのものの根っこであり、最高の美徳である」と言われています。道徳はダルマに付随するものです。道徳とは、単に日常において一定のルールを守ることを意味するのではありません。道徳とは、まっすぐで神聖な、正しい行いの道を貫くことです。道徳は善行の花です。道徳は人間の偉業の頂点へと到る王道です。共同体の名誉は道徳にかかっています。道徳がなければ共同体は衰退します。共同体を築くも汚すも、もっぱら道徳しだいです。

真の愛には私心がない

人間としてふさわしい人格は、道徳心の強い人に最大限に現れます。人格という言葉は、自分の中に隠れている神性を自らの行いによって引き出して表している人だけにふさわしいものです。ただ人間の姿をしているだけでは、人間にふさわしい人格は得られません。大切なのは振る舞いです。真の神性が表れている真の人間と見なすことができるのは、規則正しい生活をしている人だけです。マヌ、ナラ王、ラグ王、バリ王、ハリシュチャンドラ王といった歴史上の偉人たちは、人間の卓越性が最大限に表れていたお手本でした。イエスも、人間の持つ完璧さが表れていた人物の一人です。預言者モハメッド(ムハンマド)も、正義と霊的努力の厳格な生活を送った歴史的人物です。

愛はダルマの別名です。真の愛は、かけがえのないものです。真の愛には私心のかけらもありません。真の愛は変わりません。真の愛は清らかで穢れがありません。真の愛は常に増大しており、決して減少しません。真の愛は自然に起こります。神の愛にはそうした特性があるのです。神の愛は自然に起こり、私心がなく、揺るぎなく、常にいっぱいに満ちています。普通の人間の愛は、私心に基づいた考えから起こります。普通の人間の愛は、時間や状況の変化によって変わりがちです。そのような愛に浸っている人には、神の愛の大きさを理解したり悟ったりするのは困難です。イギリスの哲学者ベーコンは、神の愛はいかにすべてを包み込む不変のものであるか、そして、それはいかに普遍的な愛へとなり得るかを指摘しています。

万人への比類なきサイの愛

愛は真実〔真理/サティヤ〕というマントを身にまとっています。そして、真実と結びついている人は、いつも若々しくて元気です。ウパニシャッドは、真実を守る誓いを立てている者は老いを知らないと明言しています。聖書にも、真実を厳守することによって体が強化されると記されています。真実は言葉だけにとどめるべきではありません。真実は行動で表さなければなりません。預言者モハメッドによれば、言葉と行動に真実がある人だけが、真の人間として尊敬されるのです。仏教でも、性別や国に関係なく万人が真実に基づいて生きなければならないと定められています。

あなたがこのことを信じるかどうかは別にして、私はあなた方に、真実、完全なる無私、普遍性、自発的な愛の発露はサイだけに見られるものであり、他のどこにも見られない、と言わなければなりません。サイに私利私欲は微塵もありません。サイに動機はありません。サイはサーダカ(霊性の求道者)を、その人が当然受けるべき報いに応じて扱います。サイは、サイを侮辱する者さえ愛し続けます。たとえ誰かがサイのことを忘れても、サイは誰のことも忘れません。しかし、サイは時折、サイを忘れたり、サイがやめなさいと言ったことをしたり、サイの理想を無にしたり、サイを冒涜したりした人を無視しているように見えることもあるでしょう。そのため、人々の中には、スワミは誰々を怒っているとか、誰々に不満を持っていると思う人もいるかもしれません。サイが誰かと会うことや話すことを避けるのには、理由があります。私は、サイの指示を尊重しない人やサイの理想に従わない人に話をして私の言葉を無駄にしたくないのです。私は、私の言葉を何とも思わない人には話したくありません。だからといって、私がその人たちに対して愛がないということではありません。

神の愛の特性を理解するよう努めなさい

愛は、妬みや憎しみの力には、それがどんなに強力であっても屈しません。愛はそれらに打ち勝ちます。仏陀が行脚していた時、剣を持った鬼女が立ちはだかってきました。「おお、仏陀よ! おまえの愛は、今日、私の妬みに屈せねばならない。おまえの命は今日で終わりだ」仏陀は微笑んで鬼女に返答ました。「私は妬みにも憎しみにも屈しない。私は賞賛にも非難にも嘲笑に影響されない。私は、私にそのような悪意を抱くそなたをも愛す」その言葉を聞くと、鬼女は鳩となって消え去りました。

他人を憎む人は、最終的に自分の憎しみに飲み込まれてしまいます。妬みでいっぱいの人は、最終的に妬みで死にます。シェイクスピアの劇の一つの登場人物であるリチャードは、妬みでいっぱいでした。彼は、自分よりも優れた人、自分よりも見栄えのする人を見ることに耐えられませんでした。結局、彼は自分の嫉妬の犠牲となり、惨めに死んでいきました。インドの叙事詩にも似たような例があります。シヴァ神から「誰であれ手のひらを置いた相手は灰になる」という恩恵を得たバスマアスラ〔バスマ阿修羅/バスマースラ〕は、自分の頭に手のひらを置いてしまい、灰と化しました。

善良で敬虔な人生を追求する中で、人は多くの困難や妨害に遭うかもしれません。さまざまな疑念や疑問が不意に湧き出てくるでしょう。そうした困難に正面から向き合い、根気と不屈の精神で問題に立ち向かってこそ、実在の真の性質を理解することができるのです。何としてでも、困難や悲しみ、疑念や失望に圧倒されることを自分に許してはなりません。信念を持たなければなりません。自分に自信を持ち、神の愛の性質をよく理解しようと努めなさい。神の愛を確保することは、人としての一生の聖なる目的です。愛の持つ変容の力には限りがありません。聖パウロは、元はイエス・キリストを批判していましたが、イエスの愛によって、イエスの最も偉大な使徒へと変わりました。

人間の悪い行いは人類の信用を失わせる

人が善良で敬虔な人に反感を抱く場合、それは三つの要因のうちの一つか二つの要因が原因です。第一のカテゴリーにあるのは、神や善を信じておらず、そのため、善良なものや敬虔な人に何でも反対する人たちです。第二のカテゴリーにあるのは、自分の望みや願いが叶わないために神に反する人たちです。第三のカテゴリーにあるのは、生まれつき嫉妬深く、善いものは何でも許せない人たちです。これら三つのタイプの他に、第四のタイプがあります。それは、苦難や困難の時には神を思ったり神の恩恵を求めたりしますが、困難が終わったり、自分の望みが叶ったりすると、すぐに神を忘れてしまう人たちです。

元々は神であり、自らの中にアートマが内在している人間が、今、不義や悪事に手を染めて人類の信用を失わせているのは、残念なことです。人々が邪悪で残酷な行いにふけり、悪魔や野獣のように振る舞っていた暗黒時代には、何らかの言い訳があったかもしれません。しかし、科学技術が飛躍的に進歩して人々が自らを文明人と称している現代で、非人間的な行為がまかり通り、不正や忘恩が支配的であるならば、この者たちは人間なのか、それとも悪魔なのかと問わざるを得ません!

皮肉なことに、一方では巨大な殺傷兵器を積み上げて悪魔のような行為を行い、国家間の紛争を助長している政府が、国際会議では平和を希求しているというのが、現在の状況です。これに意味があるのでしょうか? 平和を希求する者が、なぜ紛争を助長しなければならないのですか? 本当に平和を願っているのであれば、平和を促進するような政策をとるべきです。

神は一なる者であることを万人が理解すべし

今、最も必要とされているのは、神は一なる者であるということをすべての人が理解することです。これはイエスやマホメットが宣言したことです。「アッラー」という単語の本当の意味は「宇宙のすべてを含有している一なる至高の存在」というものです。これはヴェーダの主要なメッセージです。

オーミッティエーカークシャラム ブランマー
――オームの一文字はブラフマンなり

あらゆる宗教の本質である真実は、神は一なる者であるであるということです。イエスは、神は父であり人の兄弟であるということを宣言しました。人の父親は二人はおらず、一人だけです。イエスが生まれた時、三人の賢人が一つの星をたどってイエスの生まれた場所にたどり着きました。生まれたばかりの赤ん坊を見て、三人は心の中でその神の子に頭を下げました。その場を発つ前に、三人は幼子について両親に次のように語りました。一人目の賢人は「彼は神を愛する」とマリアに言いました。二人目の賢人は「神は彼を愛する」と言いました。三人目の賢人は「彼は神である」と言いました。イエスに関するこの三つの声明の内的意味は何でしょう?

「彼は神を愛する」という第一の声明には、イエスは神の使いであるという意味が含まれています。使いは主人を愛することができますが、主人はそう簡単には自分の使いを愛せないかもしれません。第二の声明は「神は彼を愛する」と宣言しています。なぜでしょう? それは、彼(イエス)は神の子だからです。「彼は神である」という第三の声明は、イエスが述べた「私と私の父は一つである」という言葉を裏付けています。それは、彼には神の子として父の座を得る権利があるということです。父と子の一体性が、第三の賢者によって宣言されたのです。

すべての人は「神の使い」

これらの内的意味は、世界のすべての人間は神の使いであるということです。これはどういうことなのでしょうか? 人間が伝えるべきメッセージは何なのでしょうか? それは、人は悪魔ではなく神の使いであるということです。神の使いは神の教えを世界に広めなければなりません。行いが悪かったり、考えが悪かったり、間違った考えを説いたりする人に、神の使いを名乗る資格はありません。そのような人は、悪魔の代人と呼ばれるだけです。

今日から、あなたは「神の使い」として、神が象徴する清らかさと真実と愛を世界に示さなければなりません。あなたが清らかで道徳的な生活を送るとき、あなたは自分を「神の子」と見なす権利を得ます。神は愛の権化なのですから、あなたは神が象徴する愛に反することをすべきではありません。あなたは「神の子」にふさわしい資質を伸ばすべきです。

聖書には、イエスが弟子たちの足を洗ったことが記されています。弟子たちがその理由を尋ねると、イエスは「私はあなた方のしもべとして、あなた方の足を洗っているのです。こうすれば、あなた方は世の人々に仕えることを学べるからです」と答えました。そもそも、人は神の使いなのです。使いとしての使命を果たすと、人は自分が神の子であることを悟り、それから、神との一体感を得ます。

神の愛は無限で普遍的なものであり、人間の愛のように狭量で私心あるものではありません。スワミ〔ババ〕の愛は「理性を超えたもの」です。スワミの愛は無限であり、不変です。私は、私の愛を通して周囲のすべてに愛を促進しています。この愛に養われてきたあなた方は、その恩恵を自らなくしてしまうべきではありません。私は何も求めません。誰にも苦難を課しません。このような状況下で、もしあなたがスワミの愛の本質を理解して、自分を愛の化身に変えるためにスワミの愛を活用するなら、あなたは世界に手本を示すことになるでしょう。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.17 Ch30