サティヤ サイババの御言葉

日付:1985年12月29日
場所:ブリンダーヴァン
サティヤ サイ大学寮にて 食物に関する御講話⑧より

10種の浄性
~学生とサットウィックな純粋性~

徳を有しない息子
目的をもたない教育
公正さに欠ける生活
道徳のない社会
そして、月のない夜は
世界にとって無価値である

親愛なる学生の皆さん!

道徳教育はどの学生にとっても人生においてまず第一に必要不可欠なものです。サンスクリット語で人柄は、ポウルシャム――プルシャの印、であると述べられています。「人柄」とポウルシャムには同じ意味があるかもしれませんが、この二つは内的意味をもつ言葉なのです。内的意味を知らない人々は、この二つの言葉を軽々しく使っています。自らに内在する、目には見えない神の原理を明示している人のみが、自らをプルシャ(人)と呼ぶ資格をもちます。人は自らに内在する神の力を現すべきです。

サンスクリット語の言葉ポウルシャは、道徳的振る舞いに関係する性質を意味します。英語の言葉「person」(パーソン、人)は、ラテン語の言葉「persona」(ペルソナ)から派生しました。紀元後、「persona」(ペルソナ)という言葉は、人の姿をまとった神を指すために用いられるようになりました。その後、この言葉は、本来は神である人として、すべての人間を指すようになりました。

人間の第一の義務

ポウルシャという言葉は、通常、憎しみ、怒り、力といった意味で用いられています。しかしながら、その本当の意味は、プルシャに付随する性質というものです。プルシャトヴァとは、衣服や身体的特徴といった外側のものを指しているのではありません。聖者ナーラダは、プルシャをプマーン(至高の人)と呼び、プマーンを認識する者はだれもが神の至福に満たされると述べました。それゆえ、プルシャという言葉が指すことのできるものは、神のみなのです。

ですから、人生において自らの内にある神性を顕すことは人間にとっての最大の義務です。人の一生の物語は、子ども時代や成長、業績、思考、理想からなると考えられています。しかし人間の一生は、道徳的水準を基盤としているのです。ネーティNeethi(徳性)という言葉は、サンスクリット語のニッティヤ Nitha に由来します。ネーティとは、「正しい行い」を意味します。ネーティは人を崇高なものへと導く道なのです。善い性格、想念の清らかさ、無私の犠牲、これらはみなネーティに含まれます。ネーティはすべての善い行いを内包します。「道徳に専心する社会のみが真の社会である」という格言があります。先人たちはネーティ(徳性)を社会の基盤とし、それなしには社会が滅びてしまうと見なしていたのです。徳性を伸ばすためには、各人の中にある神性が顕されなければなりません。この目的のためには、身体も清らかであることが必要であり、それゆえ健康が非常に重要となります。

Health(健康)という言葉は、アングロ サクソン語のHelig を語源とし、パリプールナム(完全体)、すなわち内なる魂のことを意味します。達成すべき完全体とは何でしょうか? 身体は、感覚器官、心(マナス、マインド)、知性、そして内在の魂から成り立っています。「完全体」とは、これらすべての要素が一体となるべきであることを意味しています。心は完全に充足した状態であらねばならず、あちらこちらに跳ね回ったりぶつかったりすべきではありません。混乱や絶望の付け入る隙があってはなりません。

心を訓練するためにサーダナを実践せよ

そのような心の状態に到達するためには、すべての事象とすべての状況の意味を理解する必要があります。たとえば試験に落ちた場合でも学生は打ちひしがれるべきではありません。それよりむしろ「適切な学習をしなかったのではないか、あるいは問題を正しく理解していなかったのではないか」と失敗の原因を振り返るべきなのです。試験の失敗は自らの準備不足のためだったとわかれば、そのあと、より良くしようと決心することになります。道徳性と精神力を養うために、人は心を訓練するためのサーダナ(霊性修行)を実践しなければなりません。人は、この目的のために一〇種類の浄性を磨いていくべきです。

1番目は住居の浄性です。あなたがたが住み、学ぶ部屋を清らかな雰囲気で満たす必要があります。飾る絵画やそのほかの物も、それを目にする者が平安と清らかな思いで満たされるものでなければなりません。悪い想念や興奮をかき立てる物を置くべきではありません。部屋は清潔にして、不潔な物がないようにしなければなりません。

2番目は家族における浄性です。家族の間には相互理解と協力、調和の感覚がなければなりません。家族の中に悪い雰囲気を生み出す争いがあってはなりません。調和的な雰囲気は、あなたに真の心の平安をもたらすでしょう。

3番目に必要とされるのは浄性の食物です。つまり、口にする食物はすべて、過度に酸っぱかったり、苦かったり、熱かったりしてはなりません。あなたがたは、魚や肉のような激性の食物を避けなければなりません。好ましい浄性の食物であってさえ、過剰に摂取すべきではありません。浄性の食物だからといって食べすぎる人々もいますが、たとえ浄性のものであっても過剰になれば激性の性質をもたらします。胃が軽い状態で食卓に着き、同じく軽い状態で食卓を離れるときのみ、浄性の食物は浄性となるのです。軽い胃で食卓に着き、胃を重たくして席を立てば、摂取したものは鈍性となってしまいます。

4番目は浄性の飲み物です。摂取する飲み物もすべて浄性でなければなりません。水があるからといって無差別に飲むべきではありません。清らかな水であるべきです。酒類は避けなければなりません。

5番目は思いと感情の浄性です。これは非常に重要です。学生はこの局面を無視する傾向があります。思いと感情が清いときにのみ、清らかな部屋や良い家族、清らかな食物の恩恵に浴することができるのです。

6番目はヴィジョン(見方、想像、視覚)の浄性です。浄性の感覚や想念を深めていきたいのであればヴィジョンは清らかなものでなければなりません。すべてのスリシュティ(創造)はドリシュティ(見ること、見たこと)に基づきます。間違ったヴィジョンを思い描くときにのみ、間違った思いを抱くのです。年上の女性は皆、自分の母であり、年下の女性は皆、妹であると見なすべきです。そのような清らかな思いに満たされるときにのみ、清らかな感覚をもつことができます。あなたがたが学生であるゆえ、このことを言っておく必要があるのです。だれかがあなたがたの母親や姉妹を邪な目で見つめているときに、自分がどれほど不快な思いをするか想像してごらんなさい。このことを認識して、あなたがたは女性に対して清らかな感覚を抱かなければなりません。また、他人を容認しないというような過ちを犯してはなりません。

7番目として、あなたがたが読むすべての書物、書く内容のすべてが清らかであるべきです。これは学習に関連するサーダナです。もしも、清らかではないものを読んだり書いたりすれば、あなたがたの心はそれに覆われてしまいます。良い書物は良い心(マナス、マインド)を作ります。物理学や化学、そのほかの教科に関してあなたがたが学ぶ書物は人格に影響を与えません。しかし、文学書に関しては必ずも良いものばかりとは言えません。学習において、もしも不適切な書物が与えられた場合には、単なる教科書として扱い、人生を導く書物というほどの大きな価値を与えてはなりません。

8番目は清らかな浄性の奉仕です。奉仕に関して、何が浄性で何が激性なものなのかを見極めるべきです。私たちは外に出かけて道路を掃除し、村に道を造り、井戸を堀ります。そして、それらすべてを社会への奉仕として行っています。しかし、私たちが為すべき奉仕は、人々に真の幸福を与えるものでなければなりません。あなたがたは、「社会活動」という名において病院へ行き、患者に接します。これは、真の奉仕ではありません。あなたがたが奉仕したいと望む人々すべてを神の具現者として見なすべきです。貧窮した人や身寄りのない人を助けに行くことは、神に奉仕を捧げることになるのです。ナーラーヤナには二つの姿があります。一つは、「ラクシュミー ナーラーヤナ」であり、もう一つは「ダリドラ ナーラーヤナ」(貧しい姿をした神)です。ラクシュミー ナーラーヤナは富に満ちています。ラクシュミー ナーラーヤナは多くの人々を救うことができますし、大勢の人々が仕えることでしょう。しかしダリドラナーラーヤナにはだれも仕えようとしません。私たちはそのような人にこそ浄性の奉仕をすべきなのです。

9番目はサーダナの浄性です。サーダナとは霊的修行です。サーダナは浄性なものでなければなりません。ハタ ヨーガを実践する人々もいるでしょう。クンダリニー シャクティを目覚めさせることに固執する人々もいます。他人に危害を与えるために悪霊に祈願する人もいるのです。これらの方式は、まったくサーダナとは言えません。個人はチット(純粋意識)であり、神はサット(永遠の絶対実在)です。サットとチットが融合したとき、あなたはアーナンダ(至福)、すなわちサット・チット・アーナンダを得ます。これを認識するためになされるサーダナのみが、真のサーダナなのです。サットはどこにあるのでしょうか? サット、すなわち神はすべての人々の中にあるのです。それゆえすべての人を神と見て、すべての人に仕える覚悟をしなければなりません。親類知己と通常どおりに付き合うこと、そこには何の誤りもありません。「唯一なるものが多の中にあまねく行き渡っている」という精神のもとにサーダナをすべきだということなのです。このプロセスにおいて、愛の感覚を育まなければなりません。愛を育むこと以上に崇高なサーダナはないのです!ウッダヴァは、グニャーナ ヨーガ(知識と英知)の道の達人でした。ウッダヴァは、ゴーピカー牧女)たちに英知の道を教えたいと思い、クリシュナを訪ねました。クリシュナはウッダヴァにこう告げました。「ゴーピカーたちは、私を完全に信愛しています。私への信愛がゴーピカーらの人生の基盤であり、その信愛は私のハート(フルダヤ)に届いています! ゴーピカーたちの清らかさと信愛は輝く光のようです!

あなたは、そのような帰依者たちのハートを理解することができずにいます。私はゴーピカーたちのハートに完全に安置されているのです」。ウッダヴァは、無知で文盲のゴーピカーたちが神を理解できるものなのかと怪しみました。ウッダヴァの疑いを晴らすために、クリシュナはウッダヴァをレーパッレー(ゴーピカーたちの住む地)に遣わしました。ウッダヴァはゴーピカーたちにあいさつをして、こう告げました。

「あなたがたに、神を認識するための英知の道を教えてさしあげましょう」。ゴーピカーたちはウッダヴァのそばに集まりました。「私たちは、シャーストラ(経典)を学ぶことにはまったく関心がありません! 私たちに、クリシュナを悟るためのただ一つの絶対的な道を教えてください! 私たちは、何のヨーガも、ボーガ(ヨーガと対をなす喜びや経験)も、マントラも知りません。私たちにとってクリシュナがヨーガであり、ボーガであり、すべてなのです。ですから、どうぞ私たちにクリシュナに到達できる道をお教えください! ヨーガによって時間を無駄にしたくはないのです」。ウッダヴァは尋ねました。「あなたがたは、どのようにしてクリシュナと一体になり得るのですか?」あるゴーピカーが答えました。「もしもクリシュナが花であるなら、私はクリシュナのまわりを飛び回る蜂になります。もしもクリシュナが木であるのなら、私はその木に絡みつく虫となりましょう。クリシュナが山であれば、私はその頂から流れ出る川となります! クリシュナが果てしない空ならば、私は小さな星となって天空で瞬きます。クリシュナが深い海であるのなら、私は小さな流れとなって海に融けこみます。これが、私がクリシュナと一つに融合する道なのです」。別のゴーピカーはこう答えました。「クリシュナが花であるのなら、私は蜂となって花の蜜のしずくを余さず吸い続け、その甘露を味わいます! 私たちは、そのようにして神のもとに行くのです」。このように、霊性修行とは、山や木や花、海、すべてのものを神の顕れと見なすことなのです。

10番目は仕事や職業の浄性です。あなたはどのような仕事をすべきでしょうか? 仕事は、国や社会に役立つものであるべきです。あなたがたは、国のおかげで生活の糧を得ることができるのです。そのお返しとして、自分が国に何をもたらし得るかを考えなければなりません。「奉仕とは何なのか? 私が社会のために役立てることとは何だろうか?」と自問すべきです。あなたがたが行うどの仕事にも、何らの非真実、不公正、欺瞞、邪悪な動機がないように注意しなければなりません。

現在のカルマによって誕生からの自由を確保せよ

これらがあなたがたが人生において遵守しなければならない浄性のものです。正しい行為に従事するなら、カルマ(行為)の結果に束縛されることはありません。あなたがたは過去のカルマに従って現在の人生を得ました。そして、現在のカルマによって確実に輪廻から解き放たれることができるのです。愛を通じて信仰が培われます。信仰と熱意によって英知を得ることができます。英知によってサーダナ(霊性修行)を深め、サーダナを通じて目標に到達するのです。それゆえ、サーダナを実践するためには英知が必要とされ、英知を得るためにはシュラッダー(信仰と熱意)が必要とされます。そして、信仰と熱意を得るためには、愛を育まなければなりません。すなわち愛こそが道であり、そのためにあなたがたに必要とされているものが、感覚のコントロールなのです。少しずつ欲望を滅していくならば、感覚をコントロールできるようになるでしょう。どの学生も皆、社会のために模範となって奉仕することができるよう準備を整えるようにしなさい。学友間の仲たがいや、憎しみや敵意の入り込む隙のないようにしなさい。自分の義務を果たし、品行によって両親を喜ばせるべきです。自分の学校に信用が得られるよう努力しなさい。そして何よりも、同胞の力になることで神の恩寵を得ることができるよう努めなさい。これらこそが、本当の教育に値します。さまざまな学問分野が川のようなものである一方、霊的な知識は海です。それぞれの川が海に合流するとき、すべての種類の知識は霊的な知識に溶け込みます。

皆さんは自分の付き合う仲間について心に留めておかなければなりません。カビールは言いました。「私は善人にも悪人にも頭を下げる!」。カビールは問われました。「善人に頭を下げるのは理解できますが悪人に頭を下げることにはどんな意味があるのですか?」。カビールは答えました。「悪人に頭を下げるとき、私はどうか私のいる所から出て行ってくださいますようにと言いながら頭を下げているのです。善人には、どうか私の所に来てくださいと言って頭を下げます!」。皆さんは悪人との親交を避け、善人との親交を深めなければなりません。善人との交わりは純粋なヨーガです! 皆さんがこうした種類のヨーガを追及し、皆さんが交わる人すべてに幸福をもたらすことを、私は望みます!自分のすべての悪い思いを取り除き、すべての悪い性質を捨て去り、両親に対する務めを果たし、社会に無私の奉仕を行うよう努めなさい。そして、そうすることによって、皆さんの人生をまっとうし、神の恩寵を得なさい。これが皆さん全員に向けた私の祝福です。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.18 C31