サティヤ サイババの御言葉

日付:1986年3月7日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
人間的価値教育ワークショップ開会式の御講話より

手首につけるマントラ

WATCH(ウォッチ)という五文字の英単語は、五つの基本的な人間的価値である真実・正しい行い・平安・愛・非暴力を促進するマントラとして、サーダカ〔霊性修行者〕の霊的進歩を促進するパンチャ アクシャリ マントラ(五文字のマントラ)である「ナマッ シヴァーヤ」〔シヴァ神に帰依し奉る〕と同じくらい強力なものとなり得ます。

三つのカテゴリーの人々が、人間社会を支え、維持しています。そのカテゴリーというのは、作る人・守る人・導く人、すなわち、労働者・兵士・教師、つまり、カルシャカ、ラクシャカ、シクシャカです。社会は、衣食住を作る人々が熟練していて活動的である時、そして、法と秩序を守る人々と知識の最前線にいる人々が国を愛していて技能を身に付けている時、そして、子供の目を開かせて生まれつき持っている豊かな才能を開花させる人々が愛にあふれて理解力がある時、初めて強くなることができるのです。

この三者は、三脚椅子の三つの脚のようなものです。しかし、ただ脚が三つあるという構造であるだけでは、三脚椅子は役に立つ有能な椅子にはなれません。この三つのカテゴリーに関心を持ち、かつ、三つのカテゴリーのお世話になっている人々が、三脚椅子の上に載せる厚板を形成するのです。その厚板の座席はネジでしっかりと三つの脚に固定されていなければいけません。そのネジは、平安と愛と真実であり、ネジを回してしっかりと固定することは、進歩と繁栄と安全と和を求める熱意、そして、人間的価値である真実・正しい行い・平安・非暴力・愛を受容して促進しようという真摯な努力です。これら五つの価値は、経典に述べられているプラーナという五つの生気と同じくらい、満ち足りた価値のある人生のために必要不可欠なものです。

教師の役目

これらの価値を体現し、社会に定着させるのは、教師です。それは教師の好機であり、義務であり、教師という職業の存在理由です。ですから教師は、他の二つのカテゴリーの人たちの有能さと優秀さに対する責任を負うことになるのです。教師は、生産者と守り手たちを形作って完全な者にする、という重荷を負わなければなりません。なぜでしょう? 世界の平安と繁栄は、教師にかかっているからです。つまりそれは、教師の性格、人格、技能、見解にかかっているのです。教師の努力の果報は、まさに、苦しみと楽しみ、悲しみと喜びという二極の苦難から解放されることです。「ヤー ヴィッディヤー、サー ヴィムクタイエー」(高次の教育は解放するものなり)とウパニシャッドは述べています。教師は自分を本の中に限定しているべきではありません。全世界が人間の教科書です。教師はその知識を吸収して伝え、全宇宙は神であり、真理であり、聖なるものであるということを体験しなければいけません。良い教師は永遠の学び手です。なぜなら、人間にとって、自然すなわちプラクリティは一番の教師だからです。

「プラクリティ」という単語は、通常、神の意志が投影されたものすべてをさし示すために、「自然」と訳されます。カルナータカ州の人は、プラクリティという単語を自分の体という意味で使っています。自分の健康状態が良くないことを伝えたい時、カルナータカ州の人は「私のプラクリティが良くない」と言います。プラクリティという単語が意味するものは、肉体だけでなく、行い、活動、気持ち、語る言葉、そして、それを左右し、体現させる動機も含まれます。教師は、ただ自分の言葉によって、あるいは、本を通じて教えているだけではありません。教師自身の態度や傾向、偏見や好み、用いているやり方や方法、教師自身の行いや習慣によって教えていることのほうが、ずっと多いのです。良い生徒は、教師が国に捧げる贈りものです。辛辣な言葉で人を傷つけない、自分の心が悪い思考を抱くことを許さない、といった教師の日常生活から、生徒は学んでいるのです。

教師は献身によって自分を高めるべし

かつてカーリダーサ〔古代サンスクリット語の大詩人〕が宮廷にいた時、皇帝ボージャは、ある高名な学者を同じくらい高名なもう一人の学者と競わせました。どちらも論破されないのを見たボージャ王は、両方の学者の教え子を一人招いて討論させ、教え子のすることを見て、どちらの師匠が優れているかを判断したらよいだろうと言いました。しかし、教え子も互いに相手を負かすことはできませんでした。師匠の教えの最終成果である教え子たちを見た何千人もの人々は、皆等しく二人の偉大さを賞賛しました。

大統領や首相がその地位まで登りつめたのは、発育期に彼らを育て、勇気と自信とリーダーシップの要素を植え付けた教師たちのおかげです。教師は、自分は弱いと自己非難したり、自分の職業は最後に仕方なく就く職業だなどと考えたりしてはなりません。教師は、自分の運命を嘆くことをやめなければいけません。教師は、五大価値に献身することによって自分と自分の職業を高めなければいけません。

腕時計のメッセージ

今では、誰もが腕時計をしています。腕時計の形、大きさ、値段は多種多様です。時計バンドの素材と値段もさまざまです。腕時計は私たちに時間を告げてくれます。また、腕時計は装飾品や装身具にもなってくれます。プッタパルティ村に初めて腕時計が入ってきた時、村は大変な騒ぎになり、誰もが驚きました。当時、私は九歳でした。私は、その奇妙な機械を腕にしている人たちのことと、手首に巻く革ベルトのことを、五行戯詩に書きました。今では、腕時計はすべての人の手首の一部になっています。ただ、腕時計をつけている人たちは、腕時計のメッセージを学んでいません。人の中に隠れている神性を目覚めさせるその潜在力を学んでいません。その名前、WATCH(ウォッチ)には、五つの文字があります! サーダカを神(シヴァ神)へと導くマントラ、「ナマッ シヴァーヤ」には、五つの音節、「ナ」、「マッ」、「シ」、「ヴァー」、「ヤ」があります。WATCHは「ナマッ シヴァーヤ」と同じパンチャ アクシャリ マントラ(五文字のマントラ)であり、もしそれを瞑想するなら、それは同様に意味深く、重要なことです。

WATCHの最初の文字は、「言葉(Word)をウォッチする」というサーダナ〔霊性修行〕を思い出させます。根拠のない噂話にふけったり、悪口やスキャンダルを広めたり、人を傷つけたり、自分を汚したりすべきではありません。口に出す前に、自分が言おうとしている言葉を吟味しなさい。それは真実か、それは人を傷つけないか、それは必要か? と。嘘を面白がったり、感情的になって人をけなしたり、といったようなことをしないようにと、口に警告しなさい。いかなる代価を払っても、真実を貫きなさい。これは人間的価値の根本です。

WATCHの二つ目の文字は、「行い(Action)をウォッチする」という、さらなるサーダナを思い出させます。一つひとつの行いが、あなたの道徳の向上をもたらすものであるよう、社会の安寧をもたらすものであるよう、油断せずにいなさい。つまり、道徳律、ダルマに従うということです。ダルマには、生来の本性という意味もあります。火は、暖と光を広げなければなりませんし、燃やすこともしなければなりません。これらは火のダルマです。これらがなければ、それはただの石炭です。甘くない砂糖はただの役に立たない粉です。匂いのしない薔薇はプラスティックの造花のようなものです。人間のダルマは、人類同胞を愛して人類同胞に奉仕すること、人を傷つけることなく真実を実践することです。WATCHの「A」は、一つひとつの行いの中にダルマをはっきりと示すようにと、私たちに教えているのです。ダルマは、もう一つの偉大な人間的価値です。

思考は生まれつき持っている平安を増大するものであるべし

WATCHの三つ目の文字「T」は、さらなるサーダナ、すなわち「自分の思考(Thought)をウォッチする」という三つ目のサーダナを表しています。前の二つを固く守っている間に自分が非難されたり賞賛されたりした時、自分の心が激しく反応したり、復讐心を抱いたりしないよう訓練するのです。なぜ根拠のない非難を気に病まなければならないのですか? 思考は、人が生まれつき持っている平安と平静を増大するものでなければなりません。平安と平静は生まれながらの権利です。思考は、不安や怒り、傲慢や妬みといった、人間の中核である神性と相容れないものを作り出すべきではありません。思考は、ウォッチして、注意していれば、もう一つの人間的価値である平安(シャーンティ)を促進します。平安は聖賢たちが勝ち得た宝石です。平安は慢心と貪欲のないハートに宿ります。

このパンチャ アクシャリ〔五文字〕のWATCHの四つ目の文字は、「性格(Character)をウォッチする」ようにと教えています。性格は人生の四分の三を占めるものです。サーダカは、先に述べた三つの価値を獲得するために、いつも注意深く自己管理をしていなければいけません。人はまさしく愛の化身なのですから、人の性格は愛に満ちた性格として現れるということです。思考と言葉と行いはどれも、愛から出たものでなければなりません。愛は、共同体を一つに束ねなければなりません。愛は、人は皆兄弟姉妹であるという気持ちを強めなければなりません。そして、拡大したいという切望を満たさなければなりません。愛は、人類すべてに届くもの、神に届くものでなければなりません。人がこうしたしっかりとした私心のない性格を欠いているなら、それは、明かりの灯っていない家、乳を出さない牛、風に流されて落ちていく糸の切れた蛸、偽造コインと同じです。あなたは真実を守っていますか? あなたは品行方正ですか? あなたは心が安らかですか? 愛があなたのあらゆる行いの動機となっていますか? これらがそのテストです。

ハートとそこから生じる気持ちをウォッチする

WATCHの五つ目の文字「H」は、「ハート(Heart)とそこから生じる気持ちをウォッチする」ようにと教えています。それは非暴力(アヒムサー)という人間的価値を思い出させます。ハートというのは、血液をきれいにして送り出す、握りこぶしの大きさの身体器官(心臓)のことではありません。ハートは、善い感情、悪い感情の出所です。ハートをウォッチしなければなりません。そうすれば、善い感情だけが出てきます。万物を自分の親族だと感じるために、ハートはすべての生き物を内包するまで拡大しなければなりません。「私の実体はすべてのものの実体である」という真実が、ずっと湧き出ていなければなりません。そうすれば、暴力という考えは決してハートに居場所を見つけることはできません。一つであるという感覚が競争や対決を生むことはできません。五つ目の人間的価値、非暴力は、Hという文字が示しているサーダナによって促進されるのです。

以上の五つの人間的価値が欠乏しているせいで、人類は大きな心配や災害に苦闘しています。朝刊は、殺人、虐殺、放火や強盗といった記事でいっぱいです。脳と心が、危険な程度まで汚されてしまっています。教育は、情報を提供すること、技術を向上させることだけを目的としています。教育は、道徳の退廃、低俗な欲望の昇華、五感の制御、霊的な洞察力の発育、という問題に取り組んでいません。人は、自分を人間の皮をかぶった動物に変えています。猿のヴァーリは、自分が犯した罪は無理もないことであり、猿の間では適切なことだとも言えるという事実にもかかわらず、自分はラーマに致命的な矢を打たれて痛手を負った、と主張しました。しかしラーマは、ヴァーリは見かけは猿だが正しいことも間違っていることも知っていた、だから、罰するに値する、と返答しました。現代人は人間の姿をした獣です。人間的価値を身につけて、人間的価値を身をもって示した時、人は自分の中の獣性を捨てて人間となり、神へと旅する者となるでしょう。腕時計(WATCH)をじっと見つめることは、この目的に達するためのベストな方法です。

時間を賢く使うことで神に到達することができる

腕時計(WATCH)は、サッティヤム〔真実/真理/サティヤ〕を教えてくれるでしょう。腕時計は、悪に陥らないようにと警告し、善すなわちシヴァムであるようにとあなたに注意を喚起します。腕時計は宝飾品として身につけられるので、スンダラムすなわち美でもあります。さらには、教師や人間的価値を思い出させる者でもあります。腕時計は時間のシンボルです。私たちは時間の前では無力ですが、時間を賢く使うことによって、時間の創造者であり時を司る者を勝ち得ること、到達することができます。

腕時計の隠れた意味とWATCHの五文字から引き出せるパンチャ アクシャリ マントラを人に教えるだけでは、あなたの義務を果たすには十分ではありません。腕時計は、あなたには人に教える資格があるかどうか、あなた自身をウォッチするように、とあなたに助言します。あなたが人間的価値をマスターしたかどうか、あなたが人間的価値を実践しているかどうかを知るために、100の目があなたの言葉と行いの一つひとつを見ているでしょう。

それから、あらゆることの中で一番重要なことですが、神、すなわち、全世界をウォッチしている者が、あなたの思考と言葉と行いの一つひとつを見ていて、それらを量っているのです。あなたの中にいる神は、あなたが誠実さと平穏によって自己を満足させることができるかを試し、判定します。人間の比類なき特質である人間的価値を実践することによって、あなたが人間であることを証明しなさい。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Satnya Sai Speaks Vol.19 C3