サティヤ サイババの御言葉

日付:1986年8月21日
場所:サティヤ サイ大学講堂
サティヤ サイ大学MBAコース開設式の御講話より

インド的価値にしかるべき地位を与えよ

人は誰もが三つの体を持っています。それは、粗体すなわち肉体(ストゥーラ デーハ)、微細体(スークシュマ デーハ)、原因体(カーラナ デーハ)です。清らかな食べ物を食べることによって肉体を清らかにすると、心(マインド)でできている微細体が清らかな欲望によって清められます。すると、アンタフカラナ(意識)に代表される原因体が神聖な思考によって聖化され、人に生来備わっている神性が顕現して人生の充足を獲得することができます。

少年少女は皆、自らの真の本質を開花させるために、基本的な倫理的行動規範の学習と実践を行うことが不可欠です。少年少女の第一の義務は、自分たち一人ひとりに内在している神性を認識することです。昔の学生たちは、「どうか私を善良にしてください、正直にしてください、そして、麗しい顔形にしてください」と、知の女神サラスワティーに祈ったものでした。行いが立派な人こそが美しいのです。真実と善良さのあるところには、当然の結果として美があります。五感の制御、そして、正しいと認められた規律の規定を守ることは、文化的な人間の証明です。

道徳と生存

人生行路において、人は「ニーティ」と呼ばれる特定の道徳律によって自らの行動を導いてもらわなければいけません。「ニーティ」は「ニータ」〔導かれた〕という語から派生した言葉で、「正しいもの」、「適切なもの」を意味します。正しい行いは、人が人生で最も高い地位を獲得するための王道です。人の道徳、社会の道徳、あるいは、国の道徳が衰退すると、その人、その社会、その国は、滅亡に向かいます。道徳の損失は、何十世紀にもわたって築け上げてきた文明そのものの滅亡さえ招きます。道徳がない状態では、人は滅びます。道徳は人類の命を支える呼吸です。現代の人間が堕落しているのは道徳が衰退しているせいです。

道徳心のない人は猿にも劣ります。猿は「私がいなければ人間は存在していない」と主張するだろうと、ダーウィンは述べました。真実(人は猿から進化したとする進化論が本当か否か)はどうあれ、猿はこう言って人間に異議を唱えるでしょう。

「私〔猿〕は人間の心(マインド)と姿の中にいる。私は人間をこの世のことに巻き込む。私は人間に神を忘れさせる。だから、人間の心は猿の心(モンキー マインド)と言われるのだ。実に、私は人間よりも偉いのだ。私はラーマ神に奉仕した〔「ラーマーヤナ」で猿たちがラーマを手助けしたこと〕が、人間はカーマ〔欲〕に奉仕している。私がラーマの僕(しもべ)となったので、カーマは私の僕となった。ラーマは神であり、カーマは悪魔だ」

人の真の人格である神性は人に内在していて、それは道徳的価値を育んだときにのみ表されます。

これはつまり、善い思考を抱き、正しい行いをするために、人は絶えず努力を重ねるべしということです。人は「プルシャ」(人間)と呼ばれます。人格を備えている人だけが、人間と呼ばれることができます。「パウルシヤム」(人格)〔プルシャと関係のあるものの意〕は、善い行いに満ちた、模範的な生活、誠実な生活を送る人だけに相応しい呼び名です。ラテン語の「ペルソナ」という言葉は「神の火花である人」を意味します。人は、自らに生来内在している神性を認識することによってのみ、本当の人間になることができます。

人の内なる神性を認識することは、人類が一つであることへの認識へとつながります。そのとき、人は皆、ちょうど、つる草の花々がどれも同じ一本のつる草の花であるのと同じように、あるいは、群れの鳥はどれも一つの群そのものであるのと同じように、自分は人類という一つの家族の一員であるということがわかります。こうした一体感こそが、太古よりバーラタ文化の中核であり続けてきました。バーラタ文化は主要な信条として万人の福利を促進しようとしてきました。この遺産の価値と妥当性を認識したとき、インド人は自らの人生を意味あるものにすることができるでしょう。

経営方式は国によって異なる

世界のどの国も、自国の文化的伝統、価値の体系、歴史的背景を基に、国の制度や生活様式を発展させてきました。そうした制度や価値体系は、歴史も文化も背景も異なる他国に移植できるものではありません。アメリカの経営方式は一つの種類であり、日本の経営方式はまた別の種類です。アメリカの経営方式は競争と利益本位のシステムによって構築されています。そこでの経営者と労働者の関係は「雇用と首切り」に基づいています。人間的価値よりもお金と利益が重視されています。アメリカの経営モデルを模倣することによって、我々インド人は困難に陥り、期待していた利益を得られずにいます。

日本の経営方式はそれとは異なります。労働者は規律に対して高い意識を持っており、たとえ不満が生じても、ストライキなどという生産に悪影響をもたらす手段に出ることはありません。日本の経営者と労働者の関係は概して心の通ったものです。これこそが、日本の産業的な発展に役立っているのです。

インド的エートスと価値観

どの国の企業にも共通していることがいくつかあります。それは、会計、生産、統計の維持継続、資材管理といったことに関するものです。しかし、ビジネス倫理や人間関係といったことに関しては、インドにある我々としては、自国の文化と伝統と状況に即した形態を選ばなくてはなりません。サイ大学にあっては、文化的および倫理的価値観を特に重視しています。これらの価値観の中でも、「インド的エートスと価値観」に最も重きが置かれています。このMBAコースでは、インドの経済的環境、人材管理、組織としての品行、ビジネス・コミュニケーションといったような科目を扱います。人材管理とヒューマン・バリュー(人間的価値)に重点が置かれることになりますが、これらは今の他の経営学校の学習指導要領においては、多く見られるものではありません。コンピューターの使用はこのコースにおいて不可欠な一部になります。

「インド的エートスと価値観」を学ぶことは、サイ大学のMBAコースの最たる特徴です。インドの他の経営学校はどこもこれを教えていません。経営者側と労働者との関係は、互いへの愛と理解に基づいた、母と子の関係のようなものであるべきです。どの職場でも、経営者と雇用者が共に静かに共通の祈りを唱えてから一日を始めるのが望ましいでしょう。そうした祈りがなされることで、雇用者たちは職場での調和を経験するでしょう。

他国のやり方の模倣を避けよ

他の国の経営のやり方を単純に模倣したりコピーしたりしても、それは無意味なことです。そうした模倣は、人材を無駄にしたり、多くの望ましくない結果を招いたりすることがよくあります。これはインドを含め多くの国で起こっていることです。ある国にとって良いことや合っていることが必ずしも他の国で上手く行くわけではありません。私たちは、状況と、個々人の技能と、特に我々の国で要求されることを考慮する必要があります。私たちの文化と価値観は他国とは違います。こうした異なった境遇を十把一絡げにすることはできません。異なった価値観を一緒くたにしようとすることは、発展途上国の価値観の損失という結果を招くかもしれません。

誰も彼もすべての人の見解に耳を傾けることによって、人はいかに自分を物笑いの種にし、取引の敗者としてしまうかを実際に示している話があります。果物屋が、商売繁盛のために、自分の屋台の上に「ここで果物売ってます」という看板を付けました。そこを通りかかった人が「ここで」は余計じゃないかと、その果物屋に言いました。そのため、果物屋は「ここで」という文字を消させました。別の男がやって来て、「売ってます」と知らせる必要はないだろう、そんなことは誰の目にも明らかだと言いました。そのため、「売ってます」という文字も消されました。三人目の男が「果物」を売っているということを書く必要はない、この店で何が売られているかは誰の目にも明白だと言いました。そして、結局、そこには何も書かれていない看板だけが残りました。それでも、看板書きは文字を書いた代金とその文字を消した代金を請求しました。果物屋は、自分の判断によらず、通りがかった人全員の意見に従って行動した自らの愚かさに気がつきました。

ビジネス マネージメント(経営管理)の領域において、インドではこれと似たような状況が展開されています。どこかの国、あるいは、また別の国のアドバイスに従うことによって、インドは自国の経済と資金を台無しにしています。古代では、インドは他の国々の手本として役立っていました。

インドの今昔

ギリシャの王が、アジア諸国を訪れた後にインドの状況を学びにやって来ました。特に教育と宗教について学ぶためでした。王は、グルクラという教育システム〔師と弟子がアシュラムで寝起きを共にして学ぶもの〕と、グル(導師)とシシヤ(弟子)の師弟関係に感銘を受けました。現代の大学のような設備はありませんでしたが、どのグルのアシュラムも紛れもなく真の大学でした。学生たちは、グルから知識を得るためにはどんな困難もいとわないという心の準備ができていました。ギリシャの王は、学生たちの規律と人格の高さにも注目しました。王はウパニシャッドやギーターといった本を収集し、インド人が真実と正直さにどのような価値を置いているかを知りました。王は、聖書とクルアーン(コーラン)と仏典を研究し、そのどれもが真理を重視していることを見出しました。王は、聖書が「正義は国を高める」とうたっていることに注目しました。クルアーンには、「真実を貫くことによってのみ、人は真の人間となれる」とうたわれているのを見つけました。王は、根本的な真理はどの信仰にも共通するものであることに注目し、バーラタ〔インド、神を愛するものの意〕では宗教に対する寛容さと調和が国民の倫理規定の一部になっていることを知りました。王は、ギリシャもインドの手本を見習おうと決めました。アレクサンドロス大王は、自分の師の命令でインドにやって来ましたが、ギリシャに戻るときには、インドの土を一握り、ガンジス河の水をいっぱいに詰めた壺一つ、そして、「バガヴァッドギーター」と「マハーバーラタ」の本、それから、インドの聖者の祝福を持ち帰ったのでした。

バーラタ文化に相応しい地位を与えなければいけない

この国の多くの人々は、計り知れないほど貴重なバーラタの遺産を持っているにもかかわらず、ランプの影にいるかのように振る舞い、手元の明かりに気付くことなく、遠くの物事に魅せられています。私たちの国の嘆かわしい窮状は、異国のこれみよがしな物事への憧れが原因です。それゆえ、私たちは経営学の領域において、バーラタの文化と価値観に相応しい地位を与えるべきなのです。正義にかなった正直な手段によって得た富と名声だけが、長持ちし、称賛に値するものとなります。正義に反した不道徳な方法で得たお金は、平安も幸せも与えてはくれません。

コミュニケーションはビジネス マネージメント(経営管理)における重要な側面の一つです。しかし、限度内で用いるよう気をつけなければいけません。コミュニケーションを制限なく用いることは、国にかなりの害をもたらすでしょう。たとえば、もしバンガロールで起こった学生運動やストライキをマスメディアが必要以上に大げさに取り上げれば、そのニュースはすぐにデリーやカルカッタ、アーグラーや他の場所に届き、その問題はその日のうちに国中の地域に波及します。この種のコミュニケーションは、良いこと以上に多くの害を及ぼします。

「人間管理」(マン・マネージメント)を重視すべし

お金それ自体を目的として追求することは、人々をひどく貪欲にしてしまいます。多くの農民が、もっとお金を稼ごうとして現金作物に転換しています。これは私たちが担うべき経営の類ではありません。私たちは「人間経営」(マン・マネージメント)に関わらなければいけません。人間の真の研究対象は人間です。人は、思考と言葉と行動において純粋であることを学ぶべきです。これは最高の美徳です。私たちには、スローガンを書く専門屋、演壇で演説をぶる人、イエロー・ジャーナリスト〔低俗で感情や情欲を煽り立てることを書いて読者の目を引こうとするジャーナリスト〕は要りません。私たちには、高潔さと人格を具えた経営者と指導者が必要です。経営学の学校が目的とするのは、そのような指導者たちを生み出すことであるべきです。それらの課程はインドの文化と価値観に基づいたものであるべきです。

製造、経理、財務、人事といった他の経営の側面に関する課程と共に、私たちは「インド的エートスと価値観」の課程を持つべきです。私たちは国が根本的に必要としていることに集中すべきです。目的を果たすためには、私たちのプログラムは自分たちの人材と実務能力に基づいたものであるべきです。さらに、私たちは、霊性を伴う道徳をビジネスや他の領域に結び付けなければなりません。

世界には数え切れないほどの経営学の学校があります。そこでは経営学修士号(MBA)が与えられます。私はこれがインドにとって相応しい課程であるとは考えていません。MBAの代わりに経営科学修士号(MBSC)を与える国もあります。私たちの大学では、人間経営学修士号(MMM、マン・マネージメント修士号)とすべきです。私たちの学生は、幅広い視野を養い、誠意と献身をもって社会に貢献できるよう備えるべきです。そして、道徳的な模範となり、国の発展のために働き、貢献することによって、国に名誉をもたらさなければいけません。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.19 C17