サティヤ サイババの御言葉

日付:1986年8月27日
場所:プラシャーンティ マンディール
クリシュナ神降誕祭における御講話より

神と帰依者

すべての動物は、
必要な物を手に入れて生を楽しむために
わずかばかりの知性を持っている
もしそれと同じレベルに留まるならば、
人間は人間ではなく動物である
ただ神を明らかにする知識があればよい
漠然とした知識など何の役に立つことか?
神を明らかにしない知識など、
とても知識とは言えない
それは、ただ、腹を満たすのに役立つだけである

愛の化身である皆さん!

すべての人は、好き嫌い、愛着と嫌悪といったものに支配されます。それらはヴェーダーンタでドヴァンドヴァと称されている対です。ヴェーダの用語では、それらはサンニカルシャとヴィップラカルシャと呼ばれます。サンニカルシャは、自らを遠くにある物や存在に引きつける性質を言います。ヴィップラカルシャは、近くにいる人や物を遠くへ引き離します。これら二つの性質を使いながら、人は人生を送っています。

バクティ(神への愛、信愛)はサンニカルシャの最高の表現です。「バクティ」という言葉は、「バジ」という語根から派生しており、「奉仕すること」を意味します。バクティのもう一つの意味は、「恐れと相まった友情」です。しかし、真のバクティは、奉仕に基づいたものでも、友情と恐れの混合に基づいたものでもありません。真のバクティは、ジーヴァートマ(個人の魂)は神の火花であるという意識から生じます。この基本的な関係を完全に認識して受け入れたとき、初めて人はバクティを正しく理解することができます。

神は帰依者とは異なると見なしているかぎり、バクティの真の性質を理解することはできません。バジャンやジャパ、瞑想やヨーガを実践しているにもかかわらず、最終的に人に神への信仰を失わせてしまうのは、この相異感です。自分は神とは別の者だと考えている人は、決して真の帰依者になることはできません。火花がその発生源である火と異ならないのと同じように、自分は実質的に神と異ならないと考えなくてはいけません。

ハートの純粋さ

神は愛の化身です。神の似姿である人間は、自らの根本的な性質として愛を持っているはずです。それなのに、なぜ人間は、憎しみや妬み、高慢や自惚(うぬぼ)れのような性質に感染しているのでしょうか? その理由は、人間の愛が外界の対象に向けられているために、ハートが汚染されているからです。

不純なハートに神の姿を刻み付けることはできません。神の遍在と全知を悟ったときにのみ、人は神の性質を理解することができます。そのとき初めて、人は自分に内在する神性を悟ることでしょう。

サンニカルシャ バクティを育てた帰依者から湧き上がる喜びを体験するためには、人は年長者に愛と敬意を示し、謙虚さと尊敬をもって奉仕しなければなりません。自分と同年代の人に対しては、愛と友情を示すべきです。年下の人に対しては、思いやりと愛のこもった世話をすべきです。これらの方法により、彼ら一人ひとりの内にいて、自分の内にもいる神に対する、愛と好意を表明するのです。

牧女の模範

ブリンダ―ヴァンのゴーピカー(牧女)たちは、この高貴な形の信愛を知っており、あらゆる行動においてその模範を示しました。牧女たちは生活におけるどの瞬間にも神を体験し、神への純粋な信愛によってどんな至福が得られるかを世に示しました。

ゴーピカーたちは、ムクティ(解脱)よりもバクティ(神への愛、信愛)を重視しました。牧女たちは、神への愛を、何よりも甘いもの、不滅を授ける甘露と見なしました。バクティによって体験する至福を言葉で言い尽くすことはできません。バクティは、耐え難い霊性修行も、いかなる類の厳格な戒律も要求しません。ヨーガやヤグニャ(宗教的な供儀)を執り行う必要もありません。普通の人には、カルマ(行為)の道やグニャーナ(英知)の道は厳しくて難しいものです。カースト(社会階級)や国籍、性別や他のどんな資格も問われることなく、また、様々な禁欲や苦行を実践しなくとも、普通の人が神を悟れる唯一の容易で確実な方法は、神への熱烈な帰依と愛です。ゴーピカーたちは、自分の内にも外にも、絶え間なく神の存在を体験していました。牧女たちは、聖典や霊性修行の知識をほとんど持たない普通の人にも、そのような崇高な愛が可能であることを示しました。牧女たちは神と人間の間にある切り離せない絆(きずな)を実証しました。

深い信仰のあるところには、熱烈な愛があります。愛があるところには、シラッダー(真摯(しんし)さ)があります。真摯さによってグニャーナ(高次の知識)が得られます。この知識はサーダナ(霊性修行)の実践を可能にします。それゆえ、信仰と愛がなければ、神を悟ることはできないのです。ゴーピカーたちは、クリシュナの恩寵を得るためならば、どんな困難にも直面する覚悟、どんな試練にも耐える覚悟がありました。

神性はあらゆる被造物に存在する

ウッダヴァ(クリシュナの側近)は、ゴーピカーたちに神を悟るためのヨーガの道を教えるためレーパッレーへ行きましたが、牧女たちのクリシュナを思う一意専心の信愛は、牧女たちにクリシュナ以外どんなことも考えるのを許さないことを見出しました。ゴーピカーたちは、あらゆる植物、木々、丘、谷にクリシュナを見て、クリシュナ意識にどっぷりと浸っていました。牧女たちは万物の根底に流れている一体性を体験していました。今日、人は一体性を見る代わりに、あらゆる種類の分離を見ています。人は、宇宙の万物に存在している神性を忘れて、人と人、国と国との間にある相違や障壁を助長し、数多くの困難にさらされています。

神性は、蟻(あり)からブラフマー(神)に至るまで、あらゆる被造物に内在しています。この根本的真理を無視して、人は終わりのない問題に巻き込まれています。神は便利なものとして扱われ、困ったときに求められ、それ以外のときは忘れられています。神は遥(はる)か彼方の場所に求めるものではありません。神は私たちのハートの内在者です。この永遠かつ神聖な光が私たちの内で輝いているというのに、外界のどこかに照明を求めるのは無知のしるしです。

クリシュナ アヴァター

クリシュナ アヴァターは、プールナ アヴァター、すなわち、神の特質を完全に備えた化身であると述べられています。すべてのアヴァターは等しく神であり、ある化身は部分的で、他の化身は完全であると言うことは無意味です。それぞれのアヴァターの姿と役割は、その化身の降臨をもたらした状況や必要によって決まります。アヴァターは量的な言葉で評価されるべきではありません。質的には、すべてのアヴァターは本質的に一つです。実際、すべてのアヴァターは「完全」なのです。ただ、アヴァターたちの姿と名前が、それぞれのアヴァターの顕(あらわ)れた状況に応じて違っているにすぎません。

たとえば、クリシュナ アヴァターの場合、パンディト(学僧)たちはその御名だけで様々な解釈をしてきました。「クリシュナ」(KRSNA)という語の文字である「K」、「R」、「S」、「N」、「A」は、クリシュナの輝かしい特質を表すものとして解説されています。

「K」はラクシュミー(カマラー)女神の主である「カマラーカンタ」を表しています。この文字に与えられた別の意味は、「カマレーシュワラ」と「カマラーガルバ」、つまり、「蓮の主」と「蓮の生えた臍(へそ)から来た者」です。また、クリシュナは「カマラーバンダヴドゥ」、「蓮の親戚」としても知られています。これらの解釈の隠れた意味は、私たちの内にある神性が顕現すると、ハートは太陽を前にした蓮のように開花する、というものです。それゆえ、「K」は太陽の原理も象徴しています。

「R」は喜びの原理を表します。

「S」はヴィシュヌ、すなわち、あらゆる富と繁栄を表します。

「N」はナラシンハ アヴァター、すなわち、完全な一体性の内にある人間と動物の組み合わせを意味します。

「A」はアクシャラ スワルーパ(不壊(ふえ)の権化)、すなわち、神の永遠不滅の性質を表しています。

御名の文字だけを基に、学者たちはアヴァターとしてのクリシュナの神聖な特質の由来をたどりました。クリシュナはまさにアーナンダ(至福)の化身であると見なす人々もいました。

パラマートマとジーヴァートマ

しかしながら、神の性質は特定のアヴァターの御名によって判断できるものではありません。名前は誕生に関係しており、名前にはどんな意味でも添えることができます。しかし、神に誕生はありません。神はいつでも、どこにでもいます。人は、自分の体験と理解に基づいて、神を無数の表現で描写するかもしれません。これらは主観的な表現であり、神の真の性質を明らかにはしていません。人の描写は、本人の体験と性質のレベルに限定されます。「神の性質を把握できずに、心と言葉は退却する」とウパニシャッドは述べています。

重要なのは、人間と神の間に基本的な違いはないということを理解することです。人間と神は、物体とその像のように一つに結びついています。たとえば、種子を例にとりましょう。一個の種子の中には二つの半分〔双葉になる部分〕があります。土壌に植えられた種子は、その二つの半分が壊されずにあるときにだけ、発芽することができます。それと同じように、創造という木は、パラマートマ(全能者の意志)とジーヴァートマ(個人の魂)が一体となったときに生じます。神がいなければ、帰依者はあり得ません。帰依者がいなければ、神もいません。神が帰依者を創造するのと共に、帰依者も神を「創造する」のです。これはディヤーナ(瞑想)と呼ばれています。神の名と姿を絶え間なく瞑想して、帰依者は自分の選んだ姿の神のヴィジョンを得ようと懸命に努力します。神に名と姿を与え、それを実現させる能力は、人間だけに授けられています。

しかし、この人間の生の貴重さを自覚している人が何人いるでしょう? 神意から授けられた楽しむべき恩寵に感謝している人はほとんどいません。この点においては、人間より犬の方が優れています。犬は、わずかなパン屑(くず)を与えてくれた人に一生感謝します。犬はおそらくこう尋ねるでしょう。

「ああ、人間よ! どうしてあなた方が私たちより優れているでしょう? あなた方は初歩的な感謝の念すら持っていません。人格と感謝の念に欠けていれば、一切の知識と権力と地位は無意味です。あなた方は利己心にかられています。礼拝ですら利己心に汚されています。あなた方の礼拝は神への純粋な愛から為されるものではありません。」

多様性の中の一体性

人が自分を肉体と同一視し、自分の内なる神性を悟らずにいるかぎり、利己心が消えることはありません。万物における多様性は明らかな事実です。二人の人間は、たとえ双子であっても、全く等しいわけではありません。しかし、多様性が相違や対立につながってはなりません。私たちは、努力して多様性の根底にある一体性を見られるようにならなければなりません。この一体性は、宇宙の万物に存在する神性に基づいています。

この一体性の悟りは、神への確固たる信仰を通してのみ現れます。神への愛に満たされていたプラフラーダは、六歳の子供でありながら、自分の父親にさえ深遠な真理を教えることができました。神を悟るのに、年齢やカースト(社会階級)、権力や地位は重要ではありません。ヴァールミーキは高貴な生まれではありませんでした。ナンダナールはカーストに属さない賤(せん)民(みん)でした。ガジェーンドラ(象王)は動物でした。ドゥルヴァは子供でした。シャバリーは無学文盲の老女でした。これらの人々は皆、熱烈な信愛によって神を実現させ、霊的に卓越した者となりました。

ハヌマーンは猿でした。しかし、ハヌマーンは、ラークシャサ(悪鬼)たちから、おまえは誰だと尋ねられたとき、自分はラーマの卑しい召し使いであると喜んで公言するほどラーマへの帰依心を持っていました。今日、あなたは誰かと尋ねられると、人は評判を得るために自分の学位や地位を並べ立てます。中には、自分は元大臣だとか、元何々だなどと、過去の業績を誇らしげに示す人々もいます! それらはすべて一時的な功績にすぎません。人の真の価値は、その人のアートマ スワルーパ(神聖な本質)にあります。人はそれを悟り、外に現さなければなりません。

今日、私たちはアヴァターとしてのクリシュナの誕生日を祝っています。クリシュナが降臨していた当時、クリシュナの神性に気づいていない人々が大勢いました。カムサ王とシシュパーラ王はクリシュナの力を見くびっていました。いつの時代でも、アヴァターを中傷する人々は存在します。

クリシュナはナヴァニータ チョーラ(バターを盗む者)と言われています。クリシュナが盗んだバターとは何でしょうか? それは帰依者のハートです。帰依者はクリシュナにハートを差し出し、クリシュナはそれを受け取るのです。どうしてこれが盗みと言えますか? 相手に知られずに他人の物を奪い去った場合にだけ、人を盗人と呼ぶことができます。しかし、クリシュナはあなたの愛を求め、あなたがそれを差し出すときにだけその愛を受け取ります。「盗人」という呼び名は、帰依者が満ちあふれる愛ゆえにクリシュナに付けたものです。それは少しも非難の意を含んだ呼び名ではありません。帰依者は、自分の理解と信愛のレベルに応じて、神をさまざまな方法で描写します。それらは主観的な体験から出た表現です。神はすべての制限と属性を超越しています。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.19 C18