サティヤ サイババの御言葉

日付:1987年1月1日
場所:プールナ チャンドラホール
西暦のお正月の御講話より

愛のこもった奉仕を永遠に

バーラタ〔インド〕文化の基盤であるサナータナ ダルマ〔古来永遠の法〕は、全ヴェーダ聖典の中で明確に述べられている教えの真髄です。このダルマは、多様な哲学体系や道徳規範の源泉であり、また、さまざまな文学の様式や傾向の源でさえあります。ダルマはこれらの手段を通して、人は知らなければならないことを知り、放棄しなければならないものを放棄し、到達しなければならないものに到達して、初めて平安の内に生きることができる、ということを人々に教え続けてきました。

ヴェーダとは、気づき、知識、識別を意味します。四つのヴェーダ聖典は、私たちが本当は誰であり、何であるのか、また、私たちはどのように周囲の世界と関係しているのかを教えています。まさにこれこそ、ヴェーダが私たちに与えてくれるもっとも偉大な贈り物であり、あらゆる探求の究極の目標、科学的探求の目的です。

知識は真実を発見することによって完成します。真実は過去、現在、未来において変わることなく存在し続けます。サッティヤム、グニャーナム、アナンタム――「サッティヤム(真理/真実)もグニャーナム(霊的英知)も共にアナンタム(永遠)である」。これらは永遠であり、無限です。ヴェーダは真実と霊的英知を音声で表現したものです。ヴェーダ聖典を文学や詩歌として評価することは、その価値を減じてしまうことになります。また、ヴェーダの賛歌は儀式による空虚な礼拝のためのものでもありません。ヴェーダの賛歌は、助けとなり、実践され、経験されるために、賢者たちによって記録されてきました。賢者たちがこのことを十分に認識していたために、ヴェーダは今日まで光沢を失うことなく生き延びてきたのです。賢者たちの実践はのちにヤグニャナ(犠牲供養)となり、彼らの祈りは歌となったのです。

気づきのための三つの道具

語る言葉と、心(マインド)と、呼吸は、真実と知識を崇敬し、それを自覚するための、もっとも重要な三つの道具です。ヴェーダの中で、リグ ヴェーダは語る言葉を、ヤジュル ヴェーダは心を、サーマ ヴェーダは呼吸を強調しています。これらの三つの要素が世界に浸透しているように、この三つのヴェーダは、宇宙に存在するすべての原子の実体である宇宙原理の三重構造を明らかにしています。ヴェーダは、容易に理解できる直喩や暗喩を用いて、簡単な言語でこれを成し遂げています。また、ヴェーダは、人類が今生と来世において繁栄し進歩するために必要な儀式や行動を規定しています。

人間の身体は、これを導くもう一つ別の原理を必要としますが、その原理であるアートマ(永遠の魂あるいは霊)は、それ以外のものが存在する余地のない、絶対的な一者です。意識が「身体と心と感覚の複合体」から離れれば、アートマの光輝はますます壮麗さを増して光輝きます。身体は集めて所有しようとしますが、アートマは光、愛、恩寵を与えて降り注ごうとします。ウパーディ(鞘)に執着することは、霊的な進歩を心から願う人にとって人生の究極の目的であるサマーディ(神との合一)への最大の障害となります。自分のものであると信じていたその身体が、一時的な住処であり全くの無知から背負ってしまっていた重荷にすぎないと悟ったときに、初めて英知の夜明けが訪れるのです。

行為における無為の秘訣

英知の夜明けが訪れて、初めて活動は成就します。カルマ(聖別された行為)は、グニャーナを得るための道です。そして、英知の実践はもっとも高尚なカルマです。価値ある活動は結果的に心(マインド)を純化しなければなりません。それゆえ、誰一人として、修行者や僧でさえも、善行をやめることはできません。善行は自発的に生じるべきものであり、心に一抹の高慢さも残しておくべきではありません。

また、行為の結果への執着によって、自分自身のために結果を要求することを切望するようなことがあってはなりません。放棄こそが唯一の喜びの源泉であるべきなのです。ティヤーガ(自己犠牲)は、サンニャースィ(修行者)にとって真実のボーガ(喜び)です。ギーターは「行為における無為」〔アカルマ/行為でない行為〕を奨励し、至高の平安を目指して精励努力する人々にとって「無為こそはもっとも報いのある行為である」、と断言します。このような態度はカルマ サンニャーサ(行為への無執着)と名づけられています。行為や活動は一般に身体だけに関わっていますが、心もまたこの世のことに追われています。アートマだけが何の影響も受けない目撃者です。ゆえに、「行為における無為」の秘訣は、アートマに庇護を求め、生きとし生けるものすべては根本的にアートマであると認識することにあります。

賢者は、「私」や「私のもの」ということを一切考えずに、ただ人間社会の中で平和と善意を促進するために行動します。数え切れない前世を通して、エゴは人間の心に深く根ざしています。エゴは生活の中ですばやく成長し、感覚の追い求める享楽や、多くを所有すること、賞賛、評価、他者を支配する権力、名声、財産を求めます。エゴは、私たちの実体を間断なく探求することによってのみ、取り除くことができるのです。

すべてに内在する実体

木は、樹皮で覆われた幹と、栄養を送り込んで幹をしっかりと支える無数の根を有しています。また、木には、八方に伸びて先へ伸びるほど細くなる枝と、呼吸をして太陽からのエネルギーを取り入れるための無数の葉があります。木は、ミツバチを引き寄せ、花を受粉させ、実をつけることにより、自己を実現します。木に現れたさまざまな色、芳香、味、柔らかさ、そして、力強さ、頑健さ、優しさは、すべてたった一つの種子から発現したものです。同様に、創造物はすべて神から発現したものです。これが、あらゆるものに内在する実体です。汝はそれなり。このことを堅く信じていなさい。

大海に融合する川を考えてごらんなさい。大海の水は、太陽によって温められると、蒸気となって上昇し、雲を形成します。そして、雲は雨の滴となって落ちてきます。その一滴一滴は、自分が生まれ出た大海に再び戻りたいという切なる思いを内に秘めています。しかし、個であるという思いがこの切なる願いを圧倒してしまいます。雨の滴は、蓄積し、渓流や小川となって流れ、水かさを増やして河川の支流となり、平野部を潤します。最終的に、川は大海に融合し、名前と姿形と属性を失います。大海から大海へと旅を続ける中で経験したあらゆる変化にもかかわらず、水は、蒸気、雲、雨、そして川に含まれる水として、その姿をとどめます。名前や形や質は変化しますが、その核は変化を受けません。人もまた、神という大海から生まれ、その宿命は、その大海に融合することです。これこそが真実です。これこそが実体です。汝はそれなり。このことを堅く信じていなさい。

一つまみの塩をコップの水の中に入れてごらんなさい。塩は間もなく溶け、その姿は見えなくなってしまいますが、私たちは確かに塩が水の隅々にまで行き渡っていることを知っています。もはや塩を取り出すことはできません。しかし、水を味わうことによって塩の存在を確信することができます。神は目に見えませんが、どこにでも存在します。しかし、味わうことによって、神の存在を知ることができます。あなた方がその味わいであり、神の滴なのです。これこそが真実です。汝はそれなり。

アシュラムを霊的中核としなさい

目覚めている間、人はさまざまな関係を経験します。人は実に多くの人や財産、また、さまざまな問題に興味を持ち、喜び、悲しみ、賞賛、嘲笑、侮辱、損害、尊敬、不名誉などを経験します。しかし、夢を見ているときは、このあらゆる複雑な関係は消失します。このとき、人は外界から身を引き、自らが自分自身のすべての作り手となります。喜び、痛み、幸福、苦難の情景を投影し、恐れと絶望の中に身を投じるのです。人は、友人と敵の両方を作り、気まぐれのままに彼らを扱います。熟睡しているとき、人はもはや警戒心もなく、活動的でもありません。そのとき人は、アートマであるその人の実在とのみ共にあります。アートマ、すなわち真の自己は、たとえ人がそれを否定し無視したとしても、覚醒、夢見、熟睡の三つの状態を通じて、その人の実在であり続けました。このアートマこそが、真実です。汝はそれなり。タット トワム アシ(タットワマシ)。

人生を霊的探求と霊的成功に捧げた人々は、自身と他者の中にアートマを見つけなければなりません。アートマの発見は、同情心と共感をもたらし、愛のこもった奉仕を促進します。修行者のアシュラムは、霊的啓蒙の中核、アーナンダ(至福)の源泉、そして、すべての人々とアーナンダを分かち合おうとするインスピレーションの場であらねばなりません。また、〔霊的な〕組織や団体は、道を見失って取るに足らないものを追い求めることに夢中になっている人々の役に立ちたい、彼らを救いたいという、無私の熱意から設立されるものです。幸運にも、連綿と続く数々の聖賢たちが、この地にそうした高尚な理想を伝承し続けてきました。今、世界は非常に悲惨な状態にあります。献身的な人たちが、高邁な道徳心と、無私の奉仕、そして普遍的な愛の手本となることによってのみ、これを救うことができます。人は、温和で落ち着いた気質を備え、常に真実に従い、庇護者であり創造者である神を完全に信じながら、社会と関わっていかなければなりません。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.20 C1