サティヤ サイババの御言葉

日付:1987年2月26日
場所:ブリンダーヴァン
マハーシヴァラートリの御講話より

シヴォーハム

アーナンダ(純然たる至福)が人間の本質です。しかし、残念なことに、人は無知と強情によって、内へと向かう知性と直観を用いてアーナンダを発見することよりも、外へと向かう感覚を通じてアーナンダを得ることに自分の技能と財産と時間のすべてを費やしています。

自分の努力と探求によって得られるものは、せいぜい、擬似的なアーナンダ、つかの間のささやかな喜び、曇った鏡に映るぼんやりとした姿です。それは、運命に打たれても弱まることのない、想像を超えた法悦である永遠に続くアートマ(永遠の自己)の至福ではありません。物質世界から得る喜びは、絶えず更新して補充し続けなければなりません。なぜなら、それはすぐに色あせてしまうからです。そのため、人は、目の前に終わりのない標的を示してくる欲望の奴隷となっているのです。

実際には、人間は心の限界を超えているアートマ〔真我〕です。アートマには始まりも終わりもありません。心(マインド)と五感と体は、一瞬一瞬、衰弱もしくは成長を経て、最終的には崩壊して死んでいきます。人は、外側を調査するため、体験するための道具であるそれらのものに信頼を置き、そのせいで、アートマに固有の至高のアーナンダを自らなくしているのです。雲に隠された太陽のように、灰に覆われた炎のように、白内障にかかった網膜のように、苔に覆われた水のように、人間の意識は好き嫌いで厚く覆われています。それでどうしてアートマの光輝が光を放つことができるでしょうか?

しっかりと守られた宝物

人間の体は、貴重な宝物を安全に保管するために設計された器です。コブラが秘宝を守っているという伝説があります。人間の中に隠された貴重な宝物への接近を妨げるコブラの名前は、アハム(エゴ)、すなわち自分と自分の所有物への陶酔です。アーナンダという宝に到達して取り戻すためには、人はまず、そのアハムという蛇を滅ぼさなければなりません。

川は海の一部です。川は、海に戻って、海という源に帰融した時に成就を得ます。魚は水のものです。魚は水中で生き、水がなければ死んでしまいます。赤ん坊は母親の一部です。赤ん坊が母親から離れて生き残ることはできません。枝は木の一部です。木から切り離すと、枝は枯れてしまいます。人間は神の一部(アムシャ)です。人間も神なしでは生きられません。人間が生きているのは、自らの源である神を知りたいという、駆り立てられるような欲求があるからです。バガヴァッド ギーターの中で、主は、「すべての生き物は私の一部(アムシャ)である。私は永遠のアートマとしてすべての生き物の中にいる」(十五章七節)と述べています。

人間は高い目的のために生きているのであって、獣のように本能と衝動のあらゆる要求に服従するために生きているのではありません。人間は奴隷のように這いつくばるのではなく、自分を主人に据えなければなりません。人間には、「私はシヴァである(シヴォーハム)」、「私は減じることのない充満(アチュータ)である」、「私は至福(アーナンダ)である」と宣言する権利があります。自分の実体に気づくやいなや、人を縛っていた鉄の鎖と金の鎖がどちらも外れ落ち、解脱(モークシャ)に到達します。

二つの存在――見る存在と見られる存在

アーナンダ(神の至福)は、私たちの周りにも、私たちの中にもあります。アーナンダこそが、私たちを維持し、支えていますが、この真実は、つまらない利己心によって隠されています。利己心は、一見アーナンダを与えてくるように見える物事、すなわち、外界の岸辺へと進むために嵐の海を渡るよう駆り立てます。人はアーナンダという皮でそれらの物事を包み、それを吸収している間、その物事は自分にアーナンダを与えることができるのだと想像します! 実を言えば、それはその人自身のアーナンダであり、人はそれを取り戻しているのです。

人は、深い眠りの後、自分は熟睡していた時に完全なアーナンダを得ていたと言います。熟睡していた時は、心も五感も、そして、理性の機能さえも、どんな対象物と接触することも、影響を受けることもありませんでした。そのため、自分の実体の中から、アーナンダが引き出されたのです。

二つの存在があるのみです。それは、見る存在(ドルク)と見られる存在(ドルシヤ)です。見る存在はアートマであり、見られる存在は被造物です。見る存在には意識があります。見られる存在には自動力がありません。人間が自動力〔自ら動ける力〕のないものに夢中になって、見る存在である照覧者すなわちアートマを無視したり否定したりしているかぎり、苦痛と絶望から逃れることはできません。

竿の先にぶら下がっている釣り針に付けた肉は魚の注意を引き、魚の興味をそそりますが、魚は針に引っかかって命を落とすことになります。五感の喜びを求めて欲望に屈する人は、それと同じ運命を辿らなければなりません。聖仙(リシ)たちは、「見られる存在」は長くはもたず、永続的な喜びを与えることはできないということを知っていました。聖仙たちは低次の欲求と一過性の快適さを放棄しました。ティヤーガ(捨離)は、聖仙たちにとって、真のヨーガ(神に帰融する道)でした。

人間の中にある三つの次元の空間

人間の内には三つの次元のアーカーシャ(空間)があります。そのうちの二つは見られるものであり、三つ目は見る者です。第一の次元は、地球、太陽系、そして、天の数十億の現象、光を発してからまだその光が地球に到達していない星々で構成されています。物質の空間であるこの空間は「ブータ アーカーシャ」と名付けられています。第二の次元の空間は、第一の空間を包含し、ミニチュアの形でそれを保持しています。それは、心が認識し、想像した領域で構成されており、それゆえ、「チッタ アーカーシャ」(心の空間)と名付けられています。この空間でさえ、アートマに包まれた「チダ アーカーシャ」(意識の空間)という空間と比べれば、小さな点にすぎません。他の二つの空間は、見る者、すなわちアートマ、すなわちブラフマンにとっては、小さな断片にすぎません。

人間は、「チダ アーカーシャ」が差し出すことのできるアーナンダに向かって、貴重な特権である旅をしています。その旅は、外に向かうのではなく、内に向かって自分の実体を目指していく旅です。麝香(じゃこう)鹿(じか)は、自分を魅了する香りの元を求めて必死に走り回り、ついにあまりにも疲れ果てて走れなくとき、その香りの元は自分の中にあったのだということを知るのです!

それと同じように、人はキャリアや職業、商売や農業にアーナンダを期待して、それらから得る満足感には価値があったと思っています。けれども、もし自分のキャリアがサーダナ〔霊性修行〕へと変わり、自分の商売が穏やかな平安へと変わり、自分の農業への関心が雑草の生えていないよく耕された心の場で信愛を養うことへと昇華されるなら、人はすぐ永続的なアーナンダに到着することができます。理知的な人でさえ、内側の探求が与えることのできる神の至福よりも、外側の努力が生み出すことのできる喜びの誘いに乗っています。

直感の役目

この至福の比類なさを宣言する聖賢たちは、自分の実体を発見すること、そして、宇宙を投影し、保護し、吸収する実体とその実体を同一視すること、つまり、自分の真理を真理中の真理の中に沈めることを切望していました。これはプラグニャー(完全な気づき/般若)によってのみ可能であり、論理や理性によって不可能です。ヴェーダの宣言、「プラグニャーナム ブランマー」(神は不断の般若なり)は、この結論を支持しています。

ひとたびこの真理を垣間見ると、人はすべてのもの、すべての人の中に神を経験することができます。「サルヴァタハ パーニパーダム タット サルヴァトークシ シロームカム」(至る所にその足、手、目、頭、顔がある)というのは、ギーターが神について述べていることです。研究者たちは、自分が研究するすべてのものの中に神を見ることをせず、実体を見ずに見かけだけを見ています。そのため、研究者たちは、包括的な光の領域に導かれる代わりに、多様性の領域へと連れていかれてしまうのです。

見かけは違っても人類は一つである、という信念を育まないかぎり、個人と社会に平安をもたらすことはできません。人は、違いという思考の一切を手放して、神の栄光の中で最も小さなもの、そして、最も途方もないものの中に一なるものを見ることから喜びを得なければなりません。これが本当のヴァイラーギャ(無執着)です。

人々は、苦しみ、悲しみ、心痛を訴えます。苦しみとは正確には何でしょうか? それは、自分が得たものを失ったり、欲しいものを得られなかったりすることへの反応です。ですから、苦しみや悲しみなどを逃れる唯一の方法は、実体のないものを求める欲望を征服することです。世界を神(ブランママヤム/神で満ちているもの)として見るようにしなさい。この見方は欲望を終わらせてくれます。欲望が神を求めることに限定され、神に集中しているとき、成功は確実であり、一歩一歩が、そのアーナンダに貢献します。 ブリンダーヴァンのゴーピーたちはそのことを知っていて、主以外のものはすべて排除して、主を思い焦がれました。その純粋な無垢の愛は、無私の行いとなって表れました。ゴーピーたちは単純な田舎の人で、聖典の聖句の知識も、霊性修行の知識も持っていませんでした。クリシュナへの揺るぎない信心は、ゴーピーたちに必要なインスピレーションと指示の一切を与えてくれました。クリシュナがアルジュナに言ったように、「シラッダーヴァーン ラバテー グニャーナム」(信心を持つことによって人は霊的な知恵を得ることができる)のです。

重要な二つの基本的なサーダナ

このカリユガの時代には、「ナーマ」と「ダーナ」という二つのサーダナ(霊性修行)が重要です。

「ナーマ」とは、「主の御名」を意味します。御名は、すべての思考と言葉と行いを促し、それらを愛に満ちたものにせずにはいられません。御名は、人を確実に「その御名の持ち主のヴィジョン」へと導くことができます。御名を唱える音声は、マテリアルでないものを明らかにするマテリアルであり、覚醒への扉であるジャダ〔自動力のないもの〕であり、そこに鎮座するチャイタンニャ〔覚醒意識〕です。サーダナの目的は、クシェートラ(場)とクシェートラグニャ〔場を知る者(場の主/場を操る者)〕の両方を主として認識することです。

第二のサーダナである「ダーナ」は、布施、思いやり、分かち合いを意味します。飢えている人への食事の施しは、即時の満足感を与え、飢えの苦しみを和らげます。「アンナム ブランマー」(食物は神なり)とウパニシャッドは述べています。施しは、施す者のエゴを膨らませることなく、または施される者のエゴを萎縮させることなく与えられるべきです。施しは、理解と謙虚さと愛と共に差し出すべきです。

愛は、神を懐柔するために不可欠な特質です。人々は、細心の注意を払って執り行う儀式は同じ目的のために効果的であると主張するかもしれません。しかし、経典は、礼拝や儀式は、せいぜい自分の心とハートの浄化に貢献することができるのみである(チッタースヤ シュッダイエー カルマハ)と告げています。あるいは、約束が示しているように、儀式はその人を天に昇らせるかもしれません。しかし、人は、自分の功徳の預金が残っているかぎり、天にいることができますが、預金を使い果たしたら、すぐに地上に戻って来なければなりません(クシーネー プンニャム、マルティヤ ローカム ヴィシャーンティ)。

三つの悪と三つの治療薬

愛は神に到達するための最も直接的な手段です。すべての人を区別なく愛さなければなりません。なぜなら、主はすべての人の中に住んでおり、主はまさに愛の具現だからです。人間から神への愛の完全に自由な流れを阻む、三つの障害があります。それは人間の根深い敵である、欲望・怒り・貪欲です。幸いなことに、インドの古代人たちは、理解して吸収すればそれらの狡猾な敵に立ち向かって打ち負かす備えとなる、三つの原本を考案しました。それは、『ラーマーヤナ』、『マハーバーラタ』、『バーガヴァタ』です。

〔『ラーマーヤナ』の〕ラーヴァナは、欲望を膨らませてそれが強欲へと劣悪化することを許してしまうすべての人への警告です。強欲の火花は、もみ消さなければ、必ずや悲惨な大火事になってしまいます。ラーヴァナの悪行は、一族を絶滅させ、都を灰の山にしました。

『バーガヴァタ』〔クリシュナにまつわる神話集〕には、怒りとその根源である憎しみがもたらす悪い結末に陥らないよう人間に教えるための、多くの教訓が載っています。ヒランニャクシャとヒランニャカシプという羅刹の兄弟は、神に怒っていました。ヒランニャカシプは厳しい苦行と修行によって、現代の科学者たちのように五大元素を支配していました。ヒランニャカシプは、魚のように、そして、鳥のように、水中や空中を移動することができましたが、五大元素に自らを投影した存在である神、万物の内と外に存在する神を否定しました。傲慢で感謝の念がないならば、力や技能があっても何になりますか? ヒランニャカシプは、自分は神を排除したと信じていました。自分の小さな息子が神を賛美する勇気を示した時、ヒランニャカシプは怒りを爆発させました。怒りは最終的に見境がなくなるほどの激怒となって、ヒランニャカシプの頭上に言い尽くせないほどの惨めさをもたらしました。

叙事詩『マハーバーラタ』は、貪欲がもたらしえる災いを描いています。ドゥルヨーダナは非常に貪欲だったので、財産を持っている人が合法的な所有権を持っていても、人が財産を所有することを許そうとしませんでした。厳密には自分のものではないものを自分のものとして保持する人は、泥棒という名を付けられるに値します。従兄弟のパーンダヴァ五人兄弟は広大で繁栄する領地の所有権を持っていましたが、ドゥルヨーダナは彼らの要求に反して針の先ほどの土地さえも与えませんでした。当然ながら、その貪欲さは、ドゥルヨーダナを一族と家臣もろとも滅ぼしました。先に述べた三つの原本は、愛の成長を妨げる三つの心の病〔欲望・怒り・貪欲〕を治療するために用いることができます。

善性と神性の夜

今日は、シヴァム(善性、神性、幸運)のラートリ(夜)である、シヴァラートリです。今夜は吉兆な夜です。なぜなら、この夜を祈りに捧げることで、心の支配力を失わせることができるからです。経典によれば、月は心を司る神です。目と太陽のように、心と月には一致関係があります。シヴァラートリは、一ヶ月のうちの黒半月〔満月から新月までの半月〕の十四日目の夜、月がまったく出ない新月の前の晩に行われます。月と、月が支配している心は、毎月十四夜にすっかり細くなります。その夜、寝ずに神への礼拝に専念すれば、わずかに残る気まぐれな心は圧倒され、勝利は確実となります。この月〔パールグナ月〕のシヴァラートリは他の月よりも神聖なので、マハーシヴァラートリと呼ばれています。

固い信念と浄化したハートを持って、この夜を神を讃えることに費やすべきです。他のことを考えて一瞬も無駄にしてはいけません。時間はあっという間に過ぎていきます。時間は氷の塊のようにすぐに溶けて流れていきます。人生に割り当てられた時間は刻々と過ぎていき、いつの間にか終わってしまいます。ですから、眠りこけてはなりません。警戒しなさい。注意を怠らず、自覚していなさい。主の避難所を求め、すべての瞬間を神聖な祝典へと変えなさい。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.20 Ch5