日付:1987年12月25日
場所:プールナチャンドラ講堂
クリスマスの御講話より
さまざまな信仰を持つ男女が、
世界各地から愛と謙虚さを携えて、
快適か快適でないかを気にかけることなく、
数々の苦難に耐えながら、ここに集まった
すべてはババの恩寵を得るために!
蔓延(まんえん)する無神論を払拭し、神への信仰を植え付ける、
すべてを包み込むサイの愛が、
人類を変容させ、神へと導いている
神の愛の化身たちよ! 人間は、身体的には基本的な違いはありませんが、習慣や考えや感情には多くの違いが見られます。すべての国は人間の集合体です。世界全体の自然環境はそれほど違いませんが、諸国の人間社会における生活様式の違いはかなりのものです。これは人間の状態の大きな特徴の一つです。
真理は一つです。真理は心(マインド)や言葉を超えています。真理は時間や空間というカテゴリーを超えています。数え切れないほどの求道者が真理を認識するためにさまざまな道を追求してきました。真理を求める人々の間には顕著な違いが存在します。この違いは宇宙の本質に影響を与えるものではありません。逆に、こうした違いは宇宙のプロセスを理解する上でのさまざまな段階であると考えなければなりません。こうした違いこそが、統一的な原理を探求し続けることを促してきたのです。
究極の真理は一つ
インドの形而上学の六つの学派(シャド ダルシャナ)〔六派哲学〕は、過去の偉大な求道者たちによって私たちに提供されてきました。この神聖な教えは、今日ではほとんど注目されていません。それぞれのダルシャナ〔学派〕が示している霊的な道は異なるように見えますが、目的は共通しており、彼らが宣言する究極の真理は一つです。国内におけるさまざまな宗派や共同体の違いや、人々の間に蔓延してきた唯物論のせいで、六つのダルシャナの教義は真剣に追求されていません。唯物論の教義があまりにも世界を席巻しているため、インドの形而上学〔六派哲学〕の偉大さが評価されていません。この哲学を適切に検討するための環境さえも存在していないように見えます。
唯物論者の教義は、チャイタニヤ(意識/チャイタンニャ)は感覚的な経験の産物である、そして、意識の進化は物質の進化に依存し、物質の進化に基づくものであるという前提で進んでいます。無生物である物質が、唯物論者の教義の基礎になっているのです。物質は有限です。ヴェーダの教義は、意識は体の感覚から生じるものであり、体の感覚は有限で限られた物質に起因するものによって制限されている、という見解を否定しています。意識に対する物質の優位性という概念の誤りを示すために、この唯物論的な教義とは真逆の、アーディヤートミカ〔アートマに関係する〕(霊的)な見解が投じられたのです。
人間と自然
霊的な見解では、基本はアートマ(神霊)〔真我〕です。アートマは無限です。ヴェーダーンタの教義は真我の無限性を宣言し、物質は不活性で有限であることを指摘しました。シュルティ〔ヴェーダ〕は宣言しています。
トリパーダッスヤームルタム ディヴィ
〔彼の輝きの4分の3は不滅の領域にある〕
プルシャ スークタムより
4分の3を意識が占め、4分の1は不活性な物質です。したがって、物質を動かしているのは意識であって、物質が意識を生み出しているのではないのです。これは霊的な概念の本質です。
ウールドヴァ ムーラム アダハサークハ
(根は高いところにあり、宇宙の木の枝は下にある)
とギーターは述べています。これは、物質である宇宙は普遍意識から生じたという見解をさらに裏付けるものです。
ジャダ(物質)を活性化しているのはチャイタニヤ(意識/チャイタンニャ)であり、意識を生み出しているのは物質ではありません。現代のテクノロジーは、すばらしい機器を生み出し、新しいエネルギー源を利用し、宇宙空間の月や他の惑星を探査する宇宙船を作り出しました。しかし、これらの機器はすべて自力で作動しますか? いいえ、しません。その背後には人間の創意工夫と知性があるのです。どんな機械より人間のほうが偉大です。
人間は意識の化身です。機械を動かすのは意識であり、不活性な物質は意識を創造することができないというのは、議論の余地がないほど明らかです。人間は創造物の中で最も高次のものです。人間は、自然に支配される動物のような本能の生き物であってはならず、自然の主人になるべきです。人間は、ナラ(人間)からナーラーヤナ(神)へと進歩しなければなりません。知的な人間として、自分はサムサーラ(サンサーラ/世俗の鎖)に縛られていると考えるべきではありません。人間を縛っているのはこの世ではありません。この世には、見る目もつかむ手もありません。人間は自分自身の思考と欲望に捕らわれているのです。はかないものや壊れやすいものに執着する中で、人間は自分が生来持っている神性を忘れてしまい、宇宙のすべてのものは神から来ていて、神の力なしには存在できないということを理解していないのです。
宇宙における神性
宇宙は、永遠なるものである無限の実在(ブラフマン)の投影であり、ブラフマンとは別のものではありません。
サルヴァム ヴィシュヌマヤム ジャガト
(全世界には神が浸透している)
この真実が認識されれば、人が知覚したり経験したりするものはすべて神の顕現であることが明らかになるでしょう。すべての木はカルパヴリクシャ(願いをかなえる木)です。すべての仕事場は神の社(やしろ)です。多くの人は、自分は神との一体感を実現するために霊性修行に取り組んでいると思っています。さまざまな霊性修行やさまざまな形式の礼拝は、個人的な満足感を与えるかもしれませんが、神の悟りはもたらしません。神は誰からも何も必要としません。神は供物を求めず、供物を喜ぶこともありません。神はあなたと違いません。あなたを神から引き離しているのは、あなたの好き嫌いです。欲望や嫌悪感を取り除いたとき、あなたは自分が生来持っている神性に気づくでしょう。人が行っているあらゆる霊性修行、あるいは、供養礼拝における儀式の遵守は、心(マインド)を浄化してエゴをなくすのに役立つだけです。人類は、すべての人間に内在する神性を認識することによって、人類の一体性という理想を目指して努力すべきです。
罪と悔い改め
キリスト教徒の間では、自分の罪を許してくださいと神に祈るという古くからの習慣があります。教会には、信徒が自分の罪を告白し、現金を供えて、教皇や司祭から贖罪(しょくざい)を得るという習慣があります。悔い改めと神への供物によって罪をあがなうという信仰は、インドでも広く浸透しています。こうした習慣は、神に対する誤った認識に基づいています。人々は、神の本質を真剣に探究し、真実に基づかない迷信的な信仰を一掃するよう努めるべきです。
探求の精神は、キリストより何世紀も前に古代ギリシャ人の間で広まっていたということに注目すべきです。ソクラテスは、アテネの若者たちに探究心を芽生えさせた偉大な師です。ソクラテスは、真理を追求するあまり、弟子の助けを借りて逃亡するよりも、故郷での死を選びました。ソクラテスは、命にも財産にも所有物にも価値を置きませんでした。
イエスと金持ちの男
イエスも富や地位に価値を置きませんでした。イエスがマルタとマリアの家にいた時、ある金持ちがイエスのもとを訪れました。その金持ちは、自分はあらゆる財産を持っているにもかかわらず心の平安がないのだとイエスに言いました。彼は多くの心配ごとに悩まされており、出口を示してほしいとイエスに訴えました。イエスは彼に言いました。「簡単な方法がありますが、あなたはそれに従いますか? あなたは富を蓄え、それに伴って心配ごとも増えています。いつかは置いて逝かなければならないその富を、あなたはどうするつもりですか? 貧しい人や困っている人に分けてあげれば、あなたの心配ごとはなくなるでしょう。人類同胞を愛することによって、財産ではなく神の恵みという富を蓄えなさい」
これは、今日、理解されなければならないメッセージです。人々が求めるべきことは、神の愛を得ることです。それ以外の富の形は、学識という富も含めて、価値のないものです。
イエスは、富める者に厳しくし、貧しい人や病人に尽くすことによって、神への信仰に基づいた新たな生き方を弟子たちに教えました。神の使者としての聖職を始めたイエスは、最終的に「私の父と私は一つである」と明言しました。聖パウロは、最初イエスを頑固に批判していましたが、夢でキリストを見て、その夢の中でイエスに「すべての人は神の火花である。私を憎むことはあなた自身を憎むことであり、神を憎むことである」と言われてから、キリスト教の最初の伝道師になりました。キリストのメッセージを広める中で、パウロは多くの試練に直面しました。初期のキリスト教徒たちは、ローマの支配者たちによる迫害を受けました。時が経つにつれ、キリスト教の信仰はローマに定着し、ローマはカトリック教会の本拠地となりました。
「天の国はあなたの中にある」
キリストは、神は愛によってのみ悟ることできると明言しました。ある時、エルサレムの大祭司がイエスを呼んで尋ねました。「そなたはユダヤ人の王なのか?」イエスは「私はそうは言っていません」と答えました。大祭司はイエスに言いました。「そなたは間違った教えで人々を迷わせている。そなたは人々に、皆そなたを通してのみ天国に入れると言っている」。イエスは、自分は人々に天の王国を求めるようにと言っているのだと述べました。祭司は「その王国はどこにあるのか?」と尋ねました。イエスは答えました。「天の王国は、あなたの中に、万人の中にあります。これが私の教えであるとき、どうして私が天の王国は私を通してのみ到達できると主張していると非難されることができますか?」
イエスはこのように話す勇気をどうやって得たのでしょうか? それはイエスが真実を公言していたからです。真実は愛から生まれ、愛は神への信心から生まれます。
信あるところ、愛あり
愛あるところ、平安あり
平安あるところ、真実あり
真実あるところ、至福あり
至福あるところ、神あり
バーラタ〔インドの呼称/神を愛するものの意〕では、神性はブラフマー神、ヴィシュヌ神、マヘーシュワラ神〔シヴァ神〕という三つの姿で存在すると信じられています。これら異なる姿の神を見た人は誰もいません。これらの形態は特定の方法で信仰を深めるために考え出されたものです。この三位一体の神は、誰の中にも象徴として存在しています。ハートはイーシュワラ〔シヴァ神〕と見なされます。その意味は、ハートは人間の内にあるアートマ原理を象徴しているということです。このハートというのは肉体の心臓のことではなく、霊的なハートのことです。ハートは神性と愛の原理を表しています。アートマは限りないものであり、ですから、愛にも限界はありません。心の狭い人々は自分の愛に限界を設けるかもしれませんが、神の特性としての愛は無限です。
「あなたは神」
心(マインド)はハートから生じました。心(マインド)はすべてに浸透しています。
マノームーラム イダム ジャガト
(心は宇宙の土台)
心(マインド)はヴィシュヌ神を象徴しています。「ヴィシュヌ」という単語は「宇宙のあらゆるものに浸透しているもの」を意味します。心(マインド)がハートから生じたように、ヴィシュヌの原理はイーシュワラの原理から生じました。ブラフマーはヴィシュヌから生じたと言われています。人間においては、心(マインド)からアハム(自我)が生じ、ブラフマーはアハムの象徴です。これが三位一体の神の深遠な解釈です。三位一体の神は誰の中にも存在するということです。ハートはイーシュワラ、心(マインド)はヴィシュヌ、そして、「私」はブラフマーです。自己をブラフマー神と見なせば、あなたの思考と行いは道から外れなくなるでしょう。心(マインド)は中にある不純物を取り除くことによって、解脱を得る手段となります。すべての霊性修行は心(マインド)を浄化するためだけにあるのです。心(マインド)が清らかになれば、おのずと神を経験することができます。
神はあなたと別のものではありません。あなたは神です。この確信があなたの中で大きくならなければなりません。最初のうちは、あなたは自分を単なる人間だと思っています。それから、自分の潜在的な神性に気づく段階に到達します。最終的に、あなたは自分の神性を理解する段階に到達します。この3つの段階はイエスの生涯にも見ることができます。最初、イエスは「私は神の使者です」と明言しました。次に、イエスは「私は神の子です」と言いました。最終的に、イエスは「私と私の父とは一つです」と断言しました。こうした過程を経て、キリストは神との一つになることを達成したのです。
あなたは、今この瞬間から、神と一つになるための旅に出なければなりません。時間は誰のことも待ってはくれません。すべての努力を、神を悟ることに傾けなさい。そのためにはまず、エゴをなくすことが必要です。エゴを取り除かなければ、神性の至福を経験することはできません。これ見よがしの礼拝は用をなしません。富も権力も地位も、霊的な探求には役に立ちません。それらは平安を与えることも、人間に常につきまとっている恐怖を取り除くこともできません。信仰心のある人だけが、恐怖から完全に解放されます。ですから、神への信仰を深め、神に導かれた人生を送りなさい。神への信仰を手放さなくても、学問や趣味を追求することはできます。今起こっていることは、人々は富を追求する中で神を忘れているということです。人々はアートマ〔真我〕ではなくアンナム(食べ物)を求めています。アートマを悟れば、他のすべてのものは大きな努力なしで得られるでしょう。
3つの格言を心に留めていなさい
真我を悟った人は自分の人生を救ったのです。自分の欠点を自覚している人は祝福されています。他人の良いところを見る人も、同様に祝福されています。すべての人に愛を示しなさい。
今日、ここに多くの国から人々が集まっています。彼らは何のためにここに来たのでしょうか? 彼らは富を欠いていません。快適さも欠いていません。彼らは自国でいろいろなことを楽しんでいます。しかし、彼らは霊的な悟りからのみ生じることのできる真の至福を経験していません。そして、そのために彼らはやって来たのです。自分の心(マインド)をアートマ〔真我〕に向けなさい。アートマは無限です。「私のもの」、「あなたのもの」という考えを捨てなさい。自分たちは全世界の守護者である一なる神の子供であると考えなさい。三つのことを心に留めなさい。それは、神への愛、罪への恐れ、社会の道徳を守ることです。
神への愛のない人は、簡単に罪を犯し、すべての道徳的価値を失います。神への愛は罪への恐れを強め、その人に道徳的な生活を送らせます。この三位一体の原則は、三位一体の神のようなものです。それはトリカラナ シュッディ(思考と言葉と行いの清らかさ)を助長します。その清らかさを備えて行うことは何であれ、神の悟りの助けとなります。何よりも、愛を育みなさい。皆さんをここに連れてきたのは、愛です。愛を強めなさい。愛は神です。愛の中で生きなさい。どのような礼拝の形を選んでも、あなたの好むどのような霊的な道をたどってもかまいません。あなたのハートを喜ばせるものは何であれ、神を喜ばせるでしょう。あなたの良心の指示に従い、ハートを愛で満たし、神の至福に浸りなさい。
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.4 C4