サティヤ サイババの御言葉

日付:1988年1月7日
場所:プールナチャンドラ講堂
サティヤ サイ ダルマ プラチャール パリシャド〔ダルマを伝える会〕への御講話より

頂上の美徳

ダルマを失った人、
思いやりと真実を失った人
美徳がなく、悪徳でいっぱいの人は、
今生でも来世でも、幸せを見つけることはできない

神の愛の化身たちよ!

ダルマ(dharma)という言葉は、ダル(dhr/支える)という語根から派生したものです。ダーラニー〔血管〕(dhaarani)とは、ダルマを通じて万有を一つに結びつけるものを意味します。

宇宙を支えているのはダルマなり
(ダルモー ヴィスワッスヤ ジャガタハ プラティシター)

万物はダルマの中に住んでいる
(ダルメー サルヴァム プラティシティタム)

こうしたダルマの存在は、知覚や推論によって認めさせることはできません。ダルマは論理の規準を超えています。ダルマという存在はヴェーダから引き出されるべきものです。ヴェーダとは何ですか?

ヴェーダは主題や物を完全に啓発あるいは解説するものなり
(ヴェーッティヤネーナ イティ ヴェーダハ)

たとえば、ダヌル ヴェーダは弓術(ダヌル)の科学を解説しています。ナティヤ ヴェーダは踊り(ナティヤ)に関する専門書です。サーマ ヴェーダは霊的な音楽(サーマ)の科学です。アーユル ヴェーダは生命や医療(アーユル)の科学です。ヴェーダという単語の前に付いている語は、その特定のヴェーダの中で扱われている科学の種類を示しています。

日常生活で行うべき行為

ダルマと解脱(モークシャ)は、知性と五感の認識を超えた、超越的なものです。ダルマと解脱は五感には手が届かないものですが、ヴェーダはいかにしてそれらに光を投じることができるのでしょうか? ダルマと解脱を導く霊的な行為から成るヤグニャとヤーガによって示すことによってのみ、ヴェーダはそれを行うことができます。ヴェーダにさえ、直接ダルマと解脱へとつながる手段を提供する能力はないのです。だからこそ、ヴェーダは、

ナカルマナー ナ プラジャヤー ダネーナ
ティヤーゲーナィケー アムルタットワ マーナシュフ
(不死は、功徳や子孫や富によって得られるものではなく、
捨離によってのみ得られる)

と宣言しているのです。しかしヴェーダは、人は善行と善い習慣を通してダルマと解脱を実現するのに必要な能力を身につけることができる、ということも示しています。

マヌ皇帝は、人が実行すべき霊的行いと世俗的行いを規定する経典としてのヴェーダの重要性を説明するために、特別な言葉をこしらえました。マヌ皇帝は、人類を真実の道に向けるために、日常生活で実行すべきすべての行いに「ヴィダーナ」という総称を付けたのです。現代のカリユガでは、ヴィダーナという言葉は立法機関に関連付けられています。ヴィダーナとは、法を定めるものという意味です。この言葉の本来の意味を理解していないために、人類は道に迷っているのです。

ダルマというのは、すべてを包含する言葉です。全宇宙はダルマに縛られています。「ダルマがすべてを網羅しているのなら、ダルマを広めるための必要性は何か?」と問われるかもしれません。その理由は、ダルマはいたるところに存在してはいても、灰や水に覆われた火のように、ダルマは無知とプライドによって覆われているからです。ダルマを覆っているものを取り除いて、ダルマの実体が世界に明らかになるようにしなければなりません。「ダルマを伝えること」(ダルマ プラチャール)は、この目的のためにこそ必要なのです。

ダルマを伝えることと実践すること

「ダルマを伝えること」というのは、知られていないことについての知識を広めることを意味するのではありません。その基本的な目的は、ダルマの実践を促進することです。ダルマを伝える資格があるのは、ダルマを実践している人だけです。ダルマとサティヤ(真理/真実)は、自らダルマとサティヤを実践している人によって伝えられなかったせいで、影が薄くなり、認知されていないのです。ダルマとサティヤが日常生活の中で実践されている時にのみ、ダルマとサティヤの真の性質と価値は理解されるようになるでしょう。

人は素行によって判断されます。行いが善ければ、善い人と言われます。行いが悪ければ、悪い人と言われます。人の資質と行いは、相互に依存しています。行いは資質を明らかにし、資質は行いを決定します。したがって、善い資質を身につけることによって、誰もが自分を改善する努力をすべきです。スワミ ラーマクリシュナーナンダ(先の講演者)は、あなたは何年も霊的な講話を聞いてきた人や長い間アシュラムに住んでいる人たちから何が得られましたかと尋ねました。少なくとも教えのいくつかを実践するための努力がなされないかぎり、何年講話を聞いても、アシュラムに長く住んでも、役に立ちません。

寛容、思いやり、真実、愛、同情といった資質は、特定の国や宗教や共同体とは何の関係もありません。これらは霊的な資質であり、すべての場所、すべての時において、人々に不可欠なものです。

4種の清浄

人は自らの神性を顕現させねばならないものであるならば、人が伸ばすべき資質の中で最も重要なものは、クシャマ、すなわち、寛容あるいは許しです。寛容はすべての人間にとって不可欠なものです。寛容は、数ある美徳の中でも最高のものです。寛容は、真実であり、ダルマであり、同情であり、非暴力であり、その他すべてです。寛容にはあらゆる資質が含まれています。

どうすれば寛容を得ることができるのでしょう? 寛容は4種の清浄を実践することによって得られます。それは、1)器具の清浄、2)心の清浄、3)発言の清浄、4)体の清浄(行いの清浄)です。

器具の清浄(ドラッヴィヤ シャウチャム): これは、服、食料、調理器具から家にいたるまで、人が使うすべての物、人が使う多種多様な物すべてに及びます。毎日使う物はすべて、完全に清らかであるべきです。

心の清浄(マーナスィカ シャウチャム): これは、心の中から執着と嫌悪を完全に除去することを要します。憎しみと嫉妬に居場所があってはなりません。悪に善を返す度量を培い、いかなる状況においても誰にも苦痛を与えないようにすべきです。これは心が清らかな印です。現代人は憎しみと嫉妬でいっぱいです。人々は他人の幸せや繁栄を見ることに耐えられません。それは心が汚れている印です。心が邪悪な人は悪魔的な特質を発達させます。真に人間であるためには、清らかで汚れのない心を持っていなければなりません。同一の神がすべての人の中にいることを認識しなければなりません。自分に宿っている清らかな精神と、自分を動かしている力は、すべての人間に等しく存在しているということに気づくべきです。この唯一性を意識している人は、揺るぎない心を持つようになるでしょう。

卑劣な舌が心を汚す

発言の清浄(ヴァーク シャウチャム): これは、人は真実を言わなければならないという意味です。発言は甘美で喜ばしいものであるべきであり、辛辣な言葉を使うことは避けなければなりません。しゃべりすぎは避けるべきです。発言の清浄には、虚、多弁、虐待的な言葉、中傷的なゴシップ、他人に苦痛を与える発言の回避が含まれます。現代では、発言の清浄はほとんど存在しません。悪い考えと悪い言葉が時代の風潮となっています。卑劣な舌が心を汚し、人間を非人間的にしているのです。

体の清浄(シャリーラ シャウチャム): 体は、水を使ってアーチャマナ(手のひらにスプーン三杯分の水を入れて、神の御名を一度唱えるごとに一口水をすするというのを三回行う清めの儀式)を行うことによって、清められなければなりません。

以上、4種の清浄が実践されれば、寛容という資質はある程度向上します。

敵はいない

かつて、パーンダヴァ兄弟が森に追放されて生活をしていた時、ビーマとドラウパディーがダルマジャ(パーンダヴァ兄弟の長男)のそばに行き、敵であるカウラヴァ兄弟に対処するためにどんな策を持ってるかを尋ねました。ダルマジャは、にっこりとして、二人の感情を和らげるために、こう答えました。

「われらに敵はいない。われら自身の資質が、われらの友であり敵なのだ。われらの行いが、われらの敵となりえるのだ。われらは、悪い考えや悪い行いという形をとった敵を倒すことに努めるべきだ。われらの悪い感情が他人に映し出され、他人を腹黒く見せているのだ。おお、ビーマよ、われらに敵はいないということに気づくのだ。おまえがわれらの敵と見なしているカウラヴァ兄弟は、敵ではない。もしわれらが自分のハートを善い感情で満たすなら、カウラヴァ兄弟はわれらの友、兄弟となるだろう。」

マハーバーラタからもう一つの例をあげましょう。ある時、ヴィドゥラが、カウラヴァ兄弟の父であるドリタラーシュトラ王〔ヴィドラの兄〕のもとに行き、言いました。

「ドリタラーシュトラよ! あなたは身体的に盲目であるだけでなく、英知の目も欠いています。あなたは、正真正銘のマハリシ(大聖仙)の証言の上に、パーンダヴァ五兄弟はパーンドゥ〔ドリタラーシュトラの弟でヴィドゥラの兄〕の子であるということを認めました。多くの者は、五兄弟がパーンドゥの子であるということを知りませんでした。さらには、神眼という賜物を授かっている偉大なビーシュマも、その事実を証言しました。あなたはパーンドウの子たちを認め、自分のもとに置きました。ところが、あなたの息子たちは、五兄弟に注がれたその愛情と配慮を好みませんでした。邪悪な心を持ったあなたの息子たちは、パーンダヴァ兄弟をあらゆる類の試練と苦難にさらしました。自分の息子たちを溺愛するあまり、あなたはそれらの悪事を見過ごしました。もし一人の人間が毒を飲めば、死ぬのはその一人だけです。もし一人の人間に矢を射れば、怪我を負うのはその一人だけです。しかし、国の統治者が正義ならざる方策をとるならば、国全体が破滅します。国民も統治者もだめになります。悪い助言や邪悪なやり方に屈することによって、あなたはあなたの王国とあなたの王朝を災いへと導いているのです。これは適切なことではありません。」

ヴィドゥラは、この事実を認識するようドリタラーシュトラ王に警告しました。ドリタラーシュトラを非難する中で、ヴィドゥラは言葉控えめではありませんでした。ヴィドゥラは言いました。

「盲人や聾者や唖者に生まれた者、狂人、心が不安定な者に、国を統治する権利はありません。そのいずれかが統治者である時、その者は全体の破滅を引き起こします。あなたは大罪人だ。王位に就いているがゆえに、あなたは自分の手で王国を破壊しようとしているのです。

ダルマジャは寛容という最高の美徳に恵まれています。あなたはその寛容を臆病と見誤っています。寛容は、頭の上の王冠のようなものです。近いうちに、パーンダヴァ兄弟の寛容が、あなた完全な滅亡を引き起こすことでしょう。」

サティヤとダルマは人生の基盤

最終的にパーンダヴァ兄弟に勝利をもたらして永続的な栄光と名声を授けたのは、その寛容さです。寛容は4種の清浄に基づいたものです。清浄はダルマに起因しており、次に、清浄が真理を支えます。人は、この世の人生の基盤として、真理とダルマを貫くべきです。

ダルマという言葉は、ぞんざいに使うものではありません。「ダルマは支えなり」であるとか、「ダルマはダルマを守る者を守る」といった格言を繰り返すのは簡単です。しかし、必要なのはダルマの実践です。正しい行いのみがダルマを構成しています。ダルマにかなった生活を送っている人は、必ずや平安を見出します。

ダルマを広めるために町や村に行く時、あなたは人々にこう言わなければなりません。「誰にも害をもたらしてはなりません。誰をもののしってはなりません。信愛を持ってあなたの義務を果たしなさい。あなたのハートを純粋にしなさい。」

神我顕現がゴールです。しかし、私たちの行いのほとんどは、世俗的な事柄と結びついています。すべての行いを聖化するための唯一の方法は、すべての行いを礼拝の行為として、神への供えものとして、行うことです。そうすることで、人生そのものが神聖になります。

あなたは、「私のもの」や「あなたのもの」という感覚を捨て去らねばなりません。「神はすべての人間の中に住んでいる」(エーコーヴァースィー サルヴァブータンタラートマー)という真理に気づかなければなりません。この一つであるという感覚を深めて、あなたはそれを他の人と分かち合わなければなりません。

誰がサードゥか?

家長と出家行者(サンニャースィン)との区別はあまり重要ではありません。黄土色のローブを身に着けるだけでは、神の信者になれません。マントラを口にするだけでは、罪は洗い流されません。ギーターを抱えてスローガンを叫んでも、功徳にはなりません。思考と行為が一致している人だけが、サードゥ(聖人)と呼ばれることができます。誰がサードゥですか? ただ壊色のローブを身に着けている人がサードゥなのではありません。すべての人がサードゥです。すべての生き物にはサードゥの資質(善良さや清らかさ)が本来備わっています。すべて人がそれらの資質を育み、外側の衣類ではなくその資質を示さなければなりません。思考の清らかさこそが、その人の持つサードゥの資質を顕現させるのです。

サードゥになるのにオレンジ色のローブを着る必要はありません。ハートが純粋でなければなりません。ラーヴァナはシーターを誘拐するのに行者の衣を身にまといました。その衣はラーヴァナの邪悪な意図を隠しただけでした。手放すべきは邪悪な性質です。たとえそのプロセスが始めは少しずつであったとしても、それは大いなる善に終わるでしょう。そのスタートは、年若い時になされなければなりません。

純粋なハートで祈るなら、神は助ける

ある母と息子が気の毒な境遇に暮らしていました。父親は息子が生まれた時に亡くなりました。母は大変苦労して息子を学校にやり、息子は最終学年になりました。そのため、90ルピーの受験料を払わなければなりませんでした。どうやってそんな大金を工面したらいいものかと、母は途方に暮れました。母は木の下で泣いていて、息子は母親が悲しんでいる原因を知ろうとしてしつこく尋ねました。受験料を払わなかったら進学はあきらめなければならないと母親が言うと、息子は子供らしく無邪気に、誰か助けてくれる人はいないだろうか、お金は後で返すから、と尋ねました。母親は言いました。

「助けのない者を助けてくれるのは神様だけです。神様はすべての富の源、神様は生きとし生けるものすべての大黒柱です。」

息子は無邪気に、「その神様はどこにいるの? どうにかして僕が神様からお金をもらってきますから」と尋ねました。「神様はヴァイクンタ天においでです」と母親は言いました。息子は母親の言葉を絶対的に信じました。息子は郵便局に走っていって、手紙を書き、封筒を買い、手紙を封筒に入れて、「ヴァイクンタ天、シリーマン ナーラーヤナ様(ヴィシュヌ神の別名)」と宛先を書きました。それから、自分の背丈よりも少し高い所に設置されていたポストに、その手紙を入れようとしました。

少年がポストに手紙を入れるのに苦労しているのを見ていた郵便局長が、手助けにやって来ました。局長は少年に、「君は誰にその手紙を送ろうとしているのかね?」と尋ねました。息子は答えました。

「これはとても緊急の手紙なんです。明日までに受験料を払うお金が必要なんです。どうかこの手紙がすぐに発送されるよう見ていてください。」

郵便局長は少年から手紙を受け取り、宛先に「ヴァイクンタ天、シリーマン ナーラーヤナ様」と書かれていることを知りました。郵便局長は、その住所を教えたのは誰かを少年に尋ねました。少年は事の一切を話し、シリーマン ナーラーヤナは、貧しい人、希望を失った人避難所であると母が言っていたと語りました。

郵便局長はその話に涙しました。そして、その少年の純朴さと純粋なハートに感動して言いました。

「愛しい子よ! 手紙は私が出しておく。君は、明日の朝、ここに来なさい。お金はそれまでに届くだろうから、それを受け取りに来るのだよ。」

少年は言葉にならないほど喜んで、その知らせを母親に伝えました。翌朝、少年は郵便局長に会いに行き、お金が届いたかどうかを尋ねました。郵便局長は郵便局の中に入り、90ルピーを持ってきて少年に渡しました。

少年はお金を持って母親のところに走っていきました。息子はどうやってそれを手に入れたのだろう、盗んだのだろうか、それとも、誰かからもらったのだろうかと、母親は考えました。母は息子に、どうやってそのお金を手に入れたのかを尋ねました。息子は起こったことをすべて話し、お金はナーラーヤナ神ご自身から送られてきたのだと断言しました。母親は、では私を郵便局長のところへ連れて行っておくれと息子に言いました。郵便局長は母親に言いました。

「私が息子さんの手紙を見るや、神は私を息子さんの助けになろうという気にさせたのです。お金は神から来たのです。私は神が手にした道具にすぎません。」

子供のような無邪気さで祈りなさい

この話の教訓は、もし私たちが純粋なハートで神に祈るなら、神はその祈りに応えるために誰かを使うだろうということです。「神はどこにいるだろう?」、「神はどうやって助けてくれるのだろう?」といった疑問を掲げるのは愚かなことです。そのような疑問が掲げられると、信心は弱まります。そういった理由で、シュリ ラーマクリシュナ パラマハンサは、「もし神に祈りたければ、無邪気な子供のようになりなさい」と言ったのです。イエスも、弟子たちに話をしていた時、同じことを言いました。

「私のところにやって来る小さな幼子のように苦しみなさい。天の王国はそのような者のためにあるのだから。」

イエスはよく、こうも言っていました。

「私が今日、たとえ一瞬でも子供のようであるならば、私はどれほど純粋になれることだろう。」

私たちは、ハートの中にそれほどの無邪気さと純粋さを持っていなければならないのです。子供たちは母親の言葉に耳を傾けなければなりません。母親は子供に間違った考えを吹き込むことを避けるべきです。こうした模範的な母と子がいるとき、世界は喜びと祝祭で満たされるでしょう。バーラタ(インド)にそのような母と子がいる時、バーラタは世界の手本となるでしょう。

あなた自身の考えや行動に変化がないならば、あなたが他人に説教しても役に立ちません。あなたのハートと心を清めるために、そして、ハートと心を純粋な思考と感情で満たすために、あなた自身がサーダナ(霊性修行)に従事しなさい。

活動的なサードゥたち

ダルマのメッセージを広めるという重荷は、老齢にもかかわらず村々を回っていたスワミ ブーマーナンダによって担われてきました。出家行者(サンニャースィン)であるにもかかわらず、彼はダルマを伝えることに身を捧げ、人々にそのメッセージを伝え続けています。他のサードゥたちも、その聖なる使命において彼に協力しています。スワミ サッチダーナンダ、スワミ ラーマクリシュナーナンダをはじめとするサードゥたちは、熱心にこの仕事を続けています。彼らは皆、純粋なハートの持ち主です。私は彼ら全員を祝福し、彼らがこの仕事を倍の活力でやり続け、人生を贖うことを望みます。

彼らが何をしても、それは神への奉仕と見なされるべきです。彼らは自分を神の道具と考えるべきです。これのみが真の社会奉仕です。個人的な救済のためにジャパや瞑想をするのは、利己主義の一形態です。あなたハートを大きくして、あなたといっしょに他の人を解脱という最高のゴールに連れて行く努力をしなければなりません。狭い視野を捨て、すべての人への愛を持つべきです。もう憎しみや妬みという旧態を捨て去ってもよいころです。

自国に戻るまでに平安と心の静けさを得ようと、何千マイルも旅してきた海外諸国の人たちが、今日ここにいます。何年もここにいる人たちはそうした資質を育もうとせず、心配と混乱に浸っているのは、残念なことです。彼らはまるで、蓮の花の蜜を知らないカエルのようです。蜂たちは蜜を探すために遠くから集まってきます。無関心は去るべきです。ここにいる人たちは、自分がここで学んでいることの少なくともいくつかを実践すべきです。そうすれば、自らの天命に向かって前進することができるでしょう。

ダルマ プラチャール パリシャド〔ダルマを伝える会〕によって始められた、ダルマを伝えるための偉大な運動は、必ずや成功します。スワミ〔ババ〕は、この運動に必要なあらゆる力と援助と差し伸べるでしょう。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.21 C1