サティヤ サイババの御言葉

日付:1988年1月14日
場所:サティヤ サイ大学講堂
サイの学生への御講話より

神の愛を獲得しなさい

存在するものはすべてサット〔絶対実在〕から現れた
サットは創造世界のすべてに染み渡っている
サットの力なしには何も存在できない
永遠なるサットの栄光を見よ

苦しい輪廻の海の上で翻弄され、
舵(かじ)もコンパスもなく、あちこちをさまよう中で、
しばし心を定めるならば、
おお人よ、吉祥なる主が
救いの小舟を送ってくれるだろう

「バガヴァン」の真の意味

神の愛(バーガヴァタ プレーマ)は、人生で何よりもまず獲得すべき応報です。神の愛は、この世にあるあらゆる富よりも貴いものです。すべての富と地位は、神の愛と恩寵によって得られます。

神の愛の価値は、「バガヴァン」という語の意味がわかって、初めて正しく理解できます。ブラフマン、パラブラフマン、シャブダ〔音〕という語は、バガヴァンの名前として用いられている語です。バガヴァンという語はそれらすべての中で一番甘い語です。

「バガ」は、「あらゆる神の属性の宝庫であり、比類なき崇拝の価値のある者」という意味です。

「ガ」は、「あらゆる美点を有する者、一切を創造し、維持し、破壊する者」のことを述べています。

「バ」という文字には、サンバルタとバルタという二つの意味があります。サンバルタは「原質(プラクリティ)を創造のプロセスの道具にする能力を有する者」を意味します。サンバルタは創造したものを維持する能力も有しているので、バルタ〔保持者・バルトル〕とも呼ばれています。

「バ」には他にも、平安(シャーンティ)、光、輝き、照明といった意味があります。

「ガ」は、「遍在する者」を意味します。

「ヴァン」は、「能力のある者」を意味します。

ですから、「バガヴァン」という語は、「神の輝き、すなわち英知の照明、永遠なる魂の内なる光を灯す能力のある者」という意味なのです。それほどの全知全能の主の愛を得ることよりも偉大なことがあり得るでしょうか? この世にも、あの世にも、神の愛と等しいものは存在しません。神の愛を獲得するためにあらゆる努力をすることが、人として存在する目的と意味のすべてなのです。

誰もが一点集中を必要とする

幸せな生活を送るには、心(マインド)の平安が必要です。心は荒れ狂うガンジス川のようなものです。高速で走る車に乗っている時のように、ブレーキを使うことによって心を抑制しなければなりません。心を制御するため考案されたブレーキが、ディヤーナ〔瞑想・禅〕です。ディヤーナとは一点集中を意味します。人を苦しめる病気はすべて、心の動揺の結果です。今、世界で病気が桁外れに増加しているのは、心の平安が失われているせいです。病気から逃れて、穏やかで健康な生活を送るには、心の平安を深めなければなりません。

人の心(マインド)には三種の機能があります。一つはアネーカーグラター〔集中していないこと〕、もう一つはシューニャター〔無反応〕、三つ目はエーカーグラター〔一点集中〕です。

シューニャター〔無反応〕とは何でしょう? シューニャターとは、何か徳を養うようなことが語られている時に心が寝入ってしまう状態です。善良で有益なものに対して心が無反応になるのです。このような心の状態は鈍性(タマスィック)と呼ばれます。それは無知という盲目です。

アネーカーグラター〔集中していないこと〕は、同様に、望ましくない心の状態です。これも人を堕落させます。

それから、心が一点に集中している状態〔エーカーグラター〕があります。これは今、すべての人に最も必要なものです。

スポーツや試合をすることは、集中力を高めるのに極めて必要です。スポーツや試合は、体の健康と心の健康を促進するのに役立ちます。スポーツや試合は、主に体を良い状態に保つために行うものです。不幸なことに、現代では、スポーツやエンターテイメントの領域にも商魂が猛威を振るっています。金儲けという考えが主流になると、健康を考えることは後退してしまいます。スポーツと美術は、商売の方法になってしまい、健康や喜びのために行われるものではなくなっています。アート(美術)はハートから生じますが、現代では、アートがハートから切り離されています。アートの霊的な基盤が無視されています。

神のためにどんな犠牲もする覚悟でいなさい

今、学生諸君に必要なものが三つあります。それは、犠牲の精神、神への信愛、母国への愛です。人々は人間ではなくなっています。なぜなら、人々は慢心と自分本位と利己心でいっぱいだからです。ですから、人々の間に、神への信愛、愛国心、自己犠牲という特質を持たせることが、この上なく重要なのです。そのために最初に必要なのは、「私の」と「私のもの」というものを排除することです。母国のために進んで自分の楽しみや快適さを犠牲にすることを、学生諸君の間で推進すべきです。高潔な心を持つ、霊性に方向づけられた学生が多ければ、国は平和と安全を獲得するでしょう。

教育は知識を得るため、そして、人生の挑戦に数々に立ち向かうためにあるべきであり、単に職を得るためにあるのではありません。学生諸君は政府や官庁でのポストを求めて媚(こ)びへつらう卑しい人になるべきではありません。神を信じて、神だけに頭を下げるべきです。神と国のためにはどんな犠牲もする覚悟でいなければなりません。邪悪な勢力が力を得ているのは、国民が神とダルマの力を信じなくなったからです。学生諸君は、自分を頼りとし、自分を信じなければいけません。

学生諸君は、真実、正義、堪忍寛容、自己犠牲といった、基本的な特質を支持しなければいけません。これらは、国籍や宗派や言語に関わりなく、万人に共通のものです。学生諸君は、どの人の中にも神が存在しているという事実に基づいて、広い視野を育まなければいけません。神を信じ、神の恩寵を得るならば、成し遂げられないことなど何一つありません。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.21 C4