サティヤ サイババの御言葉

日付:1988年9月3日
場所:プラシャーンティ マンディール
クリシュナ神御降誕祭(ゴークラアシュタミー)、ババが骨折したときの御講話?より

アヴァターの役目

自然の贈り物の美しさは素晴らしきものです。それは驚異的であるだけでなく、神聖でもあります。自然が何を促進しようとも、何を滅ぼそうとも、自然が授けるもの、あるいは、取り上げるものは、等しく目を見張るものです。この驚異を理解するのは容易なことではありません。

人間は、この世に生まれていながら、自分が生まれた目的を認識していません。その目的を忘れて、人間は自分を自然の支配者であると思い、正気とは思えないような自惚れに浸って、自分の神聖を忘れています。人間は、自然こそが与え、取り上げるということ、自然こそが恵み、罰するということ、自然の支配力は広範囲に及ぶということに、気づくことができずにいます。

自然は生活のあらゆる側面を支配しています。人間は浮世の事柄に深くのめり込んでいる中で、自分の神性、そして、自分が自然からどんな恩恵を負っているかを忘れがちです。神の目には創造世界の一切万物は等しく見えます。神はそのすべてに内在しています。ですから、神と自然を別個のものと見なしてはなりません。神と自然は、物体とその映しのように不可分の関係にあります。しかしながら、人間は自然の外側を見て、自然は単に物質であり、人間が求める快適さを与えてくれるものだと考えています。

人間にとって、自然は最高の教師です。どの物も、どの人も、一刻ごとに、さまざまな教訓を人間に提示しています。バーラタ人〔インド人〕は、この真実を最古の時代から認識していました。これは神聖なバーラタ文化の第一の特徴です。石ころからダイヤモンドにいたるまで、蟻から象にいたるまで、まぬけな人から聖人賢者にいたるまで、バーラタのすべての物、すべての生き物は、神の顕れと見なされていました。どの物も礼拝に値すると考えられていました。だからこそ、バーラタ人は石の像を神聖視して礼拝したのです。

神の愛はすべての生き物に施されるべきもの

バーラタは、トゥラスィーの木の苗木から巨大な菩提樹まで等しい信愛をもって礼拝されていた国です。牛、馬、象、そして、他の動物たちも、聖なる礼拝の対象として扱われていました。蟻でさえ、世話と保護に値するものと見なされて、毎日、米の粉や砂糖が与えられました。カラス、鷲、犬、猿も、礼拝に値すると考えられていました。無知な人は、創造世界のさまざまな対象物に対するこうした姿勢の中にある深い真理に気づかずに、この種の礼拝を愚かな迷信として片付けるほうを選びます。これはまったく間違っています。バーラタは、神聖な愛の表現は人類だけに限ることなく万物に広げるべきであると考えていました。これはバーラタが世界に差し出している偉大な理想です。どこの国も、この知識と理解の深遠な真意を把握していません。バーラタは、この神聖で霊的な真理を掲げ、また、この神の見方を固く守ってきた国です。

インド文化の神聖な側面

ギーターは言明しています。

アドヴェーシター サルヴァ ブーターナーム
(すべてのものに敵意を抱かず)

誰かを憎むことは、神を憎むことになります。経典はこうも言明しています。

サルヴァ ジーヴァ ナマスカーラム ケーシャヴァム プラティガッチャティ
(誰に合掌しても、それは神に届く)

こうしたインド文化の神聖な側面を理解して、その真価を認める外国人は、わずかしかいません。インド人でさえ、多くの者がバーラタ文化を特徴づけている純粋性と神性をよく理解していません。たとえ名前と姿形はさまざまであっても、創造世界の多様性の中には唯一性が存在するということを、バーラタは常に公言してきました。

自然は神の表れなのですから、誰もその法に背くことはできません。人は、自分の真の本質に気づくために生まれていながら、宇宙についての真実を理解しようと努める代わりに、物質的なものを手に入れることを追い求めて自分を見失っています。人間の体は5つの基礎的な元素でできており、必ずや朽ち果てるということに、人は気づいていません。一時的で朽ちてしまう肉体を、永遠の実在を悟るための唯一の手段と見なすべきではありません。肉体は善い性質と善い行為が保管されている鉄の金庫である、と考えるべきです。大切にすべきものは、その善い性質です。もし今日の世界の状況がひどいものであるならば、それは人間の行いと振る舞いが善良でないからです。人々は正義の道に立ち戻り、善良で敬虔な生活を送るべきです。

人間として生まれるのはカルマの結果

神は、かけ離れた存在ではありません。人間は神の似姿です。

ダイヴァム マーヌシャ ルーペーナ
(神は人間の姿をとって現れる)

と諸経典は言明しています。神は、かけ離れた姿をとりません。時おりアヴァター(神の化身)が降臨するのは、人間としての生を神聖なものにする方法を人類に示すためにです。

神がアヴァターとして降臨するのは、個人のトラブルや悲しみを軽減して人々に歓びと幸せを与えるためではないということを、私はこれまで何度も明言してきました。困難やトラブルや心配事は、本人の過去の行為の結果として、当然の成り行きの中にやって来ます。ギーターは述べています。

カルマーヌバンディーニ マーヌシャ ローケー
(人間はこの世での行為に縛られている)

人間として生まれるのはカルマ(行為)の結果なのですから、カルマの結果からの逃げ道はあり得ません。あなたの行為のとおりの反作用があるのです。あなたが鏡の前に立ってお辞儀をすれば、鏡に映るあなたもお辞儀をします。あなたが鏡に向かって辛辣な言葉を吐けば、鏡に映るあなたも同じように辛辣な言葉を吐きます。この例からも明らかなように、私たちの行為の報いは、その行為の性質によって決まります。

バーラタ人は三つの信条を固守しています。それは、カルマの法則、アヴァターの概念、輪廻転生の原則です。

カルマの法則とは、自分の行為の結果から逃げる道はないということを意味しています。カルマの教義は、人は自分の行為の結果を体験しなければならないということを定めています。

アヴァターの概念とは、神を信じること、そして、人間に備わっている神性を信じることを意味します。単に人間の姿をしているから人間なのではありません。人間は、何が永遠で何が儚いものかを判断する能力、そして、過去と現在と未来を認識する能力を備えていることによって、他の動物や生き物とは区別されます。時間の三つの性質〔過去・現在・未来〕を理解する能力を持っているのは、人間だけです。人間は、過去のことをよく考えて、未来について推測することができます。人間は現在を体験することができます。とはいえ、過去のことを気にするべきではありません。現在は過去の産物です。起こってしまったことは取り消せません。未来を気にするのも無駄なことです。なぜなら、未来は不確かなものだからです。現在のことだけを考えなさい。

「現在」というと、人は今の瞬間のことだけを考えるかもしれません。しかし、それは神が見ている現在ではありません。神にとって、現在(present)は遍在(omnipresent)です。これは、過去と未来はどちらも今あるものの中にあるという意味です。なぜなら、今あるものは過去の結果であり、未来の種だからです。人間は神の遍在を固く信じていないために、過去や現在や将来について思い悩むのです。神にとっては、時間の三つのカテゴリーは存在しません。

私は自分の未来のことは考えない

何人かの帰依者の心に疑問が生じました。「スワミは将来起こることを知っているだから、自分が風呂場で転ぶことを予知して、それを避けるべきだったのではないか?」と。私は未来についての一切を知っています。けれども、私が考えるのは他の人たちの未来のことだけで、自分の未来のことは考えません。あなた方は次の事実を注意深く心に留めておかなければいけません。

カルタヴャム ヨーガム ウッチャテー
(自分の義務を行うことはヨーガなり)

私は、その時々に「今この瞬間に自分がしなければならないことは何か」ということだけを考えます。何らかのことが起こるでしょうが、それらは来ては去ります。世界で起こる出来事は、流れ行く雲のようなものです。それらの出来事は一定の経験を引き起こします。学生諸君はそれらの経験に留意すべきです。

アヴァターの目的

神がアヴァターとして降臨する時、それがラーマであれ、クリシュナであれ、マツヤ(魚の姿をとった化身)であれ、ヴァーマナ(小人の姿をとった化身)であれ、その目的は一つです。あなた方は降臨の一時的な結果しか認知しませんが、神は愛についての真理を人類に教えるためにアヴァターとなって降臨する、ということを心に留めておきなさい。

おお、人よ、あなた方に愛がなく、身勝手さでいっぱいだから、
世界はこれほどの争いとカオスに陥っているのだよ
あなた方が愛と犠牲の精神を持ちさえすれば、
人間の中にある神性に気づくようになるのだよ

犠牲(ティヤーガ)の精神のない人は、あらゆる病気の餌食となるでしょう。愛のない人は生ける屍です。愛と犠牲こそが人を神にするのです。

愛の果報は愛のみです。愛の証人は愛です。愛にはほんのわずかな私欲もありません。愛は愛のために存在しているので、愛には恐れがありません。アヴァターがこの世にやって来るのは、人類に愛の道を教えるためです。世界は、一なるものから生じた多様性を表し示しています。神は、多様性の中に包含されている唯一性を、身をもって示します。この「多様性の中の唯一性」の気づきは、神からしか学べません。

クリシュナ アヴァターは、人の姿をとった遊び好きの神、世界の理想、神聖な統治者、アートマの顕現といったように、さまざまに描写されています。神に対する信者たちの純粋で穢れなき公平無私の愛を公言するために、神はアヴァターとなってやって来ます。アヴァターの活動には、悪人を罰し善人を守ること、不正を排除し正義を復興すること、が含まれていると人々は考えています。これは、人はアヴァターのすることをどう見ているかを示しています。しかし、これは主のものの見方ではありません。神の目から見ると、悪いものは何もありません。ですから、どんな存在に対しても憎悪や悪意があるべきではありません。あなたがすべてを愛している時にのみ、あなたは自分は神を愛していると言うことができます。

いつも神のことを考えていなさい

神の概念は、信者本人の気持ちによって決まります。信者が「おお、主よ! あなたは私の苦しみが見えないのですか? 私の嘆きが聞こえないのですか? 私が味わっている困難が見えないのですか?」と祈るなら、信者の前に現れるのは主の二つの目〔や耳〕だけです。その信者には主の全身は見えません。

現代の霊性の求道者の心(マインド)の状態は次のようなものです。彼らは瞑想している時にはヨーギのように見えますが、瞑想を終えて日常の活動に戻ると、世俗の快楽に浸ります。これはクリシュナが説いた生き方ではありません。クリシュナは「サタタム ヨーギナハ」(いつもヨーギでいなさい)と明言しました。今、私たちに見えるのは、朝はヨーギ〔神との合一を果たそうとする者〕、昼はボーギ(快楽を追い求める者)、夜はローギ(病人)となっている人たちです。そのような人々が、どうやっていつもヨーギであり続けることができるでしょう? あなたは、いつも、どんな状況でも、何を見ても、何をしても、何を言っても、何を経験しても、神のことを考えていなければなりません。自分が快適な時は神に祈り、困難にある時は神を非難するというのは、あなたの自分勝手で狭い見解を反映しています。

あなた方には、どんな時と場合に何が起こるかを知ることはできません。起こるべきことを阻止することはできません。ですから、起こることは何ごとも神の贈り物と見るべきです。それほどの信念と神への愛を身につけた時に、初めて真の霊性は育まれるのです。世俗的な執着が制限なしに増殖するのを許してはなりません。神だけに執着することは、他のあらゆる執着を超越したものであり、永久のものです。どこへ行っても、何を見ても、神を喜ばせること、あなたを歓喜させることだけを思う神聖な気持ちを抱いていなさい。体は道具にすぎません。体を生かし、体を動かし、体に物事を体験させているのは神です。この真実がわからない人たちは、「自分は信者だ、自分は神に近い、自分はすべてを手放した」と吹聴します。

牧女の信愛

ある時、シュリ クリシュナは、ブリンダーヴァンの無学な牛飼いたちの信愛が、ルクミニー妃やサティヤバーマー妃、あるいはナーラダ仙よりも、どれほど深く完全なものであったかを示すために、ちょっとしたお芝居をしました。クリシュナは、ひどい頭痛に苦しんでいるふりをして、これを治せるのは信者の足に付いた塵だけだと言いました。ルクミニーもサティヤバーマーもナーラダも、とても自分の足の塵を差し出す気にはなれませんでした。自分の足の塵を塗り付けるようなことをして、クリシュナの神聖な頭を穢そうものなら、自分は地獄行きだと思ったからです。ナーラダが牧女(ゴーピカー)たちのもとに行くと、牧女たちは自分の足の塵を集めることに何の躊躇もしませんでした。というのも、牧女たちには「すぐにでも愛するクリシュナの頭痛をなくしたい」ということしか頭になく、その結果として自分に起こることなど気にもかけてなかったからです。牧女たちは、その行為がもたらす恐ろしい結果についてナーラダから警告を受けましたが、自分たちに起こるかもしれない最悪の事態などどうでもいい、ただクリシュナの頭痛がなくなればそれでいいと、牧女たちは言いました。

神のやり方

牧女たちが足の塵を差し出した瞬間に、クリシュナの頭痛は消えてなくなりました。ナーラダは、牧女たちが身をもって示した、その完全なる無私の信愛こそは、プレーマ バクティ(信愛の最高の形)であったということに気がつきました。神は、すべての物の中に、すべての生き物の中に、すべての足の中に、そして、すべての足の塵の中にもいます。神は、あなたが泥棒だと思っている人の中にもいます。

現代世界を悩ませている困難を取り除くには、唯一性を深めるしかありません。唯一性は、愛によってのみ深めることができます。愛によって果たせないことは何もありません。愛は神です。神は愛です。愛の中で生きなさい。

愛がいかに働くかを示す実例があります。この15日間、私は衝撃〔腰の骨が折れたことによる激痛〕を感じずには動けませんでした。今日、ここに出てきて、帰依者たちの幸せそうな顔を見て、私は喜びでいっぱいになり、自分の体の状態のことはすっかり忘れてしまいました。これが、神はいかに働くかということです。それは、あなた方の愛を味わい、そのお返しにあなた方を愛で満たすためです。愛のないところに喜びはあり得ません。

あなたのハートを愛で満たしなさい

牧女たちは、自分が行うすべての中にクリシュナを見るほどに、愛に満ちていました。あなたのハートを愛で満たすと、あなたは誰のことも悪く思わなくなります。神はすべての人の中にいるという信念を育てなさい。奉納の精神で神に全託しなさい。

クリシュナと牧女たちの関係の象徴的な意味は次のようなものです。ハートはブリンダーヴァン〔クリシュナの住む地〕です。思考は牧女たちのようなものです。アートマはクリシュナです。至福はクリシュナの遊戯です。一人ひとりが自分のハートをブリンダーヴァンへと変え、そこに宿るアートマをクリシュナと見なさなければなりません。あらゆる行為はクリシュナのリーラー〔神聖遊戯〕であると考えるべきです。

ゴークラアシュタミー〔クリシュナ神御降誕祭〕は、クリシュナ神にパラマアンナム(米を椰子糖で甘く煮たデザート)を供えて祝われます。「パラマアンナム」の本当の意味は、「パラム(至高なるもの)と結び付いたアンナム(食べ物)」というものです。パラマアンナムは甘いものです。あなたの愛も甘くなければいけません。あなたが神に捧げるものは、あなたの甘い愛でなければいけません。あなたの愛は、すべてを抱擁するものでなければなりません。これはアヴァターの第一のメッセージです。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.21 C25