サティヤ サイババの御言葉

日付:1989年1月21日
場所:アナンタプルのサティヤ サイ女子大学
サティヤ サイ女子大学での御講話より

人生を聖なるものにせよ

全世界はハリ(ヴィシュヌ神)で満ちている
ハリは全能であり、これには疑いの余地はない
この世界のどこを見ても、ハリを欠くものは存在しない
信仰をもって崇めるなら、石でさえナーラーヤナ神〔ヴィシュヌ神〕となる
信仰がなければ、それは泥まみれの石ころにすぎない!
信仰のある者が滅ぼされたことはかつて一度もない
これは語り伝えられる真理なり

女子学生の皆さん!

この広い世界で人間として誕生することは、無数の生物の種の中で最も価値のあることです。

ドゥルラバム マヌショー デーハハ
〔人間の肉体を有することは最も稀なことである〕

その神聖さにもかかわらず、そして、その類まれな立場にもかかわらず、英知を欠いているならば、人生は浪費です。

グニャーネーナ ヒーナハ パシュビ サマーナハ
人間を他の生物種とは異なるものにしているのは英知である

英知が失われるなら、人間は他の動物と似たようなものにすぎません。人間たちが神聖な教育の探求に着手するのは、英知を手に入れるという目的があるからです。知識には、書物で得る知識、皮相的な知識など、いくつかの種類があります。これらあらゆる知識の中で一番重要なのは霊的知識です。この実用的知識がなければ、他のすべてのものは無駄になります。実践に役立つ霊性に欠けるなら、人生はまがいものになってしまいます。

女子学生の皆さん!

近ごろ、人間は絶えず平安を探し求めています。いくら平安を公言しても、わずかでも平安はあるでしょうか? 心(マインド)の平安なくして安らぎはありません。心配の裏にある理由は何でしょう? 悪い欲望と無駄な考えが、不安と後悔の原因です。

平等観を養いなさい

不満の原因は嫉妬です。人々はどういうわけか、自分より高いレベルにいる他人を嫉妬の目で見て、自身の健康と平安を損なっています。最近では嫉妬が猛威を振るっています。それについて、一人ひとりが忍耐強い努力をもって自らを点検しなければなりません。自分より高い地位に就いている人への嫉妬、自分より知識がある人への嫉妬、自分より容姿がいい人への嫉妬、などです。自制心を身に付けない限り、嫉妬の態度に終わりはあり得ません。どうやってそうした思いを抑えたらよいでしょう? 嫉妬にかられる人々は、自分より高い地位にいる人だけを見ていますが、自分より低い地位にいる人を見れば真理がわかります。それは、私たちが見方において平等観を養わなければならないということを意味しています。

女子学生の皆さん!

人間性の中に存在するこうした神性は、正しい見方で理解されなくてはなりません。全世界は基盤となる五つの自然の元素の統合された姿であり、私たちの身体は全世界のレプリカ(複製)です。それら五大元素である、地、水、火、風、空間(エーテル)は、私たちが「自分のもの」と呼んでいる身体の基盤となる物質です。皮膚は地の原理を表しています。二番目は水、すなわち液体です。三番目の元素であるアグニ(火)は、消化や網状組織の原因となるものです。風は生気を維持します。空間(空)という様相は、以上のすべてが機能するための領域です。しかし、これらの元素は多様な比率で浄性(サットワ)、激性(ラジャス)、鈍性(タマス)という三つの基本的特質と結び付いているので、それらは個々に、あるいは連帯して、私たちのさまざまな振る舞いの原因となります。ですから、善悪は共に自分自身の中から生じると言えるのです。

人間は、このことを自分の知性を使って理解するよう懸命に努力し、悪魔的な傾向ではなく神性原理を育てようと努めなければなりません。それは思いと言葉と行動を一致させることによって可能です。思いと言葉と行動という三つの面がすべて清められると、それは「トリカラナ シュッディ――三つの道具の清らかさ」と呼ばれます。これら私たちの生活の基本的な道具は、私たち自身を高めるために浄化されなければならない、とヴェーダーンタ〔ウパニシャッド〕は述べています。個人の正義や非正義の原因となっているのは、これら三つの道具です。三つの道具から不純物が取り除かれた時、私たちは平安、幸福、快適さ、そしてさらに、神我顕現さえ味わうことができるでしょう。

ヴェーダ、ウパニシャッド、ダルマ シャーストラや他の神聖な経典には、この「トリカラナ」に関して広範囲にわたる記述があります。身体の手足はカラムと呼ばれています。善行も悪行も、どちらも手足でなされます。ヴェーダにおけるカルマ カーンダ(行為に関する巻)は、人間に神聖な行為をする方法を教えています。同様に、ヴェーダのグニャーナ カーンダ〔英知に関する巻〕とウパーサナ カーンダ〔礼拝に関する巻〕は、知識の道とバクティの道を教えています。したがって、ヴェーダの三つの主要な巻、すなわち、カルマ カーンダ、ウパーサナ カーンダ、グニャーナ カーンダは、幅広い道具であり、それらを通して人間が存在の最高段階まで自分を引き上げることのできるものなのです。

まず、私たちは手を使って善行をしなければなりません。これはカルマ カーンダ〔行為に関する巻〕を表しています。

二番目のものは、神の御名を唱えるのに用いる口です。ですから、口はウパーサナの巻〔礼拝に関する巻〕に相当します。私たちが話す言葉は真実に則したものであるべきです。真実〔真理/サティヤ〕のみが究極の成功をもたらすことができるのです。真実より偉大なダルマは存在しません。皇帝バリは自分の師にこう言いました。

「約束をした後で、そんな約束はしていないなどと嘘を言うことほど大きな罪があるでしょうか?」

話をする時、激情や復讐心が漂う甚だしい感情が言葉に浸み込んでいてはなりません。言葉は、真実に欠けるものや不愉快なものであってはなりません。人は、優しい言葉を使って愛情を込めて話さなくてはなりません。話は手短であるべきです。これら一切は舌に属する真実に付随するものです。ハリシュチャンドラ王は、言葉の真実を貫くために、一切を捨てました。息子と妻さえも捨てました。だからこそ、計り知れぬほどの長い年月が過ぎてなお、ハリシュチャンドラの名は地上に残っているのです。真実の言葉は、私たちを人間性から神性へと導きます。

第三の道具は心(マインド)です。

マノームーラム イダム ジャガト
世界は心に基づいている

と言われています。心がなければ世界もありません。人間は心を自分の解脱にも束縛にも使うことができます。ですから、心は善いものなのか悪いものなのかを述べることはできないのです。ナイフを善用することも悪用することもできるように、心の善し悪しは使い方次第です。ですから、話をするときや何かを行うときには、十分注意して心を用いなければなりません。人は話し方によってその人が人間であるか動物であるかを判断されます。人は振る舞いを通して、パシュ(動物)か、パシュパティ(動物の主/シヴァ神)か、どちらかの役割を担うことでしょう。これに関連して、ジャヤデーヴァ〔12世紀のインドの詩人〕はこう歌いました。

ジフヴェー、ラサグネー、マドゥラ プリィエーットワム、
サッティヤム、ヒタム、スワンタム、パラマム ヴァダ
〔舌よ、おまえは味を知る者であり、優しく話すことを望む者であり、
真実を心地よい言い方で話す者であり、最も有益なことを話す者である〕

口は、他人を口汚くののしったり、からかったり、誰かを傷つけるために与えられたわけではありません。口は甘い言葉を話すために与えられているのです。五つの感覚器官のうち、目と口だけは閉じることができます。それ以外の感覚器官は閉じることができません。耳には閉じるものがありません。ですから、あなたは何でも聞こえます。鼻にも閉じるものはありません。鼻をふさげば、息の根が止まります。一方、目には瞼があります。それは、何か悪いものを見た時には瞼を閉じなければならないことを意味しています。

耳は、聞くという機能だけを授けられています。同様に、目は見るという機能一つを授けられています。鼻は匂いを嗅ぐことができるのみです。一方、口には二つの機能が授けられています。口は食物を味わうことができ、言葉を話すこともできます。実際、口の力は恐るべきものです。口は注意深く監視されなければなりません。足が滑ってもさほど害はありません。しかし口を滑らせたなら、壊滅的な影響をもたらします。仮に足を滑らせても、その影響をこうむるのは滑った本人だけです。その足は医者が治せます。一方、口には他人のハートをひどく傷つけることが可能であり、相手が受けたその傷はどんな医者でも決して治すことはできません。ですから、話をする時はきわめて注意を払うべきなのです。そうすれば、私たちの言葉が他人の気持ちを傷つけることはないでしょう。

言葉の背後にある根原は心(マインド/思考の束)です。思考は海の波のようなものです。思考にはきりがありません。海の波は限界を超えることはありません。心の波には限度というものがありません。ですから、心の取り扱いには制限を課することが重要です。心を悪い思考から方向転換させ、一時的なものとは違う、永遠に価値のあるものを熟考することや識別することに従事させるべきです。平等観と神聖さという視点を保つことが重要です。

カルマ(行為)、バクティ(神への愛)、グニャーナ(英知)の三つの道のうち、バクティは真ん中の道です。バクティの道は、高い段階に到達して平安と至福と解脱を手に入れるのに一番易しい道です。バクタ(神を愛する者/信者/帰依者)とは、神から引き離される(ヴィバクタ)ことができない人です。神はこの世界とは異なる存在であるという考えを抱いて礼拝する人々もいます。この種の区別を認めることは適切ではありません。

信仰は常識に従わなくてはならない

全世界はハリ〔悲しみを取り除き幻想を追い払う者/ヴィシュヌ神/シヴァ神/ヤマ神〕で満ちています。ハリは全宇宙を包含しています。どこを見てもあなたはハリを見つけるでしょう。しかし、ハリを描写することは不可能です。世界地図を例に取りましょう。そこには全世界が描かれています。地上には無数の山や谷があります。しかし、地図の上では山や谷の場所は点々にすぎません。地上には国々の区分がありますが、地図上では全世界は一つの実在に見えます。同様に、もし宇宙から地球を眺めれば、地球は一つの球のように見えます。ですから、視野の拡大こそが、世界が一つであるという結論を下すのです。視野が狭められれば、小さな山も大きく見え、木の群落も森に見えます。あなたが霊的な見方を育てるなら、ハリが全宇宙を包含していることを見出すでしょう。完全な信仰を持って礼拝するなら、石でさえナーラーヤナ神になります。

こうした見解の違いは、プラフラーダと彼の父ヒランニャカシプの間に見出すことができます。父親は尋ねました。

「ナーラーヤナはどこにいる? 奴はどこにもいやしない」

プラフラーダは答えました。

「神様のご臨在を疑ってはなりません。もし正しい観点でものを見るなら、父上はいたるところに神様を見つけるでしょう」

この種の完全な信仰は、あらゆる信仰や概念の中で最も崇高であり、神聖かつ甘美です。信仰は人生において最も重要な特性です。信仰という要素がなければ、人生は完全に無駄なものとなります。

信念が推論と結び付けば、それは世間の事柄に成功をもたらします。しかし、霊的な事柄においては、推論は助けというよりもむしろ一種の障害です。けれども、常識と一般知識は、世間の事柄にも霊的な事柄にも必要です。たとえば、実験室では水素と酸素を混合して水を作るかもしれません。けれども、食卓のそばに、水を作る大規模な装置や、水を浄化する大規模な装置を設置したりはしません。これは私たちが常識と呼ぶものです。この種の常識がなければ、どのような信仰も盲信につながりかねません。

教本には神が詳しく描写されています。神は公平無私で功徳にあふれている等と述べられています。実際には、至高の存在を概念的に説明するのはとても難しいことです。しかし、神を人間の属性に関連付ければ、それは簡単になります。というのは、あなた方は人間であり、人間の特徴を十分認識しているからです。ですから、人間の惑わされている見解は、神が人間の姿をとって現れて、模範となる性質を示した時に、初めて消え去るのです。人間は、さらにもう一歩進んで、自分は神の化身であり、ナーラーヤナ神はあらゆる生き物の内にも、外にも存在するという事実を実感認識することができるでしょう。神がどこにでも存在しているというのに、神を探し求めることに意味がありますか? そうする代わりに、神の御名がつねに舌の上で躍っているべきです。なぜなら、口は身体の正門のようなものだからです。絶え間なく神の御名を唱えることにより、身体の外側にも内側にも灯がともり、暗闇から光明へと(タマソー マー ジョーティルガマヤ)、生活に平安がもたらされるでしょう。

トリカラナ シュッディ(手と口と心という三つの道具の清らかさ)は平安へと導いてくれます。言い換えるなら、私たちの思い、言葉、行動は、いかなる時も純粋さを維持していなければならないということです。そうすれば、まず本人が平安を獲得し、それから、その平安が周囲の環境にも広がります。手は神聖な行為をしなければなりません。口は神聖な言葉を発しなければなりません。ハートは純粋な愛で満ちているべきです。ですから、まず取り組むべきことは、宗教や共同体といったような区分を取り払うことです。私たちの人種は人間です。私たちの宗教は人間性です。皆さん一人ひとりは、さまざまな土地の出身かもしれません。けれども、今、皆さんはこの講堂に集まっています。この講堂は皆さんの出身地を区別しません。ここでは全員が喜んで迎え入れられます。こうした見方を拡大しながら、皆さんは、この世界があらゆる存在にとって共通の住処であることを悟らなくてはなりません。このようにして、皆さんは平等観を養い、神性を分かち合い、自分自身を神聖な存在と見なすよう努力しなければなりません。

神はあなたと別の存在ではありません。神は遍在です。現代では、多くの人が神性の探求に夢中になっているのを見かけます。人々は神を求めてあらゆる聖地へ巡礼に出かけます。『ラーマーヤナ』や『バーガヴァタ』といった聖典は、すっかり全託した人には神が自発的にその姿を現すということを明らかにしています。ポータナ〔ヴィヤーサ仙がサンスクリット語で記した『バーガヴァタ』をテルグ語に翻訳した詩人〕は、自らの『バーガヴァタ』の冒頭でこう述べました。

「ここで語られているのは『バーガヴァタ』です。ラーマバドラが促し手です。私が『バーガヴァタ』を語れば、この世からの救済が可能になると思われます。だから、私は他のことは何も話さず、ただこれだけを話します」

ポータナには自分が行為者であるという思い込みがまったくありませんでした。ポータナは、自分の書いたこと、話したことのすべてはラーマのものであり、ラーマご自身によって為されたことだと考えました。行為者意識という重くのしかかるエゴ〔自我意識/アハンカーラ〕に頼る代わりに、ポータナはラーマに一切の信頼を置きました。その結果、彼の『バーガヴァタ』は偉大な栄光を勝ち得ました。ポータナの義兄のシュリナートは、その『バーガヴァタ』を手に入れて、その地の王にそれを献上しようと全力を尽くしました。しかし、ポータナは屈しませんでした。

「私の口から出る言葉の一つひとつは、実に、私のハートから生じたものです。それらは私のシュリ ラーマがお書きになった言葉なのです」

とポータナは言いました。これはバクティの典型です。誰もがこの種のバクティを手本としなければいけません。

困難や苦悩は、あらゆる生き物にとって自然なことです。喜びというものは二つの苦しみの間のことです。喜びは単独で得られるものではありません。皆さんは文学士号を取得するためにさえ大変な努力を重ねています。しかし、神の恩寵を得るために、そのような努力のほんのわずかでも傾けようとしていますか? 人々は、一ルピーさえ使わずに、あるいは、家から一歩も出ずに、神の恩寵を手に入れることを望んでいます。人々は、どんな苦痛も経験せずに、すぐに天国に到達することを望んでいます。たとえば、皆さんは砂糖を作りたいと願った瞬間、すぐに砂糖を手に入れられますか? 砂糖を手に入れるには、まずサトウキビを潰して、その後さまざまな過程を経る必要があります。そうしてやっと砂糖は手に入ります。私たちの身体はサトウキビのようなものです。その中にある汁は神性です。自分の義務は圧搾機に喩えられます。これらの過程の最終段階で得られるのは知識です。唯一性を見ることは、真の意味での知識として知られています。これは私たちが達成するよう懸命に努力しなければならないことです。

子供の将来は母親の手の中にある

女子学生の皆さん!

私たちは現代の学生たちの中に利己主義が蔓延しているのを目にします。たとえば、試験の結果を取り上げてみましょう。試験の結果が新聞に公表されると、学生は自分の結果だけを心配して、他の学生については少しも気に留めません。そうではなく、大勢の合格者が紙面に載っているということを見るならば、大きな喜びを引き出すことができます。他の例を取りましょう。集合写真を見る時、あなたは自分の写りが良いかどうかだけに関心を持ち、他の人々の写りには無関心です。私たちはこういった小さな事柄の中にさえ利己主義を発見します。利己主義と自己本位な態度は、国家を滅亡させ、人間性を台無しにしています。内なる神性は、利己主義を拭い去った時に初めて輝きます。自己利益それ自体は悪いものではありません。限度があるべきなのです。

英知の最終目的は自由になることです。文化の最終目的は完璧さです。知識の最終目的は愛です。教育の最終目的は人格です。人格は誰にとっても絶対に不可欠なものです。善い人格があれば、人生で何でも達成できます。男子以上に女子には平等心と愛情を育てる義務があります。なぜなら女子たちは将来の母親だからです。子供たちの将来は母親の手の中にあります。子供は母親と同じだけ善良になります。ですから、皆さんは善い思いと言葉と行動を培わなければいけません。

昔は、妊婦は神聖な伝記や神聖な物語を読み、神聖な行いに従事していました。ところが今や、妊婦たちはあらゆる類の映画を見ています。『マハーバーラタ』には、妻のスバドラーがアビマンニュを身ごもっていた時、アルジュナがスバドラーに神聖な物語を話して聞かせる場面があります。アルジュナは「パドマ ヴューハ」(蓮型の陣形という戦略)に付随する技法について語り始めました。スバドラーは半分眠っていましたが、お腹の中にいた子供はアルジュナの言葉を聞いていました。現代の科学者たちも、胎児と妊婦である母親の間にこの種の事実関係があることを確認しています。同様に、母親の食べ物や思考も子供の健康や精神構造に影響を及ぼします。母親が映画を見る習慣を持っていれば、子供も当然ながらその習慣を受け継ぎます。母親は子供の将来を念頭に置いて、適切な注意を払わなくてはなりません。

人間として生まれることは何も偉大なことではありません。善良で理想的な人間になることこそが重要です。義務は「マーナヴァ」(人間)という言葉の中に暗示されています。義務とは何でしょう? 「マー」「ナ」「ヴァ」。「マ」は無知を、「ナ」は「〜なしに」を、「ヴァ」は「振る舞うこと」を意味します。それゆえ、人間とは無知を持たずに振る舞う者のことです。英知、能力、教養を手に入れた後でさえ、人は真の人間らしく生きることができていません。教育を受けた人間のほうが人生の道を踏み外す傾向にあります。この種の教育は、良い社会が期待しているものではありません。教育は腹を満たすことを目標にすべきではありません。腹を満たすのは豚がしていることと同じです。教育は内面から神性の輝きを引き出さなくてはなりません。私たちはハートを愛で満たさなくてはなりません。人生を神聖な行為で満たさなくてはなりません。こういったことを教育は教えなければならないのです。プラフラーダは言いました。

「ああ、父上! 僕はあらゆる学問の秘められた真髄を学びました」

真髄とは何でしょう? 神の恩寵を手に入れると、すべての惑星と支配力はその人の奴隷となります。プラフラーダはヒランニャカシプに嘆願しました。

「ああ、父上! 父上はこの世界のすべてを成し遂げられましたが、ご自分の感覚器官を支配することができていません。ですから、そのすべては無駄です」

ラーヴァナは、ゴーカルナやガティカルナをはじめとする64種の教養すべて、さらには、鳥や動物の言葉まで習得していました。この一切にもかかわらず、ラーヴァナは一族を道連れに完全に破滅しました。それはラーヴァナが悪の道に従ったからです。たった一つの悪い性質だけで、一人の人間、あるいは一つの国さえ滅亡させるに十分なのです。ですから、誰もが品性を育てることに大きな注意を払わなくてはなりません。人間性の真髄はそこにあります。

霊的探求に熱意を示しなさい

神聖アートマの化身である皆さん!

すべての人は、「私は神である」という事実をつねに思い起こしていなければなりません。この思いは人に悪い道を歩むことを断念させます。清められた知性は、よく識別し、どんな状況においても良い判断を下します。神、あるいは神性とは、何か遠くにあるものではありません。神性はどこにでも存在しています。神は一つです。

エーカメーヴァ アドヴィッティーヤム ブランマー
ブラフマンは二者ではなく一者なり

これは、全員が人生において悟ることを期待されていることです。

女子学生の皆さん!

皆さんは今日、数多くの賞(バフマティ)を受賞しました。皆さんは私が皆さんにバフマティ(バフ=多くの、マティ=心/マインド)を与えることを望んでいます。皆さんは心を一つを持っているだけで、それほど多くの困難を経験しています。そうであれば、多くの心(バフマティ)を持てばどうなるかは言うまでもありませんね。多様性を切望してはなりません。唯一性を求めて懸命に努力すべきです。唯一性は人間性と神性をつなぐ要因です。ですから、皆さんがスポーツやゲームや娯楽に参加する熱意を、霊性探求にも傾けなくてはいけません。熱意とバクティがなければ、霊的生活は開花できません。人々は死ぬまで何度もくりかえし学びます。しかし、自分を不死にしてくれるものについて学ぼうとはしません。多くの知識を習得しても、卑しい人間は悪い性質から自分を引き離すことができません。教育は私たちのハートと思考を改善するのを助けるものでなくてはなりません。神性は広々としたハートに明るく輝きます。

神性の化身である皆さん!

人間性に欠けているなら、あらゆる教育、あらゆる地位、あらゆる業績は、無益です。人間としての基本的な性質に欠けている人を人間と呼ぶことができるでしょうか? 欲望を持つのは悪いことではありません。しかし、欲望は点検され、抑制されなければなりません。ウパニシャッドにこう述べられています。

ナ シレーヨー ニヤマム ビナー
適度な制御なしには幸福はあり得ない

人間の平熱は98.4度(約36度9分)だと言われていますが、99度(約37度2分)まで上がっただけでも、異常だと言われます。同様に、血圧は上が120で下が80で正常と見なされています。同様に、視力や鼓膜にも正常に機能するための一定の限度があり、それを超えると機能不全につながります。目は、とても強い光にさらされると網膜に損傷を受けます。鼓膜は騒音にさらされると損傷を受けます。ですから、私たちの体の各部は許容量に限界があるのです。幸福な生活を送るためには、自分の限界を注意深く理解しなければなりません。

女子学生の皆さん!

皆さんは、謙虚さと神聖さという特質を養わなければなりません。きれいにお化粧をしても、本当には魅力的になりません。ハートを勝ち得るには、ファッションは正しい方法ではありません。猿は宝石を身に付けて美しくなりますか? 人生は神からの贈り物です。月は空の飾りです。波は海の飾りです。蓮は池の飾りです。家は町の飾りです。女性の飾りは美徳です。ですから、女性が良い評判を得るには美徳が必要なのです。これが、遠くにあることを気にも留めずに、皆さんがサティヤ サイ教育機関に入学した目的です。ここでは、知識を習得したり、徳高い性質を身に付けたりするのに一銭たりともお金を払う必要はありません。

美徳は皆さんの人柄を輝かせることでしょう。皆さんは全員、美徳のかがり火となるべきです。学業で遅れをとったとしても、あまり心配してはいけません。試験の成績〔marks〕ではなく、批評〔remarks〕に関して用心深くあらねばなりません。これが、私が皆さんに期待することです。公の場にいる時は、話は控えめにし、謙虚に振る舞いなさい。これは、女性が社会で尊敬を勝ち得る正道です。慎み深さと貞節は女性にとって命の息吹です。皆さんは、いつどんな時でも優しく穏やかでなくてはなりません。いつも快く人の願いに応じることはできないかもしれませんが、いつも親切に話すことはできます。

皆さんは、スミトラー妃やカウサリヤー妃を見習うべきであり、カイケーイー妃を見習うべきではありません。視点が定まっていることと、話すことが甘く優しいことは、あなたの生活を明るくするでしょう。もちろん、皆さんは全員、善い女子たちです。私はただ、将来のガイダンスのために忠告しているにすぎません。私は皆さんの欠点や間違いを指摘しているのではありません。私はただ、皆さんが健全な特質を持った模範的な女性になるよう望んでいるだけです。私は私たちの教育機関がその種の学生たちを輩出するよう願っています。

皆さんの高潔な振る舞いは、まず家庭の周囲から徐々に展開していかなくてはなりません。この指示の最初のステップとして、皆さんは両親を幸せにする方法を知るべきです。頼みの綱としての神に信仰を置きながら、あなたの愛と美徳は、家庭の領域から村一帯へ、それから、国へと拡大されなくてはなりません。不必要な議論は避けるよう努めなさい。信仰心と神聖な思いがあれば、何でも成し遂げることができます。皆さん全員が神聖な人生を送ることへの希望と祝福をもって、私の講話を終わりにします。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Women’s Role C31