日付:1989年4月14日
場所:コダイカナルのサイ・シルティー
ラーマ神降誕祭の御講話より
ラーマの物語を聞いたことのないバーラタ〔インド〕人はおらず、ラーマの寺院のないバーラタの村はありません。太古の昔から、バーラタの誰もがシュリ・ラーマの生き方を理想とし、その理想に従って生きることで人生のあらゆる瞬間を聖化しようとしてきました。バーラタは常に、霊性を欠いた人の生涯はまったく価値がないと考えてきました。
シュリ・ラーマチャンドラ〔月のごときラーマ〕は、惑星シュクラ(金星)がミーナ(魚座)に入る日に生まれました。ラーマが降臨した月は、ヴァサンタ・リトゥ(春)の始まりに当たります。それは太陽がメーシャ・ラシ(牡羊座)に入る時です。シュリ・ラーマが人間として化身したのは、この世の平和と幸福を促進するためでした。
ラーモー ヴィグラハヴァーン ダルマハ
(ラーマはまさしくダルマの化身)
それはあたかもダルマそのものが地上に化身したかのようでした。ダルマとラーマは切っても切れない関係です。
ラーマの生涯は前期と後期の2部に分かれています。前期では、ラーマはパラシュラーマやヴァーリやラーヴァナといった強大な人物を打ち負かした英雄戦士として描かれています。ラーマは肉体的な強さだけでなく知性と人格においても優れていました。ラーマの美徳のすべてを述べるのはとうてい不可能です。
すべてのアヴァターは6種類の力を持っています。それは、すべてを包含する繁栄、正義、名声、富、英知、放棄(無執着)です。神はこの6つの特性の持ち主です。シュリ ラーマはこの6つの特性すべてを等しく持っていました。どの時代、どの場所でも、神のアヴァターは皆、この6つの特性を有しています。
真理とダルマの重要性
ラーマーヤナでの最も重要な概念は、サティヤ(真理/真実)とダルマです。バーラタ人が自分たちの命の息吹と見なしているヴェーダは、こう宣言しています。
サッティヤム ヴァダ、ダルマム チャラ
(真実を語り、ダルマにかなった行いをせよ)
父の誓いの言葉を尊重するために、ラーマはアヨーディヤーの都を離れて森に行くことを選びました。真実はすべてのダルマの基盤です。真実に勝る宗教はありません。ラーマは、父の約束を果たすため、イクシュヴァーク王朝の伝統を守るため、王国を守るため、そして、世界の幸福のために、真実を守る者として立ち上がりました。人間を名乗る者は皆、ラーマと同じように真実のために立ち上がるべきです。マハートマ(高潔な魂の持ち主)は、自分が話すこと、考えていること、行うことが完全に一致していると言われています。悪人の場合は、考えも言葉も行いもバラバラです。この定義によれば、ラーマはマハートマ(高潔な魂の持ち主)であり、ラーヴァナはドゥラートマ(邪悪な魂の持ち主)です。
3つのグナを象徴する3人の女性
ラーマは、生涯の最初の12年間に3種の女性に遭遇しました。供犠を守るために聖仙ヴィシュワーミトラと一緒に出向いた時、ラーマは女羅刹(おんならせつ)タータキーに出会いました。ラーマは何の葛藤も嫌悪も抱くことなく、タータキーを亡き者としました。ヴィシュワーミトラ仙の供犠が完了した後、ラーマは聖仙と共にミティラーの都に向かいました。その途中、ラーマは石に変えられていたアハリヤーに遭遇しました。ラーマはアハリヤーに生気を与え、彼女の悔い改めによって罪を赦(ゆる)し、夫のもとに連れ戻しました。ミティラーではシーターに出会いました。ラーマは何のためらいもなくシーターの求婚に応じました。この3つの出来事の内的な意味は何でしょうか? これらの出来事は、ラーマが少年時代から並外れた資質を示し、世の中の模範として際立っていたことを表しています。
ラーマが最初に遭遇した女であるタータキーは、タマス〔鈍性〕の性質の象徴です。ラーマはタマスの性質を破壊しました。アハリヤーはラジョーグナ〔激性〕の象徴です。ラーマはアハリヤーに正しい教訓を与え、清め、無事に元の場所に送りました。ラーマは、サットワの性質〔浄性〕の象徴であるシーターを自分のものにしました。バガヴァン〔宇宙のすべてを有する者〕は、サットワ〔浄性〕の側面だけをよしとして受け取ります。バガヴァンはサットワの性質に価値を置きます。バガヴァンはそれを守り、育てます。
今日では、3グナ〔属性〕であるタマス〔鈍性〕・ラジャス〔激性〕・サットワ〔浄性〕のすべてが、さまざまな割合で人間の中に存在しています。タモーグナ〔鈍性〕の存在は何を意味するのでしょうか? 鈍性の人にとって、真実でないものを真実と見なし、間違ったものを正しいものと見なし、悪を善と見なすのは当然のことです。現象界は無常であり、実体のないものですが、鈍性の心の持ち主は、現象界を永遠であり、実体のあるものと見なします。
激性の人は、識別力がなく、好き嫌いに左右され、無節操に行動します。衝動的な行動は、ラジョーグナ〔激性の属性〕が優勢な人の特徴です。性急で衝動的な行動のために、彼らはあらゆる種類の困難にさらされます。その過程で、彼らは人生を無駄にします。人は急いて(せいて)行動するのを避けるようにすべきです。急くと無駄が生じ、無駄は心配を生みます。ですから、急いてはいけません。神の探求においては、急くことがあってはなりません。神の顕現には、清らかさと平穏が必要です。平安のない人に幸福はあり得ません。
聖ティヤーガラージャは、ある自作の歌の中で、「平安がなければ幸福はない」と述べています。ティヤーガラージャはラーマの偉大な帰依者でした。帰依者として、ティヤーガラージャは多くの経験をし、歌を通してそれを世に伝えました。
Ramaという御名の持つ三重の力
Rama(ラーマ)という御名の内なる意味は何でしょうか? 「R」「A」「Ma」という3つの音節は、人間が生まれてくることになる3つの原因、すなわち、「パーパム」(犯した罪)・「ターパム」(経験した苦悩)・「アグニャーナム」(自分の無知)を示しています。「Ra」はアグニ〔火〕の語根を表しています。「Aa」は月の語根です。「Ma」は太陽の語根です。アグニ〔火〕とは何を意味するのでしょうか? アグニ〔火〕はすべてを破壊して灰にします。「R」という文字は、人間が犯したすべての罪を破壊する力を持っています。「Aa」(月の象徴)という文字には、人間を苦しめる熱を冷まして安らぎを与える力があります。「Ma」は、無知の闇を払い、知恵の光を与えてくれる太陽を表しています。したがって、Ramaという単語には、罪を滅ぼし、平安を与え、無知を払拭するという、まさに三重の力があるのです。
Ram(ラーム)という単語を発するときには、まず口を開きながら「Ra」(ラー)という音を出します。口を開けている時、あなたのすべての罪が外に出て行きます。口を閉じて「m」(ム)と発声すると、出ていった罪が再び入ってこないよう、口がふさがれます。
誰もが、Rama(ラーマ)の御名に秘められた甘さ、神聖さ、神性を認識すべきです。それゆえ、ティヤーガラージャはこう歌いました。
「ああ、心よ! ラーマの御名の力をよく自覚して、ラーマの御名を憶念せよ」
ラーマの御名の意味するものをすべて完全に理解した上でラーマの御名を口にするのは善いことです。けれども、たとえその理解がなくとも、ラーマの御名の唱名にはあらゆる罪を破壊する力があるのです。
春の栄光
私たちは、ラーマという甘い御名を、清らかで汚れのないハートで、無私の信愛の精神で唱えることを身につけなければいけません。人間の心(マインド)には、月と太陽を象徴する神々が宿っています。知性は太陽から授けられたものです。しかし、心には2種類の鳥が入り込んでいます。1羽は、「私」、「私のもの」という感覚を育て、心をエゴで満たします。これは破壊的な力です。もう1羽は、執着や憎しみから解放される感覚を育みます。これは、心の中にある太陽の力を意味しています。太陽王朝に属するラーマは、後者の道を堅持しました。
ラーマの原理とヴァサンタ・リトゥ(春の季節)には意義深い関係があります。春になると、木々は新しい葉と花をつけてこの世を喜びで満たします。太陽の光が新緑の葉に当たると、葉は黄金色に輝きます。春になると、世界中が装いも新たに輝きます。新しい年の始まりは、さまざまな地域において、ニームの花〔苦味がある〕とマンゴーの実〔甘味がある〕を入れた特別な料理をこしらえて祝われています。この料理は、人生は苦しみと喜び、得ることと失うことの混合物であり、どちらも平常心を持って扱うべきであるということを、人に思い出させます。
春になると、マンゴーの花の香りが漂い、コーキラ(カッコウ)の鳴き声が聞こえます。吸う空気に喜びがあります。ヴァサンタ(春)ほどコーキラの鳴き声が甘美な時期はありません。コーキラの歌は耳に甘く響きます。私たちは、カラスが屋根に止まっていると追い払いたくなりますが、コーキラの歌は歓迎します。なぜそれほどの違いがあるのでしょうか? カラスは私たちに何も求めませんし、コーキラが私たちに冠を与えてくれたわけではありません。違いはその声にあります。カラスの鳴き声は耳ざわりです。コーキラの歌は耳に心地よいものです。発言が甘美であれば、話し手は慕われるということです。
神はすべての帰依者のハートの中にいる
ですから、人々は、甘く、心地よく話すことを身につけるべきです。甘美な発言は安らぎを与えます。それは真我を顕現させる方法です。シュリ・ラーマが好んで住む場所は、甘美に話す人のハートの中です。
あるとき、聖仙ナーラダが主ヴィシュヌの前に現れて言いました。
「ああ、主よ! 私は三界を往来し、過去・現在・未来を知っています。もし、私があなたに何か特別な情報を伝えたくなったら、どの住所に送ればよいのでしょうか? 仮の住所は欲しくありません。本籍はどこですか?」
ヴィシュヌは答えました。
「ナーラダ! 私の本籍を書き留めておきなさい。
マドバクターハ ヤットラ ガーヤンティ タットラ ティシュターミ、ナーラダ
(どこであれ私の帰依者が私の栄光を歌う所、私はそこに住むのだ、ナーラダよ)」
人々は、主にはさまざまな住所があると見なしています。ヴァイクンタ〔ヴィシュヌ神の天界〕、カイラーサ〔シヴァ神の住む山〕、バドリーナート〔ヴィシュヌ神の寺のある聖地〕、ケーダールナート〔シヴァ神の寺院のある聖地〕などなどです。これらはどれも、「~様方」と記す、立ち寄り先の住所にすぎません。直接の住所は、あくまでも帰依者のハートです。ギーターにあるように、「主はすべての生き物のハートの領域に宿っている」のです。主は遍在であるため、すべての人のハートに等しく存在するのです。それゆえ、ハートは「アートマ ラーマ」――主の存在によってアートマを喜ばせるもの――と描写されるのです。
ハートを神に捧げなさい
何をするにしても、他の人を喜ばせるためではなく、あなたのハートの中に住む者を喜ばせるため、あなたの内なる満足のために行いなさい。これは、あなたの良心の命じるままに行動することを意味します。そうした行為はすべて、神を喜ばせることになります。あなたの行いから自己〔アートマ〕の満足を得るためには、信仰心を養わなければなりません。満足があるときには、犠牲を払う心構えがあります。犠牲によって、神は顕現するのです。あなたの信仰心は、シュリ・クリシュナに対するパーンダヴァ兄弟の信仰心のように揺るぎないものであるべきです。
霊性を志すティヤーガラージャのような帰依者たちは皆、多くの試練と苦難を経験しなければなりませんでした。テルグ語のバーガヴァタム〔ヴィシュヌ神とその化身の物語集〕の著者、ポータナでさえ、地元の有力者に作品を捧げるようにと強要する多くの圧力と試練にさらされました。ポータナはシュリ・ラーマに対する強い信仰心のゆえに、断固としてそれに立ち向かいました。ポータナには、自分の作品をただの人間に捧げるよりも、自分のハートと魂をラーマに捧げるのだ、という覚悟があったのです。ポータナは完全にシュリ・ラーマに全託しました。ポータナはこう宣言しました。
「私が持っているものはすべてあなたのものです。私が受け取るものも捧げるものも、すべてはあなたからのものです。私は何も自分のものだと主張することはできません」
人々はさまざまな聖地に巡礼に行きます。巡礼者は、ベナレス〔ヴァーラーナスィー〕では主の御名を唱えながらガンジス河の水をガンジス河に捧げます。そういった捧げものには、どんな特別な価値があるのでしょうか? それは、あなたは主があなたに与えてくれたハートを主に捧げなければならない、ということです。これが真の全託です。ラクシュマナは、シャラナーガティ(全託)という教義の最高の模範です。
「私は、私の富、家族、すべてをあなたに捧げます、ああ、ラーマよ! あなたに帰依している私をお守りください」
この完全な全託こそが、ラクシュマナがランカーの戦場で倒れた時、ラーマにこう言わせたのです。
「妻や親類はどこの国でも得ることができる。しかし、血を分けた弟をどこで手に入れることができようか?」
このようにして、ラーマは兄弟愛の深さを体現しました。ラーマとラクシュマナの間の相互愛は最高位のものでした。
ラーヴァナが倒れた後、スグリーヴァとヴィビーシャナたちはラーマのもとへ行き、恵み豊かな国であるランカーを統治してほしいと訴えました。ラーマは、母親や母国を手放すことはできないと言ってその要求を断りました。ラーマは人類の手本としての役割を果たしたのです。
神への信仰心を持って困難に立ち向かいなさい
今日、誰もが「ラーム」「ラーム」と口にしています。けれども、ラーマが示した手本に従う人はごくわずかです。手本に従わない人は本当のラーマの信者ではありません。せいぜい「パートタイムの信者」と言われるのが関の山でしょう。真の信愛とは、主の御名を永続的に憶念し、その御名を常に瞑想し、ラーマの御姿をハートに抱いていることを意味します。
神への固い信仰心を身につけて、人生の浮き沈みに立ち向かう覚悟をすべきです。困難な時ほど、神を思い起こすものです。信仰心を身につけて困難に立ち向かうことは、それ自体が霊性修行です。ラーマは、ダシャラタ王の息子であり、ジャナカ王の義理の息子であったにもかかわらず、ダルマを守るために生涯において多くの試練に立ち向かわなければなりませんでした。パーンダヴァ兄弟は、正義を守るために多くの困難を経験しましたが、それゆえ、彼らの名前と名声は永遠に残ることとなりました。あなた方は、どんな問題や困難にも耐えられるだけの強さをお与えくださいと、主に祈るべきです。もしあなたが、ほんのわずかでも主の恩寵を手にすることができれば、山ほどの問題も乗り越えることができます。チャイタニヤ(チャイタンニャ)は断言しました。
「もしも、富や食べ物、妻や子、友人や仕事について思い悩んでいる時間のほんのわずかでも神の御足の黙想に充てるなら、人は恐れることなく死の使いと対面し、サムサーラ〔輪廻〕の海を渡ることができる!」
何時間も祈りに費やす必要はありません。心の底から神を思い、ほんのわずかな間でも自分を捧げることができれば、それで十分です。一本のマッチ棒でも、火を灯せば、何年も閉め切っていた部屋の暗闇を追い払うことができます。綿の山も火の粉一つで全部燃えてしまいます。同様に、たった一度でも心からラーマの御名を唱えることで、山のような罪も帳消しにすることができるのです。レコードをかけるように機械的に唱えるのはいけません。心の奥底から発せられるべきです。このバーラタという聖なる国に生まれたからには、自らの前にラーマ・アヴァターの理想の手本を据えて、ラーマの理想にかなった生活を送り、それらの理想を世に公言することによって、あなた方の人生をまっとうしなければなりません。この幸運に報いることができるような人生を送ろうと努力しなければなりません。愛を込めてラーマの御名を憶念しなさい。神は愛によってのみ顕現させることができるものであり、それ以外の方法ではできないのです。
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.22 C9