サティヤ サイババの御言葉

日付:1989年6月19日
場所:プラシャーンティ マンディール
サイ大学の学生への連続講話③より

遍在を体験すること

春は過ぎても、またやって来ます。欠けた月は、また満ちます。けれども、人間の若い時期と、流れていった川の水は、二度と再び戻ってきません。学生諸君にとって、貴重な若い時期に清らかな思考と善い習慣を育(はぐく)むことは必要不可欠です。神からの贈り物の中で最も重要なものは時間です。神聖な行いをすることで時間を活用したときにのみ、あなたの体と行いは神聖なものとなります。

現代では、人の一生の半分は食べることと寝ることに使われています。そして、残りの人生の大半は、無駄話、猿と同程度の悪ふざけ、陰口、中傷的なゴシップにふけることで、無駄にされています。「どうしたら自分を向上させることができるのか?」、「どうしたら他の人々に奉仕することができるのか?」を考えることに割かれる時間は、ほんのわずかです。人間として生まれるのは貴重で神聖なことであるというのに、人生の目的を理解しようという努力が払われていません。『バーガヴァタム』の中で命じられているように、人間は、どうすれば自分がやって来た源に戻ることができるかを発見しなければなりません。これは万人の生来の運命です。人としての在り方の秘訣は、自らの神聖な運命を悟るためにはどうすれば時間を最も有効に活用できるかを知ることにあります。

現代人には五感を制御するという考えがありません。自制という概念がありません。現代人は放蕩(ほうとう)者の生活を送っています。放蕩にふける生活は堕落と身の破滅をもたらすだけです。

五感を制御する目的は集中力を獲得することです。五感の制御は心を定めるための助けにもなります。心が定まっていないと、人は人間性を失います。

誰にとっても三つのことが不可欠です。それは、目的地を認識すること、真理(人間としての生に関する真理)を理解すること、そして、永遠なるものを悟ることです。今日、学生諸君は自分たちが目標とする目的地の重要性を知るべきです。学生諸君は、目的地を気に留めることなく、平安や歓喜を獲得することのないままに、目的のない生活を送っています。学生諸君は、神の近くにいるどころか、神を忘れて、間違った道を歩んでいます。学生諸君は、何年もここで勉強してきましたが、思考と振る舞いに何の変化もありません。

その理由は、学生諸君は口では自分は霊性について何でも知っていると言いますが、それは口だけで、本当には理解していないからです。そして、完全に肉体意識に覆われていて、神性を把握することができずにいるからです。肉体意識は、マーヤー(幻力、幻影、迷妄)、すなわち「無知」の産物です。

神とマーヤーは一対(いっつい)の双子

マーヤーに捕らわれていることに関する一つの話があります。あるとき、バガヴァン(至高神)はマーヤーを呼び出して言いました。

「マーヤーよ! 私はそなたのせいで、かなりの悪名を得ている。人間は皆、神はマーヤーパディ(マーヤーの仮面をかぶっている者)だと言って神を責める。そなたがいつも私に付き添っているために、私の評判は悪くなるばかりだ。だから、もう私と一緒にいるのはやめておくれ。私から離れなさい。」

すると、マーヤーは、たいそう謙虚に神に平伏して言いました。

「ああ、主よ! 私はもちろんあなたの命令に従います。ですが、どこかあなたのいない場所があったら教えてください。私はそこへ参ります。」

神は腹の底から笑い、言いました。

「私のいない場所はない。そなたと私は対の双子だ。私はそなたの返答を得るために、この難問を仕掛けたのだ。」

今日、人々は皆、神は遍在だと言いますが、その遍在性の真実を理解している者らしく振る舞っていません。人々が「遍在」という言葉を、意味を理解して使っているのか、その真理を経験して使っているのか、はたまた、無知ゆえに使っているのかは、明らかではありません。同じように、どの学生もスワミの遍在と全知について喜々として語りますが、それはおそらく本で読んだ知識をもとにしているだけでしょう。

遍在と自制

神が遍在であるというのは断じて本当です。しかし、人がそのことについて語れるのは、少なくとも多少なりともそれを経験した場合に限ります。たとえ数滴であっても、甘露を舐(な)めれば、わずかではあれ純粋性を獲得するでしょう。器一杯の甘露があっても、手を付けずにいたら何になりますか? ですから、どんなにわずかであろうとも、人は神の遍在を経験する努力をすべきです。ただ神の遍在について語るだけなら、それは神を欺いているのと同じです。それは重い罪です。

高次の魂を持つ何人かの者たちは、神の遍在を経験しようと奮闘しています。しかし、現行の教育の方法では学生にその種の経験をさせることができません。なぜかというと、学生たちに五感を制御する能力が欠けているからです。神を経験するには五感の制御が必須条件です。その第一歩は欲の制御です。言葉と行いは一致していななければいけません。さらに、どうすれば神の遍在を経験することができるか、その方法を調べなければいけません。

木を例に取りましょう。果実が果実に栄養を与えることはできません。どの果実も木から栄養を与えられています。木は根によって支えられています。根の世話をして、初めて人は木と木の実を得ることができます。根に肥料と水を施して栄養を与えれば、木はよく育ちます。それと同じように、全宇宙は神によって支えられているということを認識して、初めて人は神の遍在を経験することができます。

霊性の三大巨人

アーンドラ藩王国に、ポータラージュ、ティヤーガラージュ、ゴーパラージュという、三人の王(ラージャ、ラージュ)がいました。

ポータラージュは、ポータナ、すなわち、テルグ語の『バーガヴァタム』の偉大な著者です。(ヴィヤーサ仙がサンスクリット語で記した『バーガヴァタ』をテルグ語に翻訳した詩人) 極貧のポータナを見て、義理の兄弟のシュリーナータは、ポータナの書いた『バーガヴァタム』を領主に献上して褒美をもらえばいいと意見しました。ラーマ神に捧(ささ)げても何も目に見える利益は得ていないではないか、どっぷりと貧困に浸かったままではないかと、シュリーナータは言いました。ポータナは、たとえそれが貧乏生活を送ることを意味したとしても、つまらない世俗の領主に物質的な褒美を求めるより、神に自分の作品を捧げるほうがずっといいと思いました。自分は、いばった、不正を働くような領主に頼って生きることは選ばないと、ポータナはきっぱりと言いました。ポータナは、自らの汗の結晶を糧とする農民となって敬虔(けいけん)な生活を送るほうを好みました。ポータナの『バーガヴァタム』が不滅の名声を得たのは、自らの作品を神に献じることを選んだためです。ポータナは、初めて『バーガヴァタム』の編纂(へんさん)に取りかかったときから、この仕事の一切はラーマ神のものであり、敬虔な捧げ物としてラーマ神に献じるべきであるということが、わかっていました。ポータナは、ラーマこそがひらめきを与えてくれる者であり、詩の書き手であり、詩を喜んでくれる者であると見なしていました。ポータナは、シュリーナータに、神は世界の万物の主、つまり、創造主であり、維持者であり、破壊者であると言いました。

「至高の主に献ずる代わりに、虚飾と慢心に覆われた世俗の人間に作品を献上するのは適切なことではない」と、ポータナは言いました。

二人目はティヤーガラージャ(ラーマの偉大な帰依者で南インドを代表する音楽家。ティヤーガラージャ クリティと呼ばれる独自の作曲形式による歌を数多く作った。)です。ティヤーガラージャほどの聖なる音楽家の窮状を見て、タンジョーレーの王が高価な物をたくさん輿(こし)に載せて送ってよこしました。その贈り物を見ると、ティヤーガラージャは微笑(ほほえ)んで、この宝は真の幸福をもたらしてくれるのか、ラーマ神のヴィジョンを絶えずもたらしてくれるのか、本当のことをはっきりと言っておくれと、自分の心に請いました。ティヤーガラージャは、最も大きな富はラーマの近くにいることであると思い、送られてきた贈り物を王に返しました。ティヤーガラージャは、世俗の物事の一切を放棄することによって、その名(ティヤーガは放棄、ラージャは王の意)通りに生きました。ティヤーガラージャは、自分に必要なものは神だけであり、自分は誰からも何も求めないと言明しました。

神は万人の至高の守護者

三人目の帰依者は、バドラーチャラム寺院に祀(まつ)られているラーマ神を礼拝していたゴーパラージュ(ラームダース)です。ゴーパラージュは、自分の稼ぎと所有物をすべてラーマ神に捧げました。収税官だったゴーパラージュは、自分が人々から徴収した税金を着服し、ラーマ寺院の建設費と、そこに安置するラーマ像を飾る宝飾品の制作費として神に捧げることまでしました。そのことでタニシャ王がゴーパラージュを追い詰めると、ゴーパラージュは、自分はすべてをラーマ神に捧げてきた、自分には私欲は一切ない、ということを断言しました。

「私はラーマに完全に全託しています」

とゴーパラージュは言い切りました。

以上の三人の聖者は神の遍在を認識していました。そして、神は万人の至高の守護者であるということを固く信じていました。この三人の聖者は、まさしくバーガヴァタ(ヴィシュヌ神と関係する者)、すなわち、神の帰依者です。現代では、自分は帰依者だと大勢の人が主張しますが、彼らは断じて真の帰依者ではありません。いわゆる帰依者と呼ばれる人たちは、外側の安全を求めているだけです。権威からの安全、略奪者からの安全、そして、それらと同様の外側の危険からの安全です。彼らは報酬目当ての帰依者であり、純粋な帰依者ではありません。

昔のバーガヴァタたちは、何も心配することなく生活を送り、至高の守護者である神に百パーセント信用を置いていました。それほどの信仰心があるのですから、彼らには神は遍在であると断言する資格がありました。現代でこのお決まりの文句を使う人は、方便としてそう言うだけです。現代でも神はどこででも見つけることはできますが、真の帰依者はほんのわずかしか見つけることはできません。現代の帰依者は、神に完全に全託している帰依者ではありません。

罪人の死体

昔、一人の旅人が、旅の途中に真昼の日射しを避けたいと思い、墓地の近くにあったアシュラムに立ち寄りました。そのアシュラムではグルが弟子たちに説法をしていました。これは神聖な講話が聞けるよい機会だと、旅人はそれを歓迎しました。日暮になってグルと弟子たちがアシュラムから出ると、そこには奇妙な光景がありました。いったい何があったのですかと、弟子たちはグルに尋ねました。グルは微笑んで、おまえたちが見たものはジャッカルと犬が奪い去ろうとしていた死体だと言いました。ジャッカルたちは朝に埋葬された死体を掘り起こして、夕食にしようとしていました。

ちょうどそのとき、大きなジャッカルがやって来て、他のジャッカルたちに何かを伝えました。するとジャッカルたちは一斉にその死体から離れ、ジャングルに戻っていきました。ジャッカルたちはなぜ目当ての死体を放り出したのですかと、弟子たちはグルに尋ねました。すると、グルはしばし瞑想し、それから、その奇妙な現象の理由を説明しました。グルは言いました。

「あの死体の生涯は特筆すべきものだ。死体の男は、生前一度も年長者の言葉に耳を傾けたこともなければ、神の御名を耳にしたこともなかった。何かを聞いたときも、決してそれに従おうとは思わなかった。男は一生の間、何も善いことをしたことがなかった。男の目が神聖なものに向けられたことは一度もなかった。男の手が神聖なことに使われたことは一度もなかった。男は欲深くも他人の財産を欲しがったが、腹を空かせた人に食事を施したことは生涯一度もなかった。男の足が寺に行ったことは一度もなかった。神社に行ったことも一度もなかった。墓地にやって来た年長のジャッカルは、そのような人物の死体は畜生の餌(えさ)にさえ相応(ふさわ)しくないと、他のジャッカルたちに言ったのだ。それほどの罪人の死体に触れたなら、触れた者も男の罪の影響を被ることになる。その警告を受けて、ジャッカルたちは死体を放り出したのだ。」

この話の教訓は、死んだ後の体はどうなってもよいとは考えるべきではないということです。たとえ体であっても聖化されるべきであり、そのためには、生きているうちに善行をすべきです。体に付いている手足はどれも、神聖な目的のために使うべきです。そうすることで聖化されなかった体は、ジャッカルにさえ軽蔑されるでしょう。あなた方に与えられている人間の体の貴さを覚えておきなさい。他人に奉仕するために体を使いなさい。体の器官がどれも神聖な行いをするのに使われるよう、取り計らいなさい。

上級生の義務とサイ大学の目的

何をするにも相応しい時があります。クリシュナは、何十年も親しくアルジュナと行動を共にしていたにもかかわらず、アルジュナにギーターの教えを授ける場所にクルクシェートラの戦場を選びました。スワミは何も知らないように見えるかもしれませんが、すべてを知っているということを覚えておきなさい。神と人間の違いを知っておきなさい。神は全知全能であるにもかかわらず、あたかも何も知らないかのように振る舞います。人間はまったく無知無能であるにもかかわらず、全知全能であるかのような振りをします。

学生諸君は、スワミが諸君の不品行について、すべてを知っているということを頭に入れておくべきです。これまで個人的に注意しても効果がなかったので、スワミは公の場でたしなめることにしました。学生諸君の多くは善い振る舞いをしています。少数ですが、規律を守らない、わがままな学生がいて、他の学生たちの悪い見本になっています。もし彼らが行いを改めないなら、この大学に彼らの居場所はありません。私たちは数のことは気にしません。たとえわずかでも善良な学生がいれば、それで満足です。

この教育機関は、国を回復させ、正しい教育を受けた学生の世代によって国にダルマに基づいた生き方を促すために、設立されました。本校には商業的な目的はありません。諸君は本校の名声が保たれているかどうか注意していなければいけません。各人が自分のことを調べるべきです。上級生は自らが振る舞いの手本であらねばなりません。もし諸君全員が善く振る舞えば、世界にどれほどの変化があることでしょう!

私は自分の時間の七十五%を学生のために充てています。世界各地からはるばるやって来る帰依者たちに充てる時間は二十五%だけです。私がどれほどの愛を諸君に惜しみなく与えているかを、よく知っておきなさい。もしこの神聖な機会を無駄にするなら、二度と同じ機会を得ることはないでしょう。一人の母の子どもたちとして行動しなさい。上級生は下級生を感化する存在であるべきです。

学位を得ることよりも、善い人格を得ることに心を払いなさい。親と教師が自らの義務に無関心なときでも、スワミは、諸君の誤りを指摘すること、諸君を正すこと、という自らの義務から逃れることはできません。善い学生は、すべての面において助けられるでしょう。しかし、悪い学生は容赦なく攻撃されるでしょう。サティヤ サイ大学は神聖な大学であるということを、いつも心に留めておきなさい。サティヤ サイ大学は、世界の福利を促進するために設立されました。善い学生だけが国の向上のために奉仕することができます。たとえそのような学生が一握りであっても、私たちは満足でしょう。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.22 C12