サティヤ サイババの御言葉

日付:1989年6月20日
場所:プラシャーンティ マンディール
サイ大学の学生への連続講話④より

四つの性質

バーラタ文化では、「プルシャールタ」、すなわち、「人間存在の目的」は四つあり、それは、ダルマ(正義)、アルタ(富を得ること)、カーマ(欲を満たすこと)、モークシャ(解脱)であると明言されています。人間誰しもがこの四つの目的を達成できるとは限りません。

もし四つのプルシャールタを正しく追い求めようというのであれば、四つの性質を身につけなければいけません。それらは現代の学生にとって大変必要なものです。この四つの必要なものをきちんと理解できていないことが、多くの深刻な結果を招いてきた原因です。その四つとは、「マイトリー」、「カルナ」、「ムディタ」、「ウペークシャー」です。これらは誰にとっても必要な四つの重要な性質です。これらの性質の特性は、どれも正しく理解されておらず、説明もされていませんでした。

マイトリー

たとえば、「マイトリー」(友情)は、単に仲が良いことであると考えられています。「友情とは何か?」、「自分の友人となるべきなのはどういう人か?」、「人はどうすれば友人らしくあることができるのか?」――これらの側面を理解しなければいけません。友情は誰とでも育てるべきものではありません。友情は、年齢、地位、文化などが自分と同じ相手とのみ育てるべきです。自分より下の人、あるいは自分より上の人との友情は避けるようにしなさい。これが友情というものの本当の意味です。もし自分より地位などが上の人と友人になろうとすれば、相手はあなたの上に立った態度を取ろうとするでしょう。あなたが相手に威張られるのが嫌になったら、その友情は壊れます。もし自分より下の人と友情を育てようとすれば、あなたは相手に対して親分風を吹かせようとするかもしれません。相手がそれに黙って従わなければ、その友情は壊れます。ですから、友情(マイトリー)は、年齢や富や地位などが等しい者同士の間でのみ存続するものなのです。

カルナとムディタとウペークシャー

「カルナ」(恩情、慈悲)。恩情は、年齢、富、健康、地位、教養といったようなものが、自分よりも低い相手に対して示されるべきものです。そうして初めて、慈悲は意味のあるもの、価値のあるものとなります。恩情は、そういった場合に正当なものとなります。

「ムディタ」(好意を持つこと)。この性質は、自分よりも良い状態にある人への態度と関係します。自分より良い状態にある人を見たときには、嬉(うれ)しく思うべきです。その相手は、あなたより裕福だったり、あなたより良い地位に就いていたり、良い物を持っているように見えるかもしれません。そうした様子を見たら、嬉しく思うべきです。自分よりも高い地位を有している人や、高い点数を取った人を見たら、喜ばしく思うべきです。「ムディタ」は、他人の幸運に妬みを持たず、嬉しく思うことを意味します。

「ウペークシャー」(好まないこと、関心を持たないこと)。「ウペークシャー」と「アペークシャー」(好むこと)という二つの言葉があります。悪い行いをしている人や、悪い考えを抱いている人を好むべきではありません。そのような人とは距離を置くようにしなさい。悪い思考でいっぱいの人、悪口を言う人、悪い行いをしている人とは離れていなさい。これがウペークシャーです。

もし諸君がこれら四つの性質を育てるならば、人生における他の目的は不要です。「同輩との友情」、「自分よりも低い相手への慈悲」、「自分よりも良い状態にある人の幸運を嬉しく思うこと」、「悪い人から離れていること」――これらは人生において追い求めるべき本当の目標です。これらの訓令を守っていないことが、人生の質が悪化している原因です。

二重の清らかさを保ちなさい

誰も皆、体と服とマナーの清らかさを守らなければいけません。これらは外側の清らかさです。これだけでは不十分です。心〔マインド、マナス〕も清らかに保っていなければいけません。思考も清らかであるべきです。外側と内側の清浄を保つことが必要です。内側の清らかさを獲得するにはどうすればよいでしょう? 外側の清浄を保つのは、洗ったり汚れを取り除いたりすればよいので容易です。内側の汚れを認識し、それを取り除こうと試みるには、どうすればよいのでしょうか? 方法は一つしかありません。最も小さな虫から最も高尚な生物にいたるまで、万物に神が内在していることに気づくことです。その気づきが心を清めてくれるでしょう。神はすべてのものに浸透していること、神はすべての場所に存在していることを確信していなければいけません。その永遠普遍の魂は遍在です。すべてに遍満しているその宇宙の魂のうち何が善で何が悪かを識別することのできる人は誰もいません。なぜなら、それは唯一無二であるからです。肉体意識を持っている人だけが、無知ゆえにそのような区別をするのです。神にとってはそのような違いは存在せず、神にそうした性質があると考えることは誰にもできません。

容器と中身

一例があります。陶器、木の器、銅の器、真鍮(しんちゅう)の器、銀の器、金の器など、たくさんの器があります。どの器にも水が入っています。どの器にも太陽が映っているのが見えます。この器に映っている太陽は善くて、あの器に映っている太陽は悪いと言うことは可能ですか? 器の価値はさまざまでしょう。けれども、それぞれの器に映った太陽に価値を付けることができるでしょうか? 器は自然の産物です。太陽(太陽神)は自然を超越しています。器の品質はそれぞれ異なります。けれども、太陽は比較にならないほど清らかです。太陽は永遠なる魂の象徴です。万物は至高者の映しです。器がなければ水を入れることはできません。水がなければ太陽の映しを見ることはできません。

人間においては、心は水の象徴です。体は器です。体に宿っているアートマ(魂)は太陽の反映に相当します。万物に宿っているアートマは一つであり同じです。万物の違いは体(器)に関連するものです。このようにして探求していくと、質の欠陥は体と心に関連するものであり、魂とは関係がないことがわかるでしょう。ある器の水は泥水で、ある器の水は荒立っており、ある器の水は清らかで静止しているかもしれません。泥水に映った太陽は鈍性、荒立っている水は激性、清らかで静止している水は浄性と見なすことができるでしょう。

では、清らかに保たなければならないものとは何でしょう? それは心(マインド、マナス)です。心は鈍性と激性を除去することによって浄化されなければいけません。どうやって浄化すればよいのでしょう? 二つの悪い傾向を取り除くことによってです。一つ目は自分の欠点を隠すこと、二つ目は他人の欠点を探すことです。この二つの点が取り除かれさえすれば、心は清らかになります。自分の欠点を自覚している人、他人の長所を知ろうとする人は、自分の心を清らかで静止した状態にすることができます。

学生諸君は、スワミと諸君との関係は学生諸君の信愛の強さと信愛の誠実さ次第であるということをよく理解しなければいけません。一例があります。道に沿って歩いていると、道の片側に、よく葉が茂って花が満開の木がありました。道を渡った反対側には、稲が萎(しお)れてしまった田んぼがありました。この違いの理由は何でしょう? 木の場合は、根が土の奥深くまで伸びているので、木を維持するための水を供給することができます。田んぼのほうは、根が土の奥深くまで張っていないため、二日間水のない状態では水を吸い上げることができず、萎れてしまいました。

神への深い信愛で満たされている人は、大きな至福を経験するでしょう。信愛が表面的な人は、満足を得ることがないでしょう。諸君はそれぞれ、スワミへの自分の信愛が、どれほど深く、誠実であるかを調べるべきです。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol22 C13