サティヤ サイババの御言葉

日付:1989年6月21日
場所:プラシャーンティ マンディール
サイの学生への連続講話⑤より

一と多

音楽自体は、目に見えないものであり、一つですが、ラーガ(メロディ)は多数あります。ラーガには、それぞれ独特な形態があります。それと同じように、ラサ(味/味覚)は一つですが、さまざまな形態(甘味、酸味、辛味、塩味、渋味、苦味の六種)があります。インドの音楽学には六十四種の異なるラーガが挙げられています。それらはチャトゥッシャシティ(六十四の意)と呼ばれています。どれほど偉大な音楽家でも、たとえナーラダ仙(ヴィーナの創作者)やトゥムブル(天上の楽師)といった偉大な歌い手であっても、もし同じ節を延々と歌っていたら、聴衆を飽き飽きさせてしまうでしょう。そのためにさまざまなラーガが必要なのです。

神は甘さの化身であり、数多くの姿で顕現します。ウパニシャッドは次のように宣言しています。

ラソー ヴァイ サハ
神は甘さなり

神は数限りない種類の甘さを備えています。プラクリティ(自然界/原質)は、浄性、激性、鈍性という三グナ(属性)でできていますが、ただ一つです。私たちが目にする無数の色、音、香り、味は、プラクリティから生じたものです。

数限りない顕現で自らを示す神を、どうやって描写することなどできるでしょう? ヴェーダは宣言しています。

ヤトー ヴァーチョー ニヴァルタンテー
アパラーピャ マナサー サハー

それ(至高神)をつかめぬままに
言葉と思考が戻り行く

アーナンダヴァリーの一節

神を悟る唯一の(簡単な)方法は、神の御名を唱えることです。もちろん、絶えず神の御名を唱えている立派な人は大勢います。神の御名を、何日も、何ヶ月も、何年も唱えていても、ちっとも変わらない人も大勢います。その理由は何でしょう? その人たちの感覚器官が、「私は体である」と思って働いているからです。肉体意識に浸ったまま神の御名を唱えている人は、どれほど長く苦行を続けても、神を悟ることはできません。

一人の役者、たくさんの役

人々はさまざまな信仰と文化に属しており、各人の背景に従ってさまざまな霊性修行に従事しています。人々は、期待通りの結果が得られないとわかると、不満を募らせたり、失望したりして、別の礼拝の形式や別の信仰に鞍(くら)替えします。単に別の御名を唱えたり、別の宗派を選び直したりしても、霊的な変化は起こりせん。神の恩寵は信仰を変えることで確保できるものではありません。変えなければならないものは心であって、宗教ではありません。ただ服を着替えるだけで神の性質を得ることはできません。徳を培わなければなりません。自分の人格を変容させられる人だけが、自分を昇華させることができます。

簡単な例があります。劇の一幕で、ある役者がボロをまとった物乞いとなって登場しました。その役者は、別の幕では王様のローブを着て登場しました。あとの幕では、大臣となって登場しました。おそらく観客たちは、物乞いの役を演じた役者は、王の役を演じた役者とも、大臣の役を演じた役者とも別人だと思っているでしょう。その理由は何でしょう? 観客は役者の衣装で判断するからです。人は着ている服や行動で判断されます。それとは対照的に、犬が主人の前でどう行動するか見てごらんなさい。主人がどんな服を着ていても、犬は主人がわかります。犬は主人の声を頼りに行動します。外側の身なりで判断する人間よりも、犬のほうが認識能力が優れているかのようですね。

名と姿は人為的なもの

現代人は、名前と姿を基にして行動します。名と姿は人為的なものです。音には永続性があります。もし音に十分な敬意を払って神の御名を唱えれば、御名は霊的な力を得ます。高次の意識(チンマヤ)は、神の御名を唱えることで体験することができます。

人は神の意識の化身です。清らかでいるときにだけ、人はその意識を体験することができます。この世の快楽への執着によって、人は肉体に縛り付けられ、自分の本質である神性を忘れるようになりました。

人は、神が愛の化身だということを知っています。神は愛という紐(ひも)によってのみ、結びつけることができます。しかし、愛の紐が神を人に結ぶことができるのは、愛が愛のために存在するときだけです。もし、あなたの愛がこの世のものへの欲望によって動機づけられたものであったなら、神は手に届かないでしょう。あなた方は愛の化身にならなければいけません。ただ愛するだけなら、あなたの愛は少数に限定されるでしょう。あなたが愛の化身になったときにだけ、あなたの愛はすべてを包み込むことができます。そうして初めて、あなたは、すべての存在に宿っているのは同一の神であることがわかるでしょう。

クリシュナが定義したリーダーの役割

少年時代のある日、クリシュナは、牧童たちと一緒に、牛たちを草を食(は)ませに森へ連れて行きたいと思いました。クリシュナの母ヤショーダーは、森では茨や石の上を歩かなければならないので、サンダルが要るでしょうと、言いました。クリシュナは、牛たちは何も履いていないので、牛の守り手である自分も何も履くべきではないと言いました。クリシュナは、母牛は自分の乳を他人に与えているので無私無欲であり、母牛と子牛のクリシュナへの愛は、ヤショーダーのクリシュナへの愛も及ばないものだと、指摘しました。このようにして、クリシュナは、リーダーは指揮下にある者たちとの関係においてどう振る舞えばよいか、手本を示したのです。

クリシュナは、自分を牛たちのリーダーであり、守り手だと考えていました。あなた方は、学級リーダーであったり、学生寮の部屋のリーダーであったり、グループリーダーであったり、社交リーダーであったりするかもしれませんが、どんな類のリーダーであっても、自分の従者たちに手本を示し、理想像として従者たちに奉仕すべきです。

まさしく、誰も皆、理想的な人物になることを目指すべきです。そうして初めて、人生は、意味のある、満足のいくものとなります。農夫を例に挙げましょう。農夫は、自分の畑で作物を育てる前に、畑を整備し、耕し、肥料を撒(ま)き、種を植えなければなりません。種から芽が出たら、雑草を抜き、畑を荒らす鳥や他の動物たちから苗を守らなければなりません。そうして初めて、農夫は収穫を得ることができます。

ハートを耕すのにも、これと同じようなことをしなければいけません。ハートは畑のようなものです。きちんと耕さなければいけません。ハートには愛という水を撒くべきです。ハートは探求(ヴィチャーラ)のプロセスによって耕すべきです。それから、そこに神の御名という種を植えなければいけません。そして、それを守るために警戒という柵を立てなければいけません。エゴという雑草を引き抜いて、信愛という作物を守らなければいけません。そうして初めて、あなたは神への愛という実を収穫することができるのです。

どの人の人生の木にも、愛という実がついています。その実を味わうためには、外に付いている皮をむかなければなりません。そうすれば、中に詰まっている果汁を手に入れることができます。たとえば、オレンジを例にとりましょう。オレンジを味わうには、まず外側の皮をむかなければなりません。それから、種と中の繊維質も取り除かなければなりません。そのようにして、果汁だけを飲むべきです。人生は、あなたが愛という果実を味わうことができるよう、神から与えられたものだということを、はっきりと理解しなければいけません。誇示したいという気持ちと慢心を一掃しなさい。悪い考えと悪い感情の種を取り除きなさい。「私のもの」という感覚(ママカーラ)を捨て去りなさい。そうすれば、愛という果汁を味わうことができるでしょう。

自分の真の潜在力を知りなさい

これは誰もが始めるべき類の霊性修行です。誰もがある種の農夫です。どの人のハートも畑です。この神の贈り物を無駄にすべきではありません。きちんと耕さないなら、畑を持っていても何になりますか? ハートは神聖な畑です。けれども、畑を休ませていれば、土地は痩せて何も育たなくなってしまいます。ハートは広大な土地ですが、あなた方はそこで育てるべき作物を栽培することに失敗しているのです。

あなた方の今の第一の義務は、自分に与えられた貴重で広大な土地をきちんと耕すことです。あなた方はそのために必要な能力を持っています。学生諸君のなかには、スワミの理想どおりに生きるための強さを与えてくださいと、スワミに祈る者もいます。そう祈っているとき、彼らは今の自分には強さがないと思っています。彼らに強さを与える必要はありません。強さはすでにあります。あなた方はそれを上手く使うことに失敗しているのです。それは、自分の注意をそこに集中させていないからです。自分の潜在力を知れば、それをどう正しく使えばいいかわかるでしょう。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.22 C14