サティヤ サイババの御言葉

日付:1989年6月22日
場所:プラシャーンティ マンディル
サイ大学の学生への連続講話⑥より

神の御名の力

どの宗教も、ハートの清らかさを強調しています。そして、清らかなハートがなければ霊性修行の一切は無価値である、とうたっています。心(マインド)がエゴでいっぱいであれば、どうやってハートの清らかさを実現することができるでしょう? 体は水で洗ってきれいにすることができますが、ハートは、神の御名でのみ、きれいにすることができます。

阿修羅(アスラ/羅刹(らせつ))の息子プラフラーダ、鳥のジャターユ、動物だった象王ガジェーンドラは、神の御名を拠り所とすることで自らを救済しました。エゴに満ち、自分の力を拠り所としているうちは、神の恩寵(おんちょう)という御利益はやって来ません。

ガジェーンドラが、「今も、そして、これから先も、神は私を救うことがおできになる。私は神以外何も知らない」と断言したときに、神は初めてガジェーンドラを救いに急行しました。

ドラウパディー(パーンダヴァ兄弟の共通の妻)がカウラヴァ兄弟に辱められたとき、救いにやって来たのは誰でしたか? 武勇の誉れ高かった夫たちは、誰一人ドラウパディーを守れませんでした。ドラウパディーは、身内も他の誰も自分を救いに来ることはできない、唯一の守護者はクリシュナ神であるとして、クリシュナに祈りました。人々は人生によくある問題を和らげる助けになるかもしれませんが、重大な危機のときに人を救うことができるのは、マーダヴァ(迷妄の支配者である神)のみです。それを信じて、ドラウパディーはクリシュナに救いを求めて祈りました。ドラウパディーを救ったのは神の御名への信心でした。

トゥルスィーダースは、ラーマは全世界の守護者であると称賛し、「ラーマ」という御名は、強力な三神である、火の神アグニ、太陽神スーリヤ、月の神チャンドラを表していると明言しました。

ヴァールミーキは、若いころは猟師(生まれの低い部族民)でしたが、のちに聖者となり、七聖賢から教えられてラーマの御名を瞑想し、それによって永遠なる『ラーマーヤナ』の著者となりました。聖人たちとの交わりとラーマの御名の唱名が、ヴァールミーキを第一の詩聖(アーディカヴィ)にしたのです。

神の御名は、人生という海を渡っている人にとって、小船のようなものです。カリユガ(最悪の時代の意/末世)では、神の御名がこの上なく重要です。カリユガではハリ(悲しみを取り除き幻想を追い払う者である神)の御名より偉大なものはない、と宣言されてきました。カリユガでは、他のどんな霊性修行、宗教的修行によっても、平安に達することはできません。

神の御名は毒を甘露に変えることができます。神の御名は命を失ったものを生き返らせることができます。神の御名には無限の力がみなぎっています。

ミーラーはクリシュナ神の御名を唱えることに心底没頭し、自分がどこに行こうとしているのか、他人は自分のことを何と思うかなど、まったく心にありませんでした。神を固く信じる者は、他人が自分をどう思うか、他人が自分を何と言うかなど、気にするべきではありません。他人がどう思っているかなどお構いなしに、自分の修行を貫くべきです。

このことは、学生諸君が学校の休みに帰省して自宅にいるとき、諸君が食事の前に声に出して祈ることに対して誰かが意見してきた場合にも当てはまります。これは正しいとわかっていることを実行する勇気を持ちなさい。諸君は罪を犯すことを恐れているでしょうが、神の御名を唱えることに恐れは一切無用です。他の人たちが諸君を見捨てても、神の御名は最期の最後まで諸君を守ります。諸君は、たった今から、神の御名を唱えることを実践しなければいけません。いつ最期のときがやって来るかなど、誰にも言うことはできないのですから。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.22 C15