サティヤ サイババの御言葉

日付:1969年6月26日
場所:プラシャーンティ マンディール
サイ大学の学生への連続講話⑨より

人と宇宙

バルトリハリは、偉大な帰依者で、とても賢い人であり、詩人で、すべての霊性の求道者にとって理想的な手本でした。あるとき、バルトリハリは自分の失敗について調べ始めました。彼は気づきました。

「私がわずかな知恵しかない人間だったとき、私は自分に匹敵するような者は他にはいないと思い上がって、無謀な行いをしていた。しかし、聖者との交わりと彼らの賢い教えを聞いていたおかげで、私は自分についての真実を悟ることができた。」

特効薬が特定の病気に効くように、賢い聖者の教えは、人が心の気まぐれを押さえつけることができるようにしてくれます。

なぜ、どんな人でも自惚(うぬぼ)れてしまうのでしょう? この広大な宇宙の中で、あなたはどれほどのものですか? 無限に広がる大空の中では、太陽も一つの小さな星にすぎません。地球は小さな惑星で、アジアはその地球のほんの一部分です。バーラタはそのアジアの小さな国であり、アナンタプルはバーラタの一つの県にすぎません。あなた方は(さらにそのアナンタプルの中にある)プラシャーンティ ニラヤムの小さな部屋の中にいます。宇宙と比べたら、どんな人でも自分を自慢に思う理由などあるでしょうか? そのような慢心は、無知から生まれる錯覚の結果であると言えます。

もし人間の状態の真の性質について深く調べてみるならば、人間は永遠ではなく無常であるといった、さまざまな側面に気づくでしょう。あまたの星が存在する広い宇宙の中で、神がわざわざ人の姿をとって現れる理由は何なのでしょう? その背後にある真理をわかりたいと思う人は、ほんのわずかしかいません。その真理を理解するには、最高の英知が必要です。

三種の知識

現代世界では、宇宙に関する知識は三つのカテゴリーに分類されます。

  1. 日常生活における観点からの、知覚に基づいた事実に関する知識があります。ノンフィクションを真実として扱い、フィクションを真実でないものとして扱うのは、実際的な知識です。
  2. 第二のカテゴリーには、現象界を実在と見なし、目に見えないもの、聞こえないものすべてを、非実在、あるいは、存在していないものとして扱う人たちがいます。彼らは自然を実在と考え、神は存在していないものと考えます。
  3. 第三のカテゴリーは、一つのものともう一つのものを分け隔てせず、全宇宙は神の投影であり、神が浸透しているという見解を持っている人々から成ります。これが霊的知識です。

疑いなく、現象界の知識は必要です。しかし、人はその上を行って、永遠不変の実在を知るべきです。

あるとき、ネルーがガンディーに、なぜそんなに心配して憂鬱になっているのかと尋ねました。ガンディーは、若者たちが受けている教育が彼らを冷酷にしていることがわかったからだと答えました。

「そのような冷酷な人間が、世界に対してどんな善いことができるだろうか? これが私が心配していることなのだ」とガンディーは言いました。

現代の教育は、人に、自分の心と魂にとって善いことではなく、自分の心を魅了するものを追い求めるようにさせます。ハートは元来柔らかで甘いものなのに、硬くて無情な器官へと変えられています。最も鋭敏なものであるはずの知性が、鈍くなっています。

親たちは、子供が人格者になることよりも、学者になることを切望しています。立派な学歴を持つよりも、善い性質を持ってほしい、と子供に望む親だけが尊敬に値します。教育は人生のすべてではありません。霊性の道だけが、徳を育む唯一の方法です。

自由というものの真の意味

霊性の道を進む中で、人はどんな段階においても、興味を失ったり、無関心になったりしてはなりません。バクティ(神への愛、信愛)は、休憩や様変わりを許しません。確固たることは真のバクティの印です。学生諸君はそのようなバクティを持つべきです。なぜなら、学生諸君は自分の五感を支配する力を充分に持っていないからです。

学生諸君は、自由とは自分の好きなように行動することであり、自分たちの本来の目標であると考える傾向にあります。しかし、それは本当の自由ではありません。手放しの自由は、動物たちが楽しんでいるものです。しかし、人間という、教育を身につけた存在は、どう振る舞うべきでしょう? 「スヴェーッチャー(自由意志)」という言葉は「スヴァ(自分の)」と「イッチャー(意志)」という二つの語から成っています。「スヴァ」はアートマのことであり、「スヴェーッチャー」とは、体ではなくアートマの指示に従って行動することを意味します。人は、考えが正しいか間違っているかを判断するために識別力を使い、良心の指示に従って行動しなければいけません。それが本当の自由意志です。そうして初めて、人は自信を持つことができます。

感謝は極めて重要な徳

学生諸君は、学識を得ることよりも、善良な性質を得るための努力をしなければいけません。神性の本質を理解するためには、バクティが不可欠です。ひとたび神への固い信心を持てば、人は人生の浮き沈みのすべてに、容易に立ち向かうことができます。どの帰依者も、自分の補佐役の側近として、片側に神への固い信心を、もう片側に清らかな人格を持っていなければいけません。

学生諸君!

感謝は極めて重要な徳です。生涯において自分を助けてくれた人たち全員を、ありがたく思わなければいけません。皆さんは自分の努力でお金を稼いでもかまいません。それには何も悪いことはありません。しかし、その使い道は正しいものでなければいけません。今日では、シリー(ラクシュミー女神、富)を崇(あが)める人はどこにでも目にしますが、ハリ(ヴィシュヌ神)を崇める人はわずかしかいません。これが現代のバクティの皮肉な事態です。霊的な富だけが、真の富です。それは誰かの恩に依存しているものではありせん。火で燃やすこともできません。泥棒が盗むこともできません。真の富は、あなたの命を支えている呼吸のように、あなたを守ってくれるでしょう。真の富は、あなたを正しい道に導いてくれます。霊的な富を得るよう努力しなさい。そうすれば、バーラタは世界の道徳のリーダーとなるでしょう。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.22 C17