サティヤ サイババの御言葉

日付:1989年7月2日
場所:プラシャーンティ マンディール
サイ大学の学生への連続講話⑬(最終回)より

神霊の力

広い海の上では、数え切れないほどの波が、ひっきりなしに作られては消えていきます。どの波も独自の形を有し、さまざまな色に光ります。しかし、どれ一つとして海とは別に存在している波はありません。それと同じように、世界中の無数の存在は皆、さまざまな名前と姿かたちを持っていますが、どれも実在(サット)・覚醒意識(チット)・至福(アーナンダ)という無限の海の小さなしずくです。

すべての存在は神の顕れです。バーラタ〔インド〕の経典は、「すべての生き物はアートマと同類である(アートマヴァート サルヴァ ブーターナーム)」と明言しています。バーラタの経典は、アートマ原理は神の火花となってすべての存在に内在していると断言しています。バーラタの経典は、すべての存在において神霊(アートマ)は一つであるということを示しています。感覚器官はアートマではありません。物は感覚器官を通して見たり触ったりすることができます。しかし、アートマは感覚器官とは別個のものです。目は見ることしかできません。耳は聴力を持っているのみです。舌には味わう力があるだけです。それぞれの感覚器官は独自の力を有しています。それ以外の働きをすることはできません。目は聞くことができず、耳は見ることができません。すべての感覚器官の力を有しているのは神霊(アートマ)だけです。

サッティヤムとシヴァムとスンダラムの単一性

アートマは永遠です。アートマは「サッティヤム・シヴァム・スンダラム」、すなわち「真理・善・美」であると言われています。世俗的な視点から見ると、この三つの性質は互いに異なって見えます。しかし、真理を有していない善はあり得ません。真理がなければ美は存在しません。美は、ものに輝きを授けます。真理は、ものの本質を明かします。それによって、その善、すなわち有用性が引き出されます。この三相の単一性がアートマの神性を明かします。布と糸は自らの基盤として綿を有していますが、それと同じように、アートマは三相すべての基盤です。真理が善というマントをかぶると、美に見えます。三つの言葉は描写的ですが、同じものを指しています。

プレーマ(愛)、サウンダルヤ(美)、マードゥリヤ(甘さ)、ショーバー(輝き)という四つの言葉があります。これらは描写的な言葉です。ハートがとろけると、ハートから愛が流れ出します。愛は熟すと美に変わります。美の味が成熟したものが甘さです。甘さの体験の中では、すべてのものがまぶしく光って見えます。この全過程は、花が最終的に実になって熟し、甘い果物になったときに起こることに喩(たと)えることができるでしょう。熟成がすべてです。神霊(アートマ)は、まったき甘さです。それゆえ、〔クリシュナ神の〕信者はこう歌いました。

あなたの目は甘い
あなたの言葉は甘い
すべてが甘い、ああ、マドゥラーの都の主よ
甘さ、甘さ、どこもかしこも

この神の甘さこそが、世界を照らしているのです。美、甘さ、至福はすべて、あなたの中にあります。あなたの心(マインド)を神に向ければ、全宇宙が新しい様相をまとうでしょう。内側が変わらなければ、外側の物質世界の変化の一切は何の役にも立ちません。個々人が変わったときにのみ、世界は変わるのです。

聖仙は統治者に的確な助言を与えた

過去に聖仙たちが霊的な生活を送っていたおかげで、かつて、この国は適時に雨に恵まれ、すべての人が平和と繁栄を楽しんでいました。人々は正義(ダルマ)にかなった生活を送り、幸せで、満足していました。

人々が正義(ダルマ)の道からそれてしまったせいで、現代人は不満と無秩序と惨めさにつきまとわれています。古代の王たちは、徳と英知の人である大聖仙たちを相談役としました。彼ら統治者たちは大聖仙たちから的確なアドバイスを得ました。そうした聖仙たちには私心のかけらもなく、人民の幸福しか念頭になかったのです。

聖仙たちはマントラとヤントラを用いることに精通していました。聖仙たちは神霊の知識(ブラフマ ヴィッディヤー)を追い求め、マントラを通じて大きな力を得ました。聖仙たちがそうした力を授かったのは、マントラを正義(ダルマ)にかなった目的のために使う方法を知っていたからです。聖仙たちが操ったヤントラ(武器)にマントラの力がみなぎり、それによって途方もなく強力なものになりました。そうした武器は、世界のためになることにだけ使われ、利己的な目的のためには使われませんでした。

当時、知識には二つの種類がありました。

  1. 世界の人々の幸福を促進するための知識
  2. 他者に害をもたらすための知識

一つ目の種類の知識は神霊の知識(ブラフマ ヴィッディヤー)として知られていました。二つ目の種類の知識は悪魔の知識(ラークシャサ ヴィッディヤー)として知られていました。

現代の知識において利己心と私利私欲が支配的になっている限り、知識が人々のためになることはないでしょう。学問的知識と共に苦行(タパス)があるべきです。古代の聖仙たちは、学問的知識と苦行は共にあるべしということを、忠実に守っていました。神への奉納として行われた行為は、すべてが苦行(タパス)です。利己的な行為は、すべてが鈍性(タマス)です。

宇宙は神のこだま

ある学生が、愛には三種類あり、それは、肉体的な愛、精神的な愛、霊的な愛であると述べました。実際には、三種類はありません。愛はただ一つしかありません。けれども、愛は、あなたの愛の対象に準じて、異なって見えるのです。愛が神に向けられると、至福を体験し、成就に到ります。愛が利己的な感情によって駆り立てられると、必然的に喜びと悲しみが伴ってきます。ですから、すべての行いを神への捧げものとして行うようにしなさい。

学者たちは、粗体(ストゥーラ シャーリーラ)(肉体)、微細体(スークシュマ シャーリーラ)、原因体(カーラナ シャーリーラ)に関して、さまざまな見解を持っています。私の見解では、粗体と微細大は双子のようなもので、音とそのこだま、物体とその映しに似ています。場所によっては、あなたが叫び声を上げると、そのこだまが聞こえます。別の場所では、こだまは存在していても、耳には聞こえません。全宇宙は神のこだまです。全宇宙は神の姿が映っている鏡のようなものです。

ちょうど、あなた自身の声がこだまとなって返って来るのと同じように、あなたの行いは反動となってあなたに返って来ます。ですから、誰をも傷つけないこと、つまり、誰をも害さないことを、身につけるべきです。善悪は、あなたの中にあるものの反映にすぎません。この真理を基に、私は人々に、「善であれ、善を見よ、善を為せ」という神への道を助言しています。

知識の正しい使い方

現代では、科学と技術が大きな進歩を遂げています。けれども、人間の人格と道徳は、その進歩に相応する進歩を遂げていません。識別なき知識は危険です。原子力が破壊を目的に利用され続けています。もし、あらゆるエネルギーを、平和的、生産的目的のために使えたら、生産の向上と人々の状態の向上のために、どれだけ多くのことができたことでしょう。知識は人々の幸福を促進すべきであり、人々に害をもたらすべきではありません。

学生諸君は、国と国との違いを認識すべきです。それぞれの国には独自の特色と問題があります。同じシステム、あるいは処方が、すべての国に適合するわけではありません。四人が医者に行き、自分の胃の問題を訴えたとします。診断はそれぞれのケースごとに個別に行い、各人の必要に応じて処置が変えられなければなりません。一人目には錠剤、二人目には注射、三人目には手術が処置されるかもしれません。同様に、各国の問題は、それぞれの国の状態と必要を考慮して解決すべきです。同じ処方をすべての国に用いるものではありません。

諸君は、学問的知識を得ることが人を偉大にするわけではない、ということを覚えておかなければなりません。現代では、世界中の多くの人が、貧困と不浄に足を踏み入れています。自分の望みを満たして満足していてはなりません。あなたの同胞の貧困と惨めさを和らげるために努力しなければいけません。

人は、知識を通して謙虚さを得ます。謙虚さを通して信頼を得るようになります。そして、信頼される地位を通じて富を得ます。富を通じて正義(ダルマ)を実践しなければいけません。正義(ダルマ)はあなたに、この世界での幸福と、その向こうの世界での幸福を保証してくれます。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.22 C22