サティヤ サイババの御言葉

日付:1990年11月23日
場所:サイ クルワント ホール
65歳御降誕祭の御講話より

バーラタの栄光を取り戻しなさい

神聖アートマの化身である皆さん! 最も古い時代から、バーラタ人〔インド人〕は真理〔真実/サティヤ〕を神と見なし、真理を愛し、真理を促し、真理を保護し、そうすることによって神性を得ました。バーラタ人は真理に徹し、ダルマ(正義)と結び付き、社会における道徳を第一の義務として尊重しました。今、人々は、真理と正義を忘れているために、国家的な問題を解決することも、共同体の対立を終わらせることもできずにいます。私たちは、東にベンガル湾、西にアラビア海を持ち、その両方がインド洋で合流しています。それと同じように、バーラタ〔サンスクリット語でのインドの正式名称/神を愛する者、あるいはバラタの子孫といった意味がある/ヒンディー語ではバーラト〕は、世俗の繁栄と霊的進歩の結合を例示しています。バーラタは、ジーヴァ(個々の魂)とブラフマー(普遍の魂)の一体性が浸透している国です。

私たちが「バーラタ」と言うとき、バーラタという単語は特定の個人や国や状況とは関係ありません。この単語には、さまざまな典拠によって多くの異なる派生的な意味が与えられていますが、それらはあくまでも個人的な解釈にすぎません。いくつかのプラーナ〔古来の神話集〕によれば、この国にバーラタという名前が付けられたのは、この国はジャダ バラタという王によって統治されていたからであるとあります。他には、ドゥシュヤンタとシャクンタラーの息子で、この国を支配していた、かのバラタ王に由来するという説もあります。他にも、シュリ ラーマの弟であるバラタがラーマの神聖なサンダルを王座に置いて国を治めたので、この名前はインドに起因すると説く人もいるでしょう。

ですが、「バラタ」という単語はいつできたのでしょうか? この名前は、ジャダ バラタがその名を授かるより前、ドゥシュヤンタの息子とラーマの弟の命名より前から存在していたはずです。バラタという名前は太古の昔から存在していたことは明らかです。

「バラタ」は人間家族全体を意味する

サラスワティー女神は、サラスワティーやバガヴァティーやバーラティーと呼ばれます。サラスワティーはヴァークデーヴァター(話し言葉の女神)を意味します。ですから、言葉を話す才能を持って生まれた人は誰もがバーラタです。バーラタという名前は、特定の個人や国とは関係ありません。バーラタという単語は、人間家族全体に適用されます。「バ」は、神聖な知識によって表される原理を指します。「真我の知識」が「バ」です。真我の知識を喜ぶ人たちが「バーラタ」です。したがって、自分自身の光り輝く力によって輝いている人は皆、バーラタなのです。

この単語は、バーラタ人は戦い(サングラーマム)に長けた者であるという意味の語根にも由来しています。サングラーマムとはどういう意味でしょう? それは、対峙(たいじ)する敵対勢力を、神聖な霊的な力によって征服することを意味します。「Balam Bharam Bhavathi Bibhartheh」〔バラム バラム バヴァティ ビブルテーハ〕は、ニルクタ〔ヴェーダの補助学であるヴェーダアンガすなわちヴェーダーンガのうちの一つ〕の中で使われている言葉です。バラ(バラム、力)とは、ブランマバラ(アートマの力)、テージョーバラ(内なる光の力)、シャーストラバラ(経典の知識から得られる力)のことです。バーラタとは、これら三種類の強さを持つ者のことです。シュルティ(ヴェーダ)は、バラをヤグニャ(供犠)と定義しています。したがって、バーラタとは、ヤグニャを行うことによって力を得た者ということになります。したがって、バーラタ人は、アートマバラ(神霊すなわち真我の力)によって神聖な力を獲得した者なのです。ですから、誰であろうと、どこの国であろうと、この神霊の力を得る必要があるのです。

バーラタは豊かな国

バーラタは自然に恵まれた国です。バーラタは、すべての道徳、霊性、世俗的な知恵の第一の源です。バーラタはアンナプールナー(豊穣の国)です。これほど神聖な国を貧しい国と見なすのは、頭がどうかしています。私たちは貧しい国ではありません。バーラタは天分豊かな国です。もし、豊かな国でなかったら、なぜ、ムガール人やヨーロッパ人などがこの国を侵略したのでしょうか? 天分豊かな国であるにもかかわらず、私たちはその豊かさを守ることができずにいます。その理由は何でしょう? それは、国民に団結力(一体性)がないからです。

自由は勝ち得ましたが、団結は達成されていません。団結力がないからこそ、バーラタはあらゆる種類の災難に見舞われるのです。ガズニーのムハンマド〔当時のガズナ朝帝国の統治者〕はパンジャーブ地方に侵入し、略奪品として700モーンド〔2万6110キログラム〕の金をこの国から持ち去りました。ナガラコータには、すべてを金でこしらえた30ヤード × 5ヤード〔27.4 × 4.6メートル〕の会堂がありました。その会堂は侵略者によって丸ごと持ち去られました。

これほど豊かな国に生まれたにもかかわらず、人々が自分の国に誇りを持たないのは残念なことです。どこを向いてもスワールタム(利己主義の横行)〔スワは自分、アルタムは富の意〕ばかりが目につきます。神の愛の化身である皆さん! 利己心を捨てなさい。団結を促しなさい。調和の至福を味わいなさい。

バーラタがどんなに神聖な国であるか、そろそろ気づいてもいいころです。この神聖な土地には、何一つ欠けているものはありません。「バーラタにないものは、他の場所にもない」という古来の格言があります。それほど多種多様な恵みを授けられているにもかかわらず、この国は貧しく後進的であると見なされています。これは妄想から生まれたものです。この妄想から解放されて、初めて私たちはアートマの至福を体験することができます。私たちは、ブラマ(妄想)を取り除くことができて、初めてブラフマンを体験することができます。

バーラタ国内ですべてが手に入るのに、なぜ他の国々に物乞いに行くのですか? あらゆるものはバーラタに源を発しています。ですから、バーラタに生まれたからには、バーラタの栄光を広めるために尽力しなさい。すべての帰依者は、バーラタの偉大さを保護し、促進することを誓うべきです。バーラタ人は、自分の力を知らない象のように、自分の力に気づいていません。莫大な力を備えているにもかかわらず、バーラタ人は、象使いの前で弱腰になっている象のように振る舞っています。皆さんはその弱さを捨てなければいけません。

バーラタの比類のなさを自覚せよ

バーラタは、深遠な真理を説いた偉大な賢人や聖人を数多く輩出しています。バーラタは、国の自由のために戦った英雄たちの土地でもあります。さまざまな芸術や科学、音楽や文学の知識をリードしてきた国でもあります。この神聖な土地に生まれた多くの人がその無比の偉大さに気づいていないのは、大変残念なことです。母への愛は甘露のごときものです。母国への愛がないのは、なんと残念なことでしょう!

皆さんは母国を愛さなければなりません。母国への奉仕に人生を捧げる決意をしなさい。団結は第一の必要条件です。人々は偉人たちの誕生日を祝いますが、偉人の教えを守ろうとする人はわずかしかいません。誕生日を祝うことは、何もすばらしいことではありません。偉人たちの教えを理解し、それに従って行動するために、あらゆる努力を払わなければなりません。

愛の質を高めなさい。あなたの生活のすべてを愛で満たしなさい。これは、前のユガ〔ドワーパラ ユガ〕でゴーピカー〔牧女〕たちがクリシュナに宛てた祈りです。愛のない生活は、まったく不毛です。人間は愛の化身です。愛は、真実のものへと向けられなければなりません。そのような愛こそが、人間の生命の息吹なのです。

バーラタが受け継いできた財産でハートを満たしなさい

神聖アートマの化身である皆さん! 愛を神性の神髄と見なして、社会への愛の奉仕に従事しなければなりません。あなた方は、バーラタの栄光を取り戻さなければなりません。バーラタは、過去において、ずっとすべての国の教師でした。他国のあらゆる人々が平和と悟りを得るためにやって来ています。このような状況の中で、バーラタ人自身が自分たちの偉大さを意識していないことは、大きな不幸です。バーラタ人の歴史は、肉体的、心的、霊的、その他、生活のあらゆる側面におけるバーラタ人の功績を反映しています。私たちは、受け継いできたその財産で自分のハート満たさなければいけません。

今、私たちは、物質的で世俗的な快適さのために人生を捧げています。そうした備品はすべて、何の役に立つのでしょうか? 私たちは、永続的な至福の源であるアートマ原理を悟らなければなりません。ハートに愛がないなら、どんなに知識を得ても、どんなに地位を得ても、何の役にも立ちません。知識を追い求めるよりも、善い性質を身につけることの方が大切です。

神の愛という磁石

今日、なぜこれほど多くの人がここに集まっているのでしょうか? 何か抗しがたい理由があるに違いありません。皆さんは、自分の地元では見つけられない何かを求めているに違いありません。もし地元で欲しいものを見つけることができたら、高い旅費を払う必要はないでしょう。ここには神の愛があります。神の愛という強力な磁石が、人間の形をしたすべての鉄粉を引き寄せているのです。招待状は、誰にも、一枚も送られていません。来るように頼まれた人は誰もいません。人々をここに引き寄せたのは、神の愛の力であり、ハートを結びつける絆です。そのすべての根底にあるのは清らかさです。清らかさがある所には愛が育ちます。清らかさと愛が一緒になると、そこにはアーナンダ(至福)があります。どんな行いをしようが、どんな供犠を執り行おうが、愛がなければ、それらはあまり役に立ちません。

ヨーガの訓練では、いくつかの種類の呼吸法が取り入れられています。また、クンダリニーヨーガの訓練も行われています。これらはすべて、ビジネスの一形態です。呼吸法では、息を吸うことはプーラカム、吐くことはレーチャカム、息を止めることはクンバカムと表現されます。これらはヨーガの力を得るための手段にはなりません。善いものをすべて吸い込むことがプーラカムです。悪いものをすべて手放すことがレーチャカムです。善いものをハートに留めておくことがクンバカムです。誰にもこの種のヨーガを実践する資格があります。この神聖な種類のヨーガは、すべての人が実践すべきものです。これは、すべてのバーラタ人の第一の目標です。

ここプッタパルティは小さな集落です。この村は、どのようにして今の傑出した状態になったのでしょうか? その答えは、各自が自分で見つけることができます。それはヨーガであるとか、大きな幸運であるとか、運のいいハプニングであるなどと考えるべきではありません。それは、思考の力によるものです。あらゆる神聖な思考には、成就を見いだす力があります。だからこそ、ヴェーダーンタはこう宣言しているのです。

ヤッドヴァーヴァム タッドバヴァティ
(その人が考えるように、その人はなる)

ですから、誰もが善い思考を身につけるべきです。そうすることによって、その果報を手にする権利を得るようになるのです。

困難に順応するのは苦行の一形態

神の愛の化身である皆さん! このプラシャーンティ ニラヤムには十分な施設や便利さはありませんが、生活を便利にするさまざまなものに慣れている多くの皆さんがここに集まっています。皆さんは、あらゆる不便さに自分を適応させる一種のヨーガに身を投じているのです。その経験をサーダナ(霊性修行)と考えるべきです。あらゆる快適さを享受することはサーダナにはなりません。困難があるからこそ、幸せを感じることができるのです。困難を通ることなく幸せを実現することはできません。そうした困難は苦行の一形態と見なされなければなりません。楽な生活は苦行になりません。実際のところ、これほど多くの人が多くの困難や不自由を我慢してここに集まっているというのは、彼らの一体感の顕著な証です。

何を達成するにも人間の努力が必要です。この20年間、プラシャーンティ ニラヤムの宿泊施設やさまざまな設備が充実してきたのは、ジョーガ ラーオの働きによるものです。セントラル トラストのメンバーとして20年間、彼はプラシャーンティ ニラヤムにそうした改善をもたらすために、昼夜を問わず絶え間なく努力を続けてきました。彼はカルマ ヨーギ〔行いを通じて神との合一を果たす行者〕です。仕事に喜びを感じています。しかも、この12ヶ月間、彼が昼夜を問わずたゆまぬ努力を続けてきたことは、私だけが知っていることであり、他の誰も知りません。彼はジョーガ ラーオ大佐ではありません。ジョーガ大佐とは呼ばれていますが、彼はまさにカルマ ヨーギなのです。この1ヶ月間、彼は一睡もしていません。彼は82歳です。その年齢でなお、彼が人々に可能な限りの快適さを提供するために尽力してきたからこそ、帰依者たちは困難を乗り越えることができているのです。ジョーガ ラーオの奉仕に感謝するために、セントラル トラストのメンバーたちは、彼にふさわしい栄誉を与えることにしました。私は、ジョーガ ラーオを他人だとは思っていません。しかし、義務としてすべきことはあるので、ジョーガ ラーオに敬意を表すことで、セントラル トラストはその義務を果たすことになります。

(ここでバガヴァンは、ジョーガ ラーオ大佐の手首に金の丸いカディヤム〔腕輪〕をはめられました。ジョーガ ラーオ大佐が神聖な御手からカディヤムを受け取るために登場した時、会場全体が歓声に包まれました。バガヴァンはジョーガ ラーオ大佐に小声で、同じ活力で善い仕事を続けていくようにとおっしゃいました。)

今後、バーラタには、ジョーガ ラーオのようなカルマ ジーヴィ〔行いの人〕やカルマ ヨーギがもっと大勢現れるべきです。誰もがカルマ ヨーギになるべきです。そのカルマ〔行い〕はダルマへと変わります。そのカルマは人生を聖化するでしょう。

バーラタは貧しい国ではない

神への信仰を培い、カルマ ヨーガに没頭し、自分の人生を神聖なものにすることは、すべての人の義務です。バーラタ人は皆、バーラタの神聖さを忘れてはなりません。バーラタは決して貧しい国ではありません。この事実に気づいていないから、この国は争いと無秩序に満ちているのです。一過性のものと永続的なものとの区別がつかず、人々はつかの間の快楽を追い求めて人生を台無しにしています。ささいな一瞬の利益のために、人々は永続的な価値を持つものを犠牲にしています。

自由を手に入れた当時は、人口の13%しか後進〔進歩や発展が遅れていること〕と見なされていませんでした。その割合は年々増加し、今では80%になっています! 5年か6年後には100%になるかもしれません! これはまったく正しいことではありません。

バーラタは後進の部類の人々で構成されている国ではありません。つまらない利権目的で、このような分類がなされているのです。諸外国は、バーラタを貧困に苦しむ国として見ています。神の愛の化身である皆さん! バーラタは豊かな土地であることを覚えていなさい。バーラタほど資源に恵まれた国はありません。なのになぜ、私たちは自分たちを貧しい国と呼ばなければならないのですか? それだけではありません。教育と医療の分野でも、私たちは犠牲の精神を育てなければなりません。

誰もが無料で教育を受けられるようにする

皆さんは、一ヶ月前、多くの学生が(焼身自殺をして)命を落としたことを知っていますね。その理由は何でしょう? それは、共同体単位での制限制度に対する抗議でした。私たちは、すべての人が自由に教育を受けられるような制度の普及を目指さなければなりません。教育は学ぶためのものでなければなりません。そうなれば、学生たちの間でこのような問題が起こることはないでしょう。

今日、ここに、インド大統領、アーンドラ プラデーシュ州の首相と州知事、その他の著名人たちが列席しています。教育界において、「遅れている」とか「進んでいる」といったような新たな分類を設けず、貧富の区別のない、万人のための無料の教育システムを確立すれば、国家は飛躍的な発展を遂げるでしょう。私たち〔国〕は何千万ルピーというお金を〔多くの見込みのない投機的事業に費やして〕無駄にしています。もし子どもたちに正しい未来を保証するなら、国家は限りない恩恵を得るでしょう。どの霊性団体も無料の教育を提供すべきです。

ティルパティ デーヴァスタナム〔ティルマラにあるヴェーンカテーシュワラ寺院を管理する世界第二位の信託〕が豊富な資金を持っていることはよく知られています。なぜそこの当局は無料の教育を提供しないのでしょうか? 何億ルピーが無駄になっているのでしょうか? 教育が無料でないから、デーヴァスタナムの教育機関に通う学生は誰一人として寺院に足を運ぼうとしないのです。それでどうして信仰心が育つでしょうか? 主の御名において、無料の教育と医療の救済を提供すべきです。

10億ルピーの病院プロジェクトの目的

このことを考慮して、私たちは昨日、ここに大きな病院を建てることを決めました。多くの人たちは都心に病院を建ててほしいと私に訴えてきました。いくつかの都市では、ビジネスとして多くの医療機関の運営がなされています。何か教育機関や医療機関ができると、そのもっぱらの目的は、ビジネスです。貧しい人々に無料で施設を提供するための事業を始めようとする人はほとんどいません。ですから、私たちは当初から、プラシャーンティ ニラヤムの近くに10億ルピーの病院を建てることを決めたのです。ここでは、高等教育が無料であるのと同じように、「高等医療」も無料になります。人々は、アメリカ合衆国で行われているような心臓外科手術を受けるために、何10万ルピーというお金を払っています。ですが、貧しい人たちはどんな有り様ですか? 誰が貧しい人たちの面倒を見るのですか? 都会へ行ったとしても、貧しい人たちは「色つきの水」(薬剤の混合液)さえ手にすることはないでしょう!

こういった現実を鑑みて、私たちはこの病院建設プロジェクトを立ち上げました。心臓バイパス手術であろうと、腎臓移植であろうと、肺の手術であろうと、脳外科手術であろうと、すべてが無料で行われます。このことは、プロジェクト開始当初から決まっていたことです。この病院は1991年11月22日に開院します。誰もサイ サンカルパ〔サイの意志〕を推し測ることはできません。銃が発砲される時には光と音が同時に発せられるように、サイの場合は、思いと行いは同時に起こります。ですから、サイの決意を理解するのは、誰にとっても、たやすいことではありません。

サティヤ サイの英雄物語

神の愛の化身である皆さん! 私がこれから言うことを大げさだと思ってはなりません。私には利己心のかけらもありません。私がすることは何であれすべて、他の人々のためだけです。私は皆さんを「他人」と思っていません。あなた方はすべて私の民です。これほどのすべてを包み込むような気持ちは、世界中どこを探しても見られるものではありません。あなた方は、50年間でこれほどまでに成長した組織を他に見たことがありますか?

これまでのアヴァター〔神の化身〕たちの場合、その名声が広まったのは、もっぱらそのアヴァターが亡くなったずっと後でした。現在のアヴァターの場合は、アヴァターが生きている間に、大学、大病院、飛行場をはじめとする多くの施設が村人たちのために建設され、今後もさらに多くのものができるでしょう。

多くの人々は、どうしてこういった一切が成し遂げられるのかと不思議に思っています。(このアヴァターの)降臨は今から64年前に起こりました。それ以来ずっと、この手は、どんな時にも、誰かに何かを求めるために伸ばしたことはありません。私は誰にも何かを求めたことはありません。これからも決して求めたりはしないでしょうし、そのようなことは決して起こらないでしょう。では、一体どうやって一切が成し遂げられるのでしょうか? バーラタでは、善良な仕事には、障害となるものはありません。あなたが心の底から何か善い仕事をしたいと思ったときには、お金はふんだんに流れてきます。心の狭い人は、どんな仕事を始めても、決して満たされることはないでしょう。心の狭い人は、大きな心、広い心を持った人の行いを理解することができません。

神の愛の化身である皆さん! 私は皆さんに何かを期待しているわけではありません。ただ、あなたのハートの中に愛を育てなさい。すべての人をあなたの兄弟姉妹だと思って扱いなさい。すべての人を神の子であると認識しなさい。誰に対しても敵意や憎しみを抱かないようにしなさい。誰の気持ちも傷つけてはなりません。そうした大きな心の態度こそが、あなたに限りない至福を与えてくれるのです。もしあなたがスワミの誕生日を祝ってくれるのなら、これが、私があなたに望むすべてです。あなた方の間で一体性を持ちなさい。バーラタの栄光をよみがえらせ、推進させるよう努力しなさい。

「私はいつも限りない喜びで満たされています」

ここへ来る途中、私は何人かから、「ハッピー バースデイ! ハッピー バースデイ!」〔幸せな誕生日を!〕という言葉で挨拶されました。私はいつもハッピーです。私には「ハッピー」〔お幸せに〕という挨拶は必要ありません! 「ハッピー バースデイ」という挨拶は、ハッピーでない人に伝えなさい。私は限りない喜びで満たされています。私は今までどんな時も、どんな場所でも、心配を抱いたことはありません。その理由は何でしょう? すべての物事は、過ぎ去る雲のようにはかないものです。なぜそれらを心配することがありますか?

誕生や死に直面したとき、舞い上がったり落ち込んだりすべきではありません。私たちは裸でこの世にやって来ました。この世を去る時、行き先の住所を親類縁者に残すことはできません。親類縁者が親類縁者であり続けることなどどうしてできますか? そういったものはすべて、この世での現象です。生きている間ずっと、調和と同朋意識を持って生活を送るべきです。困難はすべて、神を黙想することによって乗り越えることができます。神を忘れて、世俗的な事柄にどっぷりと浸かりながら、あなたは何を達成するというのですか? 神への揺るぎない信心を持ちなさい。カースト、宗派、国籍による差別に、いかなる余地も与えてはいけません。すべての名と姿は神のものです。あなたが目にするすべては、主の普遍なる姿の現れです。神への固い信心を持って、主の御名を唱え、あなたの人生をあがないなさい。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.23 C34