サティヤ サイババの御言葉

日付:1991年2月24日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
サティヤ サイ女子大学の学生に向けた御講話より

勇気を持って進みなさい

プラドーショー ディーパカハ チャンドラハ
プラバテー ディーパコー ラヴィヒ
トリローキヤ ディーパコー ダルマハ
スプットロー クラ ディーパカハ

月は夜の世界を照らす
太陽は昼の世界を照らす
ダルマは三界を照らす
気高い息子は一家を照らす

学生たちよ!

月は夜に光をもたらします。太陽は昼に光をもたらします。ダルマは三界のすべてに光をもたらします。徳のある子供は一族全体に光をもたらします。毎月やって来る二つのものがあります。それは満月と新月です。新月の夜は真っ暗です。暗闇を好む人はいません。暗闇を好むのは、心が邪悪な人と泥棒だけです。暗闇が善良な思考を促進することはないでしょう。暗闇は人を恐怖で満たします。暗闇は邪悪な思考を助長します。反対に、満月は涼やかな月光をもたらします。満月は、詩的表現があふれ出てくるような才覚を詩人にから引き出します。満月は、学者の想像力をたくましくします。子供たちは楽しく遊び戯れたい気持ちになります。市民や村人らは寄り集まって自分たちの住んでいる地域の問題について話し合います。月光は人々に無限の喜びをもたらします。月光は善良な思考を育みます。月は平和な雰囲気と善良な思考をもたらすものです。

太陽がなければ生命は存在しません。太陽がなければ動くものと動かないものの世界全体が停止してしまいます。人間のために存在するものは何もなくなってしまうでしょう。木々穀物やあらゆる生き物は太陽によって守られています。現存する全世界は太陽によって維持されています。

三番目はダルマです。正しい行いはダルマとして知られています。ダルマは、個人と個人、個人と社会、社会と社会の間の関係や振る舞いの規範を定めています。

以上の三つの相に照らし合わせて人間性を理解するよう努めなくてはなりません。

チャンドラマー マナソー ジャータハ
チャクショー スーッリヨー アジャーヤタ
月は神の心(マインド、マナス)から生じ、
太陽は神の目から生じた

月は人間の心の象徴であり、太陽は知性の象徴です。ダルマは人間の生涯を象徴しています。それゆえ、月と太陽とダルマは人間の理想的な人生を象徴しているのです。

人間は、これら三つの性質の具現であり、これら三つの性質から成る姿です。月は人間の心の中にあります。太陽は人間の視力の中に存在し、ダルマは人間の行動の中に見出されます。

ですから、人間の心は満月の段階まで進歩しなくてはなりません。そうすれば、人生において完全な幸福を味わうことができるでしょう。私たちの心は満月のように健全なものであるべきです。ちょうど月光が全世界を満たすように、私たちの心も世界を幸福で満たすべきです。

マノー ムーラム イダム ジャガト
全世界は心の投影以外の何ものでもない

と言われています。心がなければ世界は存在しません。平安は健全な心の状態の中に広がっているものです。

次に、太陽とは何でしょう? 太陽は私たちの知性です。知性は目を通して世界を見ることが可能です。太陽がなければ目は役に立ちません。知性は光をもたらす道具です。それゆえ、私たちの知性は進歩の道に光をもたらしながら、正しい識別に従事すべきです。決して利己的な思考を抱いてはなりません。私たちは物事の相対的な永続性について熟考してはなりません。識別力は、社会的な規模、あるいは、さらに大きな規模に焦点を合わせなくてはなりません。自己中心的な識別が限られた結果しかもたらさないのに対し、統合された思考は全世界を包容する太陽の光のようなものです。

今述べた二点をよく理解した後は、次の重要な相に行きます。それはダルマです。人間の一生はダルマにかかっています。

清らかさ、忍耐力、不屈の精神

皆さんの大学の象徴である校旗には、

ダルモー ラクシャーティ ラクシタハ
ダルマはダルマを守る者を守る

と書かれています。私たちがダルマを大切にするとき、ダルマは私たちを守ります。私たちがダルマを嘲笑するとき、ダルマは私たちを災難の多い道に残して距離を置きます。それゆえ、私たちはダルマを培わなくてはなりません。グル〔導師〕を尊敬することは弟子のダルマです。社会を尊敬することは市民のダルマです。国を守ることは兵士のダルマです。両親を尊敬することは子供のダルマです。夫を尊敬することは妻のダルマです。ですから、こうしたあらゆる個々のダルマを合計したものが、ダルマの完全な形です。これが、私たちの国の経典におけるダルマの解釈です。神の命令に絶対に従うことは、すべてのダルマの中で最たるものです。

したがって、この種の心、この種の知性、この種のダルマゆえに、私たちは人間を三つの特性の統合された姿と呼んでいるのです。清らかな人格とは、もっぱら、この人間の統合された相を指しています。人格には、良い育ち、良い文化、神聖さ、良い振る舞いが含まれます。私たちのハートは、これらすべての面が「清らかさ」と「忍耐力」と「不屈の精神」に満たされたとき、初めて清らかなハートと見なされることができます。

「清らかさ」には二種類あります。一つは外側の清らかさ、もう一つは内側の清らかさです。私たちが着る服は清潔でなくてはならず、私たちが使用する本はきちんと整った状態でなければならず、私たちの住む場所とその周囲の環境は清潔で衛生的でなければなりません。私たちは自分に関係するすべてのものに対して清潔さを保たなくてはなりません。規則正しく入浴すれば体は壮健でいられます。私たちは早朝に歯を磨き、舌の汚れを除去します。そうすれば口を清々しい状態に保てます。口は体の入り口です。ですから、口が清潔に保たれれば、体は健康でいられます。体が良い状態であれば、心も健全でいられます。大方の場合、心の健康は体の健康によるものです。

内側の清らかさとは何を意味するのでしょう? 私たちの思考、想像力、欲望は、清らかで神聖なものでなければなりません。何かに関る前に、その良い点と悪い点をよく考えなければなりません。決して他人を害する思考を抱くべきではありません。利己的な要求と結び付いた思考は抑制しなればいけません。つねに、理想的で高潔な行いを考えなさい。皆さんの思考は、他の人々から模範とされる価値のあるものであるべきです。心というものは思考の束です。ですから、あなたの思考が悪いものであれば、あなたの心も悪いものだと考えられます。

このハンカチを例に取りましょう。これは一枚の布です。これは白い糸からできています。糸の白さが布を白くしているのです。一方、もし糸が赤ければ布は赤くなるでしょう。このように、私たちの思考が清らかであれば、心は清らかになるのです。心が清らかな思考で満たされるなら、私たちが行う一切は神聖になります。反対に、もし心が悪影響を受けるなら、私たちは欲望、怒り、色情、貪欲、高慢、嫉妬の猛攻撃にさらされることでしょう。こうした邪悪な性質が心に入ってくれば、私たちの一生は、耐え難く、受け入れ難いものとなります。ですから、幸福な人生を送るためには、内側と外側の両方の清らかさが必要なのです。

次の特性は、辛抱強さすなわち堪忍寛容〔「忍耐力」〕です。誰かがあなたをからかったり、辛辣な言葉で罵った時、冷静さを失ってはなりません。平静を保つようにしなさい。ムッとする代わりに、自分の側に何か過ちがなかったかどうか、まず我が身を調べなければいけません。自分は正しい道にいるということであれば、なぜ動揺する必要がありますか? しかし、もし何か自分に過ちが見つかったなら、あなたが浴びせられた辛辣な言葉についてくよくよ考える代わりに、自分を正しなさい。いかなる場合であっても、悩んだり動揺したりする必要はありません。この種の平静な態度は、あなたを人生の偉大な高みへと連れて行ってくれます。逆に、あなたが言い返すなら、あなたは相手が犯したのと同じ過ちに陥ることになります。その時、あなたは他人の過ちを指摘する権利を失います。人生で成功を収めようと決意したなら、あなたは必ずや「忍耐力」という特質と平静という態度を養わなければなりません。そうすれば、人生の困難に笑顔で耐えることができるでしょう。人生は挑戦です。立ち向かいなさい。恐れを抱いて逃げ出してはなりません。

態度のバランス

水泳をする人は、水を後ろに押しのければ前進できるということを知っています。同様に、あなたが前進してゴールに到達するためには、困難や障害を押しのけることができなくてはなりません。

自己憐憫に訴えて何もしないでいるならば、あなたは俗世の海の中で溺れているようなものです。ですから、この世という俗世の海で浮かび続ける一番の方法は、熟練した泳ぎ手のように、あらゆる困難を押しのけて前進し続けることです。泳ぎを習っている間、人は浮き輪などの信頼できる補助器具を利用します。俗世の海での泳ぎを覚えるための素晴らしい道具は神の御名を復唱することであり、それは大きな助けとなります。性急な決断をしてはなりません。急いては事を仕損じます。事を仕損じれば心配が生じます。ですから急いではいけません。これが堪忍と呼ばれるものです。神聖さと堪忍は「不屈の精神」と固い決意を伴うものです。

失敗は、もしあなたに固い決意という要素があるならば、成功への踏み石であるということをつねに覚えておくべきです。これらの特質を身に付けていれば、あなたは自分自身の本質である、真理(サット)、良心(チット、覚醒意識)、至福(アーナンダ)を悟ることさえできるかもしれません。これらの属性に姿形はありません。「清らかさ」は真理(サット)です。「忍耐力」は良心(チット)です。この二つを持っていれば幸福を体験します。真理(サット)と良心(チット)が別々に留まっている限り、幸福は体験できません。「清らかさ」と「忍耐力」が結び付けば、(ちょうどシロップを作るために砂糖と水が混ぜられるように)結果として至福が生じます。これらの特質がなければ、どれほど多くバジャンやジャパや瞑想をしても、成果を収めることにはならないでしょう。

良い人生とは、バランスのとれた人生を意味します。態度のバランスと知識のバランスは、バランスのとれた人生をもたらします。知識に傲慢という重りを載せれば、バランスが崩れて混沌状態をもたらします。この種の傲慢な知識は滅ぼさなくてはなりません。

皆さんは、自分の知識を上手く使うことを習得しなければなりません。そして、それをいつでもバランスのとれた状態に保っていなさい。教育機関が知識のバランスを維持できず、混沌と混乱をもたらしているのは、嘆かわしいことです。利己的な人々は、社会的責任を気にも留めずに教育機関を設立しています。しかし、私たちの学校はそうではありません。適切な教育とは、世俗的な面と道徳的な面のバランスがとれた学び、そして、内側の清らかさと外側の清らかさのバランスがとれた学び、さらに、個人の幸福と国家の幸福のバランスがとれた学び、を意味しています。

本校の学生として、皆さんは、この学校が皆さんの教育上の必要性に対して、どれほど寛大に与えているかを認識しなければなりません。学寮費の総計のほんの一部を除き、皆さんは、授業料も、試験料も、特別訪問講義や他のいかなる費用も、一切、学校から請求されていません。本校は、学生には少しも負担させることなく、毎年、学生一人につき数千ルピーを出費しています。学校が負担している額は、専門課程の場合は数倍にもなります。この種の慈善的な方針に基づいた運営がなされている学校は他にありません。

どこであれ、この種の無私の奉仕があるところには、神性が存在するということを知りなさい。神性には特別な姿形はありません。私心のないことは神性です。皆さんは私の中に微かな利己心さえ発見できません。ネガティブな宣伝や悪意ある挑発に耳を傾けてはなりません。皆さんの両親でさえ、娘の発達に関して多少の自己中心的な考えを持っているかもしれません。しかし、私には利己心のかけらもありません。私の唯一の願いは、皆さんがどこに住もうとも、理想的な国民になることです。女子には、自分の両親のみならず、嫁ぎ先の両親の良い評判も保つことが求められています。女子は二つの家庭をつなぐ橋のようなものです。この務めに成功すれば、あなたは「善い娘」(スプットリカー)と呼ばれるようになるかもしれません。

月は夜を照らします。太陽は昼を照らします。母親は三界を照らします。善い娘は国全体、あるいは、社会全体を照らし啓蒙します。

スワミを絶対的に信じなさい

太陽の光は理智の力に似ています。ヴェーダは理智に卓越性を与えています。ヴェーダはこうに述べています。

ブッディ グラーフヤム アティーンドリヤム
知性は感覚を超えている

だからこそガンディーは、「おお神よ、万人に良き知性を授けたまえ」(サブ コー サンマティ デー バガヴァン)と祈ったのです。ですから、理智は正しい道に方向づけられなくてはなりません。皆さんは、無知を捨て去り、報恩の念を育てなくてはなりません。暗闇は無知の象徴です。理智という太陽は、無知という暗闇を追い払い、怠惰という氷を溶かします。「闇を払う者」(トーモーガナヤ)、「氷を溶かす者」(ヒマガナ)と呼ばれる太陽は、「忘恩や忘恩の徒を破壊する者」(クルタガナヤ)とも呼ばれます。恩知らずな人は、太陽に見限られた盲人のようなものです。皆さんの報恩の念は、社会への無私の奉仕や、模範に値する高徳な振る舞いとして、水路を開かれなければなりません。

清らかさを保つことによって単一性が手に入り、それに伴って神性がもたらされます。あなたハートを、純粋性、単一性、神性という三位一体の住処にしなければなりません。身に付けた教育を真の知識と見なすのは誤った考えです。なぜなら、身に付けた教育は書物の知識だからです。実際的な知識が真の教養です。

スワミのことが好きなだけでは十分ではありません。重要なのはスワミの指示に従うことです。私が何を言おうと、何をしようと、それは皆さんのためであり、ただ皆さんにとって良いことのためのみです。皆さんはスワミを絶対的に信じていなければなりません。真のバクティの道においては、自分の好き嫌いを働かせることは適切ではありません。あなたが筋違いだと考えることも、スワミの意志に委ねればよいのです。たとえば、私があなたに「もう学問はやめて結婚するように」と勧めたら、その背後にある理由を理解するとよいでしょう。他の誰かには、私はその人のために「結婚するより学問を続けるように」と勧めるかもしれません。

ゴールドスティンに関するある事件をお話ししましょう。紹介しなくても、皆さんはゴールドスティンをよく知っていますね。彼はアメリカ合衆国へ帰る準備がすっかりできていました。ゴールドスティンは、大学の式典の後にバンガロールへ行くことを望みました。式典は午前11時前に終了予定でした。ゴールドスティンは私といっしょにバンガロールへ向かっていました。私は彼に言いました。

「ゴールドスティン、今、アメリカに帰ってはいけません」

すると、彼は言いました。

「スワミ、もしこの時点で旅行をキャンセルすれば、私は5万ルピーを失います」

「あなたは5万ルピーと自分の命とどちらが大事なのですか? お金や財産よりも命のほうが大切です」

「しかし、スワミ、私は妻といっしょに行かなければならないのです。私はすでに息子たちと手はずを整えてあるのです」

と彼は言いました。そこで私は言いました。

「これは最後の旅です」

ゴールドスティンは驚きました。彼は私の足に触れて言いました。

「息子の結納の日取りを決めてあるのです。ですから、行かなくてはならないのです」

私はゴールドスティンに言いました。

「あなたは結納の時間には間に合わないでしょう」

そして、彼は私に祈り、立ち去りました。ですから、私はそれ以上しつこくしませんでした。

ゴールドスティンはボンベイに行き、飛行機に搭乗しました。離陸するやいなや、その飛行機はハイジャックされ、パキスタンへと向かいました。犯人たちは機内で65人を撃ちました。ゴールドスティンは強健な人です。彼は妻といっしょに最前列に座っていました。二人はハイジャックの犯人たちの目には見えませんでした。この二人を除いて、周りにいた全員が犯人たちに射殺されました。その飛行機は5日間パキスタンに拘留されました。ゴールドスティンは息子の結納に出席できませんでした。彼は戻ってきて私に会いました。ゴールドスティンは言いました。

「スワミ、どうか私の犯した過ちをお許しください。あなたは私の祈りを聞いて私の命を救ってくださいました。そうでなければ、あれはまさしく私の最後の旅になっていたでしょう」

帰依者は神の意志に全託することを習得すべきです。これはハートからのものでなければなりません。全託は行動を通して示されなければなりません。学業を終えて結婚したら、義理の母(mother-in-law)を愛の母(mother-in-love)と見なすことを覚えておかなくてはいけません。あなたがどこへ行こうとも、スワミの恩寵は、つねにあなたと共に、あらゆる所にあります。あなた方は内省を深めなくてはなりません。これは、将来、教師になりたいと望む人々にとっては特に重要です。他人を教える前に、まず自分の欠点を見つけ、誠実に努力してそれを正すのが賢明です。たとえば、生徒たちに静寂を保つよう求めるのであれば、あなた自身が先に静寂を保つことを習得しなければいけません。

子供はあなたの振る舞いの細部まで身に付ける能力を持っている、という事実を忘れてはなりません。さまざまな種類の教師がいます。しかし、子供の心理をよく理解している人が良い教師です。子供のハートの言語を知っていることは、さらに重要です。ひとたびそれを知れば、学校でも、家庭でも、どこででも、あなたは必ずや良い教師になります。

人生はゲームです、プレーしなさい。人生は競争です、勝利しなさい。「ゆっくりと着実な人が競争に勝つ」という格言を覚えておきなさい。そのためには、早く出発し、ゆっくり運転し、安全に到着しなければなりません。この種の態度は、勉強だけでなくゲームにも有効です。あなたの着実さが、あなたの成功のチャンスを決定します。私は、あなた方全員が、理想にかなった信念から湧き起こる勇気を持って前進することを望んでいます。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Women’s Role C32