サティヤ サイババの御言葉

日付:1999年11月5日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
ディーパーヴァリー祭におけるババの御講話より

内なるランプを灯しなさい

平和は消え去った
真実は稀有(けう)となった
武器は脅威となった
利己心こそが、この一切の苦難の原因
これは真理の言葉――サイの言葉

真理、ダルマ、非暴力、愛、平安は、
この世の人間の五つの命の息吹
愛はこの五つのうちで最高のもの
あなたのハートに愛を据えなさい

神聖な愛の化身である皆さん!

バーラタの文化は無限であり、他に優(まさ)るものはありません。どのバーラタの祝祭にも深遠な霊的意義があります。バーラタの祝祭は、浮かれ騒ぎや断食や見せびらかしの場を提供するために始まったのではありません。霊的な観点、科学的な観点から調べてみれば、どのバーラタの祝祭も、神聖な意味に満ちていることがわかるでしょう。

バーラタ人にとって、あらゆるものは礼拝に値します。それが目に見えるものであれ見えないものであれ、耳で聞こえるものであれ聞こえないものであれ、それが心(マインド)から生じるものであれ、ハートを鼓舞するものであれ、すべてのものは神霊(アートマ)の真理に満ちています。石ころからダイヤモンドに至るまで、草の葉から天界の願望成就の木(パーリジャータ)に至るまで、蟻(あり)から象に至るまで、罪人から聖者に至るまで、ありとあらゆるものはバーラタ人に神の真理を伝えています。

バーラタの社会正義の概念は比類なきもの

サルヴァム カルヴィダム ブラフマー
(実に、ここにある一切は神なり)

サルヴァム ヴィシュヌマヤム ジャガト
(全世界には神が浸透している)

イーシャヴァースヤム イダム サルヴァム
(このすべてに神が宿っている)

こうした偉大なマハーヴァーキャ(深遠な大格言)は、前述の概念に基づいて世界に公言されています。バーラタの社会正義の概念は、世界の他のどの国とも比較になりません。この深遠な真理に気づかない無知な人々にはバーラタ人を罵る傾向があります。彼らはバーラタ人をからかって、「石や木や森や山を礼拝する人たち」と言います。

バーラタ人は、愛は生き物だけに限定されず、あらゆるもの、動くものにも動かないものの中にも存在する、という崇高な概念に駆り立てられます。一なるものに多を見るのは人間にとって自然なことです。一方、バーラタの文化には、多様性の中の一体性という神聖な概念が含まれています。

すべての祝祭は、人間に生来備わった神性という覚醒意識を呼び起こすことを目的としています。バーラタの経典は、人間に、「起きよ、目覚めよ、目的地に到達するまで立ち止まるな」と執拗(しつよう)に呼びかけています。バーラタの経典は、人間に、自らの無知を取り除いて、自らの根本的な神性に気づき、その覚醒意識の悟りのために懸命に努力するよう強く勧めています。

ディーパーヴァリーは繁栄の光を迎え入れる

今日の祝祭のディーパーヴァリーという名前そのものから、神の光輝がその中に現れているのを見てとることができます。「ディーパーヴァリー」というのは「光の連なり」という意味です。

タマソー マー ジョーティルガマヤ
(暗闇から光へと我を導き給え)

これはウパニシャッドの祈りです。その意味するものは、暗闇のある所には光が必要であるということです。その暗闇とは何でしょうか? 悲しみは暗闇の一つの形です。平安でないことも暗闇の別の形です。失うこともまた暗闇の別の形です。失望も暗闇の一つの形です。惨めさも暗闇の別の形です。熱意に欠けることも暗闇の別の形です。これらはすべて、暗闇のさまざまな形なのです。悲しみという暗闇を取り除くためには、幸せというランプを灯さなければなりません。病気という暗闇を一掃するためには、健康という光を据えなくてはなりません。喪失と失敗という暗闇に打ち勝つためには、繁栄という光を迎え入れなくてはなりません。

これら一見して正反対の様相は、必ずしも互いにかけ離れたものではありません。これらは相互に関連しています。世界には常に冷(れい)と暖(だん)があります。冷と暖は相反するものに見えます。にもかかわらず、その時点で優勢な状況次第で、冷も暖も人間にとって有益なものとなります。私たちは、寒い天候の間は暖かさを歓迎します。夏には冷涼さを求めます。ですから、冷と暖は両方とも人間にとって援助となるものであって、害となるものではないということは明らかです。同様に、喜びと悲しみ、損失と獲得は、人間にとって助けとなるものであって、有害なものではないのです。悲しみがなければ、幸せの価値を知ることはできません。暗闇がなければ、光の価値が評価されることもありません。

ですから、光の素晴らしさが認識されるには、暗闇が必要なのです。「喜びとは二つの悲しみの合間にあるもの」というのは、もっともな言葉です。悲しみと喜びは霊的観点から見れば同等であると見るならば、悲しみと喜びに関する真理は完全に理解されるでしょう。

祝祭には、実用的な世俗的観点から見た一つの様相がありますが、霊的観点からすれば、それは別の意味を伝えています。しかし、その両方に共通の目的が存在するのです。もっぱら無知な人々が、それらに多種多様な意味を与えて、本質的な意味を取り逃がしてしまうのです。

科学的観点から見たディーパーヴァリーの起源

科学的観点からディーパーヴァリーを見るなら、かつて遠い昔に、私たちの祖先が北極圏に住んでいたことに注目すべきです。北極圏では、六か月間暗闇が優勢になります。北極圏では、太陽はメーシャ サンクラーンティの日(太陽が黄道上で白羊宮に入る日)に姿を現し、トゥラー サンクラーンティの日(太陽が天秤宮に入る日)に沈みます。二宮の間を移動するのに六か月間かかるのです。太陽が天秤宮に沈むと、暗黒の半年が始まります。

今日はカールティカ月〔十月~十一月〕の十四日目(チャトゥルダシー)で、新月(アマーヴァースヤ)です。カールティカ月はカウムディと呼ばれます。北極圏の人々はこの日からランプを点灯しはじめたものでした。ランプを灯すことには意味があります。その日から長いこと暗闇の中にいることになるため、人々はその灯したランプを絶えざる光(ニッティヤ ジョーティ)と呼びました。

祝祭の原因となったさまざまな出来事

五千年前には、地球を回る惑星は複数ありました。そうした惑星のいくつかは、その時々に消滅します。かつて、地球を周回していたナラカと呼ばれる惑星がありました。月とナラカ星は、時おり軌道上で接近していました。ある時、ナラカ星が地球に接近してくるように見えたことがありました。地球の住人たちは、大惨事が迫っているという恐怖でいっぱいになりました。人々は、差し迫った惨事を回避して私たちを救ってくださいと神に祈りました。その時、クリシュナ神はナラカ星を破壊するために自らのプラグニャー(類まれな知識)を使いました。クリシュナのその類まれな知識は、サティヤ(真理)と名付けられました。つまり、クリシュナはサティヤと協力してナラカ星を破壊したのです。世界の住人たちは、ランプを灯してその日を祝い、自分たちを救ってくれた神を崇拝しはじめました。神が勝利したその日が、祝祭として祝われたのです。

ラーマがラーヴァナとその羅刹族(らせつぞく)を倒してアヨーディヤーの都に凱旋(がいせん)した後に行われたシュリ ラーマの戴冠式は、ディーパーヴァリーの日でした。アヨーディヤーは、ラーマが森に追放されていたために、長いこと暗闇に覆われていました。ラーマという光がなかったために、アヨーディヤーは暗黒の都だったのです。一方、森は光で満ちていました。ラーマの帰還は、神の光の帰還としてアヨーディヤーの人々に歓迎されました。そのため、人々はあらゆる場所にランプを灯して、その出来事をお祝いしたのです。

それだけではありません。今日のお祭りは、別の意味深い特色も示しています。今日は、ヴァーマナ〔小人〕に化身した神が、皇帝バリから三歩分の土地(神の足で測った三歩)を得る約束を交わした後、バリを冥界に追放した日です。ヴァーマナは、バリのアハムカーラ(エゴ、自我)を討伐するために、三歩分の土地の寄贈を利用したのでした。バリはチャクラヴァルティ(君主)と称されています。

ディーパーヴァリーはエゴの制圧を意味する

誰の中にも、その人のあらゆる性質を司る君主がいます。その君主とは、エゴ(自我)です。エゴという君主、すなわちアハムカーラ チャクラヴァルティは、人間の中にある一切の善良な性質を抑制してしまいます。アハムカーラには別の意味もあります。それはそのままずばり、「私」(アハム)の姿形(カーラ)というものです。自我の強い人というのは、自分の真我と肉体と同一視する人です。しかし、あなたは肉体ではありません。肉体は道具にすぎません。肉体は物質でできたものの塊です。そのような不活性な肉体を真我と同じものと見なすことなどできるでしょうか? 肉体にさまざまな行いができるのは、肉体が覚醒意識との繋がりを持っているからです。

ディーパーヴァリーは、高次の自己がエゴを制圧したことを祝うためのお祭りです。人は、無知の暗闇に埋もれ、永遠のものと移ろいゆくものとを識別する力を失っています。アハムカーラ(自我意識)によって生じた無知の暗闇が、神の知識の光で晴らされるとき、神の光輝を体感することができます。ディーパーヴァリーは、皇帝ヴィクラマーディッティヤ〔強力な力を持つ太陽の意〕が王位に就いた日でもあります。

これらさまざまな理由から、ディーパーヴァリーは、偉大な祝賀の日として、老若男女すべてのバーラタ人に祝われてきました。

しかしながら、ディーパーヴァリーの日に灯される光が追い払うのは外側の暗闇だけであり、人の内側の暗闇は追い払われません。太陽が明るく輝いている時でさえ、日光は人の内側の暗闇を追い払うことができません。内側の暗闇を追い払うためには、外側の光から教訓を学ばなければなりません。たとえば、ランプに点火したいなら、容器が必要です。容器を油で満たし、中に芯を置かなくてはなりません。芯に火をつけるにはマッチ箱が必要です。これら四つの付属品すべてが揃(そろ)った時、初めてランプを灯すことができます。どれか一つ欠けていても、火を灯すことはできません。外側のランプは外側の暗闇を払います。芯を燃やすと油が消費されます。油を使い果たせば炎は消えます。聖者ラーマダースは、人の命を火の灯ったランプになぞらえて、命の油が切れた時、芯も光も逝った者の後を追いはしないと、自作の歌の中で断言しました。

人は無知の暗闇を追い払わねばならない

もし無知の暗闇が追い払われるべきものならば、外界のランプが必要とするものに相当する容器と油と芯とマッチ箱が必要です。人間にとって、ハートが容器です。心(マインド)が芯です。愛が油で、ヴァイラーギャ(無執着、放棄、捨離、犠牲)がマッチ箱です。あなたにこの四つがあれば、神聖な真我の炎(アートマ ジョーティ)がまばゆいばかりに光り輝きます。真我の光が輝いていれば、知識の光が現れて、無知の暗闇を追い払います。

ランプの炎には二つの性質があります。一つは暗闇を払いのけるという性質です。もう一つは常に上に向かって動くという性質です。たとえ穴の中に置かれても、ランプの炎は上に向かいます。ですから、聖賢たちは、英知の光を、人間を高次の段階へ導く炎として崇めてきました。それゆえ、光の輝きを取るに足りない現象として扱うべきではありません。外界のランプを灯すのと同様に、人は内なるランプを灯すよう努力すべきです。

罪のあるところには恐れがある

人間の財産は神聖な性質によって管理されるべきです。これには、体と心(マインド)と発言の三重の清らかさ――三つの道具(トリカラナ)の清らかさ(シュッディ)――を必要とします。

第一に必要なのはハートの清らかさです。それには発言の清らかさが伴っていなければなりません。さらに、その人の行いがハートと発言と一致しているべきです。三重の清らかさがあるところには恐れがありません。三重の清らかさを実践する人は他に守ってくれるものを必要としません。罪のあるところには恐れがあります。罪がはびこる時は、安全が求められます。この世には安全を求めている人々が大勢います。何ゆえにでしょう? なぜなら、人々は恐れでいっぱいだからです。恐れは罪の意識から生じます。純真無垢(むく)な人は恐れる必要がなく、それゆえ、守護も必要ありません。

現代人は常に恐れに取りつかれています。なぜなら、罪深い行いばかりしているからです。罪深い行いを一掃しなければなりません。そうすれば、恐れから解放されます。さらに、同じ過ちを二度と繰り返さないことを確実にしなければなりません。神聖な永続する霊性の光だけが、不安や惨めさ、欲求不満や飽くことを知らない欲に満ちた生活から現代人を救うことができます。霊性の光は、現代人にとって神聖な灯台となるでしょう。世俗の生活に巻き込まれているすべての人にとって、この神聖な光は絶対に不可欠です。この光はあなたが歩むべき進路を示す磁石のようなものです。この世のあらゆる快楽、地位、富は、あなたに真の平安と安全を授けてはくれません。真我(アートマ)への信頼だけがこれを保証します。昨今の人々は何でも信用しますが、真我(アートマ)を信用しません。真我(アートマ)への信頼を失ったせいで、今日のバーラタはこれほど多くの問題に苦しめられているのです。

この信頼の欠如がどれほど見られるかという実例があります。今日は日曜日と呼ばれます。誰がこの名前に決めたのでしょう? 夜が明けたとき、今日という日は自分の名前を宣言しましたか? いいえ、していません。あなた方はカレンダーを見て、今日という日の名前を見出します。また、今日が今月の五日目であることもわかります。誰がカレンダーを作成しましたか? 天文学と占星術に詳しい人です。あなた方は占星術師の予測に完全な信頼を置いています。占星術師はどこからその占星術の知識を得たのでしょうか? そうした知識の一切は『マヌ ダルマ シャーストラ』(マヌ法典)が起源です。現代人は、マヌ法典には信頼を置かず、マヌ法典に由来するものには信頼を置いています。原典が忘れられている一方で、仲介者が尊敬されているのです。これが現代の物事の状況です。

プルシャールタの乱用

四つの人生の目的(プルシャールタ)があります。それは、ダルマ(正義)、アルタ(物質的な幸福)、カーマ(欲望)、モークシャ(解脱)です。人々は最初と最後の目的を無視して、中間の二つの目的の追求に夢中になっています。現代人の在り方のパラドックスは、頭と足がなく、真ん中の胴体だけしかない生活を送っていることです。そんな生活にどんな意味があり得ますか? これは、人は人生で何が最も重要かをわかっていないということを示しています。あらゆる経典が宣言しています。

タット トワム アスィ
(それは汝なり)

アハム ブラフマースミ
(我は神なり)

プラグニャーナム ブラフマー
(覚醒意識は至高者なり)

これらの深遠な真理がヴェーダによって公言されているにもかかわらず、人々はそれらを信用しようとしません。人々は「自信」について語りますが、実際には、「自己」(真我(アートマ)、本当の自分)を信じていません。万人にとって、自己への信頼(アートマ ヴィシュワーサ)を有していることは最も重要です。自己への信頼は人生という館の土台であり、自己を満足させることが壁、自己への犠牲が屋根、自己を悟ることが住居です。自己(真我(アートマ))がすべての根底にあるのです。自己への信頼がなければ、人生はまったく無意味なものとなります。

人生は限りなく貴重です。食べることや眠ることだけで人生を無駄にしてはなりません。人生は至高者を悟るために活かされるべきです。人は神を悟るために肉体を授けられているのです。人は理想的な人生を送らなくてはなりません。人生は挑戦、挑みなさい。人生は夢、それに気づきなさい。人生はゲーム、プレイしなさい。

「覚醒」とは完全な理解を意味します。他の知識の形はすべて部分的であり、不完全なものにすぎません。覚醒は宇宙の本質の完全な理解を必要とします。これはチットと呼ばれます。誰がチットを認識できるでしょう? サットだけがチットを理解できます。サットとは「永遠なるもの」を意味します。それは実在であり、不変で、変えることができないものです。サットを把握すれば、チットを正しく理解することができます。サットとチットが一つに結びついた姿がアーナンダ(至福)です。

サントーシャとアーナンダの違い

現代人はアーナンダ(至福)を求めています。しかし、どのような種類の「至福」を望んでいるでしょう? 束(つか)の間の至福ですか、それとも永続する至福ですか? 束の間の至福をアーナンダと同等と見なすことができるでしょうか? 至福とは、永続する、変わることのない喜びの状態です。一定の時間だけ体験する喜びは、「サントーシャ」、すなわち、「一時的な幸せ」と呼べるだけのものです。サントーシャは「サム トーシャ」(ちょっとした喜び、some tosha)と見なされるべきものです。サントーシャを求めることは誤り(ドーシャ)です。はかないもの、一時的なものに混乱させられて、人は自分を見失っています。アーナンダは至福です。サントーシャは快楽です。サントーシャは一時的なものです。空腹になれば、人はチャパティを何枚か食べて満足し、幸せになります。しかし、数時間後にはまた空腹になります。このように、この種の幸福は、生と死のように、生じては去っていきます。これは人が求めるべき類の幸福ではありません。人は永続するアーナンダ(至福)を熱望しなくてはなりません。アーナンダは、ニッティヤーナンダ(永続する喜び)、パラマーナンダ(最高の至福)、ブラフマーナンダ(神の至福)等々、さまざまに説明されています。これらすべての状態において、常に存在しているのは、サット・チット・アーナンダ(実在・覚醒意識・至福)です。

サットとチットとアーナンダは別個のものなのでしょうか? そうではありません。サットとチットとアーナンダは一つです。実在は覚醒意識であり、覚醒意識は至福です。同じ(至福の)状態が三つの属性を指しているのです。たとえば、火(アグニ)の例を考えてみれば、火には三つの属性があります。赤い色、光、熱です。この三つは互いに離れているものではありません。この三つは火の複合した性質です。それと同じように、アートマーナンダ(霊的至福)の状態には、サットとチットとアーナンダの三つすべてが存在しています。それは三位一体です。

神性の顕現

人間の中には、三つのグナ〔属性〕、つまり、サットワ〔浄性〕、ラジャス〔激性〕、タマス〔鈍性〕がすべて存在しています。この三属性は、さまざまな状況の中で各々の性質を現します。永続するものが現れると、サットワ〔浄性〕の性質が前面に出てきます。人の完全さが現れると、チット(覚醒意識)が前面に出てきます。この両方の状態が一緒になると、至福という形で神性が顕現します。サット(実在)は砂糖にたとえられ、その性質は甘さです。水は味のないものですが、砂糖を水に溶かせば、砂糖でも水でもない、シロップになります。それと同じように、サットとチットが結びつけば、あなたは、純然たるサットでもチットでもない、アーナンダ(至福)を手に入れます。

ですから、人は自分を至福の化身と見なすべきです。人は、抜群の成績で試験に合格し、その後は良い仕事を手に入れて、結婚し、息子をもうけ、等々、絶え間なく、次々に喜びを追い求めます。そして、これらすべてを実現した後、何らかの困難に遭遇します。人生は絶え間ない幸福の追求となり、そこでは、いつも、幸福は巧みに逃げていきます。

人の目的地は一つだが、道は多い

自分の本性を悟ったときにだけ、人は真の幸福を体験するでしょう。自分を特定の肉体の名前と姿と同一視している限り、幸福はあなたを避けていくでしょう。人はいつも「私の体」、「私の心」等々と言っていますが、そうやって所有者意識を主張する「私」というものの本性を探究しません。人はそれを問い、答えを探すよう努力しなければなりません。一つの質問には一つの答えしかないと思ってはいけません。いろいろな答えがあるかもしれません。試験の解答用紙に点数をつける教師たちは、同じ質問にさまざまな答えがある可能性を考慮すべきです。これは人生にも同様に応用できます。目的地は一つですが、道は多いのです。目的地に集中しなさい。たとえば、スワミはプッタパルティにいます。帰依者たちは、ここへ来るために、飛行機、列車、バス、自転車、徒歩など、さまざまな交通手段を使います。交通手段が何であれ目的地は一つです。自分の交通手段だけが唯一正しい手段だと主張する資格は誰にもありません。

このように、神を悟るには、数多くの道があるのです。九つの信愛の道のなかのシュラヴァナム〔神の栄光を聴くこと〕、キールタナム〔神の栄光を歌うこと〕等々、どの道でもたどることができます。しかし、あらゆる異なる道の底流にある根本的真理はただ一つだということを、心に留めておかねばなりません。だからこそ、ウパニシャッドは、多の中の一(多様性の中の単一性)を悟るようにと、すべての求道者に呼びかけているのです。願望、方法、教義、修行は、異なることもあります。けれども、その成果は同一なのです。

いつまでも輝き続ける内なるランプを灯しなさい

ディーパーヴァリーの内的意味は、人を暗闇から光へと導くことです。人は、年がら年中、暗闇に埋もれがちです。暗闇に覆われるたびに、人はいつまでも輝き続ける内なるランプに火を灯すべきです。どこへ行くにも、そのランプを持って行きなさい。あなたがどこにいようとも、そのランプが道を照らしてくれるでしょう。

ですから、最初に必要なのは、行為の道(カルマ マールガ)を実践することです。たとえば、ランタンを持って暗闇の中を十数キロ進まなければならないとき、ランタンを一箇所に置きっぱなしにして、あなたの行く道すべてをそのランタンで照らすことは期待できません。あなたがランタンを持っていれば、たとえ一度に数メートルしか照らすことができなくても、それは道中ずっとあなたの役に立つでしょう。あなたの内側にある光を信頼することによって、その光がずっとあなたに付き添ってくれるようにさせなさい。

とりわけ学生諸君は、人生の主要な目的を心に留めて、理想的な人生を送る準備を整えるべきです。利己心を捨て、神聖な愛を培うことによって他者に奉仕することを身につけなければなりません。そうすれば、神の至福を体験し、それを他者と分かち合うことができるでしょう。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.24 C26