日付:1992年5月26日
場所:ブリンダーヴァンの大学講堂
夏期講習の御講話より
この世の鳥や獣は
教育を受けていないにもかかわらず
節度ある生活を送っている
人間は知能に恵まれているのに
なぜそのような感覚に欠けているか?
神の愛の化身たちよ! 現代人は、鳥のように空を飛び、魚のように海を泳ぐ方法を身につけました。しかし、地上で人としてどう生きるべきかは、身につけていません。科学は空を飛ぶことや海を泳ぐことを人間に教えることができます。しかし、人は地上で人としてどう生きるべきかを教えることができるのは宗教だけであり、科学にはそれはできません。ですから、もし科学が人間の全面的な発達を促そうとするならば、宗教の助けを借りなければなりません。宗教とは、いくつかの教義に盲従することではありません。宗教は、人が識別力と神聖な価値に基づいて人としての生の最終目標に到達することを、助けるものです。
すべての宗教〔伝統宗教〕は、善いことだけを教えている
それらを正しく理解して、人生を律するべし
自分の心が善良であれば
宗教の中に悪を見つけることができようか?
ですから、どの宗教も決して悪いものではありません。だからこそ、偉大な科学者アインシュタインは、科学なき宗教は不具であり、宗教なき科学は盲目であると公言し、人類の必要に応えるためには、科学と宗教の分別ある結合が必要である、ということを強調したのです。
すべての宗教は人間的価値を強調している
宗教は、統合的な人格の発達を促進する上で、非常に大きな助けとなるものです。宗教は、多様性の中の単一性を強調しています。真の宗教は、すべての宗教の調和と単一性を説いています。すべての宗教の本質と目的は、マインドとハートの清らかさを達成することです。どの宗教も独自の戒律と原則を持っています。しかし、憎むことや非真や不義を教えている宗教はありません。「真実を語りなさい」、「正義を実践しなさい」――ウパニシャッドはそう指示しています。同様の聖なる指示は他のどの宗教にも見られます。
このように、すべての宗教は人間的価値を強調し、人類の適切な進歩と発展のための道標として役立っています。それらはすべて、人に内在する神性の顕現を促進するものです。ところが、現代人、特に若者は、古くからの文化や神聖な価値を忘れ、現代の科学技術に誘惑されて、神に別れを告げています。
しかし、時が経つにつれ、科学者自身も、宇宙は何らかの神聖な力に導かれている、支配されている、という見解に傾いてきました。宇宙に存在する無数の星や惑星は、とてつもないスピードで回転しています。もし、その軌道や速度から少しでも外れたら、宇宙の大惨事となるでしょう。いったい誰がその速度や軌道を守るよう命じたのでしょうか?
科学者と創造主の違い
現代の科学者は人工衛星を作り、それらは地球の周りを回っています。しかし、それらの衛星は数日か数ヶ月で墜落したり炎上したりしています。一方、神の創造物である惑星は、太古の昔から規則正しく周回し、墜落したり炎上したりすることもありません。光は、秒速18万6千キロマイルで進みます。これだけのスピードがあっても、光が太陽や星団や星座の周りを回るには何年もかかります。天の川には私たちの知らない星が無数にあります。その中には、誕生から長い年月を経ているにもかかわらず、まだその光が地球に届いていない星もあります。科学者でさえ、創造物のこういった側面を完全に理解することにおいては、沈滞しています。創造の神秘のほんの一部を発見しただけで誇らしげに慢心を膨らませる科学者と、何の誇示も慢心もなく、平安に、静かに、忍耐強く、愛情深く全宇宙を動かしている創造主(神)の違いは、どれほどのものでしょう!
これだけではありません。創造物すなわち自然界が機能するための方法は、言葉では表せないほど驚くべきものです。例えば、人間が吐き出した二酸化炭素は植物に取り込まれ、植物が放出した酸素は人間に吸い込まれます。自然界におけるこうした互恵的な取り決めは、誰が作ったのでしょうか? プランダラダーサといった詩聖たちは、全能の主への賛美を次のように歌っています。
山の岩の隙間に生える小さな灌木(かんぼく)や、巨大な樹木に水をやり、
手入れをし、育ててきたのは誰か?
美しい孔雀(くじゃく)の体や尻尾を、これほどまでに魅力的な色で描いたのは誰か?
緑の体と赤いくちばしという、オウムのすばらしい配色をデザインしたのは誰か?
科学者は、こうしたことの一切を「自然の法則」だと言い抜けるかもしれません。しかし、科学者は、自然を超越することや、自然界に存在する物質なしで済ますことが、できるでしょうか?
科学者たちの「創造」と言われているもの
科学者が自分たちの「創造」であると主張しているものは、自然界に存在する基本的な物質の組み合わせから得られたものにすぎません。例えば、科学者は水素と酸素を組み合わせて水を作り出します。ですが、では、どこの科学者が水素と酸素を生成あるいは創造したのでしょうか? これらの元素は太陽の光によって生成されます。同様に、科学者が作り出すものはすべて、自然界にすでに存在している物質の順列と組み合わせに基づいているのみです。この事実は、ほとんどの科学者が都合よく無視しています。自然のミステリーや神秘に思いを馳せるとき、愚か者でさえ、それらのすばらしい現象の背後にある、神聖な力の存在を認めざるを得ないでしょう。
別の例で考えてみましょう。世界には50億8千万人近くの人類がいます。しかし、これほど莫大な数の人口の中で、二人が全く同じ顔の人はいない、というのは驚くべきことです。神以外、どのクリエーターがこれほど超絶な業をなせるでしょうか! 現代のクリエーターが製作する品物は、同じ型で作られるため、どれも同じです。なんという違いでしょう! ですから、学生諸君は、創造の神秘を理解するよう努めるべきです。
自然界のバランスを崩す科学者たち
私たちには、被造物を軽く見て、被造物は知覚を有しない自然にすぎない、と考える傾向があります。そのため、それこそが自然を制御し、自然のさまざまな構成要素の間に適切なバランスを与えているものである、知覚を有する原理を無視しているのです。科学者や科学技術者たちは、利己的な興味や名声を追い求め、社会と国家の安全と幸福にはまったく注意を払わず、自然のバランスを崩して、社会全般に災害や損害や苦痛を招いています。例えば、海水には地球で必要とされる10年分以上の空気が含まれています。空の一回の雷は全世界で必要とされる電力のゆうに20年分を放出します。
巨大なダムを建設して大量の水を一ヶ所に貯めることで、その土地の地盤が沈下し、その結果、シーソーのように別の土地の地盤が上昇します。科学者や科学技術者による、鉱物、雲母、石炭、石油、その他のオイルを掘り出すための、さまざまな種類の鉱山など、天然資源を無差別に開発することは、五大元素のバランスを崩し、汚染をもたらし、地震や噴火といった大災害を引き起こします。
産業、工場、自動車などの急激で過剰な増加は、大気汚染と共に、好酸球増多症、喘息、難聴、肺炎、腸チフスなどの増加の原因となっています。しかしながら、科学それ自体は悪くありません。必要なのは、人間が思慮分別を持って科学を正しく使うことです。
学生は神の存在を信じていなければいけない
現代の学生たちは、科学者の言うことを盲信し、疑うことなく信じています。その一方で、どんなにやかましく言われても、神への信心を持ちません。親愛なる学生諸君! 第一に、神の存在を信じることです。その単純な理由の一つに、あらゆる言語の辞書には、他のさまざまな単語に混じって「神」という単語が入っている、ということがあげられます。どんな辞書にも、鳥や獣といった生き物や、無生物など、この世に存在するものを指す単語しか載っていません。この世に存在しないものは、辞書には載っていません。「神」という単語がすべての辞書に載っているという事実は、神の存在を証明するのに十分です。たとえあなたが辞書に載っているもののいくつかを見たことや体験したことがなくても、それを見たり体験したりした人たちは他にいます。
ですから、辞書に記載されているものの存在を、あなたの限られた経験に基づいて否定することはできません。あなたが神を体験していなくても、神を体験した人がいるからこそ、「神」という単語が辞書に載っているのです。「空花(空華:くうげ)」(sky-flower)、「兎角(とかく)」(rabbit-horn)など、この世に存在しないものを指す単語もある、と主張する人もいるかもしれません。しかし、それらは単語ではなく別の2つの単語を組み合わせた複合語である、ということを分からなければいけません。「空」と「花」という単語は、それぞれ存在するものを指しています。同様に「兎(うさぎ)」も「角(つの)」も存在します。しかし、「空花」「兎角」という人工的な造語に当てはまるものは、この世には存在しません。
神の創造物の神秘
ある科学者が、霊性用語で使われているパラマ・ハムサ(至高の白鳥)という単語の意味を知りたがりました。その科学者は、白鳥がミルクの混じった水にくちばしを浸してミルクと水を分けるように、パラマ・ハムサは適切な探究とその結果としての知恵によって、アートマ(真我)とアナートマ(真我でないもの)を分けるのだ、と言われました。科学者が逆に、白鳥にミルクと水を分ける能力を与えたのは誰か、と問われると、科学者は、白鳥のくちばしから分泌される酸がミルクの混じった水に触れると、酸がミルクを硬化させ、ミルクと水を分離させるのだ、と答えました。しかし、であれば、その酸を白鳥のくちばしに入れたのは誰か、という疑問が生じてきます。どこかの科学者が入れたのでしょうか? いいえ、そのようなことをするのは神だけです。これは、まさしく、神の創造物の神秘です!
今から50年ほど前、科学者たちは「原子エネルギーに勝るものはない」と考えていました。もしこれ以上、原子力の核分裂を進めたら、大惨事になると恐れていました。しかし、この50年の研究と実験の後、科学者たちは、原子力よりも大きな力があることを発見することが可能になりました。同様に、今は神の体験がない人も、例えば、10年後には体験するかもしれません。神性はすべてに浸透しています。このことを固く信じることです。神への信心がなければ、人としての生は無駄になってしまいます。物理科学と共に、少なくともスピリチュアル・サイエンス〔精神科学/霊性の科学〕をある程度は理解するよう努めるべきです。
不必要な疑念に余地を与えない
最近の学生は、不必要な疑念に余地を与えるようになりました。ある青年が私のところにやって来て言いました。
「スワミ! シャンカラは、ブラフマンは実在で、世界は幻である、と断言しました。ですが、実在すると言われるブラフマンは、どこにも見えません。一方、私たちは、日常生活の中で、幻の世界と言われるものを、利益と損失、喜びと悲しみの一切と共に、それも1年や2年どころか、何年もはっきりと体験しています。それなのに、どうしてこの世は幻想だと信じられますか?」
それに対して、私はこう答えました。
「私のいとしい青年よ! そのような疑問について考えて、時間を無駄にしてはいけない。なぜ、ブラフマンやこの世の実在性や非実在性について気をもむのですか? その疑問はそれら(ブラフマンとこの世)に任せておけばよいのです。まずは、自分自身の真実を見いだすことです。あなたは、自分は実在すると思っているかもしれません。けれども、実在すると見なされるのは、過去・現在・未来という3つの時間すべてにおいて、どんな変化もしないものだけです。この基準に照らし合わせると、あなたの体は、刻々と変化し、また、いつでもすっかり消滅してしまう可能性もあるのですから、幻であると見なされます。同じことが、この世の他のものについても言えるのです」
現代の若者は、自分は何も変わらないと主張して、自分の体は、生まれた時、幼少期、青年期、成人期、老年期、死ぬ時と、刻々と姿が変わっていくことを免れない、という事実を忘れています。このように、この世のすべてのものは刻々と変化しており、それこそが、この世は幻であるとされる理由なのです。シャンカラは、この世はまったくの非実在である、とは言っていません。シャンカラがこの世は幻だと言ったのは、この世には実在と非実在が混在し、ある時は現れ、ある時は消えるからです。しかし、学生諸君は、幻の世界の根底には実在の基層がある、ということを理解すべきです。これは、今、私のテーブルの上にある銀のお皿で説明することができます。このお皿は、明日にはコップに、あさってにはスプーンに変えることができます。けれども、そういった変化する名前や形態の中に潜んでいる物質は、変化することのない銀であり続けます。それでも、銀とカップ(あるいはお皿)は分離できません。それと同じように、ブラフマンという不変なる実在が、常に変化している幻の世界の根底にある基層なのです。
「疑う者は滅びる」
現代の学生は、いくつもの疑念の犠牲になっています。なぜなら、学生のレベルまで降りてきて物事を明確に説明することのできる有能な教師が少ないからです。この講堂の後ろの壁に掲げられているスローガン、「サムシャヤートマ ヴィナーシャティ」(疑う者は滅びる)と「シャラダーヴァーン ラバテー グニャーナム」(信じる者は英知を得る)の意味を、学生たちに理解させましょう。悟りには、ニシサムシャヤム(疑いからの解放)とシュラッダー(信心/シラッダー)の両方が必要であり、それはちょうど、光が現れるにはプラスとマイナスの電流が必要なのと同じです。したがって、一方には疑念からの解放、もう一方には信心が必要であり、それらが2つの土手を形成し、それらに沿って、あなたの人生という川が流れていくべきなのです。そうすれば、最終的にその川を神の恩寵という海に合流させることができるでしょう。
女性聖者ミーラーは言いました。
「あらゆる苦難を乗り越えて、私は世俗の生活という海の深くに潜り、ついにクリシュナの御名の中にある貴重な真珠を手に入れました。もしもこの真珠を失ったなら、二度と手に入れることはできないかもしれません。ですから、おお主よ! あなたは私の唯一の避難所なのです」
あなた方学生も、このような黄金の機会(夏期講習)は二度と得ることができないかもしれません。ですから、今、あなたの手に届く、貴重な考えといういくつかの真珠を、注意深く保管すべきなのです。そうすれば、それらは生涯を通じてあなたの役に立つことができるでしょう。
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.25 Ch18