サティヤ サイババの御言葉

日付:1992年12月25日
場所:プールナチャンドラ講堂
クリスマスの御講話より

神性に基づいた一体性

神の愛の化身たちよ! 今日の世界で偉大な人物として尊敬されている人は皆、人格と行いによって名声を得ています。何かを成し遂げるには、確固たる決意が必要です。すぐに気が変わる人は何事も達成できません。

どの宗教も経典も、同胞が困っている時に助けに行って苦しい状況から救うことは人の最大の美徳であるということを認めています。世界のどの人にも平等な権利があります。すべての人は一つの家族に属しています。心の平安を享受するには、寛容と平等観を実践することが不可欠です。世界のどの国にも、善人と悪人、金持ちと貧乏人、教育を受けた人と受けていない人がいます。同じ家族に生まれ、同じ空気を吸っていても、心が狭く、曲がった考えを持ち、利己的な行為にふける人もいれば、善良で、無私無欲の人もいます。

「スフルダム サルヴァ ブーターナーム」、「エーカ アートマ サルヴァブータ アンタラ アートマ」(エーカートマ サルヴァブーターン タラートマ)〔唯一なるアートマがすべての生き物に宿っている〕というのは、経典のよく知られている格言です。すべての存在に対して友好的であることは、万人の義務です。なぜなら、すべての存在には同じアートマが内在しているからです。この真理を理解し、愛に基づいて他人に善を行うことは、人間として生まれたすべての人の義務です。

どこかで神を探す必要はありません。なぜなら、神はすべての存在に内在しているからです。ですから、体は神の神殿であると考えなければなりません。現代人は、心(マインド)の中に悪い考えを繁殖させ、それによって神の座であるハートを汚しています。

人間の4つの可能性

どの人の中にも4つ性質が潜在しています。それは、動物性、悪魔性、人間性、神性です。

神性の人は、ブラフマ ニシタ、すなわち、内なるアートマの黙想に従事する者となり、アートマの至福を享受し、善行によって人生のあらゆる瞬間を聖化することになります。その人は、同じアートマがアンタラ アートマ(内なる自己/アンタラートマ)としてすべての存在に内在していることを悟り、利己的な考えを捨てて至福の人生を送ります。その人は、他人を敬うことは主を敬うことであり、他人を傷つけることは主を傷つけることであるという真理に気付いているブラフマ グニャーニ、すなわちアートマ グニャーニであり、悟った魂です。それほどの人は、人間の体をまとっていても神性を放っています。

人間タイプの人は、真理と正義の道に従っています。彼らは、識別力を使い、正しいやり方でサティヤとダルマ(真理と正義)に厳格に従った行いをします。地位や権力、お金や名声を渇望することなく、自分の責任を果たします。このような人は、罪を恐れ、神を愛し、社会の道徳を守るという3つの戒律を固く信じて、同胞と仲良く暮らし、自分の義務を果たします。

次のタイプは悪魔的な人です。悪魔的な人は、人としての行動規範を留意せず、五感の快楽に溺れ、エゴと慢心でいっぱいで、利己的な目的のために他人を傷つけることを躊躇しません。彼らは淡々と罪深い行為を続けています。エゴイズムがその人の命の息であり、執着がその人の背骨です。これほど利己的な人は、鬼のような人と呼ばれます。

知のない人は動物的な人

知のない人は動物的な人(グニャーナ ヴィヒーナハ パシュビヒ サマーナハ)です。無知に浸っている人は動物より上であるとはいえないと、考えられています。そのような人の生活は、満足感だけに焦点が当たっています。自分の中に神性が存在することを知らないために、その人の思考は決して五感の上を行くことがありません。その人は一過性の地上の快楽を天国の至福と見なし、識別を欠いた迷妄の中で生活しています。

どの人も、動物的、悪魔的な性質を捨てて、人間性を高める努力をし、自分の神性を認識するために尽力しなければなりません。今、私たちは、人が人間的な状態から悪魔的な状態、動物的な状態へと、逆方向に落ちていることに気づいています。

イエス・キリストのメッセージ

12月25日、イエスが生まれた時、3人の王がイエスの生まれた場所にやって来ました。3人は、生まれたばかりの幼子について、3つの異なる見解を表しました。そのうちの一人は、幼子を見て、「この子は神を愛する者になるとお見受けします」と言いました。二人目の王は、「神はこの子を愛するでしょう」と言いました。三人目の王は、「まさに、この子は神ご自身であられます」と明言しました。一人目の王は幼子を身体的な観点で見ました。二人目の王は心的(精神的)な観点で見ました。三人目の王はアートマ的(霊的)な観点で見ました。

この3つの宣言は、いかにして人が人間から神のレベルへと向上するかを示しています。必要なのは、人の中にある動物的、悪魔的な性質を破壊することです。現代人は、命の宿っていない偶像や肖像を崇拝していますが、生身の人間を愛そうとはしていません。これはイエスの最初のメッセージでした。人は毎日毎日隣人を見ていても、隣人を愛するという選択をしません。そのような人間が目には見えない神を愛することができるなど、どうして信じられるでしょう? もし自分の目の前にいる、目に見える人を愛することができないなら、どうして目に見えない存在を愛することができるでしょう? そんなことは不可能です。自分の周りにいる生きとし生けるものを愛している人だけが、目に見えない神を愛することができるのです。愛は、形ある存在への愛から始めなければなりません。それをすべての存在へと広げなければなりません。これは霊性の第一段階です。

霊性とは、瞑想や礼拝などに夢中になることではありません。霊性には、人の中にある動物性と悪魔性をすっかり消滅させて、人が生来持っている神性を顕現させることが伴います。人を覆っている執着や憎しみが取り除かれると、人の中にある生来の神性、人の中にあるサット・チット・アーナンダ〔実在・純粋意識・至福〕が姿を現します。あなた自身が神なのに、なぜ他の場所で神を探すのですか? それは無知の印です。

イエス・キリストのメッセージはどのように受け入れられたか

イエスは多くの奇跡的な行いをし、苦難の中にあった多くの人の苦しみを和らげ、崇高な真理を人々に説き、最終的に自分の命を犠牲にしました。その殉教後、100年以上、キリストのメッセージは何のインパクトももたらしませんでした。4世紀後に、キリスト教はローマ皇帝に受け入れられました。何世紀経っても、人類はまだ、人間に生来備わっている神性を理解していません。

人は信条や行為の1つひとつに理由を求めています。あなたが何かの行為をして時間を聖化することに対して、理由を求める必要があるでしょうか? 社会の共通の利益のために無私の活動に従事し、献身的に自分の義務を果たしている時、あなたは自分の人生を聖化しているのです。

行動にはすべて、4つの基本的な要素があります。それらは、「カーラナ」、「カルマ」、「カーラ」、「カルタヴィヤム」です。カーラナは理由、カルマは行為、カーラは時間、カルタヴィヤムは果たした義務です。例を挙げましょう。親戚に会いにマドラス〔チェンナイ〕に行きたいと思ったとします。あなたは朝、バス乗り場に行き、バスに乗り、8時間かけて移動して、夕方にマドラスに到着します。さて、親戚に会うことがカーラナ(理由/原因)であり、バスに座って移動することはカルマ(行為)です。8時間を費やすことはカーラ(時間的要素)であり、マドラスで親戚に会って満足感を得ることはカルタヴィヤム(目的である義務)です。

夢の中で同じことをしても、そこには時間的要素は存在しません。原因と行いの要因も存在しません。目が覚めるやいなや、自分はベッドの中にいるだけで、マドラスで親戚に会っていたのは現実ではなかったということがわかります。夢の中では、4つの要因はすべて存在しません。4つの要素がすべて存在する場合だけが現実です。

念頭にある目的はラクシヤムと称されます。あなたはあなたのカルマ〔行為〕をなすために人間として生まれています。あなたに命が与えられたのは神性を認識するためであり、体はそのカーラナ〔理由/原因〕のための道具です。一生を過ごしたということは、一生というカーラ〔時間〕の間にカルマ〔行為〕を行ったということです。あなたはカルタヴィヤム〔義務〕を達成したという満足感を得るべきです。

キリストはまさにこの真理を説き、体は社会への奉仕のために使うべきだと人々に教えました。これはヴェーダーンタ〔ウパニシャッド〕の教えです。ヴェーダーンタは、体はこの世で無私無欲に行為をするために意図されている、と明言しています。

クリスマスツリーの起源

イエスは金曜日に十字架にかけられ、日曜日に墓からよみがえりました。そのため、教会では日曜日は礼拝と奉仕の日とされています。カトリックはキリストの母である聖母マリアを重視し、プロテスタントはキリストの誕生を重視しました。そのため、カトリックは24日の晩に聖母マリアを礼拝してクリスマスを祝い、プロテスタントは25日にキリストの誕生を祝います。

この日にクリスマスツリーを立て、ツリーを礼拝する習慣があります。この習慣の起源はドイツに遡ることができます。あるとき、イギリスのジェンセンという宣教師がドイツを訪れました。宣教のためにドイツを旅していたとき、彼はドイツ人たちが樫の木に住んでいるという神を供養するために幼子を生贄にしようとしているのを目にしました。宣教師は心配し、なぜ罪のない幼子を生贄にして木に捧げようとしているのかと問いました。彼らが樫の木には神が宿っていると主張したので、宣教師は斧を手に取ってその樫の木を切り倒しました。すると驚いたことに、宣教師は頭から足先まで不可解な振動に揺さぶられました。宣教師は、自分が斧を振るって真っ二つにした木の間に、一人の子供の姿があるのに気づきました。

さまざまな姿形をとった神性を礼拝するという方法

この出来事は、神は人間だけでなく、草木にも宿っているという真理を教えています。その時から、人々はクリスマスの日にクリスマスツリーを立てて礼拝するようになりました。このように、植物や石などさまざまな姿形をとった神を礼拝するという方法は、バーラータ〔インド〕に端を発するものですが、他の国でも長いこと広まっていました。

キリスト教徒の間にも出家(サンニャースィン)は存在します。男性は修道士と呼ばれ、女性は修道女と呼ばれています。出家という点において宗教間に違いはありません。どの宗教でもゴールは一つです。キリスト教は、神は1つであるということを広めました。ところが、現代人は世俗的な追求に夢中になって、純粋で永遠なるアートマ原理を忘れています。(それからバガヴァンは、クリスマスの日におじいさんが赤いローブを着て子供たちにプレゼントを配るという習慣がどのようにして生まれたかを説明し、ニコラスが教会の長になった時にそれを始めたという話をしてくださいました。)

ハートは真理の座

どの宗教でも偉人の誕生日を祝いますが、その偉人が生きた理想を思い起こすこと、その理想に従うことはなされていません。それでは誕生日が祝われているその善人を正当に評価しているとはいえません。イエス・キリストは人々に、すべての人を愛しなさい、思いやりをもってすべての人に仕えなさい、と教えました。これらの教えを実践することによってのみ、真にキリストの誕生日を祝うことができるのです。すべての行動の中に、内なる神性が反映されるべきです。あなたのハートの中に、真理の座があります。礼拝とは、心から人を愛することです。愛の中で生き、愛に基づいた無私の奉仕の人生を送らなければなりません。これこそが、キリストの誕生日を祝う正しい方法です。

実際には、神には誕生も死もありません。神は不変にして永遠であり、神には変化というものがありません。内なるアートマは、神の映しにほかならないものであり、すべてのものに内在する永遠の照覧者として、同一です。誕生と死は肉体のみに関係しています。体を礼拝するのは正しいことではありません。人は、サーカーラ〔形なきもの〕(一過性の肉体)を通して、ニラーカーラ〔形あるもの〕(究極の至高の実在)に帰融する必要があります。

神なるアートマの化身たちよ! クリスマスは世界中の数え切れないほどの場所で祝われています。ここプラシャーンティ・ニラヤムで祝われている方法でクリスマスを祝っているところは、世界のどこにもありません。他の場所では、教会の礼拝に参加し、飲食パーティーで楽しみます。しかし、ここでは、世界の異なる国から来た人々が、異なる言語を話し、異なる信仰や文化に従いつつ、一致団結して集まって、それらの違いに関係なく、神の御名と栄光を歌って一日を始め、普遍的な愛のメッセージを携えて一日を共に過ごすことに加わります。これは多様性の中の一体性であり、行動における真のアドヴァイタ〔不二一元〕です。私たちはずっとこれを経験しています。

いつであれ年長者にナマスカーラム〔合掌〕をするとき、その意味とは何でしょう? それは、5つの感覚器官と5つの行動器官を一つに合わせ、そうすることでさまざまな感覚を一体にすることを意味しています。「ナマスカーラム」という言葉には「ナ」と「マスカーラム」がありますが、「ナ」は「ない」を意味します。それは、あなたがエゴを手放して、肉体意識がないことを示しています。すべての感覚器官の一体性は、アハンカーラを一掃します。これは純粋性につながり、純粋性は神性につながります。この一体性は、プラシャーンティ・ニラヤムでしか見ることができません。

今日、政治家や説教者たちは一体性や純粋性について話しますが、実際に本人がそれに従っているわけではありません。誰かが努力することなしに一体性と純粋性が自然と浸透しているのは、プラシャーンティ・ニラヤムだけです。

プラシャーンティ・ニラヤムの愛の力

ここには、非常に裕福で、自宅では贅沢な快適さを享受している外国人が何人もいますが、彼らもここでは我慢して、質素な生活をしなければなりません。最低限の快適ささえない中で、彼らは同胞意識と仲間意識を持ってシェッドで生活しています。彼らが、ここでの快適でない状態での滞在を楽しんでいるのと同じくらい大邸宅での生活を楽しんでいたかというと、そうではありませんでした。その理由は、彼らの中にある神聖な愛です。もしあなたの中に神聖な愛がないなら、これほど快適でない状態の中でここに住むことなど、一瞬たりともできないでしょう。

神の愛の化身たちよ! 遠い国々からやって来た帰依者たちよ! あなた方は、普段自宅で慣れ親しんでいる設備がないにもかかわらず、ここでの生活を辛抱して幸せを感じています。これは実に大きなサーダナ〔霊性修行〕であり、タパスすなわち苦行とさえ言えるでしょう。

外国人たちは、不便や困難にもかかわらず、笑顔を通して喜びを放ちます。これはスワミへの愛ゆえのことです。彼らはここに来るためにたくさんのお金を使い、ここでの規律ある生活の厳しさを進んで耐え忍び、それでも、いつも幸せです。一方、ここに集まる私たちの国の人たちは、あらゆる快適さがあっても、明るい表情を見せません。

愛の化身たちよ! 愛と帰依心を持って常に神を憶念している人は、村にいても都会にいても、空を飛んでいても、森の中にいても、いつも幸せです。なぜなら、神がハートの中で踊り、喜びを与えるからです。

一体性がないために、この国は多くの困難と混乱を経験しています。国と世界の平和のためには、一体性の促進が不可欠です。

口先だけの言葉で挨拶しても何にもなりません。挨拶は、誠意と愛と共にハートから出てくるべきです。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.25 C39