サティヤ サイババの御言葉

日付:1993年
場所:ブリンダーヴァン
夏期講習「人から神への変容」(十三)の御講話より

プールヴァ ミーマーンサーの哲学

高潔な仲間を手に入れるのは難しいが
低劣な仲間を手に入れるのは容易い
小石は豊富に手に入るが
貴重なダイヤモンドを手に入れるのは難しい

神の愛の化身たちよ、

昔の聖仙たちは形而上学について熱心に研究し、その叡智(えいち)を人々と共有しました。ジャイミニ仙は、「ミーマーンサー」〔探求と精査の末に行き着いた結論/生じる可能性のある疑問と代案について深く考察した後に正しいとして採択された推論〕の研究に一生を捧げ、ミーマーンサーをインドに広めました。この哲学の体系はヴェーダの前に始まり、「ウッタラ ミーマーンサー」よりもずっと前に栄えたので、「プールヴァ ミーマーンサー」〔プールヴァは「前の」意〕と呼ばれるようになりました。

この体系は、人間が「カルマ ジッグニャーサー」〔行為を知りたいという切望〕から「ダルマ ジッグニャーサー」〔ダルマを知りたいという切望〕へ、それから「ブラフマ ジッグニャーサー」〔ブラフマンを知りたいという切望〕へと進むことを提案しました。ジャイミニ仙は、それについての真摯(しんし)な調査を行い、それを自ら経験し、それから、プールヴァ ミーマーンサーの教義を世に贈りました。

カルマとダルマとブラフマンを知りたいという切望

プールヴァ ミーマーンサーの体系は、最初の段階では「カルマ ジッグニャーサー」を推奨しています。人間の生活は朝から晩までカルマ〔行為〕によって示されています。息を吸うこと、吐くこと、血液の循環など、人間のすべての行いはカルマです。宇宙は常にカルマで満たされています。

ジャイミニ仙は、「カルマ ジッグニャーサー」、「ダルマ ジッグニャーサー」、「ブラフマ ジッグニャーサー」という三つの概念を、「チャツネ」(インド料理に添えるソース)をこしらえることに喩(たと)えて上手く説明しました。まずココナッツやタマリンドといったすべての材料を揃(そろ)えてから最終的にチャツネをこしらえるというのは、「カルマ ジッグニャーサー」〔行為を知りたいという切望〕です。チャツネの味見をすることは、「ダルマ ジッグニャーサー」〔ダルマを知りたいという切望〕です。材料のどれかの分量、たとえば塩が足りないことなどに気づいて、それを加減するのは、「ブラフマ ジッグニャーサー」〔ブラフマンを知りたいという切望〕です。チャツネをこしらえることは「カルマ ジッグニャーサー」で、味見をすることは「ダルマ ジッグニャーサー」であるのに対して、途中段階での不足を見つけてそれを修正することは「ブラフマ ジッグニャーサー」です。

同様に、行為を実行することは「カルマ ジッグニャーサー」で、経典の命じていることをすぐに実行に移すことは「ダルマ ジッグニャーサー」です。欠陥をたどって修正することは「ブラフマ ジッグニャーサー」です。五大元素によって示される人間としての生活を送ることは「カルマ ジッグニャーサー」です。自分が永遠の至福(サーシヴァタ アーナンダ)を欠いた人生を送っているのは、自分がまだブラフマ タットワ〔ブラフマンの原理〕を体験していないせいだ、ということを理解して人生を修復することは「ブラフマ ジッグニャーサー」です。

ジャイミニ仙は、一般人が日常生活の中でブラフマンの至福を体験できるようにするために、プールヴァ ミーマーンサーの体系を提示しました。

今、現代人の生活は俗世に集中しています。俗世がすべてだと思い、この世の喜びを可能な限りたくさん楽しもうと奮闘します。人々は三千万にもおよぶ神々を崇めていますが、自分のハートにどっかと腰を据えている不安と動揺を追い払うことができずにいます。現代人は、道徳的、霊的な教義を無視して世俗的な生活を送ることで、失望と幻滅に身を任せています。現代人は自分を体だと思い、体がすべてだと考えて、自分の中の神性の存在を探求することに関心を払いません。

人々は、「私はラーマイヤです」、「私はクリシュナイヤです」などと、自分の体に付けられた名前を言って自己紹介をします。「あなたはどなたですか?」と尋ねられると、「私は弁護士です」、「私は農業従事者です」、「私は実業家です」、などと自分の職業を言って自己紹介します。さらに尋ねられると、「私はカナダ人です」、「私はインド人です」、「私はアフリカ人です」などと答えます。

このように、人は名前や職業や国籍を答えて自己紹介をし、自分は本当は誰なのかを言いません。自分を名前や職業や国籍と同一視するのは間違っています。なぜなら、それらは永遠のものではないからです。人々は、名前も、職業も、さらには国籍すらも変えてしまいます。そのため、職業や国といったようなものと自分を同一視するのは誤りです。

ですから、「あなたはどなたですか?」という質問に対する答えは、「私はアートマです」というものです。アートマは永遠の実在であり、すべての時間、すべての存在を超越しています。ですから、アートマこそが人間の正体なのです。アートマはデーヒ〔体に宿る者〕であるのに対して、体はデーハ〔体〕です。アートマは御者であるの対して、体は馬車です。アートマは家の持ち主であるのに対して、体は家です。

アートマは体の光

自分は家の住人だというのに自分を家だと思うのは、まったくもって人間の愚かさです。それは自分が運転している車を自分だと思うようなものです。体は、目や耳や足や手などの調和のとれた複合体であって、目や耳や手といった単体ではないのと同じように、アートマは、マナス(心/マインド)やブッディ(知性)などを含む全宇宙を包括する、調和のとれた実体です。

実際、五感を動かして機能させているのはアートマです。この事実は、自動車の例で実証できます。車には、ステアリング、クラッチ、ブレーキなど、さまざまなパーツがありますが、それらを操作するドライバーがいない限り、パーツは単独では機能しません。

同様に、人体という車にとって、感覚器官や臓器などを操作しているドライバーはアートマです。目に見させ、耳に聞かせ、手が動くようにしているのは、アートマです。人体という車の生涯を形作るドライバーはアートマです。なぜなら、車のさまざまなパーツを操作して車を走らせているのはドライバーだからです。

体は、アートマが宿っている限り、シヴァム(縁起の良いもの)です。ひとたびアートマが去ってしまえば、体はシャヴァム(死体)になります。体の中には目や耳やその他の器官が数多くありますが、ひとたびアートマが体を離れると、それらは機能しなくなります。これは、アートマこそが体の真の主人であるということを証明しています。

人間の体のしくみを真剣に調べれば、体のさまざまな器官は道具にすぎず、主人はアートマであることが明らかになります。マナス(心/マインド)やブッディ(知性)やサムスカーラ(傾向)を寄せ集めているのは、アートマです。心(マインド)がマナスと呼ばれているのは、マナスにはマナナ(記憶と再現)を行う性質があるからです。

マナス(心/マインド)は、アートマ(真我)の力によって機能します。識別する能力が授けられている知性も、アートマの道具です。ブッディ(知性)には、識別し、決定し、調べる能力があります。サムスカーラ(傾向)は、自分の人生で発達させたさまざまな傾向で成り立っており、来生の土台を形成します。サムスカーラ(傾向)は、後で芽を出す種のようなものです。

死に際に思ったことが来生を決めるといわれています。最期の思いは、その人の一生の中で支配的だった思考によって決まります。もし死に際に主のことを思いたいのであれば、主を思い続けることによって、最期の時の準備をしなければなりません。生涯の自分の実践の数々が、最期の一念を決めます。

これは一つの例によって実証できます。指で数珠を繰る習慣があると、無意識のうちに指が珠数を繰る動作をしています。同様に、嗅ぎ煙草を習慣にしている人は、無意識のうちに指を鼻に当てています。「シレーヨー ヒ グニャーナム アビャーサート」〔叡智は常習より優れ〕。叡智は実践〔常習〕によって得られます。良い習慣がしっかりと体に染み込んでいるのと同じように、悪い習慣もしっかりと体に染み込んでいます。私たちは、善行という功徳によってのみ、良い来生を得ます。

インド人の一生は、生まれてから死ぬまでの清めの行為によって特徴づけられます。清めの行為は、「ナーマ カラナ」〔新生児に名前を授ける儀式〕から、耳にピアスの穴をあけることまで、さまざまです。ジャイミニ仙は、人間が行わなければならない重要な清めの行為を明確に示しました。適切な行為を行わずに適切な報いを得ることはできません。

たとえば、私たちは体を洗うためにお風呂に入ります。体を洗うだけで心を洗わないなら十分ではありません。体すらきれいにすることができないなら、どうやって心をきれいにすることができますか?

怠けものの托鉢がいました。その男は物乞いをするためにある女性の住む家に行き、私はとてもお腹がすいているので食べ物をくださいと頼みました。その夫人は学識のある女性だったので、近くの川で沐浴してから食事に来るようにと言いました。その怠け者の托鉢は偽の托鉢だったので、沐浴をするのは面倒だと思い、こう言いました。

「おお、母なるお方よ! 私たちのような托鉢にとっては、ゴーヴィンダ〔クリシュナ神〕の御名それ自体が沐浴なのです」

その夫人は非常に頭のよい女性だったので、

「ゴーヴィンダの御名は食べ物でもあります」

と言い返しました。それからその男に、ゴーヴィンダの御名を唱えて消え失せなさいと言いました。

今では国中にこうした怠け者の托鉢がいます。このような人たちは、経典によって定められているカルマ カーンダ〔行為に関する部/絶対者への到達を目指す道のうちのカルマの道〕全体を冒涜しています。

心の純粋さを養うことは、サーダカ〔求道者〕にとって不可欠です。聖仙たちは、心の純粋さを確保するために神の御名を唱えるよう勧めています。

人々の中には、世界は神が創造したものではなく、自然にできあがったのだと主張している人がいます。しかし、そんなことを言うのはばかげています。なぜなら、原因がなければ結果はないからです。花と針と糸の助けを借りて花輪を作るにも人が必要であるのと同じように、物質とエネルギーを融合するにも誰かが必要です。器とオイルと芯があっても、ランプに火をつける誰かがいる必要があります。なぜなら、器やオイルや芯が自分でランプに火をつけることはできないからです。金と宝石が手に入っても、職人がいなければネックレスは作れません。知性があっても、誰か教えてくれる人がいなければ、少年がアルファベットを知ることはできません。先生の指導がなければ、少年が知識を身につけることはできません。

真のグル〔導師〕は、自分が教える内容を自分で経験している人です。

怒りの克服

求道者は、自分の心が無知に覆い隠されても、失望してはなりません。なぜなら、無知は過ぎ去ってゆく雲だからです。真我〔アートマ〕という太陽は、無知という雲に覆われています。しかし、その雲は真我から生じるのです。それは真我から生じて真我を覆います。無知という雲が永遠にとどまっていることはありません。その雲も通り過ぎていき、そこにはすっかり顔を出して燦然(さんぜん)と輝いている太陽が残ります。ですから、サーダカ〔求道者〕にとって最も重要なのは、確かな忍耐力を養うことです。

プールヴァ ミーマーンサーは、サーダカは自分の進歩の邪魔になる障害をどのように乗り越えるべきかを教えました。悲しい時には楽しいことを考えるようにすれば、悲しみは追い払われるでしょうと、プールヴァ ミーマーンサーは人々に助言しています。同様に、無知が立ち込めてきたら、サーダカは探ることを始めるべきです。

怒りの発作にさいなまれたら、すぐに行動したり話したりしてはなりません。その怒りの原因を探り始めなさい。そうすれば、怒りの速度が遅くなることに気づくでしょう。怒った時には、コップ一杯の冷たい水を飲むか、座るか、鏡を見るべきです。

衝突して困っていたり、悲しみに悩まされていたりするなら、どこか一つの場所に静かに座るか、速足で歩きなさい。洗面所に行って蛇口をひねり、流れ落ちる水の音に合わせて声を出すこともできます。あなたの声を水の音に合わせていると、あなたの悲しみはなくなってしまうことがわかるでしょう。

このように、多々ある方策によって、いつでも怒りを鎮めることができます。けれども、細かな点について言う人はいません。一方、ジャイミニ仙は、人間のさまざまな問題に対する多くの解決策を明らかにしました。

ウッタラ ミーマーンサー〔ヴィヤーサ仙が創立した不二一元論の哲学〕の体系は、いくつかの点においてはプールヴァ ミーマーンサーと類似していました。しかし、それ以外は、この二つの体系は対極にあります。現象世界の北極と南極を一つにすることはできないように、この二つの体系を一つにすることは決してできません。もしこの二つが融合するとしたら、神の中でのみ融合するでしょう。

アルジュナは、クリシュナがカウラヴァ兄弟の宮廷に大使として派遣された時、二極を引き合いに出しました。アルジュナは言いました。

「おお、クリシュナ! 心の狭いカウラヴァ兄弟が、いつか我らに加わることなどありますか? 北極と南極がいつか会うことなどありますか? 戦争に備えようではありませんか。時間を無駄にしないようにしようではありませんか」

戦いたいと切に願っていた、その同じアルジュナが、クルクシェートラの戦いの初日、別の窮地に身を置きました。アルジュナはこう嘆きました。

「おお、クリシュナ、友、身内、師を殺すことなど、どうしてできますか? 私は目が回っています。戦いから撤退しようではありませんか。時間を無駄にしないようにしようではありませんか」

この別の苦境をもたらしたのは、アルジュナの心でした。悲しみも喜びも、獲得も損失も、賞賛も非難も、その原因は心です。心を征服しない限り、解放は得られません。

ジャイミニ仙は、ただ森に住んでいるだけでは解脱は得られないと言いました。ジャイミニ仙は言いました。

「たとえ密林に身を潜めても、不幸は訪れる。いくら体に気を配っても、死によって体が滅ぼされるのは必定である」

ダルマからブラフマンへ

人間の第一の義務は、アートマの知識を育むことです。人間は、ダルマを守るために懸命に奮闘しなければなりません。

ダルモー ラクシャティ ラクシタハ
(ダルマを守る者は、その見返りに、ダルマに守られる)

誰もが自分のダルマを果たさなければなりません。世帯主は世帯主のダルマ(グルハスタ ダルマ)を果たす必要があります。独身者は独身者のダルマ(ブラフマーチャーリヤ ダルマ)を行うべきです。隠遁(いんとん)者は隠遁者のダルマ(サンニャーサ ダルマ)を実行する必要があります。

正しい生活を送るだけでなく、神の生活も送るべきです。目を閉じて、拍子をとりながら「ラーム、ラーム」〔ラーマ神の御名〕と唱えるだけでは不十分です。あなたのすべての行いが神で満たされるべきです。何を見るにも、神の気持ちで見なさい。何を聞くにも、神の気持ちで聞きなさい。何をするにも、神の気持ちでしなさい。すべてのことを、主に喜んでもらうためにしなさい。

学生諸君、この数日間に聞いたことをすべて忘れてしまうのは、正しいことではありません。ここで聞いたこと、見たことは、すべてハートに深く刻んで、それらについて熟考しなさい。聞いたことを実行に移したときにのみ、あなた方は、この夏期講習に参加したことの真の恩恵を引き出すでしょう。この人生において成就を得るでしょう。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Summer Showers in Brindavan 1993 C13