サティヤ サイババの御言葉

日付:1993年1月21日
場所:テーヤナームペートのカーマラージ メモリアルホール
マドラス(現チェンナイ)での御講話より

現代人の苦境

西洋の生活様式と外来語の影響が
バーラタ〔インド〕の人々の輝かしい文化と正しい行いを損っている
今こそ、バーラタ人は目を覚まし
母国の英知と文化の古来の栄光を取り戻す努力をする時

この偉大な国の安全、安心、平安を確保するための第一の必要条件は、人々の間の寛容、理解、一体性です。英知、社会の正義、そして、本当の意味での自由が行き渡ることができるよう、すべての存在には同じ神聖なアートマが宿っているという気持ちを育むべきです。全人類は普遍的な愛に基づいた兄弟同士であると見るべきです。そうして初めて、人として生まれた目的を達成することができるのです。一つであるという感覚は、すべての人の中に存在する神性の認識に基づいた至福を享受するために不可欠なものです。

古代、リシ〔聖仙、ルシ〕たちは人としての生の充足を享受していました。彼らは、その普遍的な愛の至福を自分の内で体験し、それを全人類に伝えました。リシたちは、自分の内なる実在を知るための手段であるプレーマ タットワ(愛の教義)を提唱しました。

今、この国の人々には安全や安心はなく、さらには、世界中に無秩序が広がっています。人々の間に憎しみや怒りが蔓延しています。このような状況下で人々が歩むべき道はただ一つ、愛の道です。

人は利己心の奴隷と化した

西洋における工業の発展の急速な進展に伴って、人間性が低下しています。そのせいで、人は本当の内なる自分から遠ざかってしまいました。人間は、科学技術の分野ではかなり進歩し、世俗的・物理的知識の発達においてはより高いレベルに達しましたが、霊的・道徳的目標からは遠く離れてしまっています。誰もが利己的な追求にふけっています。実際、人間は利己心の奴隷になってしまいました。

科学技術の進歩により、人間は肉体を重要視し、肉体を本当の自分だと考え、肉体の必要性や快適さを満たすことに時間を費やしています。そして、肉体をおもちゃのように使い、機械仕掛けのおもちゃを扱うように、肉体で遊んでいます。

人間を機能させている3つの力

体は、スパンダナ シャクティやプラーナ シャクティ(脈動する生命力)を通して体の機能を誘導している、プラグニャー シャクティ(統合意識〔般若〕の力)によって機能しています。人間は、三つの力、すなわち、放射・振動・具現の組み合わせによって機能しています。体は単なる物質でしかありません。それはプラクリティと呼ばれます。プラーナ シャクティがそれを躍動させます。この振動は、意識であるプラグニャー シャクティによって誘導されます。このように、人間の生命は、意識と生命力と物質の組み合わせです。人はこの事実を認識することなく、体は万能であるという間違った概念を持って、いつも体の世話だけに熱心です。

皆さんは、アメリカは食べ物に不自由しない豊かな国だと考えられているということを知っているでしょう。そのため、国民はよく食べ、物質的な喜びを楽しんでいます。彼らは必要以上の食べ物を消費して、贅沢な生活を送っています。しかし、この国では心臓病による死亡者が他の国よりも多いことが分かっています。

スウェーデンはヨーロッパの中でも非常に豊かな国で、政府も可能な限りの快適さを提供し、国民の面倒をよく見ています。にもかかわらず、この国では自殺者がどこよりも多く、離婚件数も多いのです。その原因は何でしょう? 原因は、物理的、物質的な施設の不足にではなく、霊的な見方の欠如にあります。それは、滅びゆく無常のものである体と自分を同一視し、永続的で永遠な存在である本当の内なる自己について無知だからです。彼らは人工的な生活を送っています。

ガーヤトリー マントラの力

バーラタでは、古代より、神聖なガーヤトリーマントラを通して霊的意識を発達させてきました。「オーム ブール ブヴァッ スヴァハ」という真言は、万人の内に存在する神の基本的な本質を表しています。「ブー」〔ブール〕は物質を意味します。「ブヴァハ」〔ブヴァッ〕はプラーナ シャクティ(振動の本質)〔生命力〕です。「スヴァハ」〔スワハ〕はプラグニャー シャクティ(意識)〔般若の力〕です。これら三つの構成力、すなわち、放射・振動・物質エネルギーが人間を動かしているのです。けれども、人はこの事実を認識できずにいます。

バーラタの神話に出てくる聖仙ナーラダは、トリローカ サンチャーリ(絶えず三界を徘徊していること)でよく知られています。ナーラダは生命力〔プラーナ、生気〕の象徴です。三界はブール・ブヴァハ・スヴァハであり、これは、物質エネルギー・生命力・潜在するアートマ シャクティ(霊的エネルギー)を意味しています。

人は、プラクリティ(現象界)とジーヴァートマ(人、ジーヴァ アートマ)、パラマートマ(至高霊、パラマ アートマ)の関係を理解する努力をしていません。これらは互いに非常に密接に関係し合っています。これらは本質的に異なるものではありません。パラマートマとプラクリティ――神と自然――の関係は、母と子の関係と同じです。人間と社会の関係は、蜜蜂と花の関係と同じです。ちょうど、赤ちゃんが母乳で養われ、蜜蜂が花の蜜で養われるように、人間は自然の贈り物を享受するものなのです。太古の昔から、人間は否定的な考えに悩まされてきました。こんな話があります。ある強欲な男が、金の卵を産むガチョウを殺して、金の卵を一度に全部取り出そうと考えた、という言い伝えです。それほどの愚かな行為を、現代の科学者は自由に犯しています。彼らは自然の恵みを限度を超えて利用し、悲惨なアンバランスを生み出して地震などの自然災害を引き起こし、人類に危機をもたらしています。これに対して科学を非難することはできません。科学的発見を無差別に適用する者こそが、非難されるべきです。彼らは、度を越した天然資源の枯渇がもたらす影響について、深く考慮することを怠っています。

自然のマイナス面を引き出してはならない

健康で幸福な状態でいるために体の器官が使われているように、人は自分を社会の手足と考えて、社会の幸福のために役立たなければなりません。さらに、社会はプラクリティ(自然)の手足であり、プラクリティはパラマートマ(至高神)の手足です。このように、人間と神との間には密接な関係があるのです。自然は人間よりも進行が速いので、自然を守るには、自然を制限の範囲内で利用する必要があります。人間が無謀に自然に手を付けると、自然はそれに対抗する反応を示し、問題が発生します。自然を守るためには、欲望に限度を設けなければなりません。自然のマイナス面を引き出さないようにしなければなりません。

この点において、科学者は自分たちの発明によって社会に生じるかもしれない弊害について全く関心を払っていません。科学者たちは人類の幸福を顧みず、知能を利用して破壊兵器を作り続けています。

過度の快適さは人の心(マインド)を荒廃させ、幸福ではなく不幸をもたらしますから、快適さの提供には注意を払うべきです。

ナッ シレーヨー ニヤマム ヴィナー
(一定の制約がなければ、善いことは何も達成できない)

技術の進歩や過度な快適さの提供によって、生活は機械的になり、霊性〔アートマ性〕は低下しています。科学はすべてをばらばらに断片化するのに対して、霊性は多様性の中の一体性を築き上げます。現代人は、人類は一つであるという気持ちを養う努力をしていません。

人と神と自然の切っても切れない関係

大気中のオゾン層は、地上の人々を太陽熱の放射の悪い影響から守ります。科学技術の進歩により、さまざまな工場が建てられ、大気に有毒ガスを排出しています。その結果、オゾン層は薄くなり、もしこれが野放しにされ続ければ、悲惨な結果を招きかねません。科学者たちは、オゾン層の破壊をなんとか食い止めようとしていますが、救済策を見いだせずにいます。

二酸化炭素は、通常、光合成という自然のプロセスによって、二酸化炭素を吸って酸素を供給することのできる植物や木に吸収されますが、それよりも多くの二酸化炭素が大気に放出されていることが、こういった状況の実際の原因です。加えて、憂慮すべき範囲の森林破壊が行われているために、大気中の二酸化炭素の量は著しく増加しています。ですから、こうした状況の救済策は、植林に力を入れて、至る所で木を育て、今生えている木を他の目的のために伐採せずに保護することです。このように、人間と自然と神との関係は非常に密接なものですが、科学者たちはそのことをよく理解できていないのでしょう。

あなた方は、すべてのことを徹底的に調べなければなりません。ダルマという語はバーラタで生まれたものですが、しばしば間違って解釈されています。西洋人と私たちインド人の考え方は大きく異なります。西洋では、個人の権利に対して必死です。生まれると、すぐに子供は権利を得ます。父親も母親も、社会も政府も、それぞれが権利を持っています。労働者にも権利があり、支配者にも権利があります。西洋では権利に関心があるのに対して、バーラタの人々はダルマ、つまり、すべての人の義務に重きを置いています。

ダルマの概念はバーラタ特有のもの

「ダルマ」という語はバーラタ特有のものであり、サンスクリット語以外の言語にはなく、また、どの国にもない単語です。ある人はダルマを「正義」と解釈し、またある人は「分別」と解釈するといったように、ダルマはさまざまに解釈されています。ダルマはダルマでしかありません。他のどんな言葉も、同じ意味をもたらすことはできません。

ダルモー ラクシャーティ ラクシタハ
(ダルマはダルマを守る者を守る)

すべてを支配し、包含するものがダルマです。ダルマと宗教の間には多くの違いがあります。ダルマは大海のようなものです。宗教はただの小さな湖のようなものです。

宗教は個人に関わるものであり、文化は「根本的な秩序」です。人々は「イスラム文化」「ヒンドゥー文化」「キリスト教文化」といった言葉を使い、互いに争っています。実際には、一つの宗教と他の宗教の間に違いはありません。神はすべての人の中に愛という形で存在しているのですから、人間と人間との間に違いはないのです。ですから、宗教の違いを基に争うのは正しくありません。すべての人は人類に属しています。この真実を理解したとき、人はダルマを理解することができます。

カルマンニェー ヴァーディカーラステー マー パレーシュ カダーチャナ
〔あなたの本分は行為そのものにある、決して行為の結果にはない〕

〔バガヴァッド ギーター 2章47節〕

と、ギーターは述べています。あなたにあるのは自分の義務を果たす権利だけです。あなたには自分の行動の成果を要求する権利はありません。誰も自分の義務を果たす権利以外の権利は持っていません。人には自分の義務を果たす責任があります。ところが、現代人は権利を求めて騒ぎ立て、義務を果たそうとはしません。求める、求めないにかかわらず、結果は常に生じます。権利と責任は、鳥が飛ぶための二つの翼のようなもの、人が乗って走らせる車の両輪のようなものです。一つの車輪でどれだけの距離を運転できるでしょうか? 鳥が一つの翼で高く飛べますか?

もしあなたが責任を持って自分の義務を果たすなら、結果は自ずと付いてきます。これが、今日、誰もが明確に理解すべきことです。すべての人が自分の義務をきちんと果たせば、世の中に問題は起きません。人々が自分の義務を果たさずに権利を主張するから、混乱が生じるのです。自分の責任を果たさずに、権利を行使することだけに熱心であるために、人は自分で自分を苦しめているのです。

体は人を助けるために与えられたもの

人は自分の実体を認識すべきです。人に体が与えられているのは、義務を果たすためです。どのような義務でしょうか?

パローパカーラールタム イダム シャリーラム
(体は他の人を助けるために与えられている)

ですから、あなたの義務は他の人を助けることです。しかし、人々はこの広い視野を心に抱いていません。

今、国には、ひどい不和と悲惨と無秩序があります。なぜなら、広い視野がなく、人々の心が狭いからです。狭い、自己中心的な感情を捨て、愛の拡大を実践すべきです。人類は皆一つの家族の一員であるという気持ちを培うべきです。すべてのものに内在する神は一つです。

常に統合された意識

電球はたくさんあるが、電流は一つ
宝飾品はたくさんあるが、金は一つ
生物は多いが、呼吸は一つ
国は多いが、地球は一つ

人々は、以上のような広い気持ちを持つべきです。そうして初めて、人類は繁栄します。すべての人の内には神性が存在しており、人はそのことを心から実感しようと努めるべきです。理論を広めるだけでは十分ではありません。宣伝や説教をする人は大勢いますが、実践する人はめったにいません。多くの人は、言っていることと、やっていることが違います。思考と言葉と行いに一致があるべきです。これが〔3H〕、Head(頭)とHeart(ハート)とHand(手)の一貫性です。しかし、昨今の人々は、あることを考え、それとは別のことを話し、さらにそれとは別のことを行っています。そのため、プラグニャー シャクティ(良心〔統合意識、般若〕の力)と、プラーナ シャクティ(生命力)と、肉体の力が、別の方向へ流されています。物質〔肉体〕と生命力と良心は、一様であるべきです。

人は、常に真実を語ってくれる良心に注意を払うべきです。良心は決してあなたを間違った道に導くことはありません。ヴェーダはこれを「プラグニャーナム ブランマー」と呼んでいます。それは、体、心、理智、内なる道具の中に、等しく存在しています。それは常に統合された意識です。自分の中に潜在するその神聖な力を実現するための努力を、誰もしていません。現代世界では、人は物質的なものばかりを気にしています。利己心が増しています。「権利」は、利己心から生まれ、争いで終わります。ダルマは、プレーマ(愛)から生まれ、アートマ(霊性)と融合します。ですから、人は「権利」を捨てて、愛から生まれた「責任」をとるべきです。そのような人だけが、真の人生を歩むことができます。

内なる神性は、体のすべての器官の働きの責任を担っています。内なる神性はプラグニャー シャクティであり、生命力であり、チャイタンニャ(意識、チャイタニヤ)でもあります。この意識は誰の中にもあります。それがブラフマンです。「一なるものはすべてのものの中に存在する」――これはスートラ(格言)です。スートラには、糸という意味もあります。花輪はたくさんの花でできていますが、花々の位置を保っている糸はたった1本です。花の開き具合は日ごとに変わっていきますが、糸は今日も明日も同じです。それと同じように、人は子供や少年、大人、老人へと変わっていきますが、チャイタンニャ(意識)は同じです。その人の呼び名は、少年、男、祖父などと変わっても、内にあるチャイタンニャは変わりません。男女の区別もありません。変化は体にあるものであり、アートマにはありません。アートマは不変です。アートマは、あらゆる輝きの中に、いかなる時にも存在しています。アートマには美しさがあります。私たちは美の原理を理解すべきです。

人類への奉仕は美である

手には、慈愛が美しさを与えます。言葉には、真実が美しさを与えます。耳には、知恵が美しさを与えます。これら以外、それらにどんな美が必要ですか? 人生にとっての美しさは、人類への奉仕です。「家は村を美しくする、花は木の枝を美しくする、月は空を美しくする、波は海を美しくする、そして、人格は人を美しくする」というカンナダ語の名言があります。

人は皆、知力を持っています。上手に使えば、知力はとても役に立ちます。しかし実際には、人は知識の使い方を間違えています。それはテクノロジーと呼ばれていますが、実際には「トリック ノロジー」〔人を欺くずるい策略の技術〕です。そのせいで、人は平安を手に入れることができずにいます。ある人は、別の人を喜ばせるために偽りの言葉を口にします。本人は相手を欺いているつもりかもしれません。しかし、その人は自分自身を欺いているのです。自分の良心の指示に反して行動してはなりません。良心はチット、意識はサットです。双方が結合してアーナンダ〔至福〕を与えます。それは、砂糖と水(サットとチット)を混ぜてシロップを得るようなものです。そのシロップがアーナンダです。

「私」と「あなた」を合体させて、「私たち」と言うべきです。多くの人はこのことを正しく理解せず、「私とあなたは一つです」と言っています。これは正しくありません。「私とあなたは私たちです」が正しい表現です。「私たちと私たちは一つです」――私はあなたの中にいて、あなたは私の中にいる、だから、私たちは一つである、ということです。これはアートマとアートマの組み合わせであり、物質と物質の組み合わせではありません。物質と物質を結び付けるのは生命力です。生命は、プラグニャー シャクティの無限の力によって維持されています。プラグニャーは源であり、プラーナはそれによって突き動かされます。たとえ生命があっても、プラグニャーがなければ生命は機能しません。したがって、人間の生命は、プラグニャーとプラーナと物質の三つの組み合わせなのです。人はこの真理を知らず、物質にすぎない体だけに関心を寄せています。

一体性は、純粋性と神性へとつながる

古代のリシたちは、この三つを、ブール ブヴァッ スヴァハ〔ブール ブワッ スワハ〕と呼びました。子供、少年、老人――すべての人の中に存在するこれらの一体性に気づいたとき、あなたはどの体を憎むことができるでしょうか? 人がこの一体性の原理を育むとき、そこには平和があるでしょう。「分割統治」政策は、政治的な分野で社会を破滅に追い込んでいます。霊的な分野では、一体性が土台でなければなりません。一体性は、純粋性と神性へとつながります。

神聖な愛の化身たちよ! 霊性とは、単なる礼拝やジャパ〔唱名〕やディヤーナ〔瞑想、坐禅〕ではありません。これらは善い活動かもしれませんが、霊性を構成するものではありません。動物的な性質を取り除き、人間から神へと進むことが、本当の霊性です。誰の中にも、人間と神と動物の性質があります。あなたは動物の性質を取り除き、神の性質を発達させる必要があります。

サーダナ〔霊性修行〕とは何でしょうか? サーダナとは、体を使って善行を行うことです。そうした善い行いは、神の行いでもあります。ヴィヤーサ仙の18のプラーナの精髄は、ヴィヤーサ自身によって「Help ever, Hurt never」(常に助け、決して傷つけない)と要約されています。これこそが真の信愛です。礼拝や瞑想をする一方で人を傷つけていたら、それは本当のサーダナであり得るでしょうか?

神は愛、愛は神

人は怒ることがあるでしょう。その時、すぐに行動に出るべきではありません。そんなことをしたら、その性急な行動が好ましくない結果を招くでしょう。「急いては事を仕損じる、仕損じるは憂いを生む」のです。自分が怒っている相手を傷つけるような行動に出る前に、その行動は正しいか間違っているか考えるべきです。怒りが収まるにつれて、だんだんと気が変わり、性急な行動を思いとどまるようになるでしょう。これは、日常生活で自分をコントロールする実践的な方法です。これは、文化と呼ばれる処世術です。社会のためになるような思慮深い行動をとり、善意と一体性を育むべきです。善良な思考を育むべきです。これこそが真のサーダナです。

神は愛、愛は神です。(ここでバガヴァーンは「プレーマ イーシュワラ ヘー、イーシュワラ プレーマ ヘー」という歌を歌われました)。愛は一つです。他人を傷つけることは善いことではありません。世界は球体です。球体を安定させるには、バランスを保たなければならないということを知っていますね。人々は天然資源を際限なく利用して、アンバランスを作り出しています。

私は過去45年間、マドラス〔チェンナイ〕を訪れてきました。今では、夜中の2時でも、かつてのボンベイのような交通渋滞があります。二酸化炭素の煙も多く排出されています。至る所に工場や産業があります。そのせいで、大気汚染は増し、病気も増えています。これらはすべて、テクノロジーの進歩の危険な副産物です。

すべてを愛し、すべてに仕える

人は、シュラマ〔努力〕とプレーマ〔愛〕(愛のある努力)を通じてのみ、神に仕えることができます。神に仕える最良の方法は、すべての人を愛し、すべての人に仕えることです。マトゥラーに一人のおばあさんがいました。そのおばあさんは、夜の一番暗い時間に毛布を手に取って、寒さに震えている貧しい人々に配っていました。ある日、おばあさんは、うつむいて貧しい人々に奉仕していました。数人の若者が集まってきて、おばあさんに尋ねました。「ああ! おばあさん!それほどの無私の行いをしているというのに、なぜ、うつむいて歩いているのですか?」おばあさんは答えました。「神様は、たくさんの手で、たくさんの富を人々に与えてくださっています。でも、私はほんの二つの手で人に奉仕ができるだけです。それは恥ずべきことではないですか?」

人々は人と分かち合う準備はできておらず、得られるものは何でも受け取る準備ができているだけです。これでは一方通行です。「犠牲を払わずして不死を得るチャンスはない」とヴェーダは述べています。犠牲を払い、あなたの持っているものを人と分かち合うべきです。そうして初めて、あなたは平安を得ることができます。あなたは他の人を幸せにすべきです。あなたは犠牲というサーダナをしなければなりません。あなたは他の帰依者を助けるべきです。手にとっての美しさは慈善であり、腕輪で飾ることではありません。

マインドはハートの錠前を開ける鍵のようなものです。もしあなたのマインドを神の方に向ければ解放を得られますが、世の中の方に向ければ束縛を得ることになります。「ローカー サマスター スキノー バヴァントゥ」〔世界のみんなが幸せになりますように〕という気持ちを育むべきです。世界の一体性を熱望すべきです。ユニティ(一体性)からピュアリティ(純粋性)が得られ、ピュアリティ(純粋性)からディヴィニティ(神性)が生まれます。今あるのはコミュニティ(共同体)とエンミティ(敵意)だけで、それらは排除されなければなりません。

プレーマは、全人類を一つにするための結合因子です。ですから、プレーマ、すなわち、普遍的な愛を育みなさい。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.26 C3