日付:1993年5月
場所:ブリンダーヴァン
夏期講習「人から神への変容」(十一)の御講話より
高い学識のある人が五感に屈するなら
それは死人よりもひどい
五感の力を 誰が測ることができようか?
学識は 人を高潔な人にすべきもの
そのような学識のある人は 五感の領域を越えた人
その人は すべての悲しみを超越している
学生諸君、神の愛の化身たちよ、
人間には崇高な無限の力が授けられているというのに、単なる世俗的な生活を送ることで満足しているのは適切なことではありません。自制(ダマ)を育くんだ人が真の哲人です。古代の聖仙たちは、真理を思い描き、自分の生活を真理の調べに合わせ、周囲の人々に喜びを分け与えました。
サーンキヤ哲学は、ニャーヤ学派やヴァイシェーシカ学派が提唱した哲学的な学説を受け入れませんでした。世界は、世界固有の調和と逆説的な二元性の、調和のとれた産物であると、サーンキヤ学派は提唱しました。サーンキヤ学派の哲学の創始者はカピラ仙です。そのため、サーンキヤ学派はカパーラとも呼ばれています。この哲学は、世界は数の調和(サーンキヤ)によって特徴づけられると述べています。そのため、この哲学はサーンキヤ哲学と呼ばれています。
プラクティとパラマートマ
サーンキヤ学派は、種には油が、木には火が、花には香りが潜在しているように、パラマートマはプラクリティの中に潜在していると述べています。パラマートマが原因であり、プラクリティは結果である、と。サーンキヤ学派は、プラクリティはパラマートマから分離したものではないということを掲げました。プラクリティは主なる神の物理的な姿にすぎない、と。サーンキヤ学派は、全世界の神秘を探るために、永遠のものと儚いものを区別する力であるタットワ〔原理/要素〕を用いました。
サーンキヤ学派は、創造世界は一つのものだけで作ることはできず、自然と神といったような二つのものの結合であると考えました。片手で拍手することはできません。拍手するには両手が必要です。それと同じように、創造にはプラクリティとパラマートマが不可欠であり、これらなしでは創造は不可能である。それゆえ、プラクリティを別個のものと見なすことはまったく愚かである、と。サーンキヤ学派は、神性は底流としてプラクリティのどこにも流れていると考えました。
サーンキヤ学派によると、世界は二十四の要素で構成されています。つまり、五つの行動器官〔口、手、足、生殖器官、排泄器官〕、五つの知覚器官〔目、耳、鼻、舌、皮膚〕、五つの生気、五つの感覚(タンマートラ/微細元素)〔音(シャブダ)、感触(スパルシャ)、形(ルーパ)、味(ラサ)、香り(ガンダ)〕、四つの内的器官(アンタレーンドリヤ)であるマナス〔心/マインド〕、ブッディ〔知性〕、チッタ〔心素〕、アハンカーラ〔自我意識〕、以上、合計二十四の要素が全世界を構成している。世界は、空気と火、火と水といった逆説的な二元性で構成されている。こうした二元性こそが全宇宙を作っている、と。サーンキヤ学派は、モークシャとは森で独居することではないと提唱しました。モーハ〔迷妄〕+クシャヤ〔除去〕=モークシャ〔解脱〕。プルシャが二十四の原理〔要素〕に加わると、二十五の原理となる。二十六番目の原理はパラマートマである。プラクリティを真摯に調査した後、パラマートマは二十六番目の原理となり、イーシュワラ〔至高神〕に融合する、と。
プルシャとイーシュワラ
プルシャとイーシュワラ サーンキヤ学派は、宇宙はプラクリティとプルシャの調和のとれた和合であると述べています。ジーヴァ(個々の存在)は、二十六番目の原理であるパラマートマ(ジーヴァは二十四の原理で構成され、プルシャが二十五という数を作る)に融合する。ジーヴァは、プラクリティとプルシャから離れることによって、二十六番目の原理であるイーシュワラ(絶対的な魂)に融合する必要がある。プラクティとプルシャは、どちらもジーヴァの中に入っている、と。
ジーヴァは体の中に存在し
主はハートの中に存在する
ジーヴァと主はゲームをし、離れていく
この劇を監督する人形遣いがいる
良い人形と悪い人形は
一つの人形の中に同時に存在している
二つのものが一つのものの中に存在するという、この唯一性をどのように把握するのでしょう? 唯一性の中に多様性を見るのは人間であり、多様性の中に唯一性を見るのが神です。サーンキヤ哲学の学派は、人間性は神の唯一性にほかならないということを提唱しています。
人間のハートの中には
願望成就の木(カルパタル)がある
しかし、その周りには雑草が生い茂っている
雑草を取り除けば願望成就の木が見える
実に、それ〔雑草を食む者〕は願望成就の牛である
人間の中には願望成就の木と願望成就の牛の両方が内在しています。人類は目に見えるものと見えないものとの間の架け橋です。この二つのものの中間に位置しているため、人間はマルティヤ〔死にゆく者〕と呼ばれています。私たちが生まれてくることは、自分の行為の目に見えない影響の結果です。
人間の心(マインド)の中には、いくつもの過去生で書かれたものが入っています。チッタ(心素)の奥深くにはプラグニャー〔統合意識〕が座っています。プラグニャーは、チッタの出来事をすべて忠実に記録する者であるチットラ グプタです。プラグニャーは不活性な体の中でプラーナ シャクティを活性化させる放射線です。人間は、物質化と振動と放射の調和のとれた融合です。つまり、人間はジーヴァとプラクリティとプルシャの原理が一つになったものです。
サーンキヤ学派は、モークシャ(解脱)は高次の領域から人に降りてくることも、低次の領域から人に昇ってくることもしないと考えました。モーハクシャヤ(妄想の根絶)がモークシャ〔解脱〕です。無知の根絶が解脱です。真理を認識しないかぎり、人間はモーハ〔迷妄〕の呪縛の下にいます。自分は体であるという迷妄の呪縛の下で、人間は肉体的な快楽を求めて人生を無駄にします。サーンキヤ学派は、体に惑わされないようにと勧告します。サーンキヤ学派は、こう述べています。
おお人よ!
世界は二十四のタットワ(要素)で構成されている
ジーヴァとプルシャはさまざまなものでできている
これらのタットワを有しているかぎり
人が真理を見ることはできない
人はこれらのタットワを超えていくべきである
そうして初めて、人はスーパーマインドの状態に達し
そこから、あるマインドから別のマインドへと跳躍し
最高位のオーバーマインドに達する
サーンキヤ学派は、プラクリティ ドリシュティ(世俗的な観念)を根絶しないかぎり、人はパラマートマ ドリシュティ(神の観念)を得ることはできないと公言しました。サーンキヤ学派は、アートマは体に入れられている、いないにかかわらず存在する、ということを明示しました。 アートマの流れは、目には見えませんが、絶え間なく存在している力です。電球は照明器具に取り付けられるとすぐに点灯します。なぜなら、目には見えませんが、電流は常に流れているからです。電流は、電球を照明器具に取り付ける前にも後にも存在しました。同様に、サーンキヤ学派の哲学者たちは、アートマの力は体の内にも外にも両方にあると述べています。
いつの日か、人は目的地に到達しなければなりません。 聖ティヤーガラージャは言いました。
おお、ラーマ! 鳥はどんなに高く舞い上がっても
疲れたら木という避難所を探さねばならない
同様に、人はいつの日か
主の足元に避難所を求めねばならない
これに関連して、サーンキヤ学派はこう勧めています。
おお、人よ!
いつの日か目的地にたどり着くほかないのだから
前進を遅らせる代わりに
できるだけ早く到達するように努力してみないか?
人が着手しければならないサーダナ〔霊性修行〕とは何でしょう? 自分の中にある魔性を根絶することによって自分の中にある人間性を育んで最終的に神に融合する、というサーダナ以外のサーダナを行う必要はありません。サーンキヤ哲学者たちは、神性をおろそかにするのは人間の中にある魔性であると述べました。
灰で覆われた火を見るのに大変な努力をする必要はありません。ひとたび灰が吹き飛ばされれば、燃えさしの火は見えます。人間のハートという海は、唯物論的な傾向という苔で覆われています。唯物論的な傾向という苔は、ナーマスマラナ(主の御名を唱えること)によってのみ除去できます。ジャヤデーヴァは、カリ〔最悪〕の時代〔カリユガ〕にカリの悪影響に対抗するには、ナーマスマラナほど強力なものはないと述べました。
サーンキヤ学派は、サーンキヤ タットワに染み込んでいるプラクリティを征服しないかぎり、神性を顕現させることはできないと明言しています。聖ラームダースは、同様の見解を、「二十五のマルマ(霊妙な神秘)を理解しなければ、マーヤーの二十五のタットワに捕らえられてしまうだろう」と言い表しました。二十五のタットワを完全に理解できれば、二十六番目のタットワ(イーシュワラ)に到達します。それゆえ、サーンキヤ哲学では、規律を守ることによって二十四のタットワを正しい軌道に保つよう求めています。なぜなら、それらを排除することは不可能だからです。
規律の重要性
昼や夜や季節はすべて、規律を守っています。宇宙に規律がなかったら、昼も夜もありえません。昼も夜もないなら、季節もなくなるでしょう。季節がなければ、地球に生命は存在しなくなるでしょう。ですから、絶対に規律を守る必要があるのです。規律に違反することがいかに有害であるかを立証する、ある出来事がありました。
昔、イギリスに、生乳を卸していた牛乳販売業者がいました。彼は正しい人だったので、正直に商売をしていました。何年か後、牛乳を購入していた人々が、牛乳が薄められていると訴えてきました。判定人は、自分で問題を調べてから審査を公表することにしました。判定人は牛の乳しぼりの時間に現場に足を運びました。そこの牛の乳は品質基準を満たしていないということが判明し、つまり、販売業者が牛乳を薄めていたのではないという結論に至りました。さらに調査したところ、農夫が決められた時間に乳をしぼっておらず、家庭内のごたごたのために自分の都合のよい時間に乳をしぼっていたことがわかりました。決まった時間に乳しぼりをしていなかったせいで、その規律違反によって、以前は品質基準を満たす乳を出していた牛が、そうできなくなってしまったのです。判定人は、牛でさえ規律違反に反応を示すのだという結論に至りました。
たとえば、食べ物に関する規律をあげてみましょう。食物はあなたの心(マインド)の性質を決定します。物を食べている時にあなたが悪い想念にさいなまれていると、摂取している食物にその想念が作用して、その結果、あなたの心に影響を与えます。心は摂取する食物から生まれます。食物のとおりに心はなります。だから、私たちの祖先は浄性の食物の摂取を勧めたのです。私たちが摂取する食物の粗雑な部分は排泄物となり、精妙な部分は筋肉を作り、食物の最も精妙な部分は心となります。同様に、私たちが飲む水の粗雑な部分は尿となり、精妙な部分は血液となり、最も精妙な部分はプラーナ〔生気/生命力〕となります。水はプラーナを含んでいるとはっきりと言うことができます。だから、誰かが意識を失うと、その人の顔に水をかけるのです。水の中にはプラーナが含まれているので、気絶した人を覚醒させることができるのです。
神への祈り
浄性の心(マインド)で食物を摂取すべきです。私たちの祖先は、食物を口にする前にそれを神に捧げることを推奨しました。そのようにして摂取された食物は、プラサード(聖別された賜物)となります。祈りは、器の清浄(パートラ シュッディ)、食材の清浄(パダールタ シュッディ)、料理の過程の清浄(パーカ シュッディ)の欠如が引き起こす、三種の不浄を洗い清めます。食事を清浄なものにするために、この三種の不浄を取り除く必要があるのです。というのも、清らかな食物が清らかな心を作るからです。調理の過程の清らかさを保証することはできません。なぜなら、調理する人の心の中でどのような思いが暴れ回っているかわからないからです。同様に、食材の清浄(パダールタ シュッディ)を保証することもできません。穀物を販売した売り手がその穀物を正しい方法で手に入れたかどうかなど、わからないからです。ですから、これら三つの不浄が私たちの心に影響を及ぼすことがないように、祈りという形で神に食物を捧げることが不可欠なのです。
ブランマールパナム
ブランマ ハヴィヒ
ブランマーグナゥ
ブランマナー フタム
ブランマィヴァ テーナ ガンタッヴィヤム
ブランマ カルマサマーディナー
〔捧げる行為(アルパナム)はブラフマン
供物(ハヴィヒ)はブラフマン
それはブラフマンである祭火(アグニ)に
ブラフマンによって 捧げられる(フタム)
まさに(エーヴァ)ブラフマンに到達する(ガンタッヴィヤム)
ブラフマンに捧げる行為(カルマ)に
専心する(サマーディナー)者は〕
〔バガヴァッド ギーター四章二十四節〕
ブランマールパナム
ブランマ ハヴィヒ
ブランマーグナゥ
ブランマナー フタム
ブランマィヴァ テーナ ガンタッヴィヤム
ブランマ カルマサマーディナー
〔捧げる行為(アルパナム)はブラフマン
供物(ハヴィヒ)はブラフマン
それはブラフマンである祭火(アグニ)に
ブラフマンによって 捧げられる(フタム)
まさに(エーヴァ)ブラフマンに到達する(ガンタッヴィヤム)
ブラフマンに捧げる行為(カルマ)に
専心する(サマーディナー)者は〕
〔バガヴァッド ギーター四章二十四節〕
アハム ヴァィシワーナロー ブートワー
プラーニナーム デーハマーシリタハ
プラーナーパーナサマーユクタハ
パチャーミャンナム チャトゥルヴィダム
〔私(アハム)は
消化の火(ヴァイシワーナラ)となって(ブートワー)
生命あるものすべて(プラーニナーム)の
体(デーハム)に宿り(アーシリタハ)
プラーナ(摂取作用)とアパーナ(排泄作用)に
結びつき(サマーユクタハ)
四種(チャトゥル ヴィダム)
(かむ物・吸い込む物・なめる物・飲み込む物)の
食物(アンナム)を消化する(パチャーミ)〕
〔バガヴァッド ギーター十五章十四節〕
神に捧げられた食事は、消化器官の中のヴァイシュワーナラ〔食物を消化する火〕によって消化されます。神がヴァイシュワーナラという火の姿をとっているために、不浄もろとも神が食物を消化するのです。ですから、たとえ食物に不浄なものが入り込んでいたとしても、それを食べた人が影響を受けることはありません。サティヤ サイの寮で食事の前に「ブランマールパナム」を唱えるのはこのためです。
しかし、一部の親たちは、私たちの祖先が定めた神聖な原則に従うようにと子供たちに言いません。そうした親たちは、学校が休みの間、テレビの前で食事をさせて子供たちを甘やかします。しかし、テレビに映る邪悪な光景や物事は子供の心に悪い影響を及ぼします。ですから、親は古来の伝統がきちんと受け継がれているかどうかを見るべきです。古来の原則は、小さなことに聞こえるかもしれませんが、非常に重要です。シロアリのついた木材は、シロアリに完全にやられてしまう前に即刻、処置を施す必要があります。すべての悪は、つぼみのうちに摘み取るべきです。さもないと、それらは後で害になります。
プラクティの清らかさ
ニャーヤ学派、ヴァイシェーシカ学派、サーンキヤ学派の三学派は、明白な言葉で神の存在への信仰を裏付けています。
全世界はプラクリティとパラマートマの調和のとれた融合です。しかし、人間は無知ゆえに、プラクリティは人間を欺くと考えています。けれども、あなた方がプラクリティを欺いているのです。間違いは、プラクリティについて誤った考えを抱いている人間の心(マインド)にあります。心が変わらないかぎり、人間は変わりません。
善人はプラクリティから与えられた贈り物をうまく活用します。善人は教養と富という贈り物を活用します。しかし、その同じ教養と富は、悪人の手にかかると悪く使われます。五大元素、五感、五つの生気は神聖なものです。しかし、人体のしくみの中に入ると、それらは清浄か不浄になります。人体のしくみは五つの鞘(パンチャ コーシャ)で構成されています。ですから、まず自分自身を浄化することがとても大切なのです。不浄はプラクリティにあるのはなく、自分自身にあるのです。エゴ、尊大さ、妬みといった神聖でない感情を募らせるべきではありません。それらがひとたび体のしくみの中に入ってきたら、皮膚に刺さった棘を抜くのと同じくらい早く、それらを捨て去らなければなりません。邪悪な性質は、つぼみのうちに摘み取らないと、後で非常に大きくなります。
私たちは、善い考えや着想を養うために神聖な経典を読むべきです。あなた方の多くは、インド哲学のさまざまな学派の神聖さと卓越性を知りません。真面目に研究と探求をして、初めてこれらの哲学の体系が類いのないすばらしいものであることを理解できるようになります。
六派哲学(シャド ダルシャナ)は、不一致や違いではなく、唯一性と調和の哲学を明言しました。私たちは皆、同じ母なる大地の子供です。同じつる草の花です。同じ巣の鳥です。同じ国の国民です。もし六派哲学に違いが見られるとしたら、その違いは自分自身の心の反映にほかなりません。乱れた水面では、そこに映る太陽も乱れているように見えます。太陽は乱れていません。映る太陽が乱れているのは、水が乱れているからです。私たちは他人の中に自分を見ます。私たちの欠点や短所が、他の人たちにその欠点や短所を見るよう私たちに促すのです。ですから私たちは、高潔で清らかな性質を養うために正しい努力をし、高潔になれるようにすべきなのです。
ブランマヴィド ブランマィヴァ バヴァティ
〔ブラフマンを知る者はブラフマンとなる〕
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Summer Showers in Brindavan 1993 C11