サティヤ サイババの御言葉

日付:1993年5月21日
場所:ブリンダーヴァン
夏期講習「人から神への変容」(三)の御講話より

心の神秘

それを知ることで、すべてを知ることができるもの
それを知らないことで、何も知ることができないもの
それは、自分についての知識
自分を知っている人が、真の人間

愛の化身たちよ!

人間は、肉体、微細体、原因体、超原因体の性質を理解することによって、この世界の働きを認識することができます。

不活性なものである肉体(粗大な衰えるもの(ストゥーラ シャリーラ))は、カルシウム、鉄、水などの単体で構成されています。

微細体は、マーヤー スワルーパ(幻影の姿)です。夢を見ている状態では、心(マインド)は自らを創造するのみならず、喜びと苦痛、恐れと不安も味わいます。微細体においては、心が創(つく)り出す架空のものが体験されます。その体験は、その瞬間だけ現実のものと感じられます。マーヤー(幻影)というのは心の状態であり、存在しているものが存在していないように見え、存在していないものが存在しているように見えます。夢を見ている状態での経験はすべて、起きている状態では非現実に見えます。実存するもの、本当のものは、起きている状態でも、夢を見ている状態でも、熟睡状態でも、存在していなければなりません。真実〔真理〕というのは、過去でも現在でも未来でもつねに本当で不変であるものをいいます。ですから、微細体はマーヤーと結び付いているものです。

原因体(カーラナ シャーリーラ)は、超原因体(マハーカーラナ シャーリーラ)の映し、投影でしかありません。超原因体は最高の原理の象徴です。超原因体は、原因体、微細体、肉体が機能させる至高の投影として存在します。

心は、起きている状態では時間と空間の制限に縛られています。夢を見ている状態では、心は独自の世界を創造します。それは時間とだけ関係しています。たとえば、あなたは電車に乗って、翌々日にボンベイに到着しました。その中で、あなたは心が四つの点で働いているのを見ます。それは、理由、実際の旅行、目的地への到着、そして、あなたの義務の達成です。起きている状態で行われた行為は、時間(カーラ)、原因(カーラナ)、義務(カルタビャ)、行為(カルマ)によって明らかにされることにあなたは気づくでしょう。ボンベイへの旅はどのくらいかかりましたか? 旅は三十六時間かかりました。その旅の理由は、職場で課せられた仕事をするためです。しかし、夢を見ている状態では、時間、原因、義務、行為という四つの要素はどれも存在しないことに、あなたは気づくでしょう。起きている状態で三十六時間かかった旅は、夢を見ている状態ではわずか五分しかかかりません。夢を見ている状態で起こることは、どれも一瞬のうちに起こります。四十年の人生で経験することが、夢を見ている状態では二分です。四十年の間に、あなたは自分の教育を修了し、結婚し、息子を得て、息子を教育し、息子を海外へ送りました。しかし、それらの出来事の全パノラマは、夢を見ている状態では数分です。あなたが夢で経験したことは、目覚めた瞬間に消えてしまいます。通常の心(マインド)が、起きている状態で行動を誘発するのに対して、夢を見ている状態を動かしているのはスーパー マインドです。

ハイヤー マインド――究極の神我

熟睡から目覚めた時、人は喜びを味わいます。その喜びの原因は、熟睡状態では心が無になっていることです。悲喜や苦楽の原因は心です。熟睡状態で引き出される喜びは、ハイヤーマインド(高次の心)に起因するものです。これは原因体と結び付いています。世界で起こるすべての出来事は、因果関係から成っています。神が原因(カーラナ)であり、全宇宙はその結果です。これがマハーカーラナ(大原因/最初の原因)であり、それが全世界で起こることすべてを招いているのです。これはイルミネイティド マインド(照らされた心)と呼ばれています。これは、世界のすべてのものを照らす力です。

こうした宇宙の原理を体験するには、神の姿が必要です。それが超神我です。それはプルシャットワ〔プルシャの原理〕と呼ばれています。プルシャットワというのは、要するに、オーバーマインド(心を超越している状態)、すなわち神の側面です。神のそうした側面がプルシャットワ〔プルシャの原理〕と呼ばれているのです。

私たちは日に何度も「私」と言います。その「私」はどこに座っていますか? 実に、それがプルシャットワの側面なのです。その「私」はすべての生き物です。日常会話において、どの人も自分の行いに関して、「私が行きます」、「私が食べています」、「私がしています」といったように、「私」と言います。このように、どの人もプルシャットワの偉大な側面の存在を、その「私」で表しているのです。

プルシャットワとは何を意味するのでしょう? ズボンとシャツを身に着けただけでは、人は人間になれません。「プ」(Pu)という言葉は、頭からつま先まで体全体を振動させている神の側面を表しています。「プ」は「プルシャットワ」を意味しています。どのようにしてそれに「プルシャ」という名前が付いたのでしょうか? 体は、ジーヴィ〔個我〕が住んでいる神聖な場所(プラム)であることから、「プルシャ」という名前で呼ばれているのです。それは女性の体かもしれませんし、男性の体かもしれません。性別が違うだけです。なぜなら、男にも女にも、お腹は空くし、怒りもする、共通の感情的な動揺があるからです。

悲しくなると、男も泣けば、女も泣きます。お腹が空けば、男も食べれば、女も食べます。男も怒れば、女も怒ります。ですから、男も女も同じ感情レベルを持っていることがわかりますね。しかし、苦しみを胸に秘めている人もいれば、大声で嘆いて表現する人もいます。私たちはそうした違いに目を向けるべきではありません。というのは、どちらの人の体も、神の住む神聖な場所だからです。どの体にも、神のその側面はあるのです。全世界は、粗大な姿と微細な姿、両方の投影です。原因は神です。結果は世界です。粗大な姿と微細な姿の両方があるのです。どの人の人生にも、歓喜に満ちた経験がいくつかあります。 五つの元素、五つの鞘、五つの感覚器官、五つの生気、心、知性、チッタ(心素)、エゴ(自我)――これらすべてが連合して、二十四の側面となります。この二十四の側面の内側で二十五番目の側面となるものが「マハープルシャ」です。ですから、二十五の側面が一緒になって人の体となるのです。一人の人間に二十五の側面があるのと同じように、この世にも二十五の側面があります。人、国、これらは物体とその投影です。両者に違いはありません。しかし、世俗的な観点から見れば、多くの違いが見つかります。これがマーヤーすなわち幻影の、真の特徴です。マーヤーのこの側面は、人間に実在を忘れさせ、かくして人を困難な事態に陥れさせます。これに関連して、ラームダースは、人生の苦難と人生哲学の本質について、哲学的な調子で歌いました。

起きている状態では、すべてが幻です。眠っている時には、あなたは夢に浸っています。あなたは夢だけを信じ、これは本当だと信じています。その夢はいつまで続くでしょう! 夢は、あなたが起きて、その夢を黙殺するまで続きます。夢と起きている状態と、どちらが本当ですか? 一方は白昼夢であり、もう一方は夜の夢です。ですから、両方とも夢なのです。

どちらが本当か?

ジャナカ王は正しい行いを信じていました。ジャナカ王は体に執着していませんでした。ある日、夕食後の大臣たちとの会議の最中に、王は眠りに落ちしてしまいました。王はお付きの者たちによってベッドに運ばれて、快適に眠らされました。しばらくして、王は目を覚ましました。ジャナカ王は、眠っている状態と起きている状態のどちらが本当なのかがわからなくなりました。ジャナカ王は自分に向けられた多くの質問に答えませんでした。大臣たちは王の心の状態に面くらいました。ジャナカ王は何の質問にも答えず、「どちらが本当なのか――これか、あれか?」という言葉をただ繰り返すだけだったのです。大臣たちは王女にその場に来てくれるよう頼みました。ジャナカ王は王女の質問にも答えませんでした。ジャナカ王は再び、これが本当なのか、あれが本当なのかと、独り言を言いはじめました。そこにヴァシシュタ仙がやって来ました。ヴァシシュタ仙は、状況をよく見て、自らの持つ神の力を通して王の苦境を理解することができました。ヴァシシュタ仙は、「これもあれも本当ではありません」と、王に言いました。

「あなたは、夢の中でも起きている状態でも何らかのことを経験しました。起きている状態では、夢は存在しません。夢の中では、起きている状態は存在しません。しかし、〝あなた〟は夢の状態と起きている状態のどちらにも存在しています。ですから、〝あなた〟だけが本当です。両方の状態に〝あなた〟は存在しているのですから、〝あなた〟は遍在です。〝あなた〟は過去に生きていました。〝あなた〟は現在にも生きています。〝あなた〟は未来にも生きています。〝あなた〟という側面は時代を超越したものであり、したがって、神なのです。」

ヴェーダやウパニシャッドの中で述べられ、書かれているこうした真理はすべて、人間にのみ結び付いています。私たちは神を「富の八相(アシュタ アイシュワルヤ)」であると言います。しかし、そうではなく、人間こそが「富の八相」の姿なのです。神は、属性を持たず、時代を超越した、純粋で、永遠のものである、と説明されています。しかし、これらの属性は、無知ゆえに人が神に付加したものなのです。

人は何でも達成することができる

人は多くの力と知識を身につけます。それはどこから手に入れますか? それは本人の努力によるものです。というのも、生まれた時、人はアルファベットさえ知りません。忍耐と決意によって、人は何でも達成することができます。

しかし、人は心のせいで制限に縛られています。人は自分と家族のことを考えますが、それは利己心以外の何ものでもありません。人は家族の向こうに社会があることに気づくべきです。社会がなければ、家族は関係を有しなくなります。私たちは社会を考慮に入れず、そのせいで、自分の内にある神性を理解できないのです。あなたは世界を愛し、この世のすべてを欲しがります。あなたが欲しているのは人の福祉ではありません。あなたはただ自分のために世界を欲しているのです。この世界は私たちの社会であり、私たちは社会に到達しなければなりません。今、私たちは利己心と狭い心のせいで多くの問題に直面しています。あなたは〝私〟という言葉から家族へと発展し、社会から家族へと発展します。すべての人が社会の幸福のために働くべきです。もしそれをするなら、何の問題も、悲しみも、不安もなくなるでしょう。私たちはいかなる感情的な混乱からも解放された世界に生きることができるのです。

無知から生まれた狭いエゴの感情を取り除く時、人は神性を味わうでしょう。ヴェーダは、人生の最高の目標を達成するために共に努力するよう、人類に勧めました。ヴェーダの神髄は、一つの考え、すなわち、すべての人間は霊的に一つであるということに要約されます。これが神を悟るということです。これが本当の「不二一元論」(アドワイタ)です。

「我はブラフマンなり」(アハン ブラフマースミ)や「汝はそれなり」(タット トワム アスィ)などの宣言は、不二一元論を宣言するものとして言及されます。しかし、それは正しくありません。これらの陳述は二つの存在を語っているからです。それは、自分と神、タット(あれ/神)とトワム(これ/汝)です。一つにして同じアートマがすべての存在に宿るという認識が、真の不二一元論です。

電球は、サイズや色や電圧が違っても、同じ電気エネルギーによって輝きます。すべての人間は霊的に一つである、ということに基づく人間の唯一性の教義がきちんとした方法で伝えられておらず、そのせいで、今、私たちには多くの分断があり、それが多くの衝突を招いているのです。別々の宗教を信仰している人たちの間にある違いは、宗教間の教えの違いではなく、それらの宗教に属する者たちの心の感じ方の違いです。どの宗教も、同じ良い考えを教えています。宗教に基づいて憎悪を説いている人々は、倒錯した人々です。バーラタ人(インド人)の広い見方は、神の栄光と、人類の根本的な唯一性を証言しています。

真実を実践せよ

今、私たちは、道徳感、真実への敬意、正しい生活への敬意、私たちの国への敬意を失っています。私たちは自分たちの文化、伝統、真理、そして、正しい生活を守るべきです。バーラタの真の文化は、「真実を話し、ダルマを実践する」ことにあります。この偉大なヴェーダの声明を実践すべきです。私たちは電球を見て電球が燃えていると思いますが、実際には、明るさを生じさせているのは電流です。内容物を見るだけで、内容物の基盤を見ていないので、私たちは自分に問題を引き起こしているのです。ここにコップがあります。基盤がなかったらどうやって水を入れることができますか? コップは基盤であり、水は内容物です。同様に、神性は基盤であり、世界は内容物です。神と世界は、原因の姿と結果の姿です。ヴィシュヌ神は全世界の宇宙的形態であり、私たちはそれを注意深く探求すべきなのです。

すべては神の現れです。私たちはそれを正しく見ることを培わなければなりません。この世には善と悪といったものは何もありません。神の目には、そういった悪いものはありません。見る人の目に欠陥があるから、他のものにも欠陥を見つけるのです。物事は時間の変化によって異なって見えます。しかし、真実の形は同じです。私たちが果物を食べるのは、おいしいからです。明日になれば、それは糞尿になります。私たちは、それを汚いと言います。それは無知です。もし食べた果物が糞尿に変わらなかったら、あなたはどうやって健康でいられるでしょう? 何を食べても、その中の良いものはあなたに吸収され、悪いものは拒絶されます。

私たちは、サトウキビの繊維質は役に立たないと考えています。しかし、私たちはサトウキビが与えてくれた甘い汁のことは忘れています。繊維質は、かつてはサトウキビの一部でした。汁が取り除かれたので、サトウキビは繊維質だけになったのです。ですから、汁にとっての基盤は繊維質です。川を渡ってしまったらボートは不要です。今、私たちは繊維質を捨てています。もうその中には汁が含まれていないからです。それは私たちの感謝を示す行為でしょうか? 川を渡るのを助けてくれたボートは大切にされるべきであり、私たちはボートに感謝を示さなければなりません。しかし、現代では、感謝は意味を失っています。人間の中で、人間的な側面がゼロになっています。実を言えば、人間は人類と神の複合物です。人は、知識を身につけることによって偉大になるわけではなく、知識がないからといって卑小になるわけでもありません。しかし、もし人が心を広くして真理の道をたどるなら、非常に偉大であると見なされます。

真理の道

ラーマクリシュナの時代には、たくさんの学僧がいました。けれども、ラーマクリシュナと妻のシャラダー デーヴィーはまったく読み書きができませんでした。ヴィヴェーカーナンダはシュリ ラーマクリシュナの発音を正そうとしました。というのも、「助成金」という言葉さえきちんと発音できなかったからです。しかし、ラーマクリシュナは今でも神聖な人として扱われています。その理由は何でしょう? ラーマクリシュナは真理の道をたどりました。彼は、真理こそが人を神への帰融へと導くことができるということを理解できていました。それはバーガヴァタが、「人は自分がそこからやって来た元の場所に戻るべきである」と説いていることです。それが人生の主な目的です。

ラーマクリシュナ パラマハンサは、文字は知りませんでしたが、真理の道をたどりました。しかし、今、真理を敬う人はほんのわずかしかいません。しかし、人々は年に一度「サティヤナーラーヤナ ヴラタ」〔ヴィシュヌ神に喜んでもらうための誓願の儀〕を執り行います。ラーマクリシュナにとってのサティヤナーラーヤナ ヴラタは、言葉と思いと行いを聖なる三位一体とすることでした。

それに基づいて、英語では、「人類にとっての適切な研究対象は人間である」と言われています。しかし、その人間はどこにいるのでしょう? 人は形だけになっています。人は、行いにおいて人間ではなくなっています。私たちは行いにおいて人間になるよう努めるべきです。私たちはその最高の段階に達するべきです。最高の段階へと行く代わりに、現代人は最高裁判所へと走っています。人は至高の状態である至高の神我に到達しようと努めるべきです。私たちは生活の中でこの段階を経験しなければなりません。すべての人の中には、マインド(心)、スーパー マインド、ハイヤー マインド、イルミネイティド マインド、そして、オーバー マインドが存在します。これらはすべて人の中に存在しています。ですから、人は神なのです。

小さな例があります。人の身長は一五〇センチを超えるほどしかありません。それでどうして全世界が人の中に収まることができるのでしょう? あなたはアメリカに行き、日本とドイツも訪問しました。あなたが戻ってきて目を閉じると、アメリカ、日本、ドイツの光景はすべて、あなたの頭の中によみがえります。というのは、それらはあなたの中に入っているからです。あなたの体格は小さくとも、それらはあなたの中に入ってきたのですから、あなたの体格は大きいのです。体の大きさにかかわらず、あなたは非常に広いハートを持っています。

天空で銀河の星がきらめいています。あなたはそれを鏡の中に見ることができます。同じように、私たちのハートは鏡です。あなたはその中に全宇宙を見ることができます。ですから、あなたのハートよりも大きいものはなく、それゆえ、あなた自身よりも優れた神はいないのです。この信念を培いなさい。それだけで、あなたは「ヴシュワ スワルーパ」〔宇宙万物の姿〕になることができます。もしあなたが自分は小さいと思うなら、あなたは小さいままです。「神を思えば神となる」、「人は自分の思うものになる」のです。「私は神だ」と考えるべきです。そうすれば、その真理は、黙想すべき神の側面をあなたに授けるでしょう。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Summer Showers in Brindavan 1993 C3