サティヤ サイババの御言葉

日付:1993年5月23日
場所:ブリンダーヴァン
夏期講習「人から神への変容」(五)の御講話より

思考 ―― 創造の基盤

時の始まりに、
神は心という刀を人類に授けた
心を訓練する人、よく訓練する人は、
世の中で繁栄する
しかし、心の奴隷となる人は、
夢の中ですら、
決して平安と安らぎを楽しむことはできな

愛の化身たちよ、

心〔思考の束/マインド〕は鋭い刀です。心の細かい神秘的な働きをはっきりと理解すれば、人は成就を得ることができるでしょう。心は素早く動きます。心は強く、空元素より軽く、電気よりも微細です。疑わしい道に心を向けさせることで、人は悲しみと苦しみのかっこうの餌食となります。

思考と心

心は光よりも速く動きます。たとえば、私たちはデリーのミュージシャンが演奏したプログラムを即座にホワイトフィールドの自宅で聞くことができます。これはまさしく、音波がどれだけ速く伝わるかを明らかにしています。音が音波〔振動波〕でできているように、心も振動でできています。人の心という海から生じる思考の波に終わりはありません。心という無限の大洋から絶え間なく生じてくる無限の波を止めるには、いったいどうしたらよいのでしょうか? 実は、そうした心の波動を抑制したり阻止したりする必要はありません。

体は死にゆくものですが、思考は不死です。思考の波動の力は世界中を巡ります。熱波、電波、光波が放射するように、心の波も放射します。思考の波動は、人の喜びと悲しみ、健康と病気、幸不幸、生と死をもたらす原因です。もし思考の波動の力を十分に認識していれば、人の一生は意味あるものとなります。全世界は心の波動で覆われています。実のところ、全世界はまさしく心の振動の現れです。だからこそ、私たちの思考を高潔な道に導くことが必要なのです。人間の心は、もし人が高潔な思考や着想や感情を育てれば、まばゆい清らかさで光り輝きます。心の清らかさを育むことによってのみ、私たちは行為の清らかさを確保することができます。清らかな行為だけが、清らかな結果を生み出すことができます。

私たちは、思考という種を蒔(ま)き、行為という果実を収穫します。行為という種を蒔き、気質という果実を収穫します。気質という種を蒔き、人格という果実を収穫します。人格という種を蒔き、運命という果実を収穫します。このことから、私たちの運命は自分の思考にかかっているということは明らかです。人が上がるのも下がるのも、思考がその原因です。思考は私たちを暗い地下牢へと連れて行くことも、明るい大広間へと連れて行くこともできます。思考はまさしく人の生気です。憎しみ、嫉妬、怒り、エゴといった悪い思考を抱くことによって、人は自らに転落をもたらします。人は人類同胞に害を与えようという邪悪な思考を抱きます。しかし、人類同胞に及ぼす害は、同じ力と強さを持ってブーメランのように自分のもとに返ってきます。人類同胞を虐待したり、批判したり、追い払ったり、中傷することによって、人は実に、主なる神を虐待し、批判し、追い払い、中傷しているのです。他の人々の中に神がいるということをまったく知らずに、人はそうした極悪な行為にふけっています。刀を手に取った人は、刀によって滅びます。他人に怪我を負わせた人は、今度は自分が怪我を負うでしょう。他人を虐待する人は、そのお返しに虐待されるでしょう。

思考に従って結果が現れます。感情に従って報いが来ます。心の力をまったく知らずに、心の能力をまったく知らずに、人は心のこの上ない重要性を過小評価しています。私たちの一生は心にかかっています。私たちは心の力を理解するために真剣な努力をすべきです。

顔は思考の鏡

人は自分の欠点を隠すために多大な努力をします。ダチョウは砂山にくちばしを突っ込んで、もうこれで自分の姿は誰にも見えないだろうと思います。しかし、そんなことをしても、結局、ダチョウは猟師の鉄砲で撃たれてしまいます。それと同じように、悪人は自分の悪い考えが他人に気づかれることなどないだろうと思っています。人間の心はレコード盤のようなものです。人間の良い思考も悪い思考も、心に刻まれて消すことはできず、はっきりと現れます。人の思考と感情は、見る人によって容易に測られます。邪悪な男の顔は、表情がなく、陶器のように生気がありません。人の顔は道しるべのようなものであり、その人の思考が向かう方向を私たちに知らせます。

人の命の基盤を形成しているのは思考です。命を添え、命を持続させ、最終的に命に終わりをもたらすのは、心です。心は、創造、維持、破壊の原因です。心よりも偉大なものはありません。

人の心は思考と欲望でできており、思考と欲望は人の性格と行いによって決まります。人は誰かに憎しみを抱き、悪意を持っているにもかかわらず、あたかもその人を愛しているようなふりをします。それは明らかに自己欺瞞(ぎまん)です。というのは、他人を欺くということは、自分自身を欺いているということだからです。あなたの転落と衰退を作り出している張本人はあなた自身です。自分のハートに悪い思考や悪い感情がないよう気をつける努力を払うべきです。人のハートは神聖なるものの住みかであり、悪い思考という蛇がその中に滑り込んでくることを許すべきではありません。毒蛇が自分の部屋に滑り込んできて、安心して休んでいられる人がいますか? 悪い思考には、死をもたらす蛇よりも強い毒があります。

思考は非常に強力なので、上手に使えば、苦しんでいる心に安心感をもたらすことができます。気高い思考は私たちに気高い友情をもたらし、気高い友情は、しだいに神聖なものへと変化していきます。

思考は創造の基盤

類は友を呼びます。酔っ払いは酔っ払いを友とし、泥棒は泥棒を友とします。音楽家は音楽家を友とし、医者は医者を友とし、弁護士は弁護士を友とします。気高い心を持つ人は気高い心の人だけを友とします。私たちの気高い思考でさえ、悪い人と交際することで悪い変化をこうむります。創造世界さえ、思考によって変えられてしまいます。このことを踏まえて、アルジュナはクリシュナに言いました。

「チャンチャラトヴェー マナハ クリシュナ プラマディ バラヴァルトゥダム」 (おお、クリシュナ! 心は変わりやすく、気まぐれで、強く、危険をはらんでいます)

思考は力と危険に満ちています。しかし、思考は危険が詰まったカプセルであるだけでなく、不死のカプセル、甘露のカプセルでもあります。

海の波に終わりはありません。それと同じように、心が存在するかぎり、思考に終わりはありません。私たちの愛と憎しみ、痛みと喜び、生と死は、心に基づいています。五大元素、五感、五つの鞘、五つの生気さえ、心から栄養を引き出しています。心の深さを測ることは非常に困難です。心に対する私たちの態度は無関心という態度であり、心へのそうした態度こそが、人の一生を運命づけているのです。その無関心な態度こそが、人が悪魔や獣へと変わってしまう原因です。私たちが自分本位で利己的である原因は、心です。

サーダナとは何か?

広い心を養えば、人は本当に神になります。人が取り組むべきサーダナ(霊的努力)は、人の心を開花させるというサーダナです。サーダナとは何ですか? 礼拝も、御名を唱えることも、瞑想も、サーダナではありません。これらはすべて、実のところ、取るに足らない修行であり、一時の満足を与えてくれるだけです。まず心を変えることなしにこうした努力を払っても、達成には到(いた)りません。心が変容した時、人は変容します。心の変容こそが、人を本当に神にするのです。心の変容は人の変容の主因です。人の変容は国の変容であり、国の変容は全世界の変容です。私たちが今、この国で目撃している無秩序と混乱、苦痛と不安は、ゆがんだ心の現れ以外の何ものでもありません。

心は振動から成っており、それらに終わりはありません。それらは絶え間なくわき起こり、毎瞬生じてきます。海の波が海に忠実で、海と同じ性質を持っているように、人間の思考も心の性質と同じ特徴を持ちます。思考はまさに世界の方向を作り上げ、形作り、導くのです。ですから、心を正しい方向に導くために真剣な努力をすることは、学生にとって不可欠なのです。

心の力と能力をはっきりと理解していない人は、底知れぬ深みへと日に日に落ちていくままになっています。今日でなければ明日、悪い思考が顔を出してくるでしょう。自分のした小さな悪い行いが自分に害をもたらすことなどないだろう、と人は考えるかもしれませんが、実のところ、悪い行いは十倍になって自分に跳ね返ってきます。

気高く、崇高な思考を育むことによってのみ、国と世界の繁栄を育むことができます。思考が神聖化されれば、世界は神聖化され得ます。悪い思考が実際に国の進路を決め、やがて災害をもたらすのです。ですから、私たちは決して思考の力を見くびったり、過小評価したりすべきではありません。一粒の種がやがて大木になるのと同じように、一つの悪い思考はやがて巨大な形をとるようになるのです。まだそれが小さなつぼみのうちに悪い思考を摘み取ってしまわなければ、悲惨な結果を招くことになります。「小さな蛇でも大きな棒で叩くべし」と言われています。それと同じように、ささいな思考であっても厳しく対処すべきです。思考は非常に強力で影響力があるので、私たちの見る目、発言、聞く耳さえもゆがめてしまうのです。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Summer Showers in Brindavan 1993 C4