日付:1993年5月27日
場所:ブリンダーヴァン
夏期講習「人から神への変容」(九)の御講話より
ある人は、ヴェーダや経典をマスターしたかもしれない
ある人は、いとも簡単に詩を作るかもしれない
しかし、心の純粋さを失えば、その人は荒れてしまう
その原因はすべて心(マインド)にある
おお、人よ!
神性アートマの具現たちよ、
六派哲学(シャドダルシャナ)は、インド哲学を盲信の集成であるとしてはねつける人々への、道理にかなった、説得力のあるインドの回答です。六派哲学は、ヴェーダの聖句の多様な意味の奥深くを説明しています。六派哲学は、ヴェーダに含まれる深い科学的思考と知恵を世に明かしています。聖仙たちは、有神論、内を見る目、ヴェーダという三つの原則にしっかりと根を下ろし、過去、現在、未来、すべての時において決して変わらない哲学の深遠な学派を人類に手渡しました。六派哲学は、人間性の深いところまで調べ上げ、人間のハートの底に潜む疑いや恐れ、悲しみや不安を払拭しました。人間の福利を一番に留意して、六派哲学は、希望、安寧、平穏の哲学を世に贈り、人類に自己浄化のこつを示しました。
六つの学派は、ヴェーダ(神聖な聖句)とヴェーダーンタ(ヴェーダの哲学)とヴェーダグナ(ヴェーダを知る者)の一体性を詳述し、神の神聖な創造物における多様性の中の一体性を明言しました。六派哲学は、世界に存在するバラエティーと多様性をたどって心にさかのぼり、いかに心が、高貴なものと卑劣なもの、高級なものと低級なものの座であるかを示しました。六派哲学は、人間の心の深さを測り、一つであるという原則、人類が踏み込むべき正しい王道を詳述しました。
ニャーヤ哲学
ニャーヤ哲学〔ニャーヤは理論を意味する〕の作者はガウタマ仙で、彼が詳述した原理は「ゴータマ スートラ」として知られています。インドの大聖仙たちは、心(マインド)の領域を超越することにより、偉大な真理を思い描きました。彼らは、マインドから別のマインドへ、スーパーマインド、ハイヤーマインド、イルミネイティドマインド、オーバーマインドへと大きく躍進し、最終的に「実在」と対面することになりました。現代のいわゆる科学者たちは、通常のマインドに根差しており、インドの聖仙たちが思い描いた崇高な神の真理を理解することができません。あたかもそれでは不十分であるかのように、現代の科学者たちは、聖仙たちが発見できなかった事実や物事を発見したと豪語して、鼻高々です。
古代の聖仙 VS 現代の科学者
現代の科学者の発見は物質の領域(パダールタ)であるのに対し、古代インドの聖仙たちはアートマの領域(パラールタ)を探索しました。科学者たちは、過去の偉大な聖仙たちがゴミとして捨てたものを貪っています。偏狭な科学者たちは、私たちの先祖たちによってなされた偉大な発見を信じようとしません。彼らが信じようが信じまいが、賢明な先祖たちによって発見された真実は永遠の真理として存在しています。アンチ・神であるのは科学ではありません。科学者が、アンチ・神なのです。
学生諸君は、物事を詳しく調べ、何が真実で何が偽りかを見出す必要があります。学生諸君は、アンチ・神として表に出てきたのは偏狭な科学者たちであることに気づくべきです。暗闇の中で光る蛍は、自分より明るいものはないと主張します。蛍の光は、燃えるような太陽の光の下では薄れてしまいます。同様に、科学者が得た中途半端な知識は、太古の人々のすばらしい知恵の下では取るに足りないものへと薄れてしまいます。現代の科学者たちは蛍のように輝いていますが、太古の聖仙たちは強大な太陽そのもののように輝いているのです。
科学者たちが五感によって提供された証明に心を躍らせているのは、彼らが全くもって無知だということにほかなりません。科学者は、機械的に機械を探るのではなく、自分たちのハートを調べて探求すべきです。ハートを調べることは、機械を調べるよりもはるかに優れています。現代人は機械を信じていますが、機械というのは非常に信頼性の低いものです。たとえば、コンピューターを例にあげましょう。コンピューターは、何であれ入力されたものを出すだけですから、独自のものは何もありません。メカニズムの欠陥は、悲惨さを証明するでしょう。入力を誤ったためにコンピューターが間違った結果を出した例は数多くあります。合格を不合格にし、不合格を合格にしてしまったコンピューターの話を聞いたことがあるでしょう。このように、機械が提供する証明は不十分であり、きわめて信頼できません。しかし、青年諸君は、自分のハートからインスピレーションを得て試験の答案を書き、試験での自分の出来ばえをハートで知っています。ハートが人の出来ばえの証明です。このように、最も信頼できる証明は、ハートが提供する証明なのです。
ハートの証明
ハートは、正義の座と基盤でもあります。人間の貪欲のせいで、現代人は正義を正義でないものにし、正義でないものを正義にすることによって、正義の基盤をひっくり返しています。現代では、裁判所は正義の座ではなくなっています。正義の座であるのは人間のハートだけです。すべての宗教は正義第一を掲げています。
イスラムの預言者ハズラト ムハンマド〔モハメッド〕は、人々が犯した罪に対する厳罰を定めました。ムハンマドが犯罪に処した刑罰は、鞭打ち百回の刑でした。かつて、自分の息子が罪を犯したことがわかった時、ハズラト ムハンマドは、正義という容赦ない法に従って、実の息子に百回の鞭打ちを宣告しました。息子は鞭打ちを五十回受けたところで肉体を捨てました。鞭打ちの執行者が、残りの五十回はどうすべきかと尋ねると、ハズラト ムハンマドは、死んだ息子の墓に鞭を打つようにと命じました。ハズラト ムハンマドがどれほど正義を遵守していたかがわかりますね。それは「私のもの」と「なんじのもの」という壁を乗り越えました! なんと神聖なことでしょう!
一方、現代の法廷は、正義の座であると言われてはいますが、あらゆる正義の規定をあからさまにあなどって、それらに従っていません。人々は、親類縁者を刑罰から逃れさせるために、法の複雑さを調べ上げます。もし卑しさと偏狭で汚されているならば、それは正義ではありません。ガウタマ仙は最高の正義の法を詳述しました。
四つの証明
六派哲学とは、ニャーヤ学派、ヴァイシェーシカ学派、サーンキヤ学派、ヨーガ学派、プールヴァ ミーマーンサー学派、ウッタラ ミーマーンサー学派です。 ニャーヤ哲学は、六派哲学の残りの学派の基礎と息吹そのものを形作っています。ニャーヤ哲学は、思いやり、調和、一体性という崇高な美徳を把握しており、人間だけが至福と自由を享受できると宣言しました。ニャーヤ学派の哲学は、特定の真実の理解を容易にする、特定のプラマーナ〔尺度/基準〕に基づいています。「プラマーナ」という語は、真実を探るための前提条件としての尺度の必要性を提唱しています。「プラマーナ」の「プラ」は「前に」を意味し、「マーナ」は「測る」を意味します。知識、無知、知恵といったものの質と量を評価するのに最も必要とされるのは、尺度あるいは基準です。
ニャーヤ哲学は、私たちが物事の実体を理解できるようになるために、四つの証明を提唱しています。四つの証明とは、プリティヤクシャ プラマーナ(直接的な証明)、アヌマナ プラマーナ(推論)、ウパマナ プラマーナ(比較)、シャブダ プラマーナ(音の証言)です。神聖なニャーヤ学派は、自らが提示しているこの四つの証明の助けを借りて、人間に潜む疑いと恐れを払拭し、神性の存在を実証しています。ニャーヤ学派は、人類のすばらしさを明らかにし、どうすれば人は自分を聖化することができるかを提示しています。
(一)プリティヤクシャ プラマーナ(直接的な証明)
ニャーヤ哲学は、五感による直接的な認識に基づいた証明の誤りやすさを引き出します。五感が提供する証明は信頼できません。ものを見る目、聞く耳、味わう舌、吸い込む鼻は、それぞれの感覚器官が健康である間は真実を証言します。しかし、病気にかかった舌や目は本当の真実を提供してくれません。マラリアに冒された舌はすべてが苦く、黄視症にかかった目はすべてが黄色く見えます。
ニャーヤ哲学は、ニャーヤ ミーマーンサーも提唱しています。「ミーマーンサー」という語は、物事の最終的な状態を示しています。たとえば、ギーは牛乳の最終的な状態です。牛乳は、凝固させて、かき混ぜると、バターになり、バターは加熱するとギーをもたらします。ニャーヤ哲学は、直接認識が提供する証明の欠陥を明らかにし、ニャーヤ ミーマーンサーは、深い調査と調査がいかに最終的に報いをもたらすかを私たちに示しています。ニャーヤ ミーマーンサーは、ニサカルシャ(最終的な状態)という証明によって、深い調査がいかに究極の真理を解明するかを私たちに示しています。牛乳を見ても、カードやバターやギーは直接目には見えませんが、それらは牛乳の中に潜んでいて、さまざまなプロセスにさらされて初めて姿を見せるのです。ニャーヤ ミーマーンサーは、物事は完璧な調査と探求というサーチライトにさらされると正体を明らかにする、という真実を提示しているのです。
(二)アヌマナ プラマーナ(推論)
アヌマナ プラマーナは、推論に基づくものです。アヌマナ プラマーナでは、推論に基づいて結論に達します。たとえば、ある区域に鶴がいるなら、そこには水があるはずだと推測されます。人々は、煙の存在、火の存在から推測をします。
(三)ウパマナ プラマーナ(比較)
ウパマナ プラマーナ(比較)は、直喩と比喩を用います。たとえば、外観(パティバーシカ)、経験的(ヴィヤーヴァハーリカ)、超越的(パラマールディーカ)という原理は、これら三つの原理を、泡、波、海と比べることによって説明するものです。超越的な(パラマールディーカ)海からパティバーシカ(外観)という波が起こり、外観(パティバーシカ)という波から経験的な(ヴィヤーヴァハーリカ)泡が生じます。波と海は、別の姿を持っているように見えても、共通の水を分かち合っています。ここでは、こうした比較は多様性の中の一体性を立証するために用いられます。
(四)シャブダ プラマーナ(音の証言)
シャブダ プラマーナは、音の証言によって神の存在を立証します。ニャーヤ哲学は、神性の存在を、原初の音である「オーム」の証言に基づいて、しっかりと証明しています。ニャーヤ哲学の主唱者たちによれば、原初の音はブラフマンそのものであり、瞑想によって心を定めた人だけがそれを経験することができます。こう言われています。
人は、あらゆる知識を習得し、
論争で敵を負かすことができるかもしれない
象のように力強くなり、
最後まで戦うことができるかもしれない
広大な王国を治める皇帝になれるかもしれない
純金の贈り物を与えることができるかもしれない
無数の空の星を数えることができるかもしれない
月の領域に到達することができるかもしれない
最も複雑なヨーガを習得できるかもしれない
しかし、五感を支配して目を内に向けないかぎり、
心の平静という最上の状態に到ることは不可能
シャブダブラマン〔音の姿をとった神〕には、アシュタ アイシュワルヤ(八つの富の形態)が授けられています。それは、シャブダ ブランマーマイー〔音の具現〕、チャラ アチャラマイー(動くものと動かないもの具現)、ジョーティルマイー(光の具現)、ヴァーングマイー(言葉の具現)、ニッティヤーナンダマイー(永遠の至福の具現)、パラーットパラマイー(至高の栄光の具現)、マーヤーマイー(幻影/迷妄の具現)、シュリーマイー(富の具現)です。
音は反応を引き出します。日常の行為のほとんどは、音の証言に基づいて行われています。音は、悲哀も法悦も、希望も憂鬱も引き起こすことができます。共に歌うこと(サンキールタナ)は、音の崇高な調和であり、人々を高揚させます。
あるとき、ナーラダ仙が偉大なるヴィシュヌ神のもとに行って言いました。
「おお主よ! 私は時折あなたのダルシャンを求めてやって来ます。それは私の性分です。もし私が今すぐにあなたを見たいと思ったら、どこであなたにコンタクトをとることができるのでしょうか?」
それに対して、主ヴィシュヌはこう返答しました。
マド バクタ、ヤトラ ガーヤンティ
タトラ ティシュタミ ナーラダ
(私を信愛する者が私の栄光を歌う所、
そこに私はこの身を置くのだ、ナーラダよ)
ヴィシュヌ神は、そこに住むとは言いませんでした。そうではなく、そこにしっかりと身を置くと言ったのです。キールタナ(歌うこと)には、これほどの、この上ない効果があるのです。爆弾の爆発は私たちの鼓膜を打ち破りますが、歌うことは私たちのハートを花開かせます。シャブダ プラマーナ〔音の証言〕はヴェーダのプラマーナと同じです。
ニャーヤは、以上の四つのプラマーナすべての底流として流れています。ですから、聖なる神の音を聞くことは私たちにとって不可欠なのです。そのため、ニャーヤ哲学はこう述べています。
「おお、人よ! 俗世で日々の務めを行い、真実を見ること(サティヤ ダルシャナ)を切に求め、永遠のものと一時のものを識別することによって、ついには神を見つけよ」
語る言葉と良心
どうすれば真理の存在を明らかにすることができるのでしょうか? 私たちは、良心の証言によって真理の存在を明らかにすることができます。良心は生気(プラーナ)の振動である、と説明されています。ヴァーク(語る言葉)はその振動から生じます。語る言葉は、心から生じるものと、心を超越した状態から生まれるものとでは、著しい違いがあります。心の領域を超越して生まれた最高の語る言葉は、振動、良心、ブールと呼ばれます。良心は、体に浸透し、スヴァハ〔スワハ〕を起源としています。スヴァハはプラグニャー〔常に神と一つになっている意識状態〕にほかなりません。ヴェーダの用語では、ブールは物質化(体)を表し、ブヴァッは振動(良心)を表し、スヴァハは放射を表します。リグ ヴェーダは語る言葉から生じます。ヤジュル ヴェーダは心(マインド)から湧き、サーマ ヴェーダはプラーナから湧き出ます。
サーマガーナ〔サーマは詩歌、ガーナは歌うこと/歌/音を意味する〕は最も心地よい音のハーモニーであると言われています。サーマはプラーナを起源とするため、細心の注意を払って用いなければなりません。ヤジュル ヴェーダは霊的なマントラの宝庫であり、光輝の具現です。ヤジュル ヴェーダは主を光の具現そのものと表現し、光を体験しようとします。リグ ヴェーダは光の宝庫です。ヤジュル ヴェーダは儀式の宝庫であり、サーマ ヴェーダは音の権化です。この三つのヴェーダは世界平和にとって不可欠です。ヴェーダは、マントラで主の栄光を唱え、音楽で主を喜ばせるようにと私たちを鼓舞します。この三つのヴェーダは、主の栄光を聞くことと歌うことによって人が主に帰融できるようにするために、地上に下りてきたのです。歌は言葉や詩節よりも強力です。語る言葉だけでは主のハートをとろけさせることはできません。語る言葉が鈍いものであるのに対して、歌はきわめて感動を呼ぶものです。歌には、個々人の魂を絶対的な魂に帰融させる、この上ない力があります。ニャーヤ哲学は、疑念を払拭し、人のハートを楽しませる、崇高な哲学です。
六派哲学を理解するというサーダナ〔霊性修行〕よりも偉大なヴェーダ サーダナはありません。六派哲学の学習は、私たちのハートを喜ばせ、宇宙の謎を明らかにし、私たちに最高の知識を与えてくれます。現代の学生は、崇高なインドの文献を知らずに、気まぐれな生活を送っています。六派哲学(シャドダルシャナ)には、聖仙たちが徹底的な調査と探求によって蒸留した、経典のエッセンスが含まれています。
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Summer Showers in Brindavan 1993 C9