日付:1993年6月3日
場所:ブリンダーヴァン
夏期講習「人から神への変容」(十四)最終回の御講話より
真の学生は快楽を求めません。快楽を求める者は学生ではありません。快楽を求める者は知識を求める者にはなれません。学生は知識を求めるべきであり、決して快楽を求めるべきではありません。
人々の間に主への愛を育むことが、第一の義務
自分のためではなく他人のために生きることが、
崇高な理想
無私無欲で人への奉仕に身を捧げることに、
己の満足がある
ハートに汚れなき愛を育んでも、
人類同胞を助けないなら、
ああ、愚か者よ、
身につけた学問は何にもならない
学生諸君、教師の皆さん、
教育の擁護者である皆さん、
世界のすべての国の中で、インドは最も強固な基盤の上に建っている国です。時折、途方もない試練と激動がありましたが、その試練に平安と忍耐をもって立ち向かい、インドという大きな家を安全かつ健全に守った人たちがいました。
インドを支配していた歴代の君主たちは、三つのカテゴリーに分類されます。支えた君主・汚した君主・中間の君主です。インド文化を支えた君主は、インドの美しさと栄光に大きく貢献しました。汚した君主は、インド文化を滅ぼそうとやっきになりましたが、結局、その試みは失敗しました。無頓着と無関心の態度をとった中間の君主は、時の胎内に姿を消しました。この三種の人間は、過去にも存在し、今も存在し、将来も存在するでしょう。けれども、国民の忍耐と寛容のおかげで、インドは歴史に翻弄されながらも時の試練を乗り越えて、壮大な勝利を収めました。
揺るぎない基盤の上に築かれたかに見えた国々が、私たちの目の前で崩れ落ちました。それが物質力と精神力を誇っていた国々の運命でした。しかし、その一方で、インドは、そうした国々のようにお金や力には恵まれていないにもかかわらず、時代の荒波と歴史の激動に耐えました。インド文化は今もなお、他国が見習うべき理想として存在しています。インド文化が色あせない原因を探った外国人たちは、何の答えも見つけられませんでした。インド文化を永遠の文化にさせたのは、インドがダルマを守っていること、そして、人々が歩んできた、ダルマにかなった生活です。
「ダルマ」という言葉の中にある意味の深さと大きさをうまく伝えることができる言葉は存在しません。「正しい行い」、「正しい生き方」などという言葉は訳語にすぎず、本来の意味を正しく伝えていません。「ダルマ」という言葉に相当するのは「ダルマ」だけです。多くの人が「ダルマ」を「宗教」と勘違いしています。しかし、「宗教」は、「ダルマ」という言葉に秘められた無限の意味を伝えていません。「ダルマ」は海であるのに対して、「宗教」は湖です。「宗教」の範囲と意義は特定の信条に従う一定数の人々に限定されているのに対し、「ダルマ」は人種や宗教を超えた範疇にある普遍的なものです。「ダルマ」はすべての人のものです。
西洋では、誰にも一定の権利がある、というのが一般的な考えです。一方、それとは逆に、誰にも特定のダルマを行う権利がある、というのがインドの考えです。しかし、権利とダルマは結びついています。親が親のダルマを果たすと、子供の権利は増し、子供が子供のダルマを果たすと、親の権利は増します。同様に、教師が教師の義務を果たせば、生徒の権利は増します。生徒が生徒の義務をきちんと果たすと、教師の権利は増します。
学生のダルマ
学生に不可欠なダルマは何ですか? 自敬、自信、無私無欲、自立心が、学生のダルマを構成します。現代の学生は、今日、この四つの資質をすべて欠いています。まず、学生は自敬の念を身につけるべきであり、それができると、次に自己犠牲を培うことができます。自己犠牲を行う人だけが、自分に対する満足を得ることができます。学生が四つの資質をすべて失っているせいで、教育も学生も教師も自らの価値を失っています。和と適応という資質を培い、アートマとの一体感を培ったときにのみ、人は自由と正義を楽しむことができます。普遍的な愛はアートマとの一体感から生まれます。普遍的な愛は普遍的な兄弟愛の基盤です。人間は、その甘露のような愛を味わい、それを人類同胞と共有することによって、充実感を見いだします。このように、愛によってのみ、あなたの中の神性が輝き、浄性の力が生じ、普遍的な和が生まれ、神のとの合一が可能になります。
人生のための教育
今、学生が教育機関に入学したがるのは何のためですか? もっぱら、生計を立てるためです。学生が学位を取得するために自分のエネルギーと時間を費やしているのは、就職のためです。学生を社会や国家に奉仕できる人物にしないなら、学位の価値は何ですか? 今、学生は学位を取得するとすぐ、自分の名前を登録するために就職紹介所の列に並びます。パスポートも取ろうとします。パスポートは、富を得たいという欲を満たしてくれるでしょう。こうして、学生たちはお金を稼ぐために海外に行くよう誘い出されます。学生は、教育は人生のためにあるのであって、生計のためにあるのではないという真理に気づくべきです。鳥や獣は大学には行きませんが、なんとかうまく生きています。私たちは、お金を稼ぐためではなく、人生の意味を理解するために教育を求めなければなりません。
読み書きの知識が、人を教養人にできるのか?
学位を得ることが、人を教養人にできるのか?
英知と品行に欠けていても、
それを教養と呼べるのか?
科学は飛躍的な進歩を遂げました。しかし、それに伴う影のように、無知も進んできました。
現代人の見方には欠陥があります。外側だけ見て、内側を見ていないからです。外側だけを見ている人には、海は大荒れに見えますが、海の中はずっと穏やかです。ですから、物事の外面に振り回されてはなりません。私たちは、この広い世界の中で、広い視野を養わなければなりません。
現代の教育機関で得られる知識は、情報を中心としたものにすぎません。これは原材料を集める過程に例えることができます。身につけた情報によって、自敬の念、自立心、自信といった産物を引き出すことができるようにならなければなりません。こうした産物を国家に供給するのは私たちの義務です。ところが、現代の学生は、それとは反対に、自分も友人も助けることのできない知識で終わっています。
利己心を捨てたときにのみ、自分の中に霊性の苗木が芽を出します。あらゆる科学の幸福は、道徳と霊的な科学の研究にかかっています。あらゆる学問の卓越性は「ヴィッディヤー」〔光を照らす知識〕にかかっています。善良な教育だけが、人と職業を変えることができます。「嫁が黒ければ、孫も黒くなる」ということわざがあります。それと同じように、もし教育制度が黒くなったら、あらゆる活動分野が黒くなります。今日の教育機関の特徴である暗黒は、利己主義の暗黒です。
真の教育
現代の教育制度は、輝かしい光を放つ必要があります。和と一体性と人間性を育むことができるのは、霊性教育や道徳教育だけです。ところが、霊性教育や道徳教育は、世間ではほとんど消滅しています。霊性教育の欠如が、現代世界の動乱と動揺の原因です。
今、インド人は西洋文明の印である「自由」の概念に引き寄せられています。自由はライセンスではありません。自由は自制です。心と五感を自制することが真の自由です。この世のものを無謀に捨ててしまうことは自由ではありません。インドは政治的自由を勝ち取りましたが、経済的自由、道徳的自由、霊的自由は勝ち取っていません。人は自信を持たなければなりません。他人に依存してはいけません。自分に依存すべきです。これを自立といいます。ところが、今、自信は消え、自立心は崩壊し、自分に対する満足は吹き飛んでしまいました。
今、学生が持っているのは、本で読んだ知識だけです。実践的知識は皆無です。現代の学生は次のような状態です。
熱心に数学を勉強しているが、算術の科学は顧みない
アメリカへの行き方は知っているが、
聖地カーシーへの行き方は顧みない
代数の達人だが、自宅の面積は知らない
毎日運動をしているが、
パドマ アーサナ(蓮華座)を組むのは一苦労
植物学の修士号を持っているが、
トゥラスィー〔聖バジル〕の葉の用い方は知らない
このように、実践的知識に欠ける単なる理論的な知識は、あなたをどこにも導いてはくれません。
学生は霊的な切望を抱いているべきです。富や財産を得るのは簡単ですが、富や財産は無知を増大させます。人々は、茨の茂みを実のなる木で囲う人のようになっています。世俗的な学問は、霊性の実のなる木を守るために使われるべき茨の茂みのようなものです。
学生諸君。愛され、尊敬されたいと望むなら、他の人を愛し、尊敬しなさい。他の人を尊敬しないなら、どうして人はあなたを尊敬できますか? 尊敬と礼儀はお互いに表すものであり、一方通行ではありません。
私たちの少年たちは次のヴェーダの文言を唱えます。
ナ カルマナー ナ プラジャヤー ダネーナ
ティヤーゲーナィケー アムルタットワマーナシュフ
〔行為によってでも、子孫によってでも、
富によってでもなく、
捨離によってのみ、不死は得られる〕
私たちの学生には犠牲の精神がありません。仮に犠牲を払うとしたら、彼らは自分の人格を犠牲にします。人格を失ってしまったら、生きていても何になりますか? 何を犠牲にしてもかまいません。命すら犠牲にしてもかまいませんが、自分の人格は絶対に犠牲にしてはなりません。一生の四分の三は人格だといわれています。実際、私たちの真の一生は人格です。
現代の学生は、世俗的な生活と世俗的な幸せを楽しむために、世俗的なスキルを身につけています。利己主義に揺さぶられ、家族と自分の目線でものを考えています。社会から多くの恩恵を受けているのに、家族の幸せと自分の幸せは社会が幸せかどうかにかかっているという事実を無視し、多少なりとも社会のためになりたいとは思いません。教育を受けた学生は皆、社会奉仕に飛び込んでいくべきです。そうすれば、それだけで自敬の念が芽生えます。
責めるべきは誰か
私たちの副学長とゲストのシュリ ラミ レッディは、既存の教育システムについて、および、この国にある教育機関の数について話しました。二百近くの大学と何千ものカレッジがあります。それら教育機関は何をしているのでしょうか? 毎年、学位を手にした何十万人という卒業生を輩出しています。今、教育機関は卒業生の製造工場になっています。そうした教育機関は、現在の五千万人という失業者数にさらに人数を加えているだけです。政府は次々と教育機関を立ち上げることに乗り気です。しかし、学生と教育機関を適切な形に整えることは、ほとんどしていません。適切な雇用がないために、失業中の若者がナクサライト〔インドの武装革命主義者〕やハイジャック犯になっています。責められるべきは学生ではなく、親と政府です。
親たちは、わが子への盲目的な愛情に溺れて、子供が何をしても、それを正すことなく、盲目的に容認しています。このような人たちは、子供の不正な行いをまったく正さなかったドゥリタラーシュトラ王の信者になってしまったのです。ドゥリタラーシュトラの足跡をたどる親たちは、ドゥリタラーシュトラと同じ運命をたどることになります。ドゥリタラーシュトラは、いまわの際に、息子は全員死んでいるということを知りました。ドゥリタラーシュトラの葬儀をしてくれる息子は、ただの一人も残っていませんでした。
今、親は子供に制限のない自由を与えていますが、これは非常に悲惨なことです。もし幼い時にしつけられていないなら、その子供は決してしつけられません。
今は、あなた方の人生の黄金期です。無駄にしてはなりません。インド文化の素晴らしさを今の若者に教えようとする人がいないので、私が皆さんにインド文化の栄光と素晴らしさを教えるという仕事を引き受けました。インド文化がいかに神聖で崇高なものであるかを理解するようにしなさい。インド文化はあらゆる優れた点を体現しています。インド文化はダルマに満ちています。
ダルマは無限であり、時を超越しています。ダルマの中にある無限の意味を知らずに、人々はダルマを宗教と同じものだと思っています。ダルマは安定していて、永遠で、変わることのないものです。「インド文化と霊性の夏期講習」〔毎年のサマーコースの総称。テーマは毎年変わる〕は、学生にダルマの精神を知ってもらうために企画されています。文化とは何でしょう? 霊性とは何でしょう? これらもダルマの一部にすぎません。布が糸と綿にすぎないのと同じように、文化と霊性の糸と綿はダルマの一部を形成しています。
有史以来、ペルシャ人、ギリシャ人、イスラム教徒、ポルトガル人、オランダ人、イギリス人など、多くの外国人がインドに侵入してきましたが、彼らがインド文化の基礎を揺るがすことは少しもできませんでした。多くの文化の基盤が崩れ落ちても、インド文化の基盤は、強固で、安定していて、安全です。
私たちは高潔な徳を養うために教育を求めなければなりませんが、今、人々は教育のために高潔な徳を犠牲にしています。次のように言われています。
現代の教育は、賢さだけを育んできたが、
わずかな美徳さえ植えつけていない
十エーカーの不毛な土地が何になる?
肥沃な土地が少しあれば十分だ
人間の卓越性を開花させるには、高潔な資質を養わなければなりません。私たちは、模範的な理想の生活を送らなければなりません。人々があなたの善行と徳のある人格を評価するようでなければなりません。善良な人格と行いに欠けているなら、高い学識が何の役に立ちますか? 善良な人格と行いを養うと共に、自信、自敬、自立、自己犠牲という四つの高潔な美徳も養うべきです。そうして初めて、人としての充実感を見いだすでしょう。
学生諸君。この十五日間、皆さんはインド文化のさまざまな側面について学んできました。しかし、知識を実践に移さないなら、単なる知識は何の役にも立ちません。他の場所に行った後も、今守っているのと同じ規律と善い振る舞いを守り続けなければいけません。
学生は点数(マーク)を取るために夢中になって勉強しますが、それと同時に、批判(リマーク)を得ないようにしなければいけません。あなたへの批判が一切ないならば、あなたの点数の価値は上がります。私たちは、崇高な美徳を育成することに最も高い重要性を与えなければなりません。自分のエネルギーのすべて、力のすべて、すべてのものを、高潔な資質を養うために捧げなければなりません。両親と年長者を尊敬しなければなりません。私たちの文化を固く信じなければなりません。さらに重要なことは、実生活の中で文化を実践しなければならないということです。
美徳の価値は、理論によってではなく、実践することで理解しなければなりません。けれども、今の学生たちは、これらの資質を養うことなく、欲深に身を任せています。欲深は最終的に災いをもたらします。欲深は大きな危険を伴います。もっとたくさん牛乳が欲しいといって牛の乳房を切り落とすなら、それは愚行です。金の卵を産む金のガチョウのお腹を切り開くなら、永遠に金の卵を失うことになります。このように、欲深に流されるのは非常に危険です。欲が深ければ深いほど危険に陥り、欲が少なければ少ないほど幸せがもたらされます。
諸君の義務
自国への尊敬を得るために尽力しなければなりません。これは学生と教師の良心的な行いによって達成されます。自分は受け取る報酬に見合った働きをしているかどうか、良心に顧みて自問しなければなりません。ほとんど仕事をしていないのに、働き以上の給料を受け取るならば、自分を裏切り者にしてしまいます。インドは他国から何十億ルピーも借金をしています。懸命に働かなければ、どうやってこの借金を返済することができるでしょうか? 受け取る給料に見合うよう懸命に働いて、初めて自己に対する満足が得られます。真面目に働くことから生まれる自己に対する満足を体験するために尽力しなければなりません。
学生諸君は、インドが多くの政治的、経済的対立に直面していることを認識すべきです。しかし、学生である間は政治の世界に入ってはいけないということを忘れてはなりません。教育を終えてから政治の世界に入るのは何も悪いことではありません。国の福祉と幸福のために働くのであれば、何も悪いことはありません。けれども、学生の時に政治に触るなら、トゲに触ることになるでしょう。ところが、自分の利己的な目的のために学生を政治の世界に引きずり込む利己的な人たちがいます。
あなた方は皆、自分はインド文化を無傷のまま維持するのだと固く決心しなければなりません。バーラタの教育とは何ですか? バーラタの教育は、人のために喜んで自分を犠牲にすることにあります。神の気持ちになって自分の義務を果たしなさい。あなた方は祝福されるでしょう。霊的な生活を送りなさい。
霊性とは何でしょう? 霊性とは、愛が花開くことにほかなりません。科学は愛のスプリット(分裂)であるのに対し、霊性は愛のスピリット(精神)です。愛だけが全人類を一つにします。そのとき、人類はまったく何の問題も持っていないでしょう。
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Summer Showers in Brindavan 1993 C14