サティヤ サイババの御言葉

日付:1994年4月11日
場所:サイ クルワントホール
ウガーディ(テルグ語圏の新年)の御講話より

愛を育て、憎しみを避けなさい

神聖な愛の化身である皆さん!

永遠性があり、人が身に付けることのできる、三つの装身具があります。それは、手を飾る慈善、耳を飾る神の栄光の聴聞、口を飾る真理の発言という形態をしています。しかし、人は一時的で無益なあらゆる世俗の物事を夢中で追いかけています。それを達成すれば他の一切を達成することのできるものがあります。人はそれを達成するために努力すべきです。

その最初の一歩は、二人の人間をつなげる絆(きずな)を理解することです。それは愛に他なりません。愛が基盤にあるからこそ、社会全体が親密につながるのです。国とは何でしょう? 国や国家を形成しているものは、土地ではなく社会です。国家が健全に成長して繁栄し、進歩するとき、個人の必要も満たされます。個人は社会に左右されます。人は社会に生まれ、社会によって育てられ、社会に維持されています。ですから、社会の公共福祉のために無私の奉仕をすることは、すべての人の義務です。

万人は母なる地球の子どもたちであり、私心のない地球の働きを手本とすべきです。地球は自転しながら時速約十万六千二百キロで太陽の周りを公転しています。昼夜と四季の変化があるのは、この絶え間ない動きのおかげです。それがなければ、人類を養う食物となる作物はできません。

人格は知識よりも価値がある

地球の子として、人は母なる地球から犠牲(ティヤーガ)という教えを学ぶべきです。犠牲を払わなければ生命を維持すること自体、困難です。知識は価値のあるものだと言う人々がいますが、知識よりも人格のほうがさらに価値があります。人は博学な学者であったり、権威ある高い地位に就いていたり、莫大な財産を持っていたり、卓越した科学者であったりするかもしれません。しかし、もし人格を備えていなければ、その人が獲得した一切はまったく無益です。

犠牲、愛、思いやり、堪忍寛容は、育てるべき立派な人間的性質であり、嫉妬、憎しみ、エゴ、怒りは、捨てなければならない動物的性質です。人間として生まれて、鳥や獣の生涯を送るなら何になりますか?

人は、苦と楽、損失と獲得の中で平静を保つべきです。苦がなければ楽を味わうことはできません。悲しみは、まさに喜びに到る王道です。苦難は人を徳行へと導く踏み石です。人は、楽を得て有頂天になったり、苦を負って意気消沈したりすべきではありません。

あなたは、神が創造した、人間としての素晴らしい生を理解しなければなりません。神は世界に存在する一切のものを創造し、人間にそれらの面倒を見る責任を任せました。神は、世界にある物を人間が望みどおりに使うことを許しましたが、一つ条件を付けました。それは、人間は自分の行為の報いを、善果であれ悪果であれ受け取らなければならないということです。

悪業から善果を期待するのは愚かなこと

ですから、善果を享受したいなら、善い行いをしなければなりません。人は、悪い行いをしておきながら、善い有益な果報を欲しがります。悪業から善果を期待するのは愚かなことです。自然は鏡と同じで、目の前にあるものを映し出します。どの人の中にも善悪が共存しています。人は善い行いだけをするように努力すべきであり、それこそが人を解脱(モークシャ)へと導くのです。解脱(モークシャ)は外から得られるものではありません。それは生き方それ自体から得られるものです。生来備わっている性質に従い、善い感情を培うなら、あなたは世俗の束縛からの解放を手に入れることができます。

今年は「バーヴァ」という年(テルグ暦六十周期の八番目の年)です。今年、皆さんは善いバーヴァ(感じ方や感情)を育むべきです。あなたの気性(グナ)(浄性、激性、鈍性)はあなたの摂取する食物しだいです。心(マインド)の気まぐれに流されるべきではありません。アルジュナほどの偉大で強力な戦士でさえ、心は本来揺れ動くものであり、制御するのは難しいとクリシュナに言いました。

「心は習練と無執着によって制御できる」

とクリシュナは述べました。風が吹けば木の葉は揺れ動きます。ちょうど風が木の葉を揺らすように、あなたの仲間はあなたの心に影響を与えます。あなたは悪い仲間から逃げるべきです。もともと善良だったハートも、悪い仲間によって、怒り、嫉妬、憎しみといった邪悪な性質で汚されてしまいます。

体と心(マインド)と理智は、利己的な目的ではなく、広く社会の利益のために使うべきです。心は狂った猿であり、体は今すぐにでも破裂してしまうかもしれない水泡のようなものです。ですから、あなたは良心だけに従わなくてはなりません。心が悪い思考でいっぱいである限り、自らの神性を顕現させることはできません。あらゆる悪い性質、悪い思考は無視して、純粋な愛に基づいた善い思考を持たなくてはなりません。一日を愛で始め、一日を愛で満たし、一日を愛で終えなさい。これが神への道です。愛を育てるための第一の必要条件は、疑いと不信を取り除き、確信を持つことです。

人は自分の源である神に帰融しなければならない

確信のあるところには愛があり、愛のあるところには平安があり、平安のあるところには至福があり、至福のあるところには神がいます。この人は自分の母親だという確信があるからこそ、その人はあなたの母親なのです。あなたがそれを疑うなら、母への愛が存在する余地はなくなります。確信は愛の基盤であり、心が定まっているための基盤です。けれども、今、至るところで目にするのは、精神的な落ち着きのなさです。あなた方の多くは、精神の平安を求めて遥か遠くからやって来ました。ところが、ここへ来てから悪い人々と交流し、それによって以前は持っていた小さな平安さえ失われている始末です。自分がここへ来た目的について自問すべきです。

もし有意義な人生を送りたいのなら、自分がどこから来たのか、自分が到達したい行先、すなわち目的地はどこかを知らなければなりません。誕生した瞬間から、あなた方は、

「コーハム――私は誰か?」

という問いを尋ね続けています。人の一生はこの質問の答えが得られないまま費やされます。

「これは私の心です、これは私の体です」

等々とあなたが言うとき、あなたは自分の心や体や感覚とは別個のものです。あなたは主人です。体と心と感覚は道具にすぎません。「コーハム――私は誰か?」という質問に対する答えは、毎日あなたがしている呼吸と共に、二万千六百回、内側からなされています。息を吸うときには「ソー」という音がし、息を吐くときには「ハム」という音がします。それが一緒になった「ソーハム」は、「神は私である」を意味します。これはヴェーダが宣言している偉大な真理、「タットワマスィ」――それは汝(なんじ)なり、です。

海の水は太陽エネルギーを介して水蒸気となって上昇し、それが雲を形成し、その雲が雨として降る、という過程を皆さんは学ぶかもしれません。雨水はその過程でいくつかの変化を被った後、河川によって元の海へと運ばれます。理智は太陽です。真理は雲であり、愛のしずくが雨です。これらは至福という川を流れて、神という海に融合します。ちょうど海水が様々な変容の段階を経て元の海へと帰るように、人間も自分の源へ帰らなくてはなりません。その源とは、神です。

ウパニシャッドが明言する永遠の真理

火から離れたところに置かれた石炭は、燃焼するはずがありません。火と石炭は近くに一緒に置いて、石炭に火が点くように団扇(うちわ)であおがなければいけません。愛はあなたを神聖な光で輝かせる団扇です。これはウパニシャッドで「汝は神なり」と言明されている真理です。あなたは自分を単なる体であると考えています。生命力である魂がなければ、体は不活性な存在です。

神を探しにどこかへ出かける必要はありません。神はあなたの中にいます。体には多くの器官があり、それらは体内の心臓によって動かされているように、万物にとっての生命力は、同一の神です。全宇宙は至高の実在の反映です。

あなたの感じ方(バーヴァ)があなたの苦悩と幸福の原因です。あなたがどんな感情で物事を見ようとも、それと同じ感情があなたに跳ね返ってきます。あなたの見方(ドルシティ)が森羅万象(スルシティ)の見え方を決めるのです。色眼鏡をかけて世界を見るなら、あなたは自分のかけている眼鏡の色で一切を見るでしょう。

何が起ころうとも、それを神の贈り物として受け取るべきです。愛は神です。愛に生きなさい。これが神を礼拝する正しい方法です。礼拝と苦行のあらゆる形態は心(マインド)を抑制するためにあります。それらがあなたに神我実現をもたらすわけではありません。神はあなたの内に、あなたの周りに、あなたの脇にいます。真の友は神だけです。あなたは世俗の人々との友情を育てていますが、あなたが財産や権力や地位を失ったとき、その人たちはあなたを見捨てるかもしれません。いつもあなたと共にいるのは神だけです。

欲望は人生の旅に不要な重荷

「バガヴァッド ギーター」は次のように言明しています。

アドヴェーシター サルヴァブーターナーム
(主にとって愛しい者は、
いかなる生き物にも嫌悪を抱かぬ者)

(バガヴァッド ギーター十二章十三節より)

誰に対しても憎しみを抱くべきではありませんが、悪い仲間からは離れていなさい。邪悪な人々と関係を持つべきではありません。なぜなら、それによってあなたの心の清らかさが損なわれるからです。心は輪廻の原因であり、解脱の原因でもあります。心を神へと向けて、無執着を育てなさい。世俗の方を向くなら、あなたは執着を育てます。欲望は人生の旅路において不必要な重荷です。欲望は、完全に捨て去ることは不可能でしょうから、最小限まで減らさなくてはいけません。
神と人間の違いを詳細に分析すれば、
命 + (プラス) 欲望 = 人間
命 - (マイナス) 欲望 = 神

であることがわかるでしょう。あなたの欲望を、食物、衣類、雨露をしのぐ場所といった、本来命をつないでいくのに必要なものだけにとどめなさい。過度の欲望を抱けば落ち着かなくなります。どんな種類の仕事であれ、それを神への供え物として献ずるならば、何の心配もなくなるでしょう。これが本当の霊性修行です。

毎日の家事に従事しているときでも、それらを神への礼拝に変えることができます。床を掃いているときには、自分のハートから汚れを全部掃き出しているのだと考えることができます。料理は清潔な調理器具で為されなくてはならないように、どんな仕事も信愛に満ちた清らかなハートで為されなくてはいけません。まがいものでない本当の愛の気持ちがなければ、どんな善いことをしても無駄になります。仕事を礼拝へと変えるのは、純粋なハートの中にある愛なのです。

妬みと憎しみという動物的な性質を取り払いなさい

私は皆さんに、特に遠い国々からここへ来た海外の信者たちに、自己探求のプロセスを踏むようアドバイスします。あなたが自分を人間と呼ぶのは正しいことでしょうか? あなたが人間であるというのは部分的な真実です。あなたは、

「私は人間である。私は動物ではない」

と断言できるようでなければなりません。エゴ、嫉妬、憎しみといった動物的性質を取り除き、愛、真理、犠牲、幸福といった人間的性質を育まなくてはなりません。苦楽は過ぎ行く雲と見なしなさい。幸福は神と結び付くことによってのみ手に入れることができます。世俗の快楽は束の間のものです。

ハートの中に善い感情を育てることで、自分を悪から善へと変容させることができます。これはサムスカーラと呼ばれます。サムスカーラは、籾(もみ)の付いた米を食べられるように精米するのと似ています。

同じ目的地に向かう道は数多くあるでしょう。多くの話し手が様々なことを説くために、あなた方は混乱しています。あなたは、一つの道、一つの進路を選ばなくてはなりません。神は一つであり、神は愛によって顕現させることができます。あなたのハートを愛で満たし、すべての人を神の火花であると見なし、その愛を他の人々に分け与えなさい。

自分の中にある神性を感じ、神の性質を伸ばさなければなりません。そうして初めて、あなたは真の人間として輝くことができます。あなたは人間の品質証明である、思考と言葉と行動の一致を培うべきです。愛(プレーマ)は唯一の武器であり、それによって、あなたは敬虔さを手に入れて、人生を有意義なものにすることができます。神は純金のようなものであり、それを手に入れれば、何でもあなたの欲しい装身具を作ることができるでしょう。あなたは穢(けが)れない愛を通してのみ、神の恩寵を手に入れ、至福に満ちた平安を楽しむことができます。

あなたをどう形作ったらいいかを知っている神に全託せよ

私のもとへ来る人々は、しばしば私にこう言います。

「私は至福が欲しいのです」

「私は平安が欲しいのです」

「私は解脱が欲しいのです」

金の装身具を作りたいと思ったら、あなたは金細工職人に純金を手渡し、職人は依頼された装身具を作るためにその金を炉で溶かし、金槌で打ちつけ、切断し、それぞれのパーツを溶接しなければなりません。これらの過程を経て、初めて金は美しい首飾りになるのです。それと同じように、あなたは自分の心(マインド)を神に明け渡し、神が必要なことをするに任せなくてはいけません。ところが、昨今の信者たちは、神の恩寵を求めながら神に条件を付けてきます! あなたは神に全託し、神の意志に服従しなければなりません。神はあなたをどのように形作ればいいかを知っています。

本を小包で送りたいと思ったら、きちんと梱包しなくてはなりません。その本を読むには梱包を解かなくてはなりません。神は梱包した平安をあなたに与えてあります。自分で「私」と「欲しい」という梱包材を取り除けば、あなたは平安を手に入れます。あなたが生まれつき持っている平安を楽しむためには、エゴと欲望を捨てなければなりません。クリシュナの木像を作りたいと思ったら、彫刻家は木材をクリシュナの形になるようにノミで彫っていきます。同様に、あなたも自分の悪い思考と悪い感情をかなぐり捨て、どんな制約も付けずに、無条件で神に全託しなければなりません。

体(タヌ)、心(マナ)、富(ダナ)の悪影響に打ち勝つために、諸聖典はサットサンガという修養を定めています。サットサンガとは何でしょう? 一般的には、サットサンガは善良な人々との親交を指すと信じられています。しかし、これは正しくありません。「サット」は「真理」を意味します。これはアートマ、すなわち神のことです。ですから、サットサンガは人々との親交ではなく、神との親交を意味するのです。九つの信愛の道(神の栄光を聴くこと、神の栄光を歌うこと、神を憶念すること、蓮華の御足に奉仕すること、神を崇敬すること、神仏の像を礼拝すること、神の召使として奉仕すること、神の親しい友人となること、真我への全託)のどれか一つに従うなら、あなたの中にある神性が顕現するでしょう。要約するなら、従うべき教えとは、――悪を見ず、善のみを見る。悪を聞かず、善のみを聞く。悪を話さず、善のみを話す。悪を考えず、善のみを考える。悪を行わず、善のみを行う――これが神への道です。

悪い話に耳を傾けてはならない

もし誰かが他人の悪口を言い始めたら、そのような悪い話に耳を傾けず、その場から離れなさい。『ラーマーヤナ』のカイケーイー妃は、侍女のマンタラーの言葉に影響されました。マンタラーはラーマに恨みを持っていたために、ラーマが王になるのを阻止してラーマを追放する手はずを整えるようカイケーイーを煽(あお)りました。マンタラーの邪悪な勧めに耳を貸したために、カイケーイー妃はラーマを森へ追放するよう画策しました。こうして、この二人の女性は永遠に悪名を被ることになったのです。

男の場合は『マハーバーラタ』のドゥルヨーダナ(カウラヴァ百人兄弟の長男)の例があります。ドゥルヨーダナはいつもパーンダヴァ兄弟を悪く思い、邪悪な陰謀へと発展した悪い考えを胸に抱いていました。同様に、キーチャカ(パーンダヴァ兄弟が身分を隠して働いていた宮殿の王の義弟)はドラウパディーを好色な目で見てビーマに殺されました。ラーヴァナ(羅刹(らせつ)王(おう))は邪悪な行いをしました。

マンタラーはラーマの悪口を言うという罪を犯し、カイケーイー妃は邪悪な話に耳を傾けるという罪を犯し、キーチャカはドラウパディーに好色な目を向けるという罪を犯しました。ドゥルヨーダナは悪い感情を募らせ、ラーヴァナは悪い行為に耽(ふけ)りました。これらは、悪いことを話し、悪い言葉に耳を傾け、悪いことを考え、悪いことをするという行為が、いかに人に破滅をもたらすかを証明している実例です。霊性修行は、善いことを話し、善いことを考え、善いものを見、善いことを聞き、善いことをすることにあります。

しゃべりすぎも避けなければなりません。なぜなら、話をしすぎるとエネルギーを消耗するからです。エネルギーの消耗が原因で衰弱すると、人は怒りっぽくなり、憎悪を抱くようになります。ですから、あなたは神が与えてくれたエネルギーを善い目的のために使わなくてはなりません。エネルギーは神からの贈り物です。必要のない会話を減らして黙っていることで、エネルギーを温存することができます。

「話は減らして、多く働く」

これが身に付けるべき黄金律です。

神とのみ近しい関係を保ちなさい

多くの外国人は、ここへ来て不必要な人間関係に巻き込まれています。なかには、最初に私と会ったときには、

「私は一人でここへ来ました」

と言っていたのに、しばらくすると女性を一人連れてきて、

「彼女は私の妻です」

と言う人がいます。霊的な探求のためにここへ来ていながら、なぜそのような執着や人間関係を育てなければならないのですか? こういった関係はすべて一時的なものです。このような人間関係は断ち切って、永遠不滅の存在、すなわち至高の神との関係のみを確立しなければなりません。神は遍在です。神はあなたが生まれる前にも存在し、あなたの死後も存在し続けます。ですから、あなたは神のみと近しい関係を保つよう努力すべきです。奉納する気持ちで義務を果たし、結果は神の手に委ねなさい。そうすれば、あなたはいつも幸せでいることができます。

あなたの振る舞いと人格は大変重要であり、それらはあなたが規律とマナーを守ることに反映されていなくてはなりません。今は規律が欠けているために、国家は混乱に陥っています。皆さんは、

「常に助け、決して傷つけない」

という行動原則を守るべきです。人々は私の完璧な理想を理解していません。それは清らかさと忍耐力と不屈の精神から成っています。忍耐力とは、平安(シャーンティ)の状態でいることです。私は常に幸せで平安です。人々が、「ハッピー バースデー、幸せな誕生日でありますように」と私に祝福の言葉を述べると、私はその相手に、私は常に幸せなのでその祝福は誰か幸せでない人に言うべきだと伝えています。忍耐力のもう一つの特徴は、賞賛されても得意がらず、中傷されても落ち込まないことです。私は苦楽に影響されません。これは完全な三昧(さんまい)(サマーディ、均衡がとれて理智が定まっている)の状態です。これは苦楽における平静さを意味します。

不屈の精神は最も重要

不屈の精神は、目的を達成するために最も重要なものです。不屈の精神によって、ナラはナーラーヤナになることができます。これは、人は神になれるということです。この精神に欠けている人は、何一つ成し遂げることができません。そのような人の努力は、穴があいている壷の中に水を保っておこうとするようなものです。もしすべての行為を神に向けて行うなら、あなたは神と一つになります。これは愛(プレーマ)を基盤にして為されなくてはなりません。

愛を持たずに生きている人は死んでいるのも同然です。あなたは自分の父親、母親、妻、子ども、その他の人々への愛を持っています。これは何も間違いではありません。けれども、あなたはその人たち一人ひとりの中に神を見なければなりません。これは、よく知られている次の神への祈りの真髄です。

トワメーヴァ マーター チャ ピター トワメーヴァ
トワメーヴァ バンドゥシチャ サカー トワメーヴァ
トワメーヴァ ヴィッディヤー
ドラヴィナム トワメーヴァ
トワメーヴァ サルヴァム ママ デーヴァデーヴァ

この祈りは至高の神に呼びかけています。意味はこうです。

あなたは父、母、友、そして、親族です
あなたは英知であり、富です
あなたはすべてです
ああ、我が主よ!

私たちはすべての存在の中に神を見るべきです。全宇宙はブラフマンの顕現です。あなたは人間としてナーラーヤナ神からやって来ました。あなたは神でありながら、それを実感していません。両手を合わせて合掌(ナマスカーラ)するとき、それはあなたの五つの行動器官(カルメーンドリヤ)(行為(カルマ)をなす器官(インドリヤ)である口、手、足、生殖器官、排泄器官)と、五つの知覚器官(グニャーネーンドリヤ)(知覚(グニャーナ)する器官(インドリヤ)である目、耳、鼻、口、皮膚)を神に捧げるという意味があります。合掌を捧げること自体が一体性を強調しています。もしユニティー(一体性)とピュアリティー(清らかさ、純粋性)を持っていれば、ディヴィニティー(神性)が花開きます。しかし、あなた方は今、エンミティー(敵意)とコミュニティー(特定の社会集団)を持っているだけです。

優しく穏やかに話すことを実践し、誰かれ構わず不必要な交際や関りを持つことを避けなければなりません。最も容易な霊性修行は、万人に拡がり万人を包み込む愛で神を思うことです。それが神を悟る唯一の方法です。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.27 C10