サティヤ サイババの御言葉

日付:1995年11月19日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
女性の日の御講話より

女性は人間的価値観の源泉

アスティラム ジーヴァナム ローケー
アスティラム ヨーウヴナム ダーナム
アスティラム ダーラー プタラーディ
サッティヤム キールティ ドワヤム スティラム

〔この現象世界での生活は永遠のものならず
若さと富は一時のもの、妻と子供は死にゆくもの
存続するのは真理と評判のみ〕

私たちが見る被造界(創造された宇宙)は、儚いものです。

ヤット ドルシャム タン ナスヤム
何であれ、目に見えるものは、時間と共に朽ち果てる

富と若さも束の間のものにすぎません。束の間といえば、妻も子供もその通りであり、儚いと言えば、あらゆる施しや子孫も例外ではありません。真実と人の評判の二つだけが、永続するものです。

母親は子供たちを作り上げる

愛の化身である皆さん。人間は、何億もの生き物が住んでいるこの世界の中で、特に選ばれた存在です。女性は、男性も含めた全宇宙の中で、他の者よりも非常に優れています。女性のほうが本当に優れているということを証明するたくさんの例があります。ラーマが有名になり、神として崇められたのは、神を出産するという形でカウサリヤー妃に授けられた賜物のおかげではありませんか? クシャとラヴァという双子〔ラーマの息子〕があれほど偉大になったのは、シーター妃が養い育てたからではありませんか? また、シヴァージーが偉大で勇敢になったのは、母親のジージャバーイーの子育てがあったからです。ガンディーが名声を得ることができたのは、母親のプタリーバーイーの励ましがあったからです。偉大なリシ〔聖賢〕や、優れた武将や、高徳な英雄も、邪悪な人も、母親の胎内から生まれました。母親はプラクリティ〔自然界〕の化身にほかなりません。

ヴェーダは女性を称揚している

ガーヤトリーは、すべてのヴェーダ聖典の根源そのものです。ガーヤトリーは、女性原理(ストリー)の化身です。ヴェーダは人類の母です。こういった一切を見るとき、女性というものは、非常に高い地位を占めるものであり、生まれながらにして何か実に偉大で徳の高いものであることが感じ取れます。女性は、ヴェーダ聖典によって過去から現在に至るまで称賛されています。ヴァイディカ プージャー、ヴァイディカ ウパーサナ、ヴァイディカ アーラーダナ等のような、古代のさまざまな宗教儀式の中で、女性は大変高い地位を与えられています。

ヴェーダ聖典は、女性をサティヤヴァティー、アンガヴァティー、アンニャヴァティー、ニダーナヴァティーであるとして称賛しています。これらの御名は、宗教儀式を行っている間に、さまざまな女神たちに与えられた役割の名称です。

サティヤヴァティーは、「ミルクの中に目に見えないバターが存在しているように、神は宇宙の至る所に存在している」という真理〔サティヤ〕を宣言します。神は自然界とは別の何かではありません。プラクリティとプルシャの化身そのものが神です。ですから、ヴェーダは、バターがミルクのあらゆる部分に存在しているのと同様に、神は宇宙全体(プラクリティ)に浸透しているのだと宣言しているのです。これが、サティヤヴァティーの真の意味です。

次はアンガヴァティーです。自然界には、地・水・火・風・空という五つの元素があります。この五つの元素は、至る所に等しく存在しているにもかかわらず、今言った順に、一つひとつの元素が、その前の元素より精妙です。ヴェーダは、これらの五つの元素はそれぞれ異なってはいるものの、すべてが神の一部〔アンガ〕であると述べています。これがアンガヴァティーと呼ばれています。

三番目はアンニャヴァティーです。ヴェーダは、どのような仕事や奉仕をしても、祈りを捧げられた神の象徴的意味に応じて、それぞれ固有の報酬がもたらされると説いています。たとえば、シヴァ神は三又の鉾(トリシューラ)を持っており、また三つの目(トリネートラ)もあります。法螺貝と円盤と棍棒と蓮華を持っているのはヴィシュヌ神です。孔雀の羽根を持っているのはクリシュナです。弓と矢を持っているのはラーマです。アンニャヴァティーへの礼拝(アーラーダナ)は、儀式を統括する神の象徴に応じた、さまざまな種類の礼拝の仕方を教えています。

次は、ニダーナヴァティーです。アンガヴァティー ヴェーダには、ニダーナヴァティーはさまざまな礼拝によって得ることができると説いてあります。ニダーナヴァティーは、次にあげる、9つの異なる形式で礼拝することができます。それは、シュラヴァナム(聞くこと)、キールタナム(賛美の歌を歌うこと)、ヴィシュヌ スマラナム(神のことを思うこと)、パーダセーヴァナム(御足への礼拝)、ヴァンダナム(神を崇敬すること)、アルチャナム(儀式的礼拝)、ダースヤム(仕えること/奉仕)、スネーハム(友情)、アートマ ニヴェーダナム(帰依全託)の9つです。このヴェーダには、これらの9種の信愛によって神を勝ち得るのは容易なことである、と書いてあります。

女性が尊ばれているところには神が現れる

古代のバーラタの文献によれば、サティヤヴァティー、アンガヴァティー、アンニャヴァティー、ニダーナヴァティーは、女性原理の化身であるとされています。御名はそれぞれ違っても、神は一つです。ゴールは同じですが、それぞれの道が違うのです。私たちは、女性原理とは、何か普通のものであると考えるべきではありません。女性原理は、大昔の時代から、さまざまな方法で崇拝されています。

ヤートラー ナーラーヤナム プンニャテー
ヴァルチャテー タートラー デーヴァターナーム

女性が崇拝され、尊敬され、大切にされているところには、
たとえそれがどこであっても、あらゆる姿の神が現れる

と言われています。現代では女性を敬うことは恥であると考える風潮があるのは、不幸なことです。人々は、女性という存在は非常に小さな取るに足りないものであると考えているのです。これは、一種の無知です。私たちは決してそのように考えるべきではありません。女性は、一家においては、ラクシュミー女神(富の女神)です。女性は、アルダーンギニー〔半身〕、すなわち、人間の身体の半分を占めているのです。

人々は、パドマ シュリーとか、パドマ ヴィブーシャンというような称号〔国民栄誉賞〕をもらうと、非常に得意になります。これらは、まったく取るに足りない称号です。女性は永遠の称号を持っています。家は、女性がいなければ、密林のようになってしまいます。今日、男たちは、女性に涙を流させてはならないと考えなければなりません。男たちは、女性を敬い、大切にすべきです。そうしたときに、初めて繁栄と幸福が訪れるのです。女性が涙を流す家は、それがどのような家であれ滅びます。男たちは、精一杯女性を敬いながら人生を送らなければなりません。

女性は9種類の力を備えており、アーディシャクティ〔至高の力〕の化身そのものです。シャブダ ブランマーマイー〔音の具現〕、チャラーチャラマイー〔動くものと動かないもの具現〕、ジョーティルマイー〔光の具現〕、ヴァーングマイー〔言葉の具現〕、ニッティヤーナンダマイー〔永遠の至福の具現〕、パラーットパラマイー〔至高の栄光の具現〕、マーヤーマイー〔幻影/迷妄の具現〕、シュリーマイー〔富の具現〕という名前は、女性に与えられているものです。この原理は甘露のごとく素晴らしいものです。そして、女性には、「ストリー」という、女性にふさわしい名前があります。

女性は三属性を包含している

「ストリー」という言葉には、サカーラ、タカーラ、ラカーラという三つの音節があります。「A」「U」「M」がオームであるのと同じように、「ストリー」という言葉の中には、「S」と「T」と「R」があります。「サ」は、サットワの性質〔浄性〕を表しています。それは、サーローキャ〔どんな行為をしているときも神のことを想っていること〕、サーミーピャ〔神と近しい関係を育むこと〕、サーユッジヤ〔神と完全に一体になること〕です。サ音がこの意味を与えています。浄性は、女性の中に最も多く見られます。

そのあとはタモーグナ、鈍性が来ます。ここでの鈍性とは、食べたり飲んだり怠けたりする意味ではありません。それは、謙虚さ、恥じらい、従順さ等を意味します。女性は、謙虚さを身につけることで一家の名誉を確立し、従順さによって社会の名誉を築きます。ですから、アーンドラ プラデーシュ州の人々は、「まず家を見てから女性を見よ」と言います。家は、そこに住んでいる女性の姿になるのです。

三つ目の文字は「ラ」です。「ラ」はラジョーグナ、激性を表しています。ここでの激性は、争い等々を意味するものではありません。女性は、必要とあらば命さえも犠牲にします。女性は、名声のために自分の命すらも犠牲にします。インドには、自分の家庭や夫の名誉のために自分の命を犠牲にした女性が数多くいました。それが激性の原理です。彼女たちは、真実のためには、もしくは、真実を確立するためには、自分の命すら犠牲にしました。それが激性の性質です。ストリー〔女性〕は、サットワ、ラジョー、タモーという三つのグナの化身です。浄性・激性・鈍性というグナの非常に多くの素晴らしい性質に満ちた存在である女性が、今、弱いものと見なされ、低い地位に落とされて、無視されています。

調和をもたらす力

私たちの国でも、また諸外国においても、女性には国家に平安と調和をもたらす力があると考えられて来たことは、特筆すべきことです。これまでに、世界を治めた皇帝は何人も出ましたが、ヴィクトリア女王のように治めた人はありませんでした。ヴィクトリア女王は、非常な勇気と公正さと正義をもって王国を治めました。ヴィクトリア女王が統治していた期間には、それを不満とする声は、まったくあがりませんでした。インド国内においても、インディラ ガンディーが勇敢な政治を行いました。彼女は、いかなる状況の下でも、私たちの国の名声を高めようとして、自分の命まで犠牲にしました。首相として12年間も務めたのは、インディラ ガンディーだけでした。多くの首相は、一年か、二〜三年しか務まりませんでした。

非常にさまざまな類の問題が生じています。女性には、国のために戦って調和と平安をもたらす精神力と勇気があります。ですから、女性をさまざまに描写したヴァールミーキは、「女性は優しさの化身そのものである」と言いました。その優しさの最大の原因は何でしょう? 女性には犠牲の精神が備わっているので、優しくなるのです。母親は、子供のためであれば、どんな犠牲でも捧げる覚悟ができています。母親は、子供を守るためであれば、自分の命さえも犠牲にします。このような犠牲の精神は、女性のみに見られるものです。子供が何かの病気で苦しんでいるとき、父親は、「大丈夫だよ」と言います。母親は、子供を守ろうとして大変な努力をします。生来の犠牲の精神によって、女性は犠牲の化身として知られるようになりました。

男たちは女性の持っている犠牲の精神を備えていません。男たちは、最初は勇み立って前に進み出ますが、結局、人目を引こうとするばかりです。しかし、女性は最初から最後までやり抜きます。ですから、ヴァールミーキは、女性は信愛(バクティ)の権化であると言いました。そして、男たちは英知(グニャーナ)の権化であると言いました。英知(グニャーナ)に従う者たちは、神の謁見の間の扉までしか行けません。それ以上は中に入れないのです。信愛の権化である女性たちは、神殿の中にまで直接入ることができます。信愛には多くの権利が伴います。過去の文献と歴史を分析してみれば、女性には非常な価値が与えられていたことがわかります。

母親が形作り、父親が育てる

勇敢なシヴァージーがあれほど偉大な英雄になったのは、母親のジージャバーイーが立派な理想を持って育てたからです。ラーマが非常に偉大になったのは、母親のカウサリヤーの教育のおかげです。母親の中にあるすべてのものが子供に入って行き、子供は花開くのです。ガンディーがマハートマ(偉人)になった理由は何でしょう? ガンティーも小さいときは気ままにさまざまなことをしていました。ある時、母親が神を礼拝していた時のことです。母親はカッコウの鳴き声を聞くまでは、ただの一口も食物を食べないと、以前から神に誓っていました。その日、時間は正午を過ぎていましたが、カッコウは鳴かず、母親は何も食べていませんでした。当時、まだ幼かったガンディーが、「お母さん、今日はどうして何も食べないの?」と尋ねると、母親は、「今日はまだカッコウが鳴かないからよ」と答えました。するとガンディーは、裏庭に行ってカッコウを真似た鳴き声を出しました。そして、家に戻って、「お母さん、カッコウが鳴いたから、ご飯を食べていいよ」と、言いました。それはカッコウの鳴き声ではありませんでした。母親は、外に出てガンディーの両耳をつかみ、「お前のような嘘つきの子供を生んでしまったなんて、私はどんな罪を犯したのか? お前を自分の息子だと考えることさえ罪だわ!」と言いました。嘘をつくことは人間の本分〔ダルマ〕ではありません。人間は、どのような状況の下でも、一切嘘をつくべきではありません。母親はいたたまれない気持ちに苦しみました。ガンディーはその姿を見ていました。そして、その光景は矢のようにガンディーの胸に刺さりました。その日からというもの、ガンディーは決して真実以外のことは口にしませんでした。子供を正しい道へと導くのは、父親ではなく母親です。

子供の過ちは親の責任

今の時代は、父親が自ら子供に間違ったことを教えます。父親が食堂に座っているとします。電話が鳴って子供が取ります。かけた人は、「お父さんはおいでですか?」と尋ねます。父親は、話をしている相手は誰かを尋ねます。その人物が話したくない相手だということがわかると、父親は子供に、「お父さんはいない」と伝えるようにと言います。嘘をつくのは父親であり、母親ではありません。現代の父親は、子供に悪い習慣を教えています。いつからそんなことが始まったのでしょうか? それは、ドワーパラ ユガの、ドリタラーシュトラの時からです。彼は、自分の息子たち〔百人〕の邪悪な行いに目をつぶっていました。そのようなことをする父親は真の父親ではありません。

子供に神を求めるように教える父親こそが真の父親です。霊的知識を教える教師こそが真の教師です。現代では、真実を伝える父親やグル(霊性の教師)は、非常に稀になりました。太古の時代には、子供たちに真理、正義、公正、愛が教えられていました。子供にとっての最初のグルは母親です。バーラタの伝統では、母親、父親、グル、神は、礼拝すべき対象であるとされました。第一にあげられているのは母親です。どうして母親が第一の場を占めているのでしょう? 母親は子供を9ヶ月間胎内に宿し、さまざまな困難と苦痛を経て、子供のために自分の血液をはじめ一切のものを犠牲にします。ですから、そのような母親を私たちは尊敬しなければなりません。子供の血液と食物と頭脳と金銭は、母親のものです。それは、母親の力そのものです。

だからこそ、「マートゥル デーヴォー バヴァ」、母親を神として敬いなさい、という文言が最初に来るのです。それから、母親は子供を養い育てなければなりません。父親はさまざまな方法で子供を育てます。父親は子供を養おうとします。そういうわけで、二番目は「ピトゥル デーヴォー バヴァ」、父親を神として敬いなさい、となるのです。

女性が最初に置かれているのはなぜでしょう? 皆さんご存じの通り、私たちは、シーター ラーマと言います。ラーマ シーターと言う人が誰かいるでしょうか? シーターの名前が先に来ます。それから、パールヴァティー パラメーシュワラという呼び方があります。パラメーシュワラ パールヴァティーと言う人がいるでしょうか? いません。パールヴァティーが先で、パラメーシュワラがあとです。同様に、ラクシュミー ナーラーヤナの場合も、ナーラーヤナ ラクシュミーと言う人は誰もいません。女性の御名が先に来る理由は何でしょう? それは、女性がプラクリティ(自然界)の化身そのものであるからです。あなたが、パラメーシュワラ(至高神)に到達できるのは、プラクリティとプラクリティの礼拝を通してのみです。プラクリティを敬うことができなければ、どうしてパラマートマに到達できるでしょう?

母親の優しさによって、神の優しさが得られる

マハーバーラタの戦いで、カウラヴァ一族はすべて死に絶えました。ドリタラーシュトラ〔盲目の王〕とガンダーリー妃は、息子が全員死んだことをたいそう悲しみました。そのため、クリシュナが見舞いにやって来ました。二人は非常に悲しみに打ちひしがれていました。ガンダーリーは、あの手この手でクリシュナに怒りをぶつけようとしました。

「私は、百人の息子のうちの、たった一人も守ることができなかったのでしょうか? 私がどんな罪を犯したというのですか? どうしてあなたは優しい顔をしてくださらなかったのですか?」

すると、クリシュナは次のように言いました。

「ガンダーリーよ、早まってはいけない。母親の名誉を守れない子供が、どうして神から優しい顔を向けられることを期待できるだろうか? あなたは、子供たちがただの一度でも母親を敬ったのを見たことがありますか?」

ガンダーリーは目に涙を浮かべていました。ガンダーリーは一度も自分の子供たちを見たことがなかったのです。〔夫が盲目だったため、ガンダーリーは自らも一生目隠しをして過ごした〕 ガンダーリーの子供たちは母親の恩寵を受けることがありませんでした。それでどうして彼らが神からの恩寵を期待することができるでしょう? マハーバーラタの戦いには、母親の姿について多くが述べられています。

母親はすべてのものの基盤です。子供が一番最初に発する言葉は「アマ」や「アンマ」〔お母さん〕です。ですから、「母親を神として敬いなさい」(マートゥル デーヴォー バヴァ)と言われているのです。バーラタの文化における四つの重要な教訓は、「母親を神として崇めなさい」(マートゥル デーヴォー バヴァ)、「父親を神として崇めなさい」(ピトゥル デーヴォー バヴァ)、「教師を神として崇めなさい」(アーチャーリヤ デーヴォー バヴァ)、「客を神として崇めなさい」(アティティ デーヴォー バヴァ)というものです。

母親は子供を産みます。母親が子供に父親を示します。母親以外の誰も父親を示す権威を持ちません。母親のみが父親を示す権威を持っているのです。それから、父親がグルを示します。グルは子供を神へと導きます。これが、バーラタの古代からの伝統であり文化です。私たちは、この太古の伝統文化を忘れて、非真の迷路の中に入り込んでいます。世の中には真実は何一つありません。何一つ永遠のものはありません。真実と評判のみが、いつまでも変わらずに残るのです。

悪い仲間から離れなさい

どうすれば、評判を得られるのでしょう? 母親を敬い、大切にし、愛したとき、初めて私たちは良い評判を得ることができます。母親をないがしろにしてはなりません。あなたがもし、母親に対して何か疑問点があれば、優しく母親のところに行って、それを明らかに示しなさい。優しく言って説明しなさい。どんな時にも母親を傷つけてはなりません。母親を傷つける人で、生涯において栄える人は、一人もいません。今、あなたが母親をないがしろにするなら、明日はあなたが自分の子供からないがしろにされます。もしあなたが友人を騙すなら、あなたはあとで誰か別の人から騙されることになります。ですから、あなたはまず第一に、母親の恩寵と愛を受けなければなりません。

ロシア人も大昔からこの真理を知っていました。ロシア人は、12月8日をロシアにおける女性の日とすることに決めました。ロシア人は、その日、女性にあらゆる自由を与えます。その日は男が台所に立たなければなりません。なぜなら、女性は外に出て社会に奉仕するからです。彼女たちは、たくさんの病院を訪れて奉仕をします。母親は、奉仕をすることしか知りません。というのは、母親は犠牲の精神に満ちているからです。もし誰かが涙を流せば、母親はそれを感じ取り、自分も涙を流します。このように、母親は慈悲の心に満ちています。時代の変化のせいで、女性のハートさえ固くなってしまいました。どこにその原因があるのでしょう? そのような問題が生じるのは、いっしょにいる仲間のせい、そして、世界がよこしまな要素に満ちているせいです。そのため、女性のハートも固くなってしまったのです。もし仲間が善人であれば、皆、善人になります。善人を仲間に持つのは非常に難しいことです。

アインシュタインは、「あなたの友人が誰かを教えてくれたら、私はあなたがどんな人間かを言い当てよう」と言いました。あなたは自分が交わる仲間の性質を吸収します。悪い仲間に入ってはなりません。入れば、悪いことを考えるようになります。悪い仲間から離れなさい。「悪い仲間を捨てなさい」(ティヤージャ ドゥルジャナ サムサルガム)。「高貴な人と交わりなさい」(サードゥ サマガマム)。「昼も夜も有徳の行いに励みなさい」(クル プンニャマホーラタム)。皆さんは、決して悪いことを考えたり、悪い友を持ったり、悪いことをしたりしてはなりません。悪いことに携われば、人生の敗者になります。行為の応報は、もし今日刈り取られないなら、明日刈り取ることになります。ですから、最初からよく注意していなさい。

私たちは女性を理解しなければなりません。女性も男性を理解しようと努めなければいけません。そうすれば、男女の間に調和と協力と愛が生まれ、家庭に平安が訪れます。人々は、家庭が楽しいものであることを望みますが、人間的に立派な人生を送りたいとは考えません。それはなぜでしょう? それは、男女双方に過ちがあるからです。片方の手だけでは音は出ません。左右の手が合わさって、初めて音は出るのです。

ドリタラーシュトラのような父親とカウラヴァ兄弟のような息子

子供が正しい道を歩いていないのは両親のせいです。父親も母親も、子供に理想の姿を教えていません。もし父親がタバコを吸うなら、子供はどうして静かにしているでしょう? 息子もタバコを吸いはじめるでしょう。息子は父親からタバコを貰って吸い始めます。たとえ父親が「おい、お前はタバコを吸っては駄目だよ」と言っても、息子は「お父さんは吸っているじゃない? どうして僕は駄目なの?」と言うでしょう。このように、父親が子供に教えられることになります。自分が立派な人間であれば、子供も模範的な人間になります。

皆さんは人生の正しい生き方を理解しようとしていません。皆さんは子供が悪いことをするようになると涙を流します。子供が言うことを聞かなければ、嘆きます。「ヤッド バーヴァム タッド バヴァティ」〔思いのとおりに結果は生じる〕。あなたが何をしても、何を言っても、それはあなたに返ってきます。おくびは、あなたが食べた食べ物に似たものとなります。あなたがどんな習慣を持っているにせよ、子供はそれを受け継ぐことになります。私たちは子供を制するべきですが、まず自分自身を制しなければなりません。自分が向上しなければ、子供は向上しません。自分の好き放題に行動しているなら、どうして子供が言うことを聞くでしょう?

現代では、父親は子供の過ちを正さず、子供は母親の言うことを聞きません。ですから、父親の99%はドリタラーシュトラと同じです。彼らは子供のすることを何でも受け入れてしまいます。そして、それこそが、現代の世界がこのように惨めな状態に陥ってしまった原因です。

もし、立派な子供がいて、正しく神聖な道を歩いていると、その父親はその子に、「お前は気が狂っているのか?」と尋ねます。「バジャンを歌うな、施しをするな、奉仕活動に参加するな」と言います。そのようなことを言う父親たちがいるのです。ですから、彼らは、ヒランニャカシプにたとえることができます。ヒランニャカシプは、プラフラーダが神の御名を唱えると、耳をふさぎました。ですから、現代の父親は、ドリタラーシュトラかヒランニャカシプのどちらかです。現代の父親は、子供を正しい道へと導いてダルマの化身のようにさせることができません。彼らは、ヴェーダを吟唱したり、さまざまなことをしますが、自分の子供を正すことはできません。そんなことでは、誰が彼らの説くヴェーダーンタ〔ウパニシャッド〕に耳を傾けるでしょう? 彼らは、多くのことを語ることはできても、それを実践することができません。たくさんのことを言うことはできても、それが実践されることはほとんどないのです。言うは易く行うは難しです。話すばかりで実践しない人々がいるのです。

ロバの乳よりスプーン一杯の牛乳の方がよい

私たちは自分たちの文化の価値を認識しなければなりません。今、子供たちは『ラーマーヤナ』や『バーガヴァタ』を読もうとしません。子供たちは、あらゆるくだらない読み物を読み、若いときから悪い道に馴染みます。小さな苗木は、よく育てば大きな木になります。苗木が少し歪んでいれば、成長した木全体が歪みます。子供を愛しなさい。しかし、必要なときには子供の過ちを正しなさい。親たちは大変臆病で、自分が厳しくすると子供が家出して自殺するかもしれない、と恐れます。そんな子供は、生きているより死んだほうがましです。悪名にまみれて生きることに何の意味があるでしょう。死んだほうがましです。

カラスのように百年生きるよりも、白鳥のように二年生きれば十分です。私たちは、社会で名望を得るような子供を望みます。そのような子供に育てたいのであれば、父親も母親も正しい道を歩まなければなりません。プラフラーダの母親は、「お父さんに逆らってはいけません。お父さんを喜ばせるように努めなさい」と息子に教えようとしました。彼女は、さまざまな方法で息子に優しく教えようとしました。このように、母親もアドバイスを与えます。現代の母親は、非常に純粋な思いと理想を持っていなければなりません。

太鼓と小石

私たちは、テルグ語で女性を表す「アドッル」という言葉がいつできたかを知りません。皆さんはこの言葉をこれまで聞いてきました。「ドッル」というのは小太鼓のことで、女性はどこにいても小太鼓のようだと言われています。皆さんは、今までこの場所に長い時間座っています。男性のいる場所よりも女性のいる場所のほうがうるさいようです。女性が全員うるさいというわけではありません。今日、私たちは「女性の日」をお祝いしています。明日からは、女性はおしゃべりを控えなければいけません。ここだけでなく、バジャン ホールの中でさえおしゃべりをするのは、女性です。テルグ語で、男は「マゴッル」と呼ばれています。男は気ままに転がったり話したりしています。男は丸石で、女は太鼓です。男性は、どこに行くべきか、なぜ行かなければならないのか、何をすべきなのかを知らず、道徳を忘れています。女性は平安と静寂を保つすべを知りません。平安と静寂を得る道も知りません。男女共に、以上のような性質を取り除けば、事態は好転するでしょう。

プラフラーダは、父親に、「あなたは全世界を征服しましたが、御自分の感覚はまだ征服なさっていません」と言いました。それほど多くのものを征服して、何の役に立つでしょう? もしあなたがよこしまな思考を制することができないとすれば、外で何を成し遂げることができるというのでしょう? 何も成し遂げることはできません。内側の感覚器官をコントロールしなさい。そうすれば、外側の感覚器官も容易にコントロールすることができます。

社会が幸せになる主な原因は何でしょうか? 私たちの行いそのものがその原因です。私たちの行いの原因は何でしょう? 行いは私たちの思考から生じます。行いの原因は心(マインド)です。心の原因は何でしょう? サンカルパ、すなわち「思考」が、心の原因です。もし思考が清らかであれば、国家も清らかになります。私たちは、清らかで善良な考えを心に植えつけなければなりません。善良な考えとは、人間的価値のことです。

愛は人間的価値の基盤

人間的な特性とは何でしょう? パドマ カスティギル氏は、それはサティヤ(真理/真実)、ダルマ(正義)、シャーンティ(平安)、プレーマ(愛)、アヒムサー(非暴力)であると述べました。真実とは何でしょう? 愛を込めて話す言葉が真実です。ハートから出て、愛に満ちているものが真実です。愛に満ちたハートから行う行為がダルマ、すなわち正義です。ハートが愛に満ちていれば、そのハートの思うことはすべてが平安です。愛に満ちた心で行うことは、すべてアヒムサー、すなわち非暴力です。したがって、これらのすべてのものの基盤は愛です。愛がなければ、何の命もありません。ですから、私たちは愛を育てなければなりません。

現代人は、あらゆる小さなことに腹を立てます。怒りは人間を弱くします。寿命を縮めるものは怒りです。怒りは、人間の命という木を切り倒すノコギリのようなものです。怒りと妬みを持っていてはなりません。しかし、この二つの病気は世界中に蔓延しています。それを治す薬はありません。唯一の薬は、神への思いです。皆さんは、それに努めなければなりません。皆さんは、神への思いを通りの一本一本にまで広めなければなりません。すべての人が正しい道を歩むよう、見届けなければなりません。容易な道などありません。

女性原理は、立派なものであり、徳高く、素晴らしいものです。女性が立派であって、初めてバーラタの子供たちも偉大になることができます。国家の繁栄を望むのであれば、母親と父親が向上しなければなりません。これは、今、非常に必要とされていることです。ですから、私たちは、世界の平和と調和という観念を強めていかなければなりません。

家庭は、平安と喜びの基盤そのものです。家庭に平安がなければ、どうして外に平安があり得るでしょう? 家庭に喜びがなければ、どうして世界に喜びがあり得るでしょう? ですから、皆さんは、家庭で幸せを体験しなければなりません。その喜びは、家庭から村へと広がって行くべきものであり、そこから州へ、国へ、そして、世界へと拡がるべきものです。現在、私たちは、アシャーンティ、すなわち平安のなさを広げているだけです。夫婦間の争いや不和が家の外にまで出るようであってはなりません。一家の名誉に関わることが外の通りにまで引き出されるのは、人間として恥ずかしいことです。寛容と忍耐の心で、一家の名誉と尊厳を守るべきです。これこそが私たちの守るべき道です。

サイは「女性の日」を宣言します

現代では、誰でも自分は教養のある人間だと言います。しかし、実際には教養はありません。自分の子供たちさえよくすることができない人たちが、国のために何ができるでしょうか? そのような状態で、皆さんはどうやって国をよくするというのでしょう? 皆さんは、子供たちに、世界に平安と和をもらたす教育を施す必要があります。それがプルショーッタマ〔最高の人間〕です。それが人間的特質です。母親は、その人間的特質の基盤を築かなければなりません。

私たちは、この世は不和だらけであると言います。不和はどこからやって来たのでしょう? それは私たちの心の中からやって来ました。私たちは、毎年11月19日に女性の日」(ストリー ディナ)をお祝いするたびに、以上のような考え方を広めて行かなければなりません。善良な考えを広めるばかりでなく、その実践を自分の家庭から始めなければなりません。皆さんは、子供たちに立派な考えを身につけさせる必要があります。夫が悪い人であっても、心の平安を失ってはなりません。

悪鬼ラーヴァナは非常に悪い人でした。妻のマンドーダリーが、長い間ラーヴァナといっしょにいることができたのは、彼女の忍耐力のゆえでした。マンドーダリーは、ラーヴァナにさまざまな助言を与えようと試みました。マンドーダリーはよくラーヴァナにこう言いました。

「もし同じようなことがあなたの身に起こったら、あなたはどんなに苦しむことでしょう? よその奥さんを欲しがるべきではありません。ラーマが怒るのも無理ないでしょう? 彼らもあなたと同じように感じるとは思いませんか? 今すぐご自身を改めるのです。ご自分の過ちをそれ以上大きなものにしようとしないことです。」

d-o-gではなくG-O-D

男の人も女の人も、人の欠点は、たとえそれがどれほど大きなものであっても、非常に小さなものだと見なすべきです。自分の欠点は、どれほど小さなものであっても、非常に大きなものと見なさなければなりません。他の人々の中に善いものを見るべきです。そして、自分の中に悪いところを見なければなりません。自分の中の悪いところに気がつけば、自分を向上させることができます。あなたが他の人々の中に善いものを見れば、あなたも善い人になることができます。しかし、今、私たちは人の悪いところしか見ていません。テルグ語に、「悪人は人の欠点を捜し、犬は人の履物を捜す」という諺があります。犬はいつも履物を捜します。悪い人は、いつも人の悪いところを捜します。あなた方も犬と変わりません。そのような人は犬にたとえられるのです。犬のようであってはなりません。私たちは、d‐o‐g(犬)ではなくG‐O‐D(神)であるべきです。

人間として生きることは非常に稀なことであり、幸運なことです。愛の化身である皆さん、私たちにはたくさんの欠点があるかもしれません。よく気をつけて、欠点を取り除き、同じ間違いを繰り返さないようにしなければなりません。もし誰かに悪いことをするなら、それは自分自身に悪いことをしているのだと考えるべきです。また、悪いことをすれば悪い評判を得ます。悪いことをする理由はどこにもありません。ですから、皆さん全員が立派な心を持たなければなりません。皆さんは立派な心を持って生きていかなければなりません。立派な心とは何でしょう? それは、平安と愛と慈悲に満ちた心のことです。

かつて、仏陀は一つの死体を見ました。それから、一人の病人を見ました。さらに、一人の老いさらばえた男を見ました。このような光景を目の当たりにして、心に変容が起こりました。彼は仏陀(覚者)になりました。私たちは、たくさんの死体や、たくさんの病人や、老人を見ていますが、心は変わっていません。私たちは、石のようなハートの持ち主になってしまいました。私たちは、自分自身を変容しなければなりません。そうしてこそ、人間なのです。私たちは、「仏陀に帰依し奉る。僧に帰依に奉る。真理に帰依し奉る。法に帰依し奉る」(ブッダム シャラナム ガッチャーミ、サンガム シャラナム ガッチャーミ、サッティヤム シャラナム ガッチャーミ、ダルマム シャラナム ガッチャーミ)と、レコードのように繰り返しています。私たちのどこに真実があるでしょう? 私たちのどこに平安があるでしょう? どこにも何もありません。

サイは各人の変容を望みます

毎年毎年、皆さんはスワミの講話を聞いています。この中で、変容を遂げた人が何人いるでしょう? あなたは変わりましたか? あなたはどんな立派なことをしましたか? あなたのどこに変容が起きましたか? 何一つ変わっていません。変化が起こらなければなりません。その変化は、清らかなものでなければなりません。皆さんは、ここ(プラシャーンティニラヤム)の中だけでなく、外の世界でも、清らか性質を育てなければなりません。そうしてこそ、ここに来る価値があるのです。たくさんのお金と努力を払ってここに来ることが、何の役に立つでしょう? 皆さんは、自分の悪い性質を捨てなければなりません。皆さんは立派な性質を心に植えつけなければなりません。それこそが、今、生きることの真の目的です。

今日という日は、女性のために捧げられた尊い日です。もし、女性が変われば、必ず男たちも変わります。女性は正しい道を歩まなければいけません。そうすれば、男たちも正しい道を歩きます。女性は指導者になることができます。だからこそ、女性が男の身体の半分を占めていると言われるのです。女性が立派な考えを持ってさえいれば、今日明日のうちに男たちを変えることができます。ですから、女性は、慈悲と愛と犠牲の精神を心に植えつけなければいけません。犠牲よりも偉大な特質は存在しません。

皆さんは太古の歴史を知っていますね。昔の人々は、どれほど大きな慈悲の心を持っていたことでしょう! 彼らのハートは何という清らかさと美徳に満ちていたことでしょう! だからこそ、人々は当時の女性を今日に至るまで覚えているのです。今、女性は固い決意をもって一歩を踏み出し、勇気をもって進み、真理の道に従って、国と全世界にあらゆる繁栄と平安をもたらさなければなりません。皆さんにそれができますようにという祝福を込めて、スワミはこの講話を終えることにします。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Directives and Commands of Sri Sathya Sai Avatar for Spiritual Transformation