日付:1996年4月24日
場所:コダイカーナル
神の愛の化身である皆さん、
宮廷での学者の会で討論に勝つのは楽で可能なこと
戦争に勝って凱旋するのは可能なこと
王となって国を治めるのは可能なこと
牛や財産を施すのは可能なこと
欲を手放すのは可能なこと
しかしながら、心(マインド)と体を制して瞑想やサマーディ〔三昧〕に入るのは、
それほど可能なことではない
正義を守り、悪を滅ぼすために、神は人間として生まれ、ダルマを復興します。今生では、信愛(バクティ)こそ、人が自らの内から引き出すべきものです。世界を愛することは真の愛ではありません。外界にある物や人、はかないものを愛するのは無駄なことです。これらは神の愛、プレーマではなく、執着にすぎません。神に向けられた愛だけが、信愛(バクティ)と呼べるものです。信愛(バクティ)は熱烈な愛の同意語です。信愛(バクティ)を外に表現したものがダルマと呼ばれるものであり、ダルマというものを理解した人は愛を育てるでしょうし、愛を持った人はダルマを育てることになるのです。ダルマとプレーマはつがいの鳥です。人間がダルマとプレーマを失いつつあるために、人間の生活は砂漠の土地のようなものになっています。
あるとき、ドゥルヨーダナが、いざ戦いに行く前に、勝利が得られるよう祝福してもらおうと、母ガーンダーリーの御足にひれ伏しました。いくら請い続けても、ドゥルヨーダナがダルマの道を歩んでいないことを知っていたガーンダーリーのハートは、祝福することを許しませんでした。ガーンダーリーは言いました。
「ダルマのあるところに勝利あり」
後に、二人がグルであるドローナーチャールヤを表敬したとき、ドローナーチャールヤは、
「ダルマのあるところに神は現れる」
と二人に言いました。
アルジュナは神を親友としたので、その生涯は愛とダルマを反映したものでした。もし愛とダルマが為されるならば、隠れている神性も表に出てきます。神の愛(プレーマ)より高位のものはありません。神の愛(プレーマ)は、互いに分かち合うようにと万人を促します。過去において、多くの信者が愛によって神へと到りました。いくら力を持っていたとしても、神への信愛(バクティ)がなければどこにも行けません。ドッゥルヨーダナとドゥッシャーサナは、あり余るほどの富と財産を持っていたにもかかわらず、ダルマがなかったために神の助けを得ることができませんでした。神に対抗し、神の力よりも肉体の力に頼った者たちは、滅びました。
ラーヴァナとクンバカルナを見てごらんなさい。彼らはたいへん強い戦士でした。ラーヴァナは、国まで造り、とてもお金持ちでした。しかし、ラーヴァナは、そうした能力があったにもかかわらず、神を喜ばせて解脱を得ることはできませんでした。彼らは自分の能力と力で神を喜ばすことができると考えていました。ラーヴァナは立派な科学者で、教養も高く、非常に裕福でしたが、同じ最期を遂げました。あなたは自分の富を自慢に思っているかもしれませんが、富はあなたに解脱を得る力を与えてはくれません。神は、熱烈な愛を持つ信者だけに服従するのです。
家族が多かったクチェーラは、とても貧乏でした。クチェーラがクリシュナの幼なじみだったことから、クリシュナに助けを求めてはどうかと妻が勧めました。貧困を取り去ってもらう恩寵を求めて、クチェーラはクリシュナのものを訪れました。クチェーラを一目見るや、クリシュナは王座から降りてクチェーラを抱きしめて、頭のてっぺんから足のつま先までクチェーラをじっと見つめました。そして、長い時間二人で語り合いました。〔結局、クチェーラはクリシュナの愛と恩寵のみを求め、貧困から逃れさせてほしいとは願わなかった〕
おお、心(マインド)よ、求めるなかれ
求めなければ、じきに果報は降ってくる
愛を込めて神を礼拝するならば、神は面倒を見てくれる
何も求めずとも、主ラーマはジャターユの最期の儀式をしてくれた
シャバリーも、求めずして、心からの願いであった主ラーマのダルシャンを得た
神はすべての創造物に内在しています。信者本人の気持ちを汲んで、神は信者が想う姿で現れます。ですから、本当の愛によってのみ、人は神を支配する権利を得て、神に到達することができるのです。信愛(バクティ)とは、心(マインド)と、この世のものへの執着と、欲望を、完全に制することを意味します。人が神性を体験することができるのは、信愛(バクティ)によってのみです。本当の信愛(バクティ)とは、全く無条件の愛を意味します。ダイヤモンドは、ダイヤモンドでのみカットすることができます。信愛、すなわち、バクティは、「バジャ」という言葉から派生したものです。「バジャ」は、習練を通して主を礼拝することを意味します。信愛(バクティ)とは、礼拝すること、奉仕すること、幸せな気持ちでいること、他人を幸せな気持ちにさせることです。信愛の道(バクティ ヨーガ)を通って、多くの人が至福に到りました。
サックバーイーは祈りました。
「クリシュナ、私はどれだけ長く悲惨な状態に苦まなければならないのでしょう。公正というものはないのですか? あなたにお慈悲はないのですか? 私はあなたの僕(しもべ)ではないのですか?」
なぜ、サックバーイーは苦しんでいたのでしょうか? 自分は神の近くにいると感じることができなかったので、サックバーイーは苦しかったのです。しかし、思い焦がれることによって、サックバーイーは神の近くにいると感じられるようになりました。トゥルスィーダース、ラームダース、トゥッカーラームをはじめとする多くの信者が、皆、神を求めて苦しみました。
ラームダースは祈りました。
「主よ、私はあなたのものです。なぜ、あなたは私を遠くに置くのですか? 私が何か悪いことをしたのですか? 私は自分が集金したお金はすべて、あなたのためにお寺を建てるのに使いたかっただけです。その結果、タニーシャ王は私を罰し、私を牢に入れました。なぜ、私は苦しまなければならないのですか? おお、ラーマよ、私はタニーシャ王の兵士たちから叩かれて、それに耐えられずにあなたを責めたのです。どうか、ご容赦ください」
すると、ラーマとラクシュマナがすぐさま召し使いの姿をとって現れて、タニーシャ王のもとへ行き、ラームダースが横領したお金を支払いました。王から身を問われると、二人はこう答えました。
「我らはラーマーイヤとラクシュマーイヤと申す者で、ラームダースの召し使いです」
すぐに王の気が変わり、二人に挨拶をすると、ラームダースを釈放させました。信者(バクタ)の信愛(バクティ)のためとあらば、主はあらゆることに耐えるのです。
カビールとトゥルスィーダースは偉大な信者で、愛を通じて自分の信愛(バクティ)を表現しました。信愛の道(バクティ ヨーガ)はとても容易であり、この道においては、肉体を酷使することも、お金も必要なく、必要とされるのはただ愛のみです。心(マインド)と五感を制するのは容易なことではありませんが、信愛(バクティ)を通じて神へと到った人は大勢います。多くの人がラージャ ヨーガやカルマ ヨーガといった別の道を歩みましたが、神に到ることはできませんでした。バイクに乗ることもそうですが、どんな冒険も初めは難しいものです。しかし、徐々にうまくできるようになります。バガヴァッドギーターには、「初めに習練ありき」とあります。正しい行いを重ねることによって、人は悪い性質を手放すことができるのです。そうすると、神のことを想い続けることができるようになります。それこそが真の繁栄であり、本当の富なのです。
カルナータカにマンカンマという信者がおり、次のような態度で、いつも神を想って時を過ごしていました。
湖の装飾品は、蓮の花
村の装飾に美をもたらしているものは、個々の家々
空に美を生み出しているものは、月
海の美は、波にあり
ハートという空では、輝く月〔アートマに照らされている心(マインド)〕が真の装飾品
〔シヴァ神の〕信者にとっての装飾品は、〔額に付けた〕神聖灰ヴィブーティ
神は世界のいたるところに、すべてのものの中に、周りに、下にいます。神のいないところなどありません。すべての名前と姿は神のものです。イーシュワラ神は、信者が神聖なハートと純粋な無私の愛で祈ると、姿を顕します。
ティヤーガラージャは、いつも主ラーマの御名を唱えていました。あるとき、ティヤーガラージャはラーマを捜しに出かけていきました。主ラーマがどこかに行ってしまったと思ったからです。ティヤーガラージャは主ラーマの御名を繰り返し、そして、祈りました。
「私はいつあなたの笑顔を見ることができるのですか? なぜ、あなたは姿をくらますことで私を罰しているのですか?」
心の純粋な巡礼者たちがラーマの足跡を見つけ、それを輿に乗せてティヤーガラージャのところに運んできました。それを見た追剥(おいはぎ)の一味が、ティヤーガラージャを大金持ちと勘違いして、襲い掛かりました。すると、たちどころに弓矢を持ったラーマとラクシュマナが顕れました。ティヤーガラージャはというと、自分が襲われそうになっていることさえ気づかなかったので、助けを求めて主を呼ぶことなどしていませんでした。一方、追剥たちはティヤーガラージャの足元にひれ伏しました。なぜそんなことをするのかと問われると、追剥たちは、弓矢を持った二人の男に追いかけられたからだと答えました。ティヤーガラージャは驚きましたが、事の次第を理解して、言いました。
「おお、ラーマ! 追剥たちは私を襲おうとしましたが、あなたが私を助けてくれました。追剥たちはあなたを見ましたが、私は見ていません。あなたはいつも、この信者の前に、上に、隣に、両脇にいて、この信者を守っています。追剥たちはあなたのダルシャンを得ましたが、私は得ていません」
追剥たちは二人を見ましたが、それがラーマとラクシュマナであることには気づきませんでした。ティヤーガラージャは沐浴をしにカーヴェーリー川に行き、川の中に投げ捨てられていたラーマの像を拾いました。ティヤーガラージャは言いました。
「おお、ラーマ! 家に戻ってきてください。私はあなたを礼拝します! おお、神よ、ダシャラタの息子よ、私はもうこれ以上、あなたがいないことに耐えられません」
すると、ティヤーガラージャに、主の御姿が見えたのでした。
世界中の人々の中で、主の姿を見ることができるのは信者のみです。聖典は知識を授けてくれますが、聖典を読むには及びません。純粋な愛こそが、信者の前に神を顕現させるのです。全宇宙はプレーマに包まれています。「プレーマ」という言葉は二つに分けられます。「プレー」と「マ」です。これは、愛より他に価値のあるものは存在しないという意味です。プレーマは、力強く流れ続ける愛です。霊性の道は、道を歩む者すべてにとって手ごろな道であり、そこには商売のような取引は存在しません。愛という三角形の中には、生きていく上での三つの原則があります。それは、求めないこと、与えるだけで受け取らないこと、幸せでいること、です。私たちの幸福は、愛の道を歩むかどうかに拠ります。あなたが幸せなら、神も踊るでしょう。そして、神はあなたを法悦の状態で踊らせもするでしょう。
すべてのものはラーマ(Raama)という御名に含まれています。あなたが持っている悪い性質は、ラーマという御名を唱えることで取り除くことができます。「ラ」(Ra)は火を表しており、唱えられると罪を焼き尽くすという力を持っています。「アー」(a)は月を表しており、心を静めて落ち着かせます。「マ」(ma)は太陽を表しており、闇を払います。この闇は、真理に関する無知を指しています。それゆえ人は、ラーマという御名を唱えることによって、激しい感情を静め、自分の無知と動揺を払うことができるのです。この三つ組みを人に理解させることができるのは、ラーマの御名のみです。人は、自分の罪を滅ぼすために、心からラーマという御名を歌うべきです。
村に貯水槽が造られました。そのタンクには金でできた蛇口が付いていました。タンクの脇には小さな川が流れていました。タンクの落成式には来賓と高官が招かれました。高官の一人が蛇口を開きましたが、水は出てきませんでした。川とタンクはパイプでつながっていましたが、タンクと蛇口はつながっていなかったのです。蛇口は信者で、水のタンクは神です。信者が神とつながると、愛が流れ出します。
タネーシャ王が「おまえたちは誰か?」と尋ねたとき、(二人の召し使いに変じた)ラーマとラクシュマナは、自分はラームダースの召し使いであると答えました。ラームダース、コロクンベル、サックバーイーは、真の信者の見本です。ヴァールミーキは『ラーマーヤナ』を書き、ヴィヤーサも叙事詩をいくつか書きましたが、二人とも、神を理解することはできませんでした。
ポータナは偉大な学僧(パンディト)であり、〔ラーマの〕信者でした。あるとき、親類のシュリーナータが、ポータナの〔訳した〕『ラーマーヤナ』を王に献上したらどうかと言ってきました。ポータナはそれを断りました。すると、シュリーナータは激怒して、ポータナの家に火を点けました。家は丸焼けになりましたが、『ラーマーヤナ』だけは焼けずに残っていました。その時、ポータナは家におらず、息子が田畑を耕していました。息子がシュリーナータに「大丈夫ですか?」と尋ねると、シュリーナータは「私は大丈夫だ。自分のことを心配しろ」と言って、去っていきました。ポータナが『ラーマーヤナ』を〔テルグ語で〕書きたいと思ったとき、冒頭部分は思い付きませんでしたが、おしまいの、「ラーマはすべて」という部分は書き上げることができました。ポータナは、本を開いたまま置いて、川へ沐浴に行きました。ポータナが川から戻ってくると、冒頭部分がラーマの手で綴られていたのでした。
満月の夜に月を見るのにランプが要りますか? いいえ、要りません。月明かりが月を見せてくれます。それと同じように、人は自分が抱いた神聖な感情の結果として、神を悟ることができるのです。助けが必要なときに助けてくれない親類、無学で教養のない者、走れない馬は、すぐさま捨てるべきです。昨今では、知的な人々も、こうしたものにしがみついて、苦労しています。
教師が説明をしているとき、一人の生徒がよそを向いていました。教師はその男子に質問しました。
「どのくらい入りましたか?」
「見えるのは尻尾だけです」
と、その生徒は答えました。教師はその生徒にどれくらい算数の問題が頭に入ったかを尋ねたのですが、生徒はネズミが天上の穴に入ったのを見ていたのでした。人は皆、自分の観点でものを見ており、それゆえ、正しい道を見逃してしまうのです。
40年前、マイソールのマハーラージャだったジャヤチャマラージャーンドラ・ワディヤール、ラーマサーミ・ムダルヤール、ティルラクシュマナスワーミー・ムダルヤール、そして、その義理の母親が、スワミに会いにやって来ました。四人は皆でチャームンデーシュワリー女神寺院を訪れました。というのも、その寺院は彼らの邸宅の近くにあったのですが、70歳の義理の母親はまだそこを訪れたことがなかったからでした。なぜなら、その寺があまりに近くにあったので、母親はそこが重要なお寺だということを認識していなかったのです。近くにあると、人はその価値に気づかないものです。そして、視力を失うまで、その価値を理解できないのです。スワミのところに来る人は大勢います。何にでも手が届くとき、人はその価値を有り難いとは思いません。この原則がわからない人は人間ではありません。
〔スワミは「プレーマ ムディタ マナセー カホー ラーマ ラーマ ラーム」(愛と喜びに満ちた心でラーマの御名を唱えよ)のバジャンで御講話を締めくくられました〕
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Bhagavan Sri Sathya Sai Baba Discourses in Kodaikanal April 1996 C19